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意思による楽観のための読書日記

江戸の暗号 土方勝一郎 ***

家康が江戸の町を作り上げるにあたっては、平安京と仏教、風水の考え方を取り入れたという。ブレインは金地院崇伝と天海僧正だった。

平安京を建設する際に、桓武天皇が最も恐れたのは祟りだった。大きな流れとしては奈良の都で強大になりすぎたという仏教の力から離れることが重要だったが、その際、長岡京、そして平安京へと二度の遷都をおこなっている。朝廷における後継者争いが激しく、有力豪族間の勢力争いにも仏教勢力が口を挟んだ。当時猖獗を極めた天然痘による疫病蔓延も大きな懸念材料だった。これらの厄払いにより人心の一新も遷都の目的である。その際、頼りにした考え方が怨霊や魔物による災いから宗教的霊力で守ってくれる風水、四神相応の地を選ぶこと。東南西北に青龍たる鴨川、朱雀の巨椋池、白虎たる山陰道、玄武には船岡山を配置する京の町は理想的だった。

しかしこの四神に土地の形状を対応させる考え方が日本で出来上がったのは平安中期、平安遷都時には高松塚古墳壁画にあるような方角と四神が対応した墳墓における考え方しかなかった。後付でこの考え方を都に当てはめたのは陰陽道を整理体系化した安倍晴明で921年のこと。平安京遷都時に四神相応の地だから選ばれたとする証拠文献は見つかっていないという。しかし、安倍晴明以降都市計画と四神相応が強く意識されるようになったことは確かである。

日本への仏教導入が552年と言われるが、それと同時に陰陽五行説も自然や人間の営みを説明するために信じられるようになる。朝廷では陰陽寮675年には設置されたことが日本書紀に記され、718年の養老律令では陰陽寮に4部門があったと記述がある。陰陽部門では方位を占う式占、筮竹による易占、風水により地相を占う相地を取り扱う。暦部門では暦を制作し日食月食を観測する。天文部門では気象と天文により天の意思を推し量る。漏刻部門では水時計により漏刻を管理する。方角を重要視する都の設計では、風水の鬼門である北東、人門とされ日本では裏鬼門ともいわれる南西、天門である北西、風門の南東、それぞれの方角に何を設定するかを設計者は考えた。江戸の町もこの方角に重要な寺社が設置された。

家康が相談した相手は、金地院崇伝と天海僧正。関ヶ原の戦い以降ではあるがその直後で1608年ころまでに二人に出会ったという。金地院崇伝は南禅寺住職で家康ブレーンとして方広寺鐘銘事件に関わり、天海は家康に探題として延暦寺に送り込まれ、大僧正となる。家康の死後の呼び名では、金地院崇伝は大明神、天海は大権現とお呼びすることを主張した。結局、秀吉が豊国大明神として祀られて滅んだことを嫌い、天海がこの論争に勝利した。天海の大権現プランには、家康を日光への東照大権現としてお祀りする世界観が含まれたことも魅力的だった。これが江戸の町の設計とも関わってくる。

江戸の霊的防御の最大施設が日光東照宮で江戸城の真北のポジションにある。これは北辰妙見信仰であり、最高神を北極星、薬師如来、家康とする。家康たる大権現は、山王権現と摩多羅神を左右に従えて江戸を守る。東叡山寛永寺は京の鬼門封じ方向にあった叡山延暦寺を模した。神田明神は大怨霊将門のパワーを活用。江戸城の表鬼門には大手濠に鬼門角欠け、神田明神、上野寛永寺、浅草寺が配置されている。裏鬼門には山王社、増上寺、目黒不動が配置された。北西の天門の道には北の丸、築土神社、護国寺が配置されている。護国寺は綱吉の生母、桂昌院の願いで創建された。家光は男色で世継ぎがどうしても欲しいと考えた春日局が、美貌のお玉を側室にあてがい、家光の目に留まる。その護国寺への参道は天門の道を意識した一直線の設計を取り入れた。このうち、江戸城築城以前よりあったのは浅草寺と目黒不動で、それ以外はこの方角にするため場所を移動した。神田明神と築土神社は将門の首塚に由来、古くからあるパワーも巧みに取り込んだ。

さらに、江戸の町と外との境界である朱引きと表鬼門、裏鬼門の交点には極楽と地獄、つまり遊郭である新吉原と品川の岡場所を配置、小塚原刑場と鈴ヶ森刑場も設置した。江戸城の周りを渦巻状に取り囲むお濠は、霊峰富士からのエネルギーを龍脈として江戸に導く仕掛けと考えて整備した。背景には当時の富士信仰があった。江戸の町以外にも、関東には多くの「富士塚」がある。多くの富士講もあって、富士に行けない人が、富士塚に登った。江戸の町が富士に守られている、という考え方は、江戸の町に根付いていた。お濠の大方の工事が完成する1636年まで50年の年月を要している。江戸の町にも「四神相応」が考慮されているという説もあるが、江戸選定は秀吉による命令であり、天海、金地院崇伝が四神相応を考慮したという証拠もみつかっていないという。天海は天台宗の大僧正であり、江戸の霊的防御は天台宗が大きな役割を果たしたと言える。天海は1643年、108歳まで生きたという。本書内容は以上。

鬼門角欠けは京都の町や御所でも見ることができるが、江戸城にもあったとは初見であった。京都の鬼門封じに角欠けや延暦寺があることは聞いたことがあるが、「岩倉の結界」も私にとっては初見。山住神社、大日山、男山、金蔵寺による結界だという。鬼門の霊的防御に幸神社、赤山禅院、もあったとは。護国寺参道が直線になっているのは、天門の道だと、なるほどである。「町の暗号」は地図をぼんやりと見ているだけでは解き明かせない。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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