意思による楽観のための読書日記

流れる 幸田文 ***

物語は昭和30年ころ、次のように始まる。「このうちには相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。」

この文章が日本語を学ぶ外国人にはどうにも分からない、という話を読んだことがある。まず主語がない。日本人なら、玄関ではなく勝手口を探しているのだから、お客ではなく他人の家を訪ねていったのだろう、と想像するが、勝手口という日常の意味を理解していなければ、誰がどこで何を探しているのかすら分からない文章である。主人公の梨花は女中の口を見つけて芸者衆のいる置屋に住み込みで働くことになる、というお話であるが、主人公は40才前後で子供が昔はいて、夫とは離別した女性、ということしか読者には示されない。あくまで読者が想像しながら読んでくれることを期待する文章である。

くろうととしろうと、という話が出てくる。芸妓衆は玄人筋、主人公はしろうと、というわけである。しろうとは会話が直接的で分からないことなどは何でも疑問を口に出してしまいそうになるが、くろうとの世界では会話の端々から読み取る、読み取ろうとするように会話をしている、という風に梨花は感じてしまう。お客の前では洒落た会話を交わす芸者衆も、お客が帰れば口汚く悪口を言う。芸者は基本は独り立ちするものであり、置屋は場所貸し、お茶だって置屋の主人のものは黙って飲んではいけない、などという決まりを梨花は働きながら学ぶ。置屋の近所には寿司屋や車屋、仕出し屋、八百屋などがあるようなのだが、一人分、という買い物が気楽にできることを梨花は感心する。ここでもくろうと世界のある意味での利便性を感じてしまうのだ。

置屋の主人が姪の米子の子供の不二子が熱を出した時に、不二子に抱きつかれた主人が倒れてしまう様に感心する。「主人は子どもに纏られながら、膝を割って崩れた。主人の膝の崩れからはふんだんに鴇色がはみ出た。崩れの美しい形がさすがにきまっていた。縮緬の袖口の重さが二の腕を剥き出しにして、腰から下肢が慎ましくくの字の二ツ重ねに折れ、足袋の先が小さく白く裾を引き担いでいる。腰に平均をもたせてなんとなくあがらいつつ、徐々に崩れていく女の体というものを梨花は初めて見る思いである。なんという誘われ方をするものだろう。徐々に倒れ、美しく崩れ、こころよく乱れていくことは。」主人は昔は芸妓の世界で一流と言われ、今でも清元などでは声がかかるほどの腕前の人物。今は、年越しにも苦労するほどの左前になってはいるが、昔の栄光はこうした様にも現れるのかと梨花は感心している。

近所に住む、こちらも昔は一世を風靡したという芸妓の手配をする「なんどり」と梨花が呼ぶ老女、その女性が朝、寝間から起き上がる様を見て、梨花はまたまた感心する。「横になったまま細い手を出して紅い友禅の掛け布団を一枚一枚はねておいて、片手を力にすっと半身を起こすと同時に膝が縮んできて、それなり横座りに起きかえる。蒲団からからだを引きぬくように、あとの蒲団に寝皺も残らないしっとりとした起き上がりかたをする。藤紫に白くしだれ桜と青く柳を置いた長襦袢に銀鼠の襟がかかって、ふところが少し崩れ、青竹に白の一本独鈷の伊達締めをゆるく巻いている。紅い色はどこにもないのに花やかである。」こちらでも老婆の起き方にくろうとの世界を垣間見るのだ。

多くのオノマトペが使われる。あとがきにも触れられている擬音、擬声、擬態語の多用。昔気質の小説家は嫌ったであろう。ざわざわ、きんきん、と調子を張ったいろんな声。薄気味悪くてぞわりとして。つまらない男にぴちゃぴちゃするから。これも日本語を学ぶ外国人が最も苦手にするジャンルである。

しろうとと自分のことを考える梨花、しかしくろうとの世界の所作を見ることで、自分の相対的なこの場所での価値を察知したに違いないのが梨花である。置屋の主人からは来た日からすぐに重宝がられる。しかし、物語の最後で、清元の稽古をする主人の出来が今日は一段と良かった、と言ったその途端、主人は「しろうとのあんたがなぜ分かる」と急転するのだ。「あんたの素性はなに」と主人に問い詰められて梨花は去り時を感じる。

この小説は外国人には分かりにくいのだろうと想像する。芸者と置屋、昭和30年代という時代設定、主人公梨花の正体、花柳界の隆盛が終わった時代、くろうとの女性としろうとの女性、多くは語られないストーリーの背景。読者の想像力に大いに依存する作品、映像化は田中絹代が主人公になった映画があったというが、それを見てみたい気がする。


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