本書の理解のためには、大和政権と出雲に勢力を持っていた一族との関係を理解する必要がある。大枠としては、日本列島にいた狩猟採集生活をしていた縄文人のところに、朝鮮半島、大陸、南西諸島経由で水稲耕作をベースにする弥生人たちが渡来し、征服や従属なしに混血を繰り返して、徐々に置き換わっていった歴史を、神話として記述したのが記紀。
弥生人のグループも何度も何度も繰り返し渡来したため、日本海側からは、新羅、北九州宗像神社、出雲のグループ、敦賀、能登、越経由のグループ、百済、北九州の倭人伝グループ、琉球から南九州のグループなどそれぞれが各地で勢力を張っていた。後に、瀬戸内、山陽、丹後、近江などから畿内、河内、大和に勢力を伸ばした一部が三輪政権の核となった。三輪政権も合従連衡を繰り返し、その後も河内、越、近江、丹後などのあいだで勢力争いが繰り返され、出雲、吉備、近江、尾張、越、毛野などを勢力下とする大和政権が成立する。
出雲大社や伊勢神宮はその時代に成立した神社、神宮であり、出雲勢力は大和政権にとっては緊張関係にあるライバルだったに違いない。古事記神話のなかでも、ヤマタノオロチ伝説や国譲り神話など、全体の3割は出雲が舞台であり、出雲のオオクニヌシ神の分身であるオオモノヌシ神を大神神社に祀った。出雲を平定した後にも出雲特有の祭祀を重視、出雲国造就任の火継ぎ式にもそのことが見られる。
伊勢神宮の創設は、記紀神話は別にして実質的には壬申の乱の後、アマテラス信仰で勝利した大海人皇子が、大王を天皇と呼び替え、愛息草壁皇子の死後は女帝となった持統天皇が、自らをモデルとしてアマテラス信仰を基軸に、孫の軽皇子への王位継承をスムーズに図るため、伊勢神宮を設置、斎宮制度も整備したと考えられる。
一方の出雲大社は「国譲り神話」の代償であり、日本書紀斉明天皇5年に出雲国造に命じて作らせたとする説が有力。そのためには、出雲オリジナルの国津神に鎮まってもらう場所として設けられたと解釈できる。つまり、出雲国造家は天穂日命を先祖とするが、命じられるのは出雲の郡司であり、出雲大社の神事を司る役割。政治はヤマト政権に任命された出雲国司が行うという関係となる。
天皇がおわす場所が神宮であり、諸々の神々が祀られた場所が社。古代に創建された神社でも、その関係は政治的バランスで成り立っていた。本書内容は以上。