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意思による楽観のための読書日記

満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える (PHP新書)  宮田昌明 ***

相手国戦力に対する甘い見通しと無謀で向こう見ずな国力評価、世界情勢への誤判断から突入してしまったのが日本にとっての太平洋戦争。そしてそこに向かう道を決定づけるきっかけとなったのが満州での権益確保と満洲事変。本書では、そこに至る歴史を中国側、ロシア・ソ連側、米英側、そして日本側と多面的な分析を施す。

中国国内では、アヘン戦争までは清朝の繁栄が続いていたが1840年以降は太平天国の乱、アロー号事件と英国を始めとした欧米列強による植民地的権益の蚕食が進んでいた。しかし一方で、中国大陸のマジョリティを占める漢族は東トルキスタン、内モンゴル、満州への入植をすすめ、チベットに対してもその支配の食指を伸ばして、英国との対立を招いていた。朝鮮半島を巡っては、日清戦争を挟んで日本からの侵入と権益拡大圧力を受け、満州に関しては日本とソ連からの権益拡大圧力を受け続けていた。

東南アジアを見れば、スペイン統治下のフィリピン、オランダによるインドネシアへの勢力拡大、フランスによるベトナム領有、そしてイギリスによるビルマ併合、マレー支配、シャムの近代化への動きなどが同時進行し、そこに経済面からの華僑の動きが重なって、アメリカやオーストラリアでは華僑の移民問題となり現れていた。こうした華僑による国際ネットワークは、その後始まった辛亥革命と孫文たちの動きを経済的に支える結果となった。清朝末期から満州事変に先立つ年代は、東南アジアにおける民族自決の理念が登場した時代であり、この時代の中国は、欧米列強や日本、ロシア・ソ連などの勢力と、敵対的であり同時に依存するという複雑な関係を形成していたと言える。漢族中心のこの時代の中国勢力は、東南アジア諸国に華僑ネットワークを築いて、経済的支配を進める一方で、大陸内では満洲族やモンゴル族、ウイグル族などの民族自決を否定していたとも言える。

辛亥革命以後の中国国内は混迷を極めた。1911年にアメリカから帰国して南京で建国を宣言、臨時大総統に就任した孫文だったが、袁世凱に協力を求め、逆に覇権を握られてしまう。これに反発する各地方軍閥は、各地で独立宣言を行い、第二、第三革命が起きる。1916年には袁世凱が死亡、張作霖、段祺瑞などの軍閥同士の対立が深まる。そのころ、東トルキスタンやモンゴル、チベットでも独立運動が起こり中華民国との対立関係が続く。辛亥革命により日本では中国大陸における欧米列強の権益拡大を警戒。直前に併合していた朝鮮半島への陸軍増派などを画策するが、そうした動きに中華民国は反発、日本政府は袁世凱政権に対し21か条の要求を突きつけ、関東州や南満州鉄道の権益、警察官設置、土地所有権などを求めた。これにより中華民国国内では反日感情が急激に高まった。

1917年に起きたロシア革命でシベリア出兵を行った日本は、アメリカによる満州権益への圧力を警戒していた。できたばかりのソ連国内は混乱を極めてはいたが、ソ連では欧州と同時に中国における人民革命への期待が膨らんでいた。
こうした中、民族自決の動きが高まっていた外モンゴルではモンゴル人民政権が赤軍の支援を受けて樹立された。こうした時期に行われたのが第一次大戦後のパリ講和会議であり、国際連盟創設、ドイツ敗戦後の領土問題、欧州新国家創設が議論され、ポーランドやチェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが創設された。

一方、日本と満州との関わりは日清戦争で遼東半島が戦場になったことに始まる。遼東半島は日本に割譲することが下関条約で決まるが、三国干渉で撤回、その後、ロシアの租借地となり、ハルビン、旅順、大連にいたる鉄道がロシアにより建設。義和団の乱でロシア軍が満州を制圧する。朝鮮に対するロシアによる干渉を警戒した日本は、日露戦争により事態転換を図った。結果としてロシアの満州権益を引き継ぐことになった日本は、日英同盟を更新することで、満州権益を固めようとした。これに敵対したのがその後建国した中華民国である。

国内では明治維新以降の国力増強は、日清・日露戦争を経て、実力以上の海外からの評価を受け第一次大戦後創設された国際連盟では常任理事国の一国となるまでに至った。国際情勢としては、二度と大きな戦争はしない、というパリ不戦条約が締結され、軍縮ムードが高まる。拡張主義を軍部に内包することを見透かされていた日本は英米にワシントン、ロンドン軍縮会議では軍艦船建造の制限を約束させられた。しかしこの圧力が逆に作用し日本における強硬論に勢いを与えてしまう結果と成る。

1920年代には、国共合作後の中華民国に対しソ連は軍事的な支援を与え取り込みを図るが、イギリスは蒋介石政権を支持することで、国民党による革命外交を封じ込めようとした。この頃北京政府の実権を握ったのが張作霖だったが、経済的には破綻に向かっていた。こうした満州経済に支援をしようとした幣原喜重郎内閣だったが、その後の田中義一内閣では、日本政府に対する国民政府や奉天政権の攻撃的外交に対応して、張作霖の支配状況を利用し、また張作霖政権を支配下に置くための武力行使を必要と考えていた。

こうした状況の中、日本陸軍内の中堅将校の対中華民国強硬派は、欧米勢力への対抗と軍縮条約への反発、資源獲得のための領土拡大への意欲を膨らませていた。こうした危うい均衡を裏側で支持していたのはイギリス政府だったが、張作霖爆殺事件など満州における一連の挑発的動きや、日本への反感による日本人殺傷事件は、国際的な日本の立ち位置と動きを制約していった。関東軍による既成事実の積み重ねを、政府に追認させ日本政府にも満州国樹立を求める外交方針を取らせたのは関東軍であり、それを追認した陸軍本部の動きだった。日本の立場も考慮しようとしたリットン調査団報告に対し、強硬な立場を取ったのは英国とアメリカで、国内外から追い詰められた日本政府は国際連盟から脱退する道を選ばざるを得なかった。
本書内容は以上

1932年、満州国は設立されたが、国際的にはパリ不戦条約で約された武力による他国領土への不侵略を破る形であり、国際公約違反として捉えられる。一方で、戦争では戦勝国の一つとなった中華民国だったが、東トルキスタン、チベット、内モンゴルへの支配強化は、民族自立の動きへの抵抗であり、その動きは現在でも続いている。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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