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意思による楽観のための読書日記

幕末雄藩列伝 伊東潤 ***

江戸時代末期、特にペリー来航あたりから、幕府内部だけではなく300あったと言われる各藩でも「開国」と「攘夷」で論が二分された。これは「佐幕」か「倒幕」の戦いでもあったが、倒幕は当初は討幕であり勤王と言われてさまざまな動きがあった。水戸藩は親藩の一つでもあるはずなのに、「尊王攘夷」思想を藩主である水戸斉昭自身が掲げ、思想の理論的支柱として藤田東湖、会沢正志斎を輩出した。水戸藩からは、勅許を得ずに開国したことに反発、井伊直弼殺害の桜田門外の変に脱藩浪士が参加、攘夷運動としての天狗党を武田耕雲斎と東湖の息子、藤田小四郎を生み出した。将軍徳川慶喜も水戸藩出身であり、藩論が二分、三分されていたと言える。その慶喜は父の斉昭の言葉「朝廷には誠を尽くせ」との言葉に、大政奉還、戊辰戦争から江戸無血開城と、最後まで縛られることになる。水戸では現在に至っても佐幕派と勤王派のわだかまりが残り、交友関係や婚姻にも影響を及ぼしているという。

一方、会津藩の藩祖保科正之の遺言である「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え他藩を見て己の身の振り方を判断するな」に藩主松平容保は最後まで拘った。京都守護職就任を松平春嶽と慶喜に要請されたとき、容保は火中の栗を拾うことに躊躇があったと言われるが、正之の遺言が背中を押した。8月18日の政変では幕府側についていた会津、薩摩、庄内、桑名などの軍事力を背景に京都から攘夷の長州勢と公家たちを追放することになる。このことが孝明天皇から容保への信任を深める結果となり、いよいよ容保は幕府とは抜き差しならない一心同体的関係となっていく。長州勢からすれば憎き相手は会津となり、戊辰戦争での会津鶴ヶ城での徹底的殲滅戦とその後の斗南藩としての下北転封につながる。

歴史の転換点において、藩の運命を決めることになる藩主としては、どちらが正義なのか、だけではなく、「どちらにつくのが有利になるか」という判断も重要。それがその後の藩の運命に大きな違いをもたらすことは、関ヶ原の戦いとその後の260年にも渡る江戸時代の藩の位置づけでも見られたこと。大藩でも小藩でもその見極めは難しかった。安政の大獄で実権を振るった大老井伊直弼を輩出したのが彦根藩、譜代として長く幕府重鎮を務めたはずだったが、直弼亡き後、その死を秘匿したことを咎められ10万石を減封され京都守護職も解任された。藩の実権を握った岡本半介は、藩内の佐幕派を隠居謹慎させて旧一橋派にすり寄ろうとする。その後、第二次長州征討に幕府側として加わるが、芸州口戦で奇兵隊に惨敗。慶喜が大政奉還し辞官納地を申し渡されると見るや「朝廷に忠誠を誓おう」と言い出して新政府側に加わる。徳川側から見れば大恩を仇で返す姿を見て呆れて物が言えなかった。藩主直憲は伯爵に列せられたが、徳川家への忠節と武士の誇りは捨て去ったと評価された。

加賀藩は百万石で有名な大藩だったが、13代斉泰は佐幕、14代の前田慶寧は尊王攘夷思想に目覚めていた。攘夷派が台頭するきっかけはペリー来航と背景にアヘン戦争で植民地化される中国の有様があった。大藩加賀藩を味方につけたい将軍家茂は加賀藩主斉泰と慶寧に江戸出府を命じるが、藩論が分かれ応じないことになる。そして加賀藩としては朝廷と幕府の仲介者となることを表明。その後も長州征討への参画、攘夷実行、幕府と長州斡旋などで藩論が二分したまま幕末に進んでしまう。結果として斉泰派、佐幕派が攘夷派を圧倒する結果となり尊攘派が処罰され一掃されてしまう。新政府の権力は尊攘派たる長州と薩摩が握ったため、加賀藩は新政府への繋がりを持てず、人材を出して頭角をあらわす機会を失った。斉泰が早めに慶寧に家督を譲っていれば長州との関係が深かった尊攘派は生き残り、新政府でもポジションを得る機会もあったはず。同じく大藩の薩摩が久光の公武合体方針を、二才(にせ)と呼ばれた若手武士たちが見事に長州との同盟、倒幕に舵を切ったこととの明暗は明らかだった。しかし薩摩では明治維新後の武士の待遇に不満をいだいた旧士族が西郷を担いだため大久保と対立、両者とも亡くなったあとは、伊藤、山県、井上などの長州勢に権力は移行していく。

その他仙台、佐賀、請西、土佐、長岡、二本松、松前各藩の幕末における右往左往の様を描く。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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