乱と変以外にも、前九年の役、長篠の戦い、宝治合戦、大阪夏の陣、霜月騒動などが使い分けられているが、明治時代の学者・先人がそういった、従来からそう言われている、という理由によるらしい。
秀吉による朝鮮出兵の文禄・慶長の役や蒙古襲来による文永・弘安の役は海を超えての戦争であり、大がかりな戦争を意味している。各藩におけるお世継ぎを巡る騒ぎなどで使われそうなのが「騒動」。「霜月騒動」は、鎌倉幕府の御家人安達泰盛が滅ぼされた事件なので、本来は「乱」と言ってもおかしくはない。観応の擾乱に至っては、これ以外に擾乱と呼ばれる事件はないのだから、「観応の乱」でも良いのではないか。「関ヶ原の戦い」は実際には家康が上杉景勝を成敗するために出陣するところから始まり、毛利輝元を大阪城から追い出すまでを指し示す、家康天下取りの戦い全体を示したほうが良さそうな大がかりなものだから「慶長の大乱」と呼んでも良さそう。豊臣家滅亡の冬の陣、夏の陣は「大阪城の戦い」のほうが状況に合致する。戦争>役>乱>変>戦い ほどの定義があってもおかしくはない。
本書では、武士の時代が始まることを示した「平将門の乱」、武家の力を利用しなければ政権維持が難しくなってきた時代の「保元の乱・平治の乱」、平家と源氏が戦い、武士の勢力が権力を東国に樹立した「治承・寿永の乱」、朝廷が権力の頂点に立っていた権門体制が崩壊して、地方国司任命権を鎌倉政権が獲得した「承久の乱」、北条政権を倒し、さらに建武政権までも倒した「足利尊氏の乱」、室町時代の始まりの時代、日本を東西に分けて戦った「観応の擾乱」、義満の時代に力を増してきた山名氏に対抗して細川・赤松連合軍が戦った「明徳の乱」、戦国大名として生き残りに成功した勝ち組と負け組を産んだ「応仁の乱」、光秀がやらなくてもきっと誰かが裏切った「本能寺の変」、一向宗一揆と藩の取り潰しであぶれた侍たちによる最後の戦い「島原の乱」を取り上げる。