日本文化のスタートは平安時代としながら、現代の日本文化の起源はほとんどが室町時代という。お茶、お花、建築、能狂言、鑑賞に堪えうる舞踊、そして侍や庶民にも物事を記録するということが身に付いたのも室町末期。日本語も狂言で使われた言葉が標準語の京都言葉になり津軽や種子島、ものによっては沖縄まで伝わった。標準語が決まったので記録もしやすくなったというのである。その室町時代の東山文化にキーンは関心を示す。なぜなら義政という人間が謎だという理由。義政について詳しくかかれた書物がないのだ。銀閣寺を建てる前、花の御所にいた頃、応仁の乱が一番激しい時に、平気で恋愛して宴会で騒いでいた。目の前で多くの人たちが死んでいくのに平気でいたという。しかし、その義政は河原ものと呼ばれた阿弥(あみ)達をお座敷にあげて、平等の扱いをしている。政治を放棄しながら、禅の考え方には同意して観念的な平等思想を持っていたという観念の人だった。正常な神経ではなかったのではないかという。
日本人の美意識は中国や朝鮮とは全く異なる。志野、織部が良くて伊万里や柿右衛門より日本的だという感覚がある。千利休はつまらない百姓茶碗を見てそれには千金の価値があるという、道ばたに転がっているようなものに美を見いだすという意味で天才的だった。ちゃんとした茶碗を割って、それを金と漆でつなぎ合わせてつぎ目が自然な木の枝のようになって色合いや重みが増えて良くなったという感覚である。西洋文化ではレンブラントが描いた絵があったとして、描いた当時と同じ色彩であればそれが最高であるという感覚。アラブではそうではないという。バーラック(baroque)という感覚があって時代とともに物につく宝という意味、これは日本とにている。太秦の広隆寺にある弥勒菩薩、できたときには金箔や頭飾りがあったはず、今はそれが剥落して木の地肌が見えている。中国であれば塗り直すのではないかと司馬は言っている。日光東照宮は日本的ではなく、あれは同時代に作られた桂離宮などとは異なる精神であると両者一致。徳川の天下が固まって三代目、家康を祀るということで諸大名がおべっかを使った、それが東照宮であり、安土桃山時代の金ぴかの豪華さを真似たものだという。
日本人の意識に「恥」「世間に顔を向けられない」という感覚がある。これが犯罪率が上がらない理由だと二人はいう。犯罪者は捕まると「申し訳ない」という、これは日本だけではないかというのがキーン。外国では犯人はまずは否定する、自白しない。日本人は犯罪を認めるのは神に対する罪悪感ではなくて、世間に対する罪悪感である。その哲学は儒教的、というのがキーン。世間の基準が儒学的であり、それに対して恥ずかしい、というのが日本的感覚であるという。義理人情、というのは仏教でも神道でもなく儒学的。ザビエルが薩摩にきたときに薩摩人が恥ずかしい、ということを度々言っていると書いている。辱めを受けることは非常に恥ずかしいことなので、自らを裁いてしまうので、捕吏が捕らえる前に世間に顔向けができないと自首してしまうというのである。儒教の影響を強く受ける前からこうした感覚が日本人の原型としての薩摩人にはあった、というのが司馬。
幕末の働きでもっとも評価すべき外国人はアーネストサトウであるという。かれが日本の幕末にビジョンを示し、維新のレールを敷いた。日本が国際社会に出るために必要なことは中央集権制度であり、幕府は倒す必要があると勤王の志士たちに説いた。将軍は皇帝ではないと考えた外国人はサトウが初めて、サトウはそのとき23歳である。老中に外国が手紙を出す時に日本人が言うように「ご老中様」と言う必要がなく、「老中殿」でかまわない、ということも見抜いたという。1866年ジャパンタイムズに英国策論を掲載、日本語訳を西郷隆盛などが一生懸命読んで明治維新の原型になった。当時、サトウは25歳の若者であった。
神道によると人間が生きているこの世界は一番いいところ、死んでからは黄泉の国という穢れわしい汚れの多い所に行く。仏教ではこの世は娑婆であり穢れ多いところであって死んでから清い浄土へ行く。儒教ではこの世以外に世の中はない。日本人はこの全く矛盾した三つの宗教を同時に信じている、と指摘するのはキーン。司馬は神道が日本人の基礎であり、お皿のような入れ物で、その入れ物に仏教や儒教という食べ物をのせていると表現。神道には教義もなく、神様のいる場所は清めておくというだけであると言う。
二人の対談はインテリジェンスの高い掛け合い漫才のように面白い。司馬はもういないがキーンはまだ存命、キーンの対談相手、今なら誰がふさわしいであろうか。
日本人と日本文化 (中公文庫)
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