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意思による楽観のための読書日記

物語 ウクライナの歴史 黒川祐次 ***

ウクライナのある場所は歴史上、東から西からの大国に蹂躙されてきた。騎馬・黄金の民族と言われるスキタイ人が紀元前750年ころから2世紀ころまで暮らしていたその場所は、スキタイの滅亡の後、4世紀にはフン族、6世紀にはアヴァール族が侵入、6-7世紀にはスラブ人によりキエフ・ルーシ公国が建国された。しかし14世紀にはリトアニアとポーランドに併合され、15世紀にはオスマントルコがクリミア半島を支配下に置く。その後もコサック登場、モスクワ公国支配、ポーランド支配、オーストリア帝国支配、クリミア戦争、ロシア帝国支配などを経て、1914年の第一次大戦と1917年のロシア革命でウクライナの地も大転換点を迎えた。

ロシア二月革命でウクライナにも中央ラーダと呼ばれる独立を目指す組織が設立、ウクライナ自治宣言が出される。10月革命でウクライナ共和国が建国されるが、ボルシェビキ勢力はあくまでウクライナをソ連の一部と主張。一方西からはフランス軍、ドイツ軍、ルーマニア軍などが侵入。1919年10月にはチフスの大流行がありウクライナ軍が壊滅する。その後、ポーランドとボリシェビキ勢力がウクライナ領有をめぐりつばぜり合い。1922年のソビエト連邦成立とともにウクライナはソ連の一部となる。

ソ連の一部となったウクライナは穀倉地帯としてモスクワ中央からは食料調達が期待され徴発された結果、ウクライナでは大飢饉が発生。1929年にはウクライナ民族主義者組織(OUN)が結成されるが、スターリンによる大粛清により再び大飢饉に襲われる。1941年には独ソ戦が始まり、OUNはリビウで独立宣言するも、ドイツの占領され、ソ連勝利後は再びソ連領となる。フルシチョフが首相になると1954年、クリミア半島がウクライナに移管された。ウクライナに残る独立運動が気になるモスクワ政府は、ロシア人勢力が多いクリミア半島をウクライナに組み入れることで、ロシア人によるウクライナ支配の強化を図ったものと思われる。その後もウクライナには多くのロシア人が政策的に移り住んだ。

1985年のゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ政策でウクライナ語が国語と宣言され、1991年のウクライナ独立宣言にいたる。国名をウクライナ、国旗、国歌、国章を法制化したのもこの年。ウクライナの独立宣言は20世紀になって6回目。1918年の中央ラーダによるウクライナ国民共和国、同じ年にリビウでの西ウクライナ国民共和国、1919年キエフでのディレクトリア政府と西ウクライナ合併による独立、1939年カルパト・ウクライナ共和国、そして1941年リビウでのOUNによるウクライナ独立宣言。いずれも長続きはしなかったが、CIS結成でソ連が解体、1992年にはウクライナはルーブル圏を離脱、独自通貨を発行、1996年に新憲法が制定された。350年の間独立を夢見続けてきたウクライナ独立が実現できた。その年、ウクライナは核兵器を撤去しロシアに返還、1997年ロシアと友好協力条約を締結した。本書内容は以上。

そして、ロシアによるウクライナ侵攻の今に至る。欧州の穀倉地帯、耕地面積だけで日本の総面積を有し、ソ連構成国としては最大の工業国でもあったのがウクライナ。国民の教育水準も高く、堅実で忍耐強い国民性で、ロシアによる侵攻という困難を乗り切れるのか。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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