小説の最後の一文と冒頭部分を取り出し紹介する一冊。 以前読んだ、齋藤孝の「声に出して読みたい日本語」では、同じような趣向だったが、大体は冒頭部分だった。
「どっどど どどうど どどうど どどう」 という風の又三郎、とか、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり」 という平家物語は多くの読書好きが知っている。枕草子の「春はあけぼの、やうやうしろうなりゆくやまぎわ」 なんて言いうフレーズは、中高校時代に暗記したものだ。本書は、その逆、最後の一文と併せて冒頭部分を紹介して、小説の紹介に代えるという趣向。
「下人の行方は誰も知らない」芥川龍之介の羅生門、これは有名かもしれない。 「その中には笑い声もあったが、十五番目の木札からは何の声も聞こえては来なかった」井上ひさしの四十一番の少年。キリスト教の孤児院で十六番という番号をもらった主人公が十五番の少年に虐められる。ところがその十五番の少年が罪を犯して死刑になってしまうというお話。主人公はその罪の共犯者ではなかったが、犯行を目にしながら誰にも言わなかったので、自分にも罪があるように思っていたのを、ときとともに忘れていたのを思い出すというストーリー。
井伏鱒二の「山椒魚」は教科書にも掲載されて読んだ人も多いと思う。山椒魚が住む岩屋に蛙が入り込んで、二匹とも体が大きくなって出られず二年間も一緒に暮らす羽目になるという話。冒頭部分は「山椒魚は悲しんだ」、最後は「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」。山椒魚は意地悪して幽閉してきた蛙が空腹になり苦しむのを見て、多少の憐憫と罪の意識を感じていた。寓話的なストーリーで、のちの安部公房や村上春樹にも受け継がれていそうな内容。
岡本かの子の「家霊」では最後に「毎晩必死とどじょう汁をせがみに来る」という男と、亡くなった店の女将との関係を娘が知っていくというお話。小川洋子の「愛されすぎた白鳥」では「番人はまた、独りぼっちになった」。池の孤独な番人が、美しい白鳥の気を引きたくて餌をやるのだが、餌の代わりに飴を与えて、白鳥がそれをまた餌ではないと知りながら受け取り死んでしまうという、悲しいお話。白鳥も優しい心をもっていたのか、寂しそうな番人に同情したのか分からないまま物語は終わる。白鳥が少女に変身して、ハッピーエンド、であれば美しいおとぎ話になるのだが。
こういう小説紹介もあるのかと、商魂たくましいアイデアに感心。