犯罪や家出などで自分の過去を消したい、新たな世界で生きたいという人間に、新たな戸籍や証明書を提供し、逃がす女性、沢渡幸(さち)が主人公。「雨乳母」と呼ばれるその商売、幸にも消し去りたい過去があった。幸はある時、同じ悩みと絶望を持つ世の中からの逃亡者の依頼により、「依頼者の希望する世界」へと依頼者を導く「門」の出入りを司る役割と力を持つ、この部分だけがファンタジーで、残りは酷い現実世界。少しずつ明かされる幸の過去と依頼者のシガラミの次を知りたくて、読者のページを繰る手を止めさせない魅力を持つSFサスペンス小説で新潮ミステリー大賞受賞作。擬傷の鳥は、傷ついたふりをして自分の子たちを敵から守る。
新宿歌舞伎町に事務所を持つ幸のもとを二人の未成年と思しき女性二人メイとアンナが「雨乳母」の依頼に訪れる。親にニグレクトされたり暴行を受けた過去を持つメイとアンナは、家には帰りたくない。おまけに犯罪を犯したのか追ってがいて、警察からも逃げている。雨乳母は一度に一人しか逃がせない、お金は一人あたり500万円は必要だと告げると、二人は幸の前から姿を消す。気になった幸がアンナに連絡を取ると、メイが殺されたことがわかる。殺したのは追っ手の佐伯というヤクザ。アンナの過去に自分を重ねた幸はアンナをなんとか逃してやろうとする。
さらに佐伯と女性二人を追いかけてきたのが、久保寺と岡野。岡野は本物のヤクザで久保寺はその手下だった。大金を持ち逃げしたという二人を追いかけているという。久保寺と岡野に追い込まれる幸とアンナ。幸はアンナを隠れ場所のホテルに案内し、追っ手の久保寺とともにいなくなっている佐伯の行方を追うことになる。
佐伯を追う過程で分かってきたのがメイとアンナ、そして佐伯の境遇と関係。アンナの母はシングルマザー、男の子の子連れ父と同居するようになりアンナはニグレクトされるようになる。メイも含めた数人の少女たちは東海地方に暮らし、中学生時代から家を飛び出して、出自を偽り一室を借りて「ホーム」と称し、同じような境遇同士、SNSによる援交を行い生計を立ててきた。家を飛び出したアンナのあとを、一人になってやはり家から逃げ出した佐伯がアンナの暮らす場所に居着くようになる。佐伯はアンナの異母兄妹だった。売上金の分配で揉めたのか、少女たちの一人が仲間内で殺害され、ホームの仲間たちは収監されたが、メイとアンナは東京に逃亡、そして佐伯も二人を追いかけてきた。
二人の少女を歌舞伎町で雇ったのが久保寺、二人は店の売上金を奪って逃げたという。追い詰められたアンナをなんとか逃がそうとする幸だが、二人を追う佐伯もアンナと同じ境遇。佐伯はアンナを助けようとしているのではないかと疑念を持つ幸。アンナを幸が問い詰めると、メイを追い詰めたのは親友のはずのアンナであり、メイはアンナの言葉に絶望して自死したことがわかる。久保寺はアンナを保護施設に送ることを約束する。そして分かるのが久保寺の過去。警察官を目指し幹部候補生として卒業間近だった久保寺の弟が殺人事件を起こしてしまい、久保寺は警察官の夢を捨てた。久保寺は引っ込み思案で現実逃避型の弟が歯がゆく、幼い頃にいじめた記憶があった。
そして幸自身も、中学生の時に両親がいなくなって3歳年下の妹を自分がなんとかして養うことを誓う。わがままな妹にイライラしながら、その幸の寂しさを紛らせてくれたのは幼馴染の男の子ミソラ。しかし、そのミソラも高校生になったときに、先輩に脅かされ、守っていたはずの15歳になっていた幸の妹を先輩に差し出してしまう。妹を陵辱され殺された幸は、意気地なしのミソラを殺め、名前も家も捨てて逃亡生活に入った。妹を守る自分は「擬傷の鳥」だったのかと思う幸だが、結局人間は自分のためにしか生きられないのかと自問自答する。しかし、逃亡先で雨乳母となる幸、その仕事は究極の他人のための仕事だった。異母妹を助けたかった佐伯、弟の関係にトラウマを抱えていた久保寺、妹を守りきれなかった幸、擬傷の鳥を装う自分は、この贖罪のために生きるのかと悩みながら、新宿での雨乳母の仕事を幸は続けていく。物語はここまで。
鳥好きだったミソラ、ミソラは幼かった幸に動物進化と擬傷という行為を身に着けた鳥類の進化の関係を説明する。擬傷を行うのは鳥類のみ、哺乳類は別の方法で生き延びてきた。進化の過程で便利なはずの水かきや水中呼吸のエラ、空を飛ぶ羽を選ばず、地上で子育てをする方法を選んだのが哺乳類。人間も自分の運命は自分で選んできたはずと思いを巡らす。選んできた人生の結果責任を取るのは自分でしかない。ヒトのためと思っても決めたのが自分であれば、擬傷は人間にはありえない、と自分には言い聞かせる幸。トラウマは自分の中に閉じ込めてこれからも生きていく。手に汗握る展開で読者は読むことを止められない。力のある書き手だと思う。