今の行政区でいえば久御山と宇治市の西部にまたがる場所には昭和20年ころまで大きな池があった、巨椋池(おぐらいけ)という。JR奈良線で桃山から六地蔵に向かう向かって右側を見ていると広大な土地が広がっていて、位置的にはそのエリアである。木津川と宇治川、そして桂川が合流する低地に形成された池で、京都で言えば一口(イモアライ)と淀、向島、槙島、小倉、このあたりに岸辺が広がっていた。宇治川と木津川からの流入にくわえ、大雨のときには合流地点からの逆流もあり、調整池の役割も果たしていたはずである。池が埋められ、干拓事業でできた土地には近隣住民に払い出された田が広がり、池の有機物が沈殿した良質の田んぼではあったが、底なし田であり、少しの雨でも稲は流された。干拓後には何度も洪水が発生、中でも昭和28年の大雨ではほぼ干拓地全体とその流域の多くが水浸しとなった。これを契機に上流のダムが準備され、昭和39年に天ヶ瀬ダムが完成、それ以降宇治川が原因となる大きな洪水は起きていない。
干拓前にも木津川、宇治川、そして巨椋池周辺では多くの洪水が発生、幕末の1846年の洪水では、小倉、伊勢田の両村は京都代官に御囲米を申請、その二年後にも発生した洪水で水位が下がらず返済に特に伊勢田村では苦労した。毎年のように発生する洪水で巨椋池の周辺農民は困窮を極めたという。また漁民と農民との諍いも絶えず、両者は対立を続けたが、干拓の決断は、戦争による軍部からの強制力があるまでできなかったのである。
現在の地図をGoogle MAPで見てみると池の痕跡は一目瞭然、干拓地は整然と整理され、その真中には南北に近鉄、東西に高速道路が直線的に走り、旧巨椋池干拓地の存在を感じられる。また、この池の存在が奈良と京都の間を結んでいた街道の経路を東に押し曲げ、宇治の町の歴史や宇治橋や旧街道の価値を高めていたことは間違いない。池自体に語るべき歴史は多くないものの、JR奈良線で京都から宇治に向かうたびに、その存在により宇治の歴史と街が形成されてきたこと、車窓を眺めながら思い起こせるというものである。