最初の捕虜は開戦直後の1942年2月ウェイク島沖海戦で捕獲された第五富久丸の乗組員、その4ヶ月後のミッドウェイ海戦の捕虜が9名、アトカ島で捕獲された潜水艦呂号第61の5名と続く。トレイシーの場所はバイロン・ホットスプリングスで、トレイシーという町の北西20Kmに位置した。トレイシーは盗聴防止装置付きのテレックスでワシントンの陸軍省や海軍省、中央諜報部と直接つながっていた。厳重な秘密管理が行われたのである。
トレイシーには最初日本語能力を持つ白人が採用された。太平洋戦争開始後日本語能力の教育が海軍日本語学校で行われ、12ヶ月で日本の新聞が読めて、文書と口頭の日本語が自由に使えることを目標とした。85名が卒業、トレイシーに配属された。日本語の難しさは同音異義語の多さであり、カンシ、という単語には監視、看視、漢詩、冠詞といくつもの同音異義語があることである。さらに固有名詞の三菱、隼、武蔵、陸奥などの艦船名や飛行機名称があった。搭乗員、操縦室、自滅や敗走、陥落、人員点呼、侵略などの軍隊用語も難しい日本語であった。
トレイシーに送られてきた日本人捕虜は「戦陣訓」に苦しめられた。ここで尋問に応えて米軍に協力することは帰国ができないことにつながるのではないか、つまり米国に留まることを決意しなくてはいけないのか、と悩んだという。そして捕虜になったことを日本の家族に知らせたくない、日本軍に知られたくないと考え、それを最大の恥辱と考えた。こうした日本兵の心理をトレイシーではよく理解し、辛抱強く尋問に当たった。日本兵が暴言を吐いても礼儀正しく親切に捕虜を扱うことで協力を引き出せることを学んでいたからである。
飛龍の捕虜の最高位にあった海軍中佐は次のように供述した。「日米で戦争捕虜に対する考え方が大きく異なる。日本兵には捕虜となったことを恥と感じないものもいるが、恥辱感から自決するものもいる。日本兵は、自分がどう考えるのかは自白することはないだろう。」苦悩の果てに精神的障害に陥る捕虜もいた。
捕虜から得た情報で米国軍は爆撃目標を正確に知ることができるようになった。三菱名古屋の軍用機生産工場の配置図情報などでは三菱重工の工場に対して壊滅的な被害を与えたのは尋問により得られた情報だった。日本軍の戦術から日本列島の詳細、工場配置図までがトレイシーにより明らかにされたと言われている。トレイシーが扱った最高位の捕虜の一人が中国漢口駐在だった海軍武官の沖野亦男大佐だった。沖野は戦闘で片足を失っていたが、戦争の行方を冷静に分析し、日本軍の敗戦を予見していた。そのため、米国による尋問にも協力、日本軍の組織体制や軍隊用語、日本精神の背景と心理、天皇と軍隊、日本の政治などさまざまな情報を提供した第一級の捕虜であった。また日本海軍の戦力についても非常に正確な情報を提供した。沖野は1946年日本に帰還した。戦後は身体障害者のスポーツ発展に生涯を捧げ、東京オリンピックの年にはパラリンピック東京大会の開催に中心的役割を果たし、1978年に亡くなった。
硫黄島の捕虜で暗号送受信を担当していた坂井が提供した暗号情報は“Top-Secret-Ultra”と分類されるほど有用な情報であった。無線送受機器の図面からキー配列、暗号書、乱数表、計算表までの情報が提供されたからである。坂井は偽名であることを悟られることなく、しかし正確な情報を米軍に提供したのである。坂井には矛盾した望みがあった。それは日本に残してきた妻に自分の形見を渡したいということ。しかし米軍には偽名である“坂井タイゾウ”としか伝えていないのである。トレイシーで坂井の尋問担当官であったロパルド中尉は、坂井との尋問を通して深い友情を持つに至った。そして坂井の意思を自分の息子に託した。そして戦後坂井(本名は坂本泰三)は日本に帰還したが、硫黄島で捕虜になったこと以降の話は家族にも話さず1983年に死亡した。坂井の意思として父から遺言を託されたロパルド中尉の息子は2008年になってようやく横浜にいた坂本泰三の遺族に形見の品を届けたのだという。
トレイシーの尋問官長を務めたウイリアム・ウッダード少佐は戦後GHQの要員として日本に来た。そして日本の状況を知る情報通として靖国神社の継続の判断に携わった。神社参拝などを通して学校教育で天皇崇拝が教えられ、軍国主義浸透が図られたのではないか、靖国神社はその象徴であり取り壊すべきではないかという判断である。戦没者の慰霊鎮魂を目的とする宗教施設なのか、軍国主義的施設なのか。ウッダートは次のように結論した。「本来は全面的廃止が望ましいが占領期の早い段階でその結論を出せなかったことは失敗であった。1947年1月の今にいたっては、宗教の自由の原則から靖国神社、護国神社は排することによる混乱が大きく、廃して得るものは少ない。東京招魂社との名称にして存続させるべき。」1951年のサンフランシスコ講和条約の結果、靖国神社には国有地の使用が認められ「靖国神社」の名前も残ることになったのである。現在のこじれた靖国問題もこの時点であれば解決策もあったはずである。
米国側から見た日本情報獲得の努力は、日本側のそれとは比較にならないほどの質と量があった。太平洋戦争が日本の敗戦に終わった理由は数多くあるが、情報量と質の差は大きな要因であった。そしてウッダードのような戦後の日本通の多くはこうした日本語諜報戦略の一翼を担った人間から輩出された。ドナルド・キーンもこうした一人であった。
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