意思による楽観のための読書日記

家郷の訓 宮本常一 ****

宮本常一が彼の故郷、山口県の瀬戸内海にある大島での少年時代を振り返り、その暮らし、子供のしつけ、母親と父親、子供の遊び、若者組と娘組などについて語る。何が正しくて何が間違っているのか、宮本常一の価値観の土台なのであろう。宮本は1907年生まれ、1982年に没している。本書は1942年発刊、筆者30歳代半ばの著作である。

「家郷の訓(おしえ)」、つまり宮本常一の故郷、大島での暮らしから両親、村人、自然から学んだことである。近所の年寄りたちは多くの物語を教えてくれた。小栗判官、宮本武蔵、岩見重太郎などの物語はこうして年寄りから聞き知った。徳川家康は源氏の子孫ではなく、浪人だったのが源氏の株を買ったのだと、しかし易者には天下取りの相があると言われた。長宗我部元親は易者に一国の大名にはなれるが天下は取れないと言われた。本人は取るつもりだったがやはり取れなかった。毛利輝元が昼飯に味噌汁を何回にも分けてかけて食べるのを元就は見て、大将の器ではないといった。12カ国を勢力下に置いていたのが10カ国を天下取りに取られて防長2カ国の大名となってしまった。一度やりかけたことを中途で変更するものではないという例えであった。多くの教訓的な物語、一度調査して整理してみたいと宮本は言っている。

夫婦になっても夫は出稼ぎに出てしまった。そこで妻は留守を守る生活を25年ほど続ける。50になると夫は戻ってくる。その頃には息子がまた嫁をもらい息子が出稼ぎ、舅姑達は孫の世話をする。若い妻は親類の一切の義理を果たす努めを負う。舅姑は60歳までは同居、台所を引き渡すという意味の「杓子を渡す」のはその後である。若い嫁はこの同居の10年ほどの間に仕来たりや家風を学ぶ。正月には出稼ぎ男たちも戻ってくる。12月末から1月いっぱいまでは男たちが家にいることになる。この期間に親類付き合いや法事、結婚などのイベントが行われる。頼母子は郵便局ができるまでは貯蓄の手段であった。瓦葺き屋根への葺き替え、嫁もらい、田畑購入なども頼母子で行われた。お互いの親睦機関であり、団結の確認のようなものであった。後に金融機関が整備され、頼母子が悪いことのように言われたがそうではなかった。夫が帰郷しているこの期間は夫婦の絆だけではなく地域の絆も強まった。

村の住居は殆どが四間取りであり、家の大小は間の畳数で決まった。屋根は藁葺きだったが、明治30年代に一斉に瓦葺きに変わった。歩調が揃うのは財産に差がなく、田畑も一町五反ほどで平均していたからであり、貧富の差は少なかったが、上下の隔たりはあった。家の主婦を呼ぶときに上から、余程の大家であればオウラカタ、奉行の主婦がこう呼ばれていた。普通の地侍や神主医者の妻はオカタサマかオッカサマ、庄屋畔頭くらいだとオゴウサマ、一般はオカカと階級がはっきりしていた。男のほうは、庄屋以上がダンサマ、一般はトオサアである。日常の付き合いや婚姻などは同じ階級同士で行われることが多かった。

子どもの遊びには数々の種類があった。小さい頃は男女とも「ままごと」であるが、7歳ころになれば男女にわかれた。男の子では「殖やし鬼」、鬼が増殖していく鬼ごっこである。この際、小さい子達ははじめには捕らえないなどの暗黙のルールがあった。「軍艦水雷」は軍艦は駆逐艦より強く、駆逐艦は水雷より強いが、水雷は軍艦より強いというモノ。各人が何になるかを事前に決めておいて二組に別れて戦う。「隣のおばさん」は鬼ごっこの変形、「天神様の細道」は組織化された陣取りゲーム、さらに組織化された遊びに「どんぐり合戦」があった。松ぼっくりの投げ合いであった。「草履隠し」は鬼遊びとかくれんぼの組み合わされたもの。こうした遊びは今はどうなったのであろうか。『草履隠し九年母(ぼ)、橋の下の菖蒲、刈っても刈れん、味噌ちょっくりちょっくり舐めても、未だ刈れん』、ん、のところにきたものを鬼にするという草履隠しの歌などは自分にも記憶にある。

若者組と娘仲間の団の統制は山口大島ではしっかりとしていた。15歳になると正月4日に若者組に入る。結婚するか30歳で引退するまで若者組メンバーとして活動するのだ。正月やお盆には若い仲間と出稼ぎ者が帰郷するので道路の修繕がある。これは若者組の共同作業であり、娘組は炊き出しなどで助けるので、若者組のメンバーにも楽しみなイベントであった。宮籠りは若者組と娘組による稲の豊作を祈る儀式であり、男女共同の飲食を伴うので皆楽しみにしていた。盆踊りも男女の出会いと交際の場であり、しかし男女間の風儀の問題は厳重であったという。したがって夜這いなどは少なく、父なし子を生むような娘は少なかった。若者組には上下の隔たりはなかったが、頭は札入れで決めた。

村には独特の言葉の言い回しもあった。痛むという言葉では、腹が強く痛むのがセク、しくしく痛むのがニガル、下痢腹はニガルである。歯のズキズキする痛みはウズク、頭がのぼせるように痛いのがハシルであった。疲れることを表すのに、ダラシイが空腹で疲れた、コワイが精力を使い切った疲れ、まだ精力を残した場合にはクタブレル、疲労の結果病になることをツカレガソウと言った。公の場では標準語を使いながら、村人同士ではこうした方言を使うことで感情の表現が細やかにできた。凶事や不幸は標準語では露骨な表現になりがちなのを間接的に表現できるのがこうした方言であった。

宮本は父に旅行について次のように教わったという。1.汽車の窓から外をよく見て乗降客や駅の荷置き場を観察することで経済状況が学べる。2. 高いところに行って全体を俯瞰する。 3. 財布が許せば名物料理を食べる。 4. その地を徒歩で歩いて回る。 5. 人が見ないようなものでも自分に関心があれば見ておく。 こうした教えを宮本は守って民俗学に役立てたのであろう。民俗学、子ども学、若者学、教育学の基本のようなものを大島の地で子供時代から学んでいたのだと思う。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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