筆者は中世史を専門とする本郷和人さん、話題は方々に広がるが、関ヶ原の戦い前後で、戦国大名だった地方の上杉氏、前田氏、そして細川氏がどのように天下取りに関わってきたのか、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康との関係はどうだったのか、各家内の内紛をどのように処理してきたのか、などを72のエピソードで語り尽くす、という本書。
関ヶ原の戦いで天下の趨勢が決した、というのは歴史を知っているから分かるのであって、当時の各勢力は、これからどうなるか、分かっていなかったのではないかというのが一つの疑問。東方の筆頭は家康、西方は石田三成、それとも毛利輝元、それとも豊臣秀頼。当時はまだまだ豊臣政権下であり、五大老の勢力争いが始まっていた。五大老の一人、上杉を打とうと東に移動した家康の不在を狙って、秀頼を奉じて五大老の一つ格下、五奉行の一人として秀吉の下で忠臣として仕えていた三成が立ち上がり、軍事采配は大老の一人輝元が取った。しかし、三成には人望がなかった。多くの豊臣政権での武将が反三成、家康有利と見て東軍についたが、それでも西軍優勢は変わらなかった、はずだった。それまでは秀頼が天下人と考えられていたのを、反逆者の立場であった家康が打倒した、という構図。
本書の細川家は、元は管領家の分家、藤孝、忠興、お玉が嫁いだ戦国時代末期の細川家で、将軍の近臣であった三淵晴員の子として生まれたのが藤孝、後の幽斎で、細川晴員の兄元常の養子となり細川を名乗る。兄の三淵藤英が将軍義昭に忠誠を尽くしたのに対し、幽斎は信長の実力を認めて義昭とは袂を分かつ。さらに信長臣下の最高実力者であった明智光秀と親交を深め、娘の玉(ガラシャ)を息子の忠興の妻とする。そこで起きたのが本能寺の変で、藤孝は冷静に状況を判断、光秀に利なし、と見るや光秀からの応援要請に応えず、出家して忠興に家督を譲り、秀吉への敵対心がないことを示そうとした。その後、秀吉も家康も文化人としての幽斎(藤孝)重用した。
前田利家に嫁いだまつ、尾張の篠原家に生まれるも、父の死後前田家に養育され従兄である利家に嫁いだ。生んだ子供は11人で、長女が幸姫で、前田長種に嫁ぎ、長男は利長、次女が前田家重臣の中川光重の妻、三女が秀吉の側室となり後に万里小路充房の妻となる。四女は秀吉の養女となり宇喜多秀家の妻に、五女は浅井幸長と婚約後夭折、次男が利政、六女が細川忠隆の妻になった。利家没後、前田家は家康に謀反を企てていると言いがかりをつけられ、まつは出家、芳春院となり家康への忠誠を示すため江戸に人質として向かう。家康は上杉家にも同様の謀略を仕掛けた結果、関ヶ原の戦いへと向かう。
関ヶ原の戦い後、家康の重臣本多正信の次男、政重は前田家に仕官、前田家はその頃、親家康か親豊臣かで揺れていた。前田利長は親家康のパイプ役を期待して本多政重を3万石という好条件でスカウトしたと考えられる。その頃、政重の前の仕官先であった宇喜多秀家が匿われていた島津家から江戸に引き渡され、八丈島送りとなる。それを見た本多政重は、上杉家に仕官先を変えた。上杉家の家老、直江兼続は政重を娘のお松の婿にしようとするも、お松が死去、急遽、兼続の弟である大国実頼の娘、お虎に嫁がせた。兼続はどうしても徳川家との繋がりを深めるためのパイプ役を期待した。
こんな話が72話、たっぷりと語られる本書。歴史好きにはたまらない戦国時代の裏話集。