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意思による楽観のための読書日記

暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 大泉光一 ***

歴史の時間に習った支倉常長の使節派遣は、宣教師の派遣要請とメキシコとの通商交易開始。本書では伊達政宗が、江戸幕府に対抗して、幕府には極秘にスペインから武器と軍隊派遣をを要請し、オランダのイギリスのプロテスタント対抗軸をカソリック勢力の支援を得て東北に構築しようとしていたというもの。その記録は日本国内ではすべて廃却されているものの、ローマとスペイン、メキシコには記録が残っていた。史料は古典ロマンス語と言われるラテン語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語なので、そうした古文書を読解することに本書筆者は50年を費やしている。

政宗はこうした意図の発覚を免れるため、使節団に持たせた親書には具体的なことを記述せず、すべては使者の支倉常長と宣教師ソテロに伝えたとしている。使節団には幕府のメンバーもいたが、日本からメキシコに向かった使節が、そこからさらにスペインとローマに向かうときに日本に引き返している。その際、幕府メンバーは、政宗の意図を察知して、帰国時に家康と秀忠に報告、幕府はこうした政宗に疑念を抱いていた。

使節団派遣は、キリシタン弾圧開始の微妙な時期と重なり、1613年10月支倉常長やソテロなど150余人を乗せた船が仙台藩を出発、1614年1月メキシコに到着。家康がキリシタン弾圧令を決めたのが1613年12月のこと。1614年8月にはハバナを出港した一行は10月にスペイン到着、1615年1月にはスペイン国王への謁見を実現した。同年10月にはローマに到着、11月にローマ教皇にも謁見した。正式な使節として歓待されたが、政宗の意図は実現しなかった。それは、政宗が洗礼を受けていないことをローマ教皇が問題視。布教は進めたいが、それ以上の支援をするには条件が整っていないとして、政宗の企ては水泡に帰した。政宗が、幕府への対抗軸を作る意図を持ちながら、発覚したときの対策として、洗礼を忌避した「二股膏薬」策が裏目に出た。

使節団はなんとかスペイン国王からの支援を欲しいと、親書への返信を求めたが手に入れられず、失意のまま1620年8月に帰国。報告を聞いた政宗はその二日後には、幕府からの疑念を晴らすため、藩内にキリスト教禁令の高札を掲げた。支倉常長は1622年51歳で没した。支倉常長に同行した日本キリスト教界の代表者が3人いた。彼らは、使節団の知らせが仙台藩にもたらす結果を予見していた。一人はトマス・瀧野嘉兵衛、使節団とは離れ、セビリアの修道院に入会したが、言葉の壁と不当な扱いに耐えかねてメキシコに帰還したが、その後は不明。あと二人はペドロ・伊丹宋味とフランシスコ・野間半兵衛。二人はスペインバレンシア州アリカンテに残り、再びローマに向かったのではないかと筆者は推測しているが、その後は不明。日本に帰国してもキリシタンである彼らの未来はないと考えたのであろう。本書内容は以上。

天正遣欧使節の時代に、同じことを企図していれば、歴史は変わっていたのかもしれないが、欧州におけるプロテスタントとカソリックの宗教戦争やオランダ独立戦争なども絡んでいたようで、欧州事情も魑魅魍魎。そんなことは家康も政宗もご存じなかった。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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