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意思による楽観のための読書日記

織田信長の家臣団 ー派閥と人間関係 和田裕弘 ***

大河ドラマを見ていると、家臣団同士のつながりは地縁と血縁で固められていることが多いことに気が付く。織田の家臣同士でも尾張、美濃の地縁とともに、織田家と家臣とのつながり、そして家臣同士の血縁を作り出すことにより、裏切りを極力防ぎ、結束を強めようとしている。それでも裏切りはあるわけで、信長の妹お市の方が嫁いだ浅井長政は信長に敵対し滅ぼされ、お市は本能寺の変の後柴田勝家の妻となるが、秀吉に担がれた信孝と敵対し、滅ぼされることになる。明智光秀の娘を娶っていた細川忠興は、本能寺の変後、明智の謀反に手を貸すことはなかった。

織田家中の最古参だった佐久間信盛は、婚姻や養子縁組による人脈がなかったため、本願寺攻めの不手際から信長に追放されたとされているが、本当にそれだけなのだろうか。本書では、信長の生い立ちとともに成長過程での家臣団の遷移、そして、天下取りに向かうプロセスで、1万を超えるほどの大軍団を任されるようになっていく方面軍ともいえる家臣たちの配下の武将相互の関係を明らかにすることで、派閥力学や地縁血縁関係が、家康と信長の関係や本能寺の変、その後の秀吉による権力継承を検証している。

織田信長は守護の斯波家のもとで守護代を務めた織田大和守家のさらにその下で奉行を務めた織田弾正忠家に属していた。守護代にはもう一つの織田家である、織田伊勢の守家があり、奉行には織田因幡の守家、織田藤左ヱ門家があった。つまり織田家の傍流から下剋上と同士討ちで勝ち上がってきたのが織田信長の父、信秀、その父信貞だったが、その系譜の詳細は伝わっていない部分も多い。信長には11人の兄弟、14人の姉妹がいたという。長島攻めで討ち死にしたのが兄の信弘、生き残ったのは弟の信包(信兼)、有楽斎、長利がいたが、その分限はかなり小さかった。姉妹には織田一族の室になっているものも多く、そのほか浅井長政の室に市、美濃三人衆の一人稲葉一鉄の嫡男の室などがいた。信長の息子には信忠、信雄、信孝、信房、秀勝、信高、信貞がいたが、秀吉による天下取りでいずれも大きな分限を継ぐには至らなかった。

信長が義昭を擁して上洛したころの有力家臣は、尾張勢として佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀、浅井信弘が六角氏を攻めた。また柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚の軍団が石成友通が籠る勝竜寺城を攻略。北伊勢を守備していた滝川一益、中川重政、この10人が織田軍団の主だったところ。義昭を槙島城に攻めたころには、幕臣衆を取り込み、細川藤孝、明智光秀、荒木村重が臣従した。その後は近畿を中心に各地の勢力を臣従させるため、有力武将たちに方面軍ともいえる軍勢を担当させるようになっていく。

一門衆では嫡男信忠軍で、家老には信長の家老だった林秀貞をつけ、その補佐として佐久間信盛、のちに川尻秀隆を任命したと思われる。信忠軍の晴れ舞台は信貴山城攻めで、佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀が参陣、細川藤孝、忠興、筒井順慶も加わった。信忠は本能寺の変で打ち取られる。

信孝は四国攻めを任されたが本能寺の変で叶うことなく、山崎の戦で秀吉とともに光秀軍を打ち破った。しかし清須会議では家督を継げず、柴田勝家と組むが秀吉に打ち破られ、和議に応じ、その後自害。その他の方面軍には、神戸信孝、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀が主な方面軍の武将たち。

信長のお気に入りだった丹羽長秀は秀吉の天下統一に貢献したが、1585年本能寺の変の三年後に病死。蜂屋頼隆は秀吉に従ったがその後の活躍は記録されておらず、天正17年に没。細川藤孝は秀吉、家康の天下でもうまく立ち回り肥後熊本藩主となった。川尻秀隆は天正10年の武田攻めでも武威を示し、甲斐一国を拝領したが本能寺の変で一揆勢に急襲された。滝川一益は本能寺の変で占領地支配に失敗、表舞台から姿を消した。秀吉軍は丹羽長秀、蜂屋頼隆、池田恒興、堀秀政ら有力武将を自陣営に取り込み、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て天下取りに向かう。信長にとって代わるほどの武将はいなかったため、本能寺の変がなければ数年後には天下統一を果たしていたはずだが、光秀以外の刺客に殺された可能性もあり、歴史の流れは魑魅魍魎、というのがこの時代だった。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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