荒唐無稽とも思える仮説であるが、読むに従って筆者の仮説にかける熱意と意気込みを感じて、読み終わった今は「ひょっとしたら本当かもしれない」と考えるに至る。本書の仮説は次の通り。
紀元前2001年12月、イースター島上空に直径50Kmの彗星が現れた、エンケ彗星の母彗星である。その後地球をくるりと回ってスウィングバイ、本体は地球外へ、一部は周回時に何百万個ものかけらに分裂、日本には北海道の西北から近づいて最終落下地点は三陸沖だった。その彗星落下に伴い、十和田湖や田沢湖ができて、高さ250mもの津波が発生、当時の日本の縄文時代人の6割が死亡した。同時にその時発生した巨大津波は太平洋の反対側のみならず世界中の海にも伝播し、中国、インド、メソポタミア、ペルーに発生していた多くの文明を破壊した。破壊された文明は、三内丸山、中国長江沿岸の良渚、黄河沿岸の山東竜山、インドのモヘンジョダロ、メソポタミアのシュメール、ペルーのシクラス・カラルである。
日本での津波では、巨大すぎる津波のために三陸海岸沿いの地方に加え、仙台湾から北上川沿いを津波は遡上し花巻あたりまで到達、同時に釜石から遠野を経由して現在の胆沢扇状地まで駆け上り、扇状地に6段にもなる今までは「河岸段丘」と考えられていた大量の土砂をもたらした。三陸リアス式海岸も、落下した彗星により形成されたクレーターが隆起したあとであると。
当時の彗星の明るい光と衝突は、津波や光の記憶となり、地名や古墳、土偶にも残っているという。空が血で染まった「空知」、龍が飛んだ「龍飛」、大きな槌で叩かれたような音がしたことで「大槌」、津波がその地点までは来たことを表す「津」「戸」という多くの地名、特に一戸から九戸はその標高から何回津波が押し寄せたかを示す地名だと。九戸は現在は移転して高台にあるが元は八戸よりも低い地点にあったとのこと。東北地方に多く残る遮光器土偶は明るい光を遮るための土偶であり、全国に残る前方後円墳は彗星の形を模した形であるという主張である。以上が本書の内容。
このくらいぶっ飛んだ仮説だと、真実かどうか、ということより、こういう説があることを知っていることが自慢にもなるし、想像するだけでも楽しいし、本当だったとしたらもっと面白いことになる。今度の同窓会ではみんなに話してみようと思う。