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意思による楽観のための読書日記

日本史の内幕 磯田道史 ***

「武士の家計簿」の筆者でもあり、本書の筆者の磯田さんは本書によれば15歳で古文書の解読を始めたとのこと。古文書が読めれば、貴重な一次資料に出会う確率が高まるので、歴史学者としては必要不可欠な能力となる。本書は、自分で見つけて解読した古文書から分かったこと、これをまとめているので、ニセ情報も中にはあるが、本で学んだだけではない、当然聞きかじりではない、本物の歴史的事象に巡り合うことができるかもしれない。

家康が信玄に大敗した三方ヶ原の戦について検証している。通説では信玄軍2ー3万、家康軍が8000、信長からの援軍3000としている。信長からの援軍はこんなに少なかったのかというのが目の付け所。3000人の根拠は1685年成立の「織田軍記」で、その他の資料からは過少な数字の可能性があると見た。徳川重臣最古参の酒井家作成の記録「前橋酒井家旧蔵文書」によれば信玄軍28000、家康軍6000、信長軍2万となっている。武田側資料である「甲陽軍鑑」にも織田援軍2万となっているという。酒井家文書によれば、2万の援軍は三方ヶ原を取り囲む岡崎、吉田、白須賀に分散配置されていたとのこと。通説では劣勢を覚悟の出兵だったというが、家康はそんなに無謀な戦いをしたのだろうか。つまり正面での戦で負けても、2万の織田勢が背後に居れば闇に紛れて逃げ込んでいれば、信玄は手を出せないはず、というところまでが読み筋だったのでは。実際、甲陽軍鑑にも、信玄家臣団は浜松への追撃に反対したという記述がある。家康が大敗した様子を後日歴史家たちが隠蔽、もしくは大差ある軍勢のために致し方なく敗北した、としたかったのではないか、という推測である。つまり敵は多く、味方は少なかったと。権力の都合で書き換えられた歴史、それが通説となっている可能性である。

秀吉は死ぬまでに多くの金銀を蓄えていたので、大阪城攻めの各武将たちは、城内に隠されているはずの金銀狙いの先陣争いをしたという。家康は、先鋒の藤堂高虎と井伊直孝に次のように命じた。「千姫確保、そのうえで焼け跡の千枚分銅(大判千枚分)は家康が召し上げるが、焼け跡に溶けて残る金銀は二人が取り放題とする」。しかし細川忠興軍もそれを狙っていたため、城内で奪い合いの戦いになったという。藤堂に渡った分量は定かではないが、家康は後に藤堂に金と銀の分銅を各一つずつ与えたという。その重量330Kg、東海道を運ぶのに苦労したとか。

その他、徳川埋蔵金にまつわる小栗上野介に関する文書には、油樽に弐分銀で残したとか、家康の正妻築山殿のもとの名、宇喜多姓を隠して江戸時代を生き延びた浮田、竜馬の書状発見、山田方谷の改革、安政地震の江戸商人たちの逞しさ、などなど。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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