意思による楽観のための読書日記

天皇はなぜ生き残ったか 本郷和人 ***

室町から江戸の時代には武士が力を持ち朝廷や天皇の権力はなくなったが、社会の中での権威を求める要請は絶えなかった。鎌倉の源氏・北条時代から南北朝、そして足利時代には、天皇の存在はまさに消えかかる寸前まで行きかけた瞬間もあったが、それでも時の権力者は力だけでは統治ができないと考え権威を求めた。

筆者は幾つかの強烈な主張をしている。中世の権門体制と言われる武家、公家、寺社の3つの権門は、実際には武家の鎌倉勢力が天皇の権威に伺いを立てる、という2大権力態勢であり、寺社の勢力は武家と朝廷に抑えこまれていたとする。また、後醍醐天皇を異形の王権とする主張には疑問を持ち、当時の鎌倉政権が既に内部崩壊をしていて、転がり込んだ政権が建武の中興であり、その政権も3年しか持たなかった。中曽根、小泉政権よりも短かったではないか、などというものである。

国の盛衰は人口の増減で見ることができる。卑弥呼時代には180万、800年には600-650万、1600年に1000万、1700年に2500万と急増し、戦乱や飢饉から江戸時代になって初めて逃れられたことを示す。人口増は権力支配機構の強化とも軌を一にする。武士が権力を握った後にも朝廷の知恵を学びながら聡明にかつ巧妙に統治するようになったと主張する。

中世貴族の出世コースには武官と文官の2コースあった。武官は左右近衛少将から左右近衛中将を経て蔵人頭に、文官は蔵人から弁官を経て蔵人頭にというものである。蔵人頭は殿上人であるが公卿ではない。その上の参議からが公卿であり中納言、大納言、左右内大臣、太政大臣と出世する。近衛中将から選抜された人間が蔵人頭を務めるので頭の中将と呼ばれる。大臣は公という尊称が付けられ、大中納言、参議は卿、これをあわせて公卿と呼ばれる。律令制度で定められた官位であるが実情は形骸化が進み、必要で権力を持つ令外官が多数生まれた。摂政、関白、内大臣、中納言、参議、蔵人は令外官である。

日本では科挙の制度は導入されなかった。理由は大宝律令の時点では知識人層が形成されていなかったのでしたくても出来なかったから。そして日本人が世襲に親和性をもつからと。天皇や貴族はじめ世襲に寛容であるとし、国会議員の世襲批判も弱いのではないかと指摘。キャリア官僚へのバッシングは激しいのに。朝廷は争いを好まず、皇位は簒奪されず、革命も起きない、宗教戦争もなく外来文化との衝突もしない、この「ぬるさ」が日本の特徴であると指摘する。

摂関政治時代に藤原氏系統が貴族系として成立、近衛、松殿、九条の三家も成立したが松殿家は木曾義仲と共に没落、近衛家は兼平が鷹司家を立てた。九条家はその後、二条、一条を立てて五摂家が成立したのが鎌倉末期。清華家は大臣になれる家系で花山、大炊御門があり、土御門、久我、堀川、三条、西園寺、徳大寺があった。江戸時代には9清華家となり、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川に広幡、醍醐が加わった。吉田、葉室、二条、坊城、中御門、勧修寺が実務官コースの代表である。

貴人が部下に書状を出させる場合、これを奉書と呼び、三位以上の公卿が出す書状が御教書、天皇が出せば綸旨、上皇であれば院宣、親王や女院であれば令旨となる。治天の君が天皇であれば綸旨が出されるが院政では院宣がでる。鎌倉時代になると、宣旨は使われなくなり綸旨と院宣が頻用された。この時の奏者が伝奏、蔵人であり、公卿を経由して治天の君に伝わったのが、院宣や綸旨は直接のやり取りになった。つまり伝奏や蔵人が力を持つようになるのである。

武士たちは権門体制では最初は権力の番犬であったが、その後国司、検非違使などの官職を得て、保元・平治の乱を経て政治的発言力を獲得していった。平清盛は上皇の優越性を武力で無効化、鎌倉政権へとつながっていった。ここに権門体制は崩壊したのだが、朝廷勢力は温存された。筆者は朝廷の権威だけがそれを支えたとする説を排する。形ではなく実情から温存されたというのである。守護・地頭は天皇が認定して設置されたのではなく地頭の勢力を追認したのだと。鎌倉幕府が成立したのは征夷大将軍に任ぜられた時ではなく、頼朝が関東で実質的な新しい王となった1180年のことであった、という主張である。鎌倉時代は東の鎌倉政権と西の京の朝廷、2つの王権が併存する時代だったという認識である。

後醍醐天皇の力をどう評価するか、筆者は上皇と廷臣による雑訴の興行と上皇と幕府の交渉のどちらも行なっておらず、実情的な王としての努力をしていないとする。後醍醐の軍事行動に参加した多治見、土岐、楠木、赤松、名和は当時無名であり、後醍醐の声掛りで準備して兵を上げたわけではなく、当時衰退してきた鎌倉幕府の内部にこそ崩壊の種があり、霜月騒動がキッカケになって疲弊していた。そのタイミングを見計らったのが後醍醐であり、事態を一変させたのは足利高氏であった。後醍醐の力ではなく鎌倉幕府は自壊したのである。しかしその建武新政権はわずか3年と二ヶ月で瓦解、この時代、天皇の権威は「王が必要なら木か金で作れ」と高師直に言われるほど地に落ちた。それでも天皇は生き延びた。南北朝の時代、地方の守護が生き延びるには中央の威光が必要なほど勢力が弱くなっていたからだという。土地の安堵という守護への職の体系を幕府が準備できればこの時なら幕府が天皇に取って代われたかもしれないが、それが出来なかった。室町幕府も土地所有に関して天皇の方法を乗り越えられなかったのだ、という。

これ以降も文化においても政治においても新参の勢力は古きと対峙し古きに学び批判したが、京都は中央としていつも権力者の意識に存在し、新しい政治の創始者はかならず伝統文化の摂取が不可欠と考え、天皇と貴族はこの点で常に武士への優位性を維持してきたというのである。

京都という町が持つ伝統が天皇を生き延びさせたというのか。関東と京都というバランスが良かったのか、現代では天皇も東京に、権力も東京にあるが、権力の源たる権威はどこにあるのであろうか。それが海の向こうだとしたら大問題である。


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