島原の遊郭が島原の場所に来る前には、六条にあった。1641年に六条郭が街中にあるのは風紀上好ましくない、ということから朱雀野に移すべし、との官名が京都所司代から発せられた。朱雀野とは当時京都の西のはずれ、今の島原の場所であった。この六条から朱雀野への移転騒ぎが、その数年前にあった九州で起きた島原の乱の騒動に似ていたと市中の評判になったことから島原と通称されるようになったという。
島原の特徴は「女将さん」ではなく「旦那さん」だということ。揚屋や置屋の主人には、芸妓や舞妓が身につけるべき芸はひと通り身につけておく必要があり、時間がかかる。外からお嫁さんとして来た女性がこうした芸事を身につけるのは無理。そうすると、男子として生まれると旦那さんになるために小さい時から藝事修行に励ませられる、ということになる。各種芸能でそのトップに与えられる称号が太夫、文楽浄瑠璃であれば竹本義太夫、清元も常磐津もXX太夫、遊女では最上位の唄も踊りも鳴り物も超一流の芸を持つものを太夫と称する。島原では太夫のことを「こったいさん」と呼ぶ。これは六条三筋町のころ名妓が能狂言に凝ったことからの名称とも言われるが、吉原などの花魁と区別するため、こっちの太夫さん、と言っていたのが「こったいさん」と転化したともいわれる。
昭和33年の売春禁止法で娼婦は全員解雇となり、太夫以外の天神、鹿恋、女郎などが居なくなった。結局太夫、芸妓、舞妓、子供の禿(かむろ)は残った。しかし、太夫のお相手は御所の貴族だった。明治維新で御所が東京に移ってしまい太夫の芸を必要とするお客が京都にはいなくなってしまっていたため、売春禁止法以降島原の町は寂れてしまった。吉原の廓ことばは「ありんす」、お国訛りを隠すためと言われるが、島原では「なます」、「主さん、一杯飲みなまんし」という具合。上京の武家の娘が島原に入るので、お国訛りの心配はなかったと言う。
島原の太夫は化粧もお稽古事も御所風、公家さんのようにお歯黒をつけていたように殿上に上がれる位である太夫は、天皇に白い歯を見せないように歯を染めていた。口紅を下唇だけ差すのもそうした作法の一つ。「いらんこといわん」という意味らしい。舞妓さんも一年目は下唇だけで、太夫はずっと下唇だけだ。太夫の名前は源氏物語に出てくる帖の名前や人名から付けるのが通例、薄雲太夫、如月太夫、夕霧太夫など。芸妓さんは男の名前で富丸や吉次など。お客とのやりとりで、女性の名前で手紙がきたら困る、ということから男性名にしたという。舞妓さんも豆次郎などという名前が多い。また花街ごとに踊りや唄の流派が異なる。上七軒は花柳流、祇園甲部は井上流、祇園東は藤間流、先斗町は尾上流、宮川町は若柳流となっていて、芸妓さんのトレードが出来ないようになっていた。つまり、一つの花街に優秀な芸妓さんが集まりすぎ内容にするルールだったのだ。
今でも営業しているという輪違屋のご主人による著作、本人も営業のため、勉強のため相当なお金を遊びごとにつぎ込んでいるという、優雅な話である。
京の花街「輪違屋」物語 (PHP新書)
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