意思による楽観のための読書日記

昭和史(戦後篇) 半藤一利 ****

2005年に著者が社会人大学で17回にわけて語った講演録。このシリーズでは一番が幕末史、次に昭和史の戦前篇、それらに比べると戦後篇はちょっと迫力というか力が入らなかったかなという印象。しかし戦前からの日本を見てきたジャーナリストの見識が書かれていると思う。

<昭和天皇とマッカーサー会談>
マッカーサーとしては日本の戦後統治において天皇をどう扱うかを考えるに際して、終戦直後の天皇の決意表明を重く受け止めた。「朕は国が焦土と化することを思えば、たとえ朕の身は如何あろうとも顧みるところではない」と最後の御前会議で述べたこと、そしてその言葉を伝え聞いた国民は、みんなして戦後日本の復興に力を合わせていこうと感じたことを知って、天皇制の存続を考えたという。一億総懺悔のきっかけを作ったのは天皇であると。そして実際に会談した際にも天皇は次のように言った。「私は国民が戦争遂行にあたって政治・軍事すべての面で行った決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身をあなたの代表する連合国の裁決にゆだねるためにお訪ねした」マッカーサーはこの言葉を聞いて感動したという。大抵の敗戦国元首は命乞いをするもの、「この人は」と思ったとのことである。新聞に出た会談後の写真が有名であるが、元帥は天皇をお迎えには行かなかったが、会談後は車に乗り込むまでお見送りをしたということ、好印象があったのだろう。

<五大改革>
10月11日にGHQから5大改革骨子が示された。①婦人解放 ②労働者団結権 ③教育民主化 ④特高など秘密警察撤廃 ⑤財閥解体。さらにプレスコードといわれる新聞改革も。戦中は軍国主義の後押しをしてきた新聞が、「国民に謝罪もせずに手のひらを返すようにGHQに政府のご用を務めている、度し難き厚顔無恥」と高見順は8月19日の日記に記していたという。また、ローマ字採用論、漢字廃止論などが新聞に掲載され当時のGHQの締め付けの強さも伺わせる。

<政党の始まり>
1946年の戦後初の選挙に先立ち、次々に政党が誕生した。片山哲の日本社会党、鳩山一郎の日本自由党、町田忠治の日本進歩党、志賀義男と徳田球一の戦前から続く日本共産党、橋本登美三郎の日本民党、児玉誉士夫の日本国民党、生長の家の谷口雅春の日本民主党、その他33を数えた。ジャーナリズムも準備が始まり、文藝春秋、中央公論、改造の再開、新生創刊、世界、人間、展望、潮流、リベラルなども創刊された。

<人間宣言と戦争放棄>
幣原喜重郎内閣の時に、マッカーサーは天皇は人間であると宣言させることで戦争責任を免れさせることが出来ると考え、日本側に要請、それが実現されたとの記述、そういう経緯があったのだと知る。これが1946年1月1日の新聞に掲載された。また、極端な国粋主義は社会科教育に問題有りと考えたGHQは歴史、地理、修身の廃止を命令している。また公職追放により戦争犯罪人、軍人、国家主義者、大政翼賛会有力者などが追放された。政党の幹部にも追放者が多数出て、日本進歩党では274名の議員のうち262名が追放、ほとんどである。しかし1949年になってこれが解除となる、それまでは公職から多くの人間が追放された。マッカーサーの元には多くの日本人から天皇の戦争責任を追及しないで欲しいとの嘆願が多く寄せられたとのこと、これもマッカーサーの判断に影響を与えた。幣原喜重郎はマッカーサーと会談、「日本は軍隊を持たない、戦争をしない国になりたい」との点で一致した。これが憲法9条成立につながっていく。

<象徴天皇と日本国憲法成立>
マッカーサーは1946年1月ワシントンに手紙を書き、「天皇の戦争責任は追及するべきではない」と意見具申、この時点で天皇の有罪無罪の検討は必要なしとの結論をアメリカ国としては出していた。のちの東京裁判でもこの点は変わらなかった。この年憲法草案を日本側が作成するが、明治憲法の焼き直しでしかなく、逆にGHQから草案が出された、これが現在の憲法の元になっている。その時の三原則、①天皇は国の元首 ②戦争廃止 ③封建制度廃止 かくしてGHQ案が示され、48時間以内に回答せよと迫られた。幣原首相はGHQ草案を持って天皇に上奏、天皇は「自分は象徴で良いと思う」、この言葉を伝え聞いた閣僚は当初断固反対を唱えていたものも含めて受諾やむなしと態度を変更、新憲法が成立した。このころ天皇は地方行幸を実施、戦後の復興に役立ちたいとの天皇の思いを形にしている。国会で憲法議論をしているそのころ、国民の実態は「空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅」という復員ラッシュと食糧不足が関心の的、憲法どころではなかった。

<東京裁判>
1946年5月から1948年11月まで開廷された東京裁判、市ヶ谷の陸軍省講堂で行われた。その間、当用漢字1850字が制定され、1948年2月1日には有名はゼネスト禁止命令がGHQからでる。「一歩退却、二歩前進、労働者、農民バンザイ、われわれは団結しなければならない」というラジオによる中止演説となる。1948年4月の総選挙では社会党が143名当選、第一党となって、片山哲を総理とする内閣が出来るが9ヶ月で総辞職、吉田内閣が組閣された。このころ世界ではパレスチナの地にイスラエルが誕生、この地を統治していたイギリスが国連に判断をゆだね、強力に後押ししたアメリカの力もあってイスラエルが独立、パレスチナの56.6%をユダヤが、43.5%をアラブが所有することが国連決議された。これが現在までの中東問題の引き金になっている。ベルリンの壁が築かれたのもこの年、封鎖された西ベルリンに物資がアメリカ、イギリス、フランスから空輸され、また戦争か、という一触即発の空気が見られる。東京裁判の期間はこのような世界情勢変化があったのである。東京裁判ではA級28名が対象となるが、準A級とされた笹川一郎、児玉誉士夫、岸信介などは裁判を免れている。東京裁判とは何であったか。①日本の軍国主義は悪であり連合国側の行為は正当化される ②連合国国民に見せるための復讐の儀式化 ③日本国民への啓蒙 これが半藤さんの評価。共同謀議という罪に関してはナチスドイツのヒトラーには当てはまっても、日本のように責任者が不定の国には当てはめにくかった、しかし上記①②③のために強行したのが東京裁判だった。

<GHQの右旋回>
その後米ソ対立が激化、日本の位置づけを変えざるを得ない状況に変わってくる。①ソ連側に組み込まれた諸国の問題 ②分割されたドイツ問題 ③核兵器問題 こうした情勢変化により、日本を再軍備させること、民主化の行き過ぎをチェックすること、経済復興と安定化を図ることなどの目的で、公職追放されたメンバーの復帰、警察予備隊の設置などが決められる。経済安定のために、まちまちだった円為替レートを1ドル360円に設定した。これが1971年まで続いた。

<朝鮮特需>
今をときめくトヨタやソニーは1950年の朝鮮戦争による特需で成長した。米ソ代理戦争であり、中国と国連軍という名のアメリカとの戦いであった。GHQからトラック注文を受けて作れば作るだけ売れたトヨタ、あらゆる電波探知機への需要がふくらんで会社が急成長したソニー。朝鮮戦争の3年間で日本の契約高は11億3600万ドル、戦後日本はこの三年間で生き返ったとも言える。1951年マッカーサーはトルーマンに罷免される。日本人はマッカーサーを敬愛していて、マッカーサーの銅像でも作ろうという話も出たとか、実現しなかった理由は、マッカーサーによる「日本人は12歳」という発言を日本人が誤解したこと。真意は「アングロサクソンはあらゆる意味で45歳の壮年であり、ドイツ人の軍国主義への傾倒は大人としての確信犯。日本人は国際情勢を見るという意味では12歳の少年、世界情勢を知らずに犯した罪が今般の戦争につながった」これを聞いた日本人は「このやろー」と思って銅像は建たなかった、というのが半藤さんの解釈。

<警察予備隊>
1950年マッカーサーは吉田茂に「75000人からなる国家警察予備隊を設置することを認可する」と手紙を送っている。75000人というのは4個師団、朝鮮戦争が始まったときに日本本土にいた米国陸軍兵力数そのものに相当、朝鮮戦争に行かなければならない米国の穴を埋めて欲しい、という意味だったという解説。G2ウイロビー少将はこの準備のために「森機関」を設置、戦前の佐官クラスを集めた。これにはマッカーサーが激怒、警察予備隊は素人を集めた集団として発足した。国会で「軍隊ではないか」と問いつめられた吉田首相は「自衛のための戦力は合憲である」と回答、これが自衛隊合憲論の始まり。警察予備隊は1952年保安隊となり、その後公職追放されていた元佐官クラスの旧軍人も合流させて自衛隊と発展していった。

<基地問題>
立川、浅間、富士などの基地問題があるなか、石川県内灘の試射場での実弾訓練が大問題になる。しかし現実には内灘村の年間漁獲高は200万円、三年間の米国による使用料金額は7億円、金額ベースで見ると当事者達の本気度合いとのアンバランスがあった。しかし、戦後の開放感から反基地運動は日本全国で熱を帯びる。

<55年体制>
1951年以降、吉田総理と自由党内の派閥争いは激化していた。これが後に55年体制へとつながるが、吉田は徹底して「軽軍備・経済発展」路線、一方の鳩山一郎は「再軍備・改憲」路線、この戦いは現在でも続いている。吉田路線に賛同していたのが大野伴睦、広川弘禅、池田勇人、佐藤栄作、鳩山路線が石橋湛山、三木武吉。このころは岸信介は形勢を見ていた。1955年に社会党の左右合同があるや、保守も一致してあたらなくてはならないと、正力松太郎や児玉の斡旋で大野と三木が会談、保守合同につながる合意をする。吉田内閣は倒れて鳩山があとをつぐ。1956年には「もはや戦後ではない」という有名な経済白書が発刊されている。

<60年安保>
1958年岸信介内閣が成立、日教組への圧力のための勤務評定導入、警務職務法などの審議で国会は騒然とする。ぎすぎすした世情を沈静化させたのが皇太子ご成婚、ミッチーブームであった。「ご清潔でご誠実でご信頼申し上げられる方、柳ごおり一つでももらってくださるなら、、、」というフレーズが新聞で報道され国民的ブームとなった。1959年の参議院選挙でははじめて創価学会員が6名当選、公明党の創設につながる。安保条約改定では岸信介が強行採決、これに抗議する国民のデモデモデモで国会の周辺では連日大勢の警察とデモ隊で大混乱がおきた。文化人達はこれらを批判、「若い日本の会」では石原慎太郎、大江健三郎、江藤淳などいまでは犬猿の仲に見える当時の若手作家達が国会運営と安保条約改定に反対している。

<外交なき日本>
先ほどの中東問題や東西問題もさることながら、1962年には一触即発の世界危機であったキューバ危機があった。この時日本政府は何をしていたか、何も出来なかった。フランスのドゴール大統領には「池田首相はトランジスターのセールスをする人なんですねえ」と皮肉られていた。1933年以降国際連盟を脱退した以降、経済発展ばかりに気を向けていた日本は国際情勢のことは考えず、さらに国防はアメリカにお任せしていた、この不勉強は今でも尾を引いている。福田赳夫は1964年、オリンピックや新幹線開通に湧く日本人を批判して「池田内閣のやっている所得倍増、高度成長政策の結果、社会の動きは物質至上主義がはびこり、レジャー、バカンス、無気力が充満、元禄調の世相が日本を支配している」と述べた。今の世相でもあり、今般の経済危機を経験している現在の日本人はかみしめる必要があるコメントである。

<日本の選択肢>
半藤さんは戦後の日本が選択できた路線を4つ示す。
①再軍備、改憲 ②民主社会主義 ③軽軍備・通商国家 ④永世中立
結果として③を選んだ日本は強兵なき富国を実現、経済発展は遂げてきたが、日本精神はどこへ行ったか、と問う。今の日本に必要なことは軍事力を持つと言うことではなく、
■新しい国を作る無私の想い
■小さな箱を出る勇気
■大局的な展望能力
■他人に依存しない世界に向けた知識と情報収集力
■「君は功を成せ、われは大事を成す」吉田松陰の悠然たる風格
こうした精神を取り戻すことである、というのが最後の締めの言葉。幕末史を話した半藤さんは坂本龍馬や中岡慎太郎など幕末の若き武士達の想いを現在人に伝えたいと感じているのだろうか。
昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー は 26-2)

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