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意思による楽観のための読書日記

日日是日本語 今野真二 ***

筆者は大学で教鞭をとる日本語学者で1958年生まれ、学者なので多少は理屈っぽいのだが、ほぼ同じ世代なので日本語への感じ方はどうなのかと思い本書を手にとった。自分と似ている部分が多少あって、自分としても気になる日本語、気になるポイントが近い、それも大学のセンセイ、ということで、年を取り自分も相当理屈っぽくなってきたことを自覚した。

2018年1月から12月までの日記形式で書かれたのが本書、自分と一致したポイントを挙げてみる。1月7日「写真はイメージです」と書かれた文書を見かけることがある。この場合の「イメージ」とは、全く同じではないけれどもこういう感じですよ、という意味で使われていることが多い。「イメージ的に」という話し方をする大人も多いが、この場合には、具体化するとこんな感じになるはずだと自分は思う、という意味合いであろう。イメージ、という英単語は画像、印象、心象という意味なので、日本語として使われる場合には拡大的に解釈されていると見ることができる。

2月19日「調子って何?」今日は調子が悪い、というようなことを言うが、その場合の調子とはいつもできていることが今日はうまくできない、という意味。スポーツでも金メダルを取るような一流選手は、持てる技術を言語化し積み上げながら、できない場合の理由を分析するという。このような一流選手の場合には、今日は調子が悪い、なんて甘い言葉では収まらず、できない理由を自ら積み重ねた論理に基づき追求する。一子相伝という言語化し得ない技術もあるという人もいるが、言語化できない技術は広くは伝わらないわけだから、一子相伝には閉鎖的な技術伝承、という意味合いが出てくる。言語化されない思想は、単なる物思いに過ぎない、文書化・論文化されない理論は空論である、という話と通底する。

3月25日「言い換えの危うさ」 "徘徊と呼ばないで"、という記事に対して、認知症の老人が外出して帰宅できなくなったことを指している、などと表現してほしいというのは、単なる言い換えだけで問題を見えにくくするだけではないかというお話である。以前はボケ老人、などと言っていたのを認知症と言い換えたのは、差別的な表現や人が傷つく場合に言い換えること。こういう例は当然として、問題化することを避けたいあまりに、言葉が本来持つ違いまで曖昧にしてしまうことは日本語の退化である、という論である。昔はヤンチャしてました、なんていうのも、昔は犯罪行為スレスレの青春時代を過ごしていましたという場合もある。半グレ、という犯罪行為を半分だというような表現はどうなのか。を集落と呼び替えるなんというのは、今でも根強く残る問題を見えなくするという悪い影響があると思うがどうだろう。

4月21日、「見える化」という日本語がよく使われるが、「視覚化」を「見える化」と言い換える場合にどんな意図があるのかがポイントとなる。「視線」と「目線」、「立場」と「立ち位置」も同様、読者や視聴者に理解しやすいように配慮しているのか、言い換えに明確な意図と意味があるのかどうか。インスタ映え、という言葉があるが、読者映え、視聴者映え、のために使われているケースが多いような気がする。

7月15日、縦書きの数字について。一昔前までは縦書きの文章では数字は漢字で書くものと思い込んでいたが、「三連休初日」、「3連休初日」と並べてみると数字の3の方が実感が湧きはしないだろうか。「五連休」と「5連休」となるとアラビア数字のほうが明確に分かりやすい。GWは「十連休」よりも「10連休」が縦書きでも横書きでも見易さ圧勝という気がする。何かが変わってきたのか、それともスマホやPCの利用拡大が影響しているのか、自分でも気が付かない間に感覚変化を受容しているのかもしれない。

8月18日、「百九十九番!」と書いてある場合、明治大正時代には「ひゃくくじゅうくばん!」とふりがなが振られている。九十九里浜だってくじゅうくりはまである。二十四の瞳、は「にじゅうしのひとみ」、四十七士は「しじゅうしちし」である。試しに、イチからジュウまで数えてみて、逆からも声を出して数えてみると、「イチ・ニ・サン・シ・ゴ・ロク・シチ・ハチ・クウ・ジュウ」逆に言うと「ジュウ・キュウ・ハチ・ナナ・ロク・ゴオ・ヨン・サン・ニイ・イチ」なぜこうなるのかは自分でも分からない。

9月9日、「切れ」について。散文では、言葉は論理の引力で別の言葉と自動的に繋がろうとする。詩や俳句ではこの理屈を断ち切り、散文では語りきれない別の意味を取り込もうとする。詩的言語は圧縮と飛躍だ、というのが筆者の持論。切ることで飛躍が可能となるという。読者の想像を掻き立てるのが「切れ」による飛躍ということになる。プレバトの夏井先生は毎回このことを指摘指導しているのかと思う。

10月22日、「日々是好日」という映画があり、ふりがなが「にちにちこれこうじつ」と振られている。ヒビコレコウジツ、と思い込んでいたのは自分だけではなかった。

11月5日、「さしすせそ」の謎、さは砂糖、しは塩、すは酢、せは醤油、そは味噌、という「せ」の部分。醤油ならシャウユだろう、と思ったら、「しょう」は「せう」、「しよう」は「しゃう」というらしい。何々でせう、は「なになにでしょう」、せうしゃうは「少将」。だから醤油はせうゆでいいのだそうだ。これでは納得できない。

12月1日、お釣りはなぜ釣りなのか。それは釣り銭で合計が釣り合うから。田舎に行って汲み取り式のボットントイレがあると「お釣りをもらう」こともある、この場合にはなんとか釣り合いたくないもの。

毎日、何気なく見ているテレビ放送で使われる日本語にも多くの謎があるもの。そんな事ばかり言っていると、妻は聞き流してくれても、孫には嫌われそう。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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