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意思による楽観のための読書日記

「やくしみち」はどこに立っていたのか 澤村英仁 **

東京は荒川と中川放水路に挟まれた場所に浄光寺、通称木下川薬師(きねがわやくし)がある。大正時代に、荒川放水路開削に伴い移転を余儀なくされた古刹であり、現在地とそれまであった場所は少し離れている。そのお薬師様には江戸時代以前からお参りする人が絶えず、案内のために参道はこちらと示す「やくしみち」と刻印された道標の石碑がいくつか建てられていたが、寺の移転に伴いその道標も場所が移された。筆者は、現在もいくつか残るこの道標が、もともとはどこにあったのかを推察し場所を同定したいと考えた。浄光寺の場所、川の流路、道、水路、そして道標そのものがそれぞれ場所を移している可能性を考えながらのその推察と同定のプロセスを紹介したユニークな一冊である。

浄光寺は大正時代に移転したということなので明治の地図があればすぐできそうにも思うが、地名が異なり、その時代に使われていた街道、参道、裏道、水路、川の流路などをよく研究しなければ道標が置かれた場所はなかなか同定できるものではない。筆者は明治38年の発行された東京府南葛飾郡に地図から、荒川放水路開削前の地名と道路、水路を確認、浄光寺の元の場所と移転先を確認して、参道、裏道などを推測した。

残された道標は、現在は希望の家横にあるものには正面に「みぎ やくしみち」、右側面には「宝暦四年 奉供養諸願成就 庚申」、左側面には「月山 湯殿山 羽黒山 接待堂構中」と刻まれている。中井堀の道標には正面に「左 やくしみち」右側面に「此の方 亀井戸道」左側面に「此れより右 江戸道」と刻まれる。こうした情報から、場所を同定、立てた人たちの背景を探り、なぜ遠方にある月山や湯殿山が書かれていたのかを推測する。

江戸時代には、少し余裕の出てきた商人や町民たちは時間をとってお参りと称して小旅行を楽しんだ。有名なのはお伊勢参りだが、それ以外にも物見遊山を兼ねた善光寺、大山、身延山、香取鹿島、諏訪、榛名、三峰、御嶽、そして出羽三山があった。三山参りは現在・過去・未来をめぐり真人間となり蘇る、という信仰から来ていた。近所でお金を積み立て、代表者を選んでお参りをする、それが参詣構中。

庚申塔は、庚申信仰からくるもので、願い成就の記念に立てられた。人間の体内に巣食う三尸(さんし)という虫が宿主の行動を監視して庚申の夜に天帝に悪行を伝えに行くので寿命が縮むと信じられていたので、庚申の夜に寝ないで飲み食いすることで庚申の虫の行動を阻むというもの。庚申信仰の成就と参詣記念を兼ねて道標を立てたもの。

こうした調査のプロセスにより、江戸時代の庶民の暮らしや荒川放水路開削工事と浄光寺檀家の墓移転合意書なども明らかになる。単なる謎解きだけではない、優しい気持ちにもなれるような楽しみと歴史紹介にもなっている。お薬師様地元の方にとっては、「それは一度読んでみたい」と思わせる内容である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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