本書がカバーするのは、先史時代、縄文・弥生から古墳、飛鳥、奈良、平安時代までで、60の項目について解説する。
歴史書を読んでいて、時間軸で語りながらも、その事象が起きた場所の関係性も想像すること、それは地図情報を思い浮かべることである。しかし、例えば日本が古墳時代、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済、伽倻そしてその時代の北魏、宋、そして契丹と柔然の地理的関係を即座に思い浮かべられるだろうか。それ以前には日本は邪馬台国が存在していた時代であり、朝鮮半島は馬韓、辰韓、弁韓となり、北には濊と高句麗があり、帯方郡、楽浪郡を擁していた魏、南には呉、北には鮮卑があった。文字で書くとこのように数行を要するが、地図なら一目瞭然。魏が南の呉、蜀と三国で争う時代、魏は国際的な自国のポジションを示したかった。西には今のインドがある場所に大月氏のクジャーナ朝があり、西には朝鮮半島の先、当南方の海の彼方に倭国がある、それらの国々とも朝貢関係を持っている、ということは歴史書に示したかった。そのためには、倭国は大きく遠い人口も多い国であって欲しい、というのが魏志倭人伝を記した人の願いだっただろう。倭国が記述通りの場所にあったとすると、九州のはるか南の海中に位置してしまうのはそのせいかもしれない。
推古朝の時代に、聖徳太子が斑鳩に宮殿を建てたという。奈良に土地勘がある人ならわかるが、推古朝の宮があった飛鳥と斑鳩は車で移動するなら一時間弱、それでも古代なら相当離れた場所に建てたものだ。推古天皇は蘇我馬子が擁立した敏達天皇系列であり、用明天皇系列だった聖徳太子は距離を置きたかったという説もあるらしいが、同時代に共同で政権運営をしたという二人にしては距離がありすぎる気もする。そこで地図を見ると、飛鳥寺から北にあった山田寺や磐余と斑鳩は大和川で繋がり、大和川は河口で難波宮がある難波津に流れ出ている。大和川は北を生駒山、南を葛城山に挟まれた谷あいを流れて、奈良盆地と大阪湾南部をつなぐ唯一の河川だということがわかる。難波津には四天王寺が作られ、斑鳩には法隆寺、そして斑鳩宮と飛鳥を繋いだのが大和川と太子道だった。