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意思による楽観のための読書日記

1Q84 BOOK1-3(全6冊) 村上春樹 ****

ベストセラーになったので読んだ方も多いと思うが、オーウェルの「1984」、オウム真理教事件をベースにし、介護や新興宗教の社会的問題やNHK受信料支払い拒否の問題が基本線にある。本書ストーリーは奇想天外、全6冊を楽しく一気に読ませてもらった。

時は1984年、主な登場人物は川奈天吾と青豆雅美、共に30歳で一人暮らしの独身者、天吾は小説家を目指す予備校講師、青豆はスポーツインストラクターで筋肉マッサージ教室を持ち個人も教える。ある時、天吾は知り合い編集者の小松から面白い原稿があるから読んでみてと新人賞に応募してきた原稿を渡される。それは、閉ざされた宗教コミュニティで暮らす少女であった主人公が、そこで飼われている大切な羊に餌をやらなかったため死なせてしまい、その死んだ羊により「リトル・ピープル」を召喚してしまうお話であった。リトル・ピープルは「空気さなぎ」を紡いで少女をマザとするドウタを生み出す。そしてその物語の世界には月が2つあった。

その少女とは、応募小説を書いた17歳のふかえりこと深田絵理子の10歳の頃の自分をモデルにしたもの。ふかえりは強い霊感力を持っているようだった。文章が稚拙だったので小松は天吾に書き直しを依頼、世の中にバレたら大変、と思いながらも天吾は書き直しを引き受けてしまう。ふかえりは天吾を育ての親である戎野(えびすの)の暮らす奥多摩の山中にある一軒家に連れて行く。戎野はふかえりが自分の親友の娘であること、親友は新興宗教「さきがけ」のリーダーになっていること、ふかえりはその宗教から逃れてきたことを天吾に説明。親友や「さきがけ」が現在どうなっているのかが知りたいと、小説が新興宗教における問題提起のキッカケになればと考え、小説に天吾が手を入れ出版することを承諾する。そして小説は新人賞を受賞、ベストセラーになってしまう。このときあたりから天吾は1984年の世界から、自分が書き直して作り出した小説の中の二つの月がある世界(猫の町のある世界1Q84)に移動している。

青豆はインストラクターをする間に70歳くらいの麻布の豪邸に暮らす女性に出会う。彼女からはDVで苦しむ女性たちを悪いパートナーから強制的に引き離す任務を頼まれる。具体的にはDVを行う男性をこの世から抹殺する任務であり、青豆は正義ではあるが殺人を行うことを裏の顔として持っていた。ある時、青豆はその女性から、強姦された形跡がある10歳の少女がいることを打ち明けられ、その相手の新興宗教のリーダー抹殺を委託される。入念にアレンジされた場の設定が行われ、青豆はそのリーダーにマッサージを施すよう教団から依頼される。青豆はリーダー殺害に成功するが、リーダーは青豆が殺害するために来たことを事前に知っていた。それでも、リーダーは自ら殺害されることを受け入れた。リーダーは青豆が天吾のことを強く思っていることも知っており、天吾も青豆を探していると死ぬ前に告げる。

リーダー殺害の夜は雷が鳴る夜だった。外に出て空を見ると月が2つ出ていた。いつの間にか青豆は、パラレルワールドのような1Q84の世界に移動していたのだ。キッカケは渋滞のタクシーから降りてしまった三軒茶屋の首都高の非常口だったのかと思い出す。その後、青豆は麻布の女性のガードマンをしているタマルが事前に用意した高円寺のマンションに身を隠す。そのマンションは天吾のアパートの近所でもあった。

天吾の父はNHKの集金人、小学生だった天吾は週末には父に連れられ集金に同行させられたが、それがいやで得意の柔道で高校からは奨学金を得て父から独立、特待生待遇の寮で過ごすことで家を出たため、それ以来父とは疎遠である。青豆の両親は新興宗教の「証人会」の敬虔な信者で、娘にも宗教のルールを強いたため、クラスでは孤立、小学3-4年生の同級生だった天吾に守られた事があった。天吾は青豆を異性として強く意識していたわけではなかったが、青豆は守ってくれた天吾の手を強く握り、意思を伝えたことを30歳になって今でも強く記憶にとどめている。その後、青豆は11歳で家を出て親戚に助けられ独り立ちするが、今になって天吾に会いたいと強く思うようになる。

ふかえりはベストセラーになった小説の作者となり世の中から注目されるようになり、その後失踪して天吾のアパートに身を寄せる。天吾は、ある雷の夜にふかえりと結ばれるが、それは異性としてのふかえりと結ばれるというのではなく、天からの声に従うような行為だったと振り返る。天吾は、NHKの集金人だった父が房総半島にある養護施設で認知症の症状を示し意識も希薄になっていることを知らされる。仕事を休み、不義理をしていた父との時間をしばらく持てるように手配し、ふかえりには不審な電話や訪問者は相手にしないように言いつけて出かける。天吾が帰宅したときにはふかえりはおらず、誰かが天吾を見張っていると告げる手紙を書き残していた。

新興宗教のスタッフはリーダーが殺害され、殺害者は青豆であることを確信するが、青豆の潜伏先が分からない。そのため、弁護士で探偵の仕事を請け負う牛河に探索を依頼する。牛河は青豆が個人的に麻布の女性と繋がりがあることを突き止めるが、それ以上には追求できない。牛河はゴーストライターの天吾が小学生の時に青豆と同級生だったことを手がかりに、天吾のアパートを見張っていれば青豆への繋がりが見つけられるのではないかと推理、天吾の暮らすアパートの一室を借りて望遠カメラで単身出入り口の見張りを続ける。

青豆は高円寺に潜伏し始めて3ヶ月ほど経過した時、身を隠していたマンションの目の前の公園で空を見上げる天吾を見かける。20年経過していても、それは手を握った同級生の天吾だと確信できた。天吾は空に2つ出てる月を見るためにその公園に来ていたのだった。しかし、焦る青豆を尻目に天吾はその場からいなくなり、手がかりを失いそうになる。青豆はタマルに状況を相談、牛河が天吾を探っていることを知らされ、それをキッカケにタマルは牛河から事情を聞き出し殺害。新興宗教サイドもそれを知って、牛河の探索は突然終結する。タマル経由で青豆のメッセージが天吾に伝わり、二人は再会、元の1984年の世界に戻ることを果たす。青豆は雷の鳴る日に天吾との子供を身ごもったと確信、それを天吾も受け入れる。その子供はドウタかもしれないし、青豆がマザなのかもしれない。物語はこれでおしまい。

シンボリックな音楽や小説などがそこかしこに登場する。青豆が1Q84に移動する直前に三軒茶屋のタクシーで聞いていたのがヤナーチェクの「シンフォニエッタ」、ナット・キング・コールの「スイート・ロレイン」、青豆がバーで飲むのはカティーサークのオンザロック、ふかえりのディスレクシア(読字障害)、ふかえりが暗記するほど読み込んだ平家物語、青豆が度々思い出す映画「渚にて」、青豆が高円寺のマンションで読むプルーストの「失われた時を求めて」、天吾とふかえりは「ソニーとシェール」のようなベストコンビ、天吾の父が療養する町は、小説「猫の町」のように下手をすると出口がない1Q84の世界、1Q84の世界は善と悪の均衡が重要な「カラマーゾフの兄弟」の悪魔とキリストの話、必要最小限の仮説で証明する必要がある「オッカムの剃刀」、執拗に訪問してくるNHKの集金員などなど。これらは何かのメタファーでもあり、読者が独自にもつそれぞれの1984年の記憶に紐付く自由な発想や空想へのキッカケでもあるようだ。

誰でもが小学生時代の小さな思い出は持つものだし、それが異性である場合や、今では疎遠になってしまった当時の友人である場合もある。1954年頃の生まれである天吾と青豆は、偶然私と同じ年齢、これも作者の意図する読者層の一つであろう。読者は現在自分がいるこの世界が、偶然迷い込んだパラレルワールドだとしたら、そのキッカケは何だったんだろうと、同窓会をするたびに考えることになるのかもしれない。実際、人生のターニングポイントはたくさんあるし、ちょっと違う判断で大きく異なる人生を辿る可能性だってある。それでも実世界では、物語のように三軒茶屋の高速道路に行っても、元の世界に戻れるようなことはないことは言うまでもない。

新興宗教が社会や子供に及ぼす影響については、大いに懸念されるし、本書はその結果がもたらす不幸を描いている。青豆と天吾はその呪縛から自らの意思と力で抜け出した。周りの誰もが正しいと言うことを否定するのは難しいのにもかかわらず、疑問を持ち自分にとっての正義や真実を見つけようとしたのがこの二人だった。同様に、NHKとその集金員に対して一部の人が抱く嫌悪感もよく分かる。自分にとっての正義や真実を考えることの重要性、これが一つのメッセージである。

一方、DVや介護の問題も現代社会の大きく重い課題であるが、本書がそうした社会的問題の提起を強く意図しているのかどうかは、DVの相手の殺人で解決しようとする青豆、意識が混濁した父の枕元で10日間ほど本を読んであげる天吾、この二人の短絡的、もしくは一時的な行動からは感じ取れない。また、「1984」の「ビッグ・ブラザー」が象徴するような検閲や弾圧、独裁、思想統制を本書が取り上げているようには思えない。むしろ、現代がSNS時代になり、名もない一般人が深い考えもなく、特定の人たちを窮地に追い詰めるような事態を懸念する象徴が「リトル・ピープル」なのかもしれない。

読後記憶に残るのは、本書が、両親の宗教活動が及ぼす子供たちへの強い影響とその後の子供たちの人生への長く苦しい重荷、そこからの脱出方法へのヒントが書かれたファンタジー小説である、ということ。それ以外の発想につながるキッカケは先程あげた以外にも数多くあるので、解釈は如何ようにもできるし、それは読者の「想像の翼」次第であり、これが春樹文学の魅力でもある。

春樹ファンがどのように分析しているのか、様々だと思うが、現実社会の問題解決と実益を重んじるノーベル賞審査陣が、何度も候補に上がる村上春樹を文学賞に選出しない理由は、本書を始めとして春樹文学の魅力でもある「提起された問題に対し示唆する着地点の曖昧さ」とそれに伴う「読者に委ねられた自由の大きさ」にあるのではないかと考えた。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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