大名に江戸のまちなかに与えられた屋敷が「江戸藩邸」で、国替えがあって領地が変わっても江戸藩邸は変わらないケースも多かった。屋敷は大名に対して与えられたものであるが、藩邸の持ち主が変わることもままあって、それは国替えとは無関係に行われたという。江戸時代の街図絵には「松平伊豆守」のように屋敷の主人名が書かれ、三河吉田などと地名では表記されていない。江戸藩邸で暮らすのは大名一家に加えて、江戸藩邸で勤務する江戸詰めの家臣、すなわち定府番とその家族ならびに、国元から単身赴任でやってきた勤番である。江戸の武家人口は約60万人で、その多くは大名とその家臣、家族であった。これは参勤交代の制度化により多数の大名屋敷が建てられたことによる。参勤交代制度により、各藩の出費の約半分以上が江戸での経費だったと言われる。
上屋敷は江戸城に近く、大名とその正室がそこで暮らし、江戸における藩の行政機構、他藩との窓口もここに置かれた。中屋敷は上屋敷のスペアで、隠居した大名や大名の世継ぎが暮らした。下屋敷は江戸城から少し離れた場所にある場合が多く広めの敷地を持っていた。上屋敷が火事で燃えても避難所となり、広大な庭園などがあるため、接待場所ともなった。今でも残る大名庭園には、水戸徳川家の上屋敷だった小石川後楽園、大和郡山藩主柳沢家下屋敷だった六義園などがあり、現在でも都立公園として活用されている。こうした幕府からの拝領屋敷は石高に応じてその広さが決められ、建物の新築や改築は各藩の負担で行われた。しかし建て替えられた建物は幕府所有となり、移転の場合は明け渡すのが決まり。拝領屋敷に対して、各藩が自前で購入する土地と屋敷が抱屋敷であり、その場合には土地の領主に年貢を上納した。
本書で紹介されるのは、譜代大名の一つ、三河吉田藩の松平伊豆守屋敷である。初代信綱は知恵伊豆と呼ばれ、家光公に老中として仕えたため、最初は一橋門内に上屋敷を拝領した。その後も場所を変えながら江戸城近辺に、4000-9000坪の敷地を持つ上屋敷が与えられた。その後は、筋違い橋門内に屋敷替え、一橋門内に屋敷を拝領したのは綱吉を後押しした堀田正俊。その後も上屋敷は役職変更や歴代将軍宣下に伴い移転を繰り返したが、下屋敷は18322坪の広大な土地が谷中、3318坪の北新堀、4611坪の深川に与えられ、歴代藩主たちに大いに活用された。江戸藩邸で働いていた吉田藩士の数は、士分が210名、足軽が231名、中間が246名、上屋敷で働く奥女中は20名で、正室や側室が時代ごとにそれぞれ複数人住んでいた。国元にも士分217名、足軽が235名、中間が79名いたとされるので、その家族も含めると江戸藩邸に1000名以上、国元にも同じくらいの武家に関連する人達が暮らしていたことに成る。
本書では、江戸藩邸で働いていた吉田藩士の日常生活や、江戸藩邸近辺で起きた様々な事件簿とその後始末、藩邸の表向きと呼ばれた行政や他藩との外交と、奥向きとよばれた藩主家庭内の出来事などを詳述。江戸時代から幕末までを追う。