松ちゃんの『やりっ放し やられっ放し』

あなたが気になりだしてから 世界が息づいてる(松任谷由実『緑の町に舞い降りて』より)

旅の記録『7』~修【善】寺はその昔、修【禅】寺~

2006-08-14 08:23:25 | Weblog
どうも☆もう一ヶ月強前の事なので、思い出すのが難しく

でも、折角あれだけペダルをこいだ思い出は書き起こしておかなきゃとは思うのですが
その義務感からか、最近は少しだけ…苦痛でさえあります。

さて自転車旅行7日目は、新富士駅~沼津~韮山~修善寺です。
前日の登山のせいで、1日療養に充てても、なんか歩きにくい状態で
#17君と別れた新富士駅をAM3:00頃、東に向いて出発したのです。

独りでした。
分かってたんです。
(新富士以降は東京まで独りだなって)分かってたんですけど
もの凄く、独りでした。その独りさったらなかったです。

兎に角、早朝には沼津にはついて休憩でもして、写真の現像もあるということで
こぎました。
車にかなり迷惑をかけながら
でも、こぎました。
約20㌔くらいか?

本当に深夜なので、灯りも少なく
でも
迷惑かけたバイパスからは
左手に、遠く、黒い山と、その麓に光が点々と灯る町(富士市)が静かに寝息を立てて、棲んでいました。
でも、なんか暖かそうでした。すこし頑張ってでも遠く光っている町に入っていきたいと思いました。
なんか、悲しかったです。わけもなく。

予定通り、早朝、空気が藤色に染まってきたくらいには沼津に着いておりまして
沼津駅前のインターネットカフェなどに入り、休憩をしばし。
3時間後に店を出た時は、すでに街も動き出していました。
携帯電話やらパソコンなどを駆使してやっと写真屋を見つけ出し
溜まりに溜まった写真のデータをCD-Rに焼いて貰う。
多すぎてデータのコピーに1時間程かかるというので
近くの本屋があるらしい、早速向かいました。

前日の温泉旅館施設で「あの戦争は何だったのか」(保坂正康著)を読了していたので
新しい本でも買おうかということで
~なぜかこの頃、遠藤周作の本をまた読みたいと疼きだしていました。
   特に、内容的には戦争モノ、残酷さを欲していました
    これだけこぐと、物欲でも性欲でもなく、そういうモノを欲するようになる事も分かりました~
そして【戦争末期、九州帝国大学付属病院内での米軍捕虜の生体解剖事件】を題材にした
『海と毒薬』を手にしたのです。
「あっ、これ、面白そうだな」ではなく、店に入るなりその本の許へ一直線に向かったのです。

私のその時の精神状態には、本能的にそういう残酷性を求めることで、安定したのも確かです。
異常ではありません。
買うと、店の入り口に設置してあったベンチに座って読んでたのです。ハマリマシタ。
(悠長に読んでいる暇などなく、この本を読み終えたのは東京に着いて数日後の午後。)
本の話はこれで終わり名古屋です。興味がある人は是非読んでみてください。貸しません。
CD-Rを受け取ると
このまま西伊豆に出て早々と東京に向かうのか。
中伊豆の韮山の反射炉、修善寺を目を通してから西伊豆に向かうのか。
後者はかなり遠回りするので後者にしました☆

沼津市を抜けて三島、を通り、伊豆の国市へ!!
この日は、お日様が出てたのか出てなかったのか知りませんが
兎に角、眩しい、暑い日でして
所々ちゃんと2Lの水を買っては飲み、買っては飲みで
倒れたりはしませんでした。
約20㌔程走ると、中伊豆の平野が南北に広がり
その真ん中を通る主要幹線国道の歩道をずぅ~っと、私は走っていたのです。
もうそろそろ韮山町に入り、町の東に外れる道へ逸れました。

そこから2㌔も走らないうちに、日本史の資料でも見た「反射炉」が、だんだん近づいてきました。
そう!この反射炉を見るためにワザワザ遠回りしているのです。
韮山の反射炉というのは…
~江戸時代末期に国防を目的に幕府は大砲を造る事を急ぎました。
   その大砲の砲身(筒)を鋳造する時に必要なのが、この反射炉でして
      当時としては画期的な高温の熱を発生させる事を可能にしたのです~
拙い説明でスイマセン↓

その反射炉の製造に成功したのが、江戸太郎左衛門という人物でして…
【太郎】にまだ【左衛門】を付ける、それはそれは立派な欲張り奉行なのです。
反射炉の、その大きさにビツクリし(資料の写真では大きさが伝わってない!)
反射炉が、木造でないことにビツクリし(資料の写真を見る限り、木造のような様相を呈している)
反射炉の仕組みを聞いてビツクリし(資料だけでは、反射炉が何なのかよく分かっていなかった…)
兎に角、一見は百聞し如かずとはこの事なのだと実感したのであります!

韮山で1時間程過し、さらに15㌔くらい南下すると…
そこは、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が幽閉された『修善寺』
桃太郎電鉄では、なかなか買えない物件が多い『修善寺』
昔は【修禅寺】、『修善寺』
やはり、この日も観光客が多く、私もone of them なのでした☆

ここ『修善寺』はとても良い、善い、好い処でした。
箱湯という木の浴槽のみの小さな銭湯に入り
竹林と、小川と、頼家の墓と、修禅寺と…
(地名は『修善寺』ですけど、中心の寺の名前は『修禅寺』なのです。)

わずか23歳という若さで入浴中に暗殺された源頼家。
北条政子の菩提寺や、それこそ頼家の墓や、その頼家を守り死んでいった十数人の烈士の墓を
見て回りましたが…本当に、可哀相というより、なんか…寂しくなりました。

政争で死ぬという事が日常茶飯事だった昔に比べて、今は人間も賢くなったのか、そういうことは
無くなりました。なのに…一瞬「カッ」としただけで親を、子を殺してしまう事件が今では日常茶飯事で

そう考えると、やっぱり人間(日本人)は馬鹿なままだと思うし、だから、寂しいと思えたのかも。

旅の記録『6』~黒い山の中を~

2006-08-13 05:07:19 | Weblog
え~、この日は専ら富士山~5合目から頂上と麓の富士宮市~

初めての富士山。
前日の夜8時くらいに2合目駐車場からバスで送迎され、5合目に着く。

月だけは綺麗に出ているのだけれども
別にいい天気でもなく
本当に、黒い空の下、黒い山肌を背に、オレンジ色の光で包まれる五合目は既に寒く

日本人だけでなく、準備万端の外国人もちちらと。
私達は、1000円の杖(木の棒)を買う。(必要らしい。)
10時くらいに登り始めようかということで
約2時間ほど五合目で、お菓子を買って食べたり、本を読んだり、缶コーヒーを飲んだりと

基本は、富士山登山という仰仰しい壁を前に緊張しており
そして、以前寒いことには変わりもなく…
なんか、面倒くさくなってきたりもしたけど
ここからまた、2合目へ踵を返すのも気持ち悪いもので御座いますし
そして、ちっぽけだけど、『プライド』なんてのも、なんか関係してきまして

結局、私は既に富士の呪縛から逃れられない身なので御座いました。
…時が来ました!
スタートです。
5合目から6合目までは結構短く、余裕のよっちゃんと思いましたけど
でも…そんな訳がないのです。
足の痛みもまだ全然なく、登るペースも基本的にはゆっくりだったので

汗の掻き方、疲労度もかなりベストだし
山の上方を見上げても
黒い山の何点かの大きな光が点在してるのと
その大きな光を小さな光が列になって結んでいるのです。
それは、いわずもがな
休憩所と、それを目指す登山者のライトです。
私達もその光の一つなのです。

高山病を恐れて、まぁ初めての富士山をいうことで
体を慣れさすためにゆっくり登ってたのですが
私達若者は、なんだかんだで他の同志を追い抜いて行っていたのです。
そして、良き所で道から外れて休憩、というのを繰り返しました。
8合目、9合目らへんになってくると、疲れと眠気が襲ってきて
いくら寒くても結構寝てしまうのが私。
ちょっと休憩するだけでも寝れる私は雪山で遭難しても、寝て死ぬタイプだと思います。
それか、決して諦めないタイプかな。

そういう時って結構着込んでいるんで、幾ら寒くても、登山着の暖かさったら最高だから
だから、やっぱり寝てしまうんだろうなと自分の『生きる意志』の弱さにさめざめ泣くのです。
そんな時に落ちる涙が山肌を伝って、あの広大な、駿河湾…否。太平洋に
流れ出されないんですけど、別に。
っていうか、雪山なんて行かないし~、って感じ。何の話!?
なんだかんだ、話も皆無になり、空も明けてきて、午前5時くらいに
やっと…やっと…山頂に着きました。
足もがたがたで、眠いし…でも、御来光を見なければならず
山頂でも我慢して、日がよく見える場所まで頑張りました。本当にこの時は頑張ったと思います。

御来光どころか、天気は曇りで
それでも全く見えないものでもなく、静岡の街を覆う下の雲と、それより上の雲の
はるか遠い境目に赤い陽が昇ったのを、一瞬だったけども、見たのです。
蒼黒い雲を手前に、はるか遠く、奥の雲だけは赤く染まって一筋が美しいのを、見たのです。
その時、雨が降り、強風のなか
なんとか記念写真でも撮って…
5合目を目指して、そそくさ逃げるように復路に就きました。
復路…最悪です。

富士山というのは、岩山でして
赤い石と、グレーの石が靴にどんだけ入り込んできたか。
足場に探して、滑らないようにその足場にちゃんと足を引っ掛けないと
もし滑ったなら…
後ろに倒れるのは、リュックがクッションになるからいいのだけど
もし前に…想像したくないっ!
なんだかんだで、傷が4、5箇所増え…富士山は私の体にちゃんと痕を残してくれました。

頂上に着いた時より、私は、5合目に帰ってきたときのほうが嬉しかったです。
体は、すぐに伊豆に向かう状態ではなく、ボロボロで
このひ1日ゆっくり療養しようと思いました。というかしなアカンと本能で感じました。
療養先は、富士宮市にある…なんか名前わすれたけど、温泉施設で
温泉はもちろん、インターネット、食事、スポーツジム、テレビ、マッサージ等々
リラックスのための複合施設があり、それが1日券(~翌AM2:00)2000円くらいだったので

これはいい!!と思い
次の日深夜AM2:00までMAXで過しました。
約16時間をこの温泉施設で過し、温泉も3度入り
食事もええものを食べて、睡眠も8時間摂り
携帯、カメラの充電も完璧にしましたけど

体が完全に癒えることはありませんでした。
富士は魔物です。次登ることはあるのでしょうか。
私自身は、愛媛の石鎚山に登ってみたいなぁ、とは思っているのですが…まぁどうでもいい。
当分富士は結構です。

AM1:00時くらいに起き、もう一回風呂に入り、荷物まとめて、爆睡している#17くんを起こして
その施設を出、すき屋で腹ごしらえし、新富士駅に向かい
そこで別れました。

それが#17君とは、本当に(この旅に中では)最後のお別れでした。
その時は、本当に「おつかれさま」と感謝の気持ちでしたね。

そして、これからの事を考えると、また不安の念に駆られました…。ここから独りです。

旅の記録『5』~嗚呼富士山、そんなに私に見られたくないのか!?~

2006-08-12 08:28:55 | Weblog
この日、牧の原~静岡~富士見市。

AM2:00頃に、お世話になった#17家を出る。
一応、近道ということで

榛原町を望む台地の上まで#17君の見送ってもらう。
見送ってもらうと言っても、別にこれでお別れではない。
その日の昼過ぎにはまた、富士のふもとでまた合流する予定なのだ。

私が自転車でふもとの新富士駅まで先行して
あとから#17君が車で追っかけるという勝利の方程式!
『勝利の方程式』なんて…篠原・永井・ペドラザ以来やで。ほんま。
ということで、心配してくれる方々を背にして

頼りの月明かりも微妙な暗闇に、私は入っていった。
そして真っ暗な田舎道を、まずは焼津を目指してひたすらこいだのでした。
#150号線に出ると、伴走してくれた#17君にひとまずお別れをし
また、漕ぎ出したのです。
めちゃくちゃこぎました。榛原から焼津まで20㌔は覚悟していましたが

10㌔くらいの感覚(この10㌔の差は分かるまい。)で問題の焼津にはいつのまにか着いたのです。なぜ問題かと言うと、この焼津という町から静岡市に抜ける道が3本しかないからです。
一つは高速道路。自転車走行禁止は、言わずもがな。
一つは国道1号線。バイパスにつき自転車走行禁止は、言わずもがな。
一つは新幹線。自転車じゃなくて電車が通る道なので、自転車走行禁止は、言わずもがな。
一つは東海道(JR)理由は上に同じにつき、自転車走行禁止は、言わずもがな。

一つは海岸線。
もう一つが国道150号線。この二つが頼みの綱なのですが…
前者は3年前に通った道で、『大崩海岸』というそれはそれは険しい登り道でして
海伝いの岩山の斜面に敷かれた国道は、晴れた日にゃ海が見えるけど
焼津に着いたのは、午前3時半くらいで明らかに通ったらあかん時間帯でしたし
地元の人に聞いても、最近は夜は走り屋が多く、事故が多発しており
引きずられて死んじゃうなんて悲惨な事態も少なくないらしいのですが

しかし、僕自身結構走り屋としての自覚はあってぇ
そいつらよりはぁ、確実にぃ、長い距離を走ってる自信はあったんですけどぉ
っていうかー、こっちは自転車だけど、あっちはバイクなので
そんなことをグダグダ言いながら死んでしまうのも
損な話だなと思ったりなんかしちゃったりなんかして
どうしても大崩を通るべし!という気持ちもあったのですが…
もう一つの安産であろう、否。安全であろう国道150号線の方を嫌々選びました↓
って感じぃ☆

選んだ150号線は…も…自転車走行禁止でした。
その標識がトンネルの入り口に堂々と立っていて
「うわっ!まじで…?まじで?どうしよう…」と完全にひとりごちて
違う道、その150号線に側道は備え付けてないのか!とトンネル付近を探索したのですが
深夜、真っ暗、独り、静かだけど、用水路があり水が流れる音だけは聞こえてきて…
という、完全に自分に置かれている状況が、もの凄かったので
本当に「これはヤバイ」と思い、どうしようと考える。
携帯のEZWEBでマピオンだかなんだか知らないが、地図検索のサイトに登録して
何とか静岡市に抜ける道はないのかと検索しましたが、やはりこの150号線しかないようで

トラックが猛スピードを出してガンガンに吸い込まれていくトンネルの中へ
僕も
タイミングを見計らって
突入しました…『自転車走行禁止』の標識の看板を尻目に。
さて
トンネルというものには、車道の他に
自転車走行は禁止されているものの、やはり自転車が通れる通路が備わっているのです。
(まぁ、緊急時に人が通る通路なのですが。)
その通路を、壁と擦れ擦れにめちゃくちゃこいでこいでこいでこいでで…
っていうのは、トンネルの中は実際僕しか居ないのです。

その寂しさ、恐さを紛らわせてくれる救世主は、後ろからガンガンに攻めてくる数tトラックで
またそれが、さらに恐いのです。
だから、そんなトラックの存在意義に対しては、アンニュイな感じを抱かずにはおれませんでした。
結局は自分が何かしらの歌を口ずさむことでしか
自分を取り巻く恐怖の静寂に対して反抗できないのです。
そんな時の歌う歌というのが、#91君と#1君が大嫌い(僕は好き)な
小沢健二の歌でございまして、口ずさむ歌は、殆ど小沢健二の曲でしたのです。
この旅のテーマソングは、今から振り返るとしたならば、やはり、この小沢健二の楽曲なのでした。
結局トンネルはなんと、3㌔くらい続きました。この旅で一番恐怖した局面でした、はっきり言って。

さて、長い長いトンネルを抜けると、静岡だった。当たり前です、標識に書いてあるしやね。
150号線から1号線に乗って静岡市街・静岡駅前を通るのも一つの道なのでしたが
私自身ひとつの目標がありまして
ここは是非!徳川家康が祀られ(分骨され)てある『久能山東照宮』を観たいということで
そのまま静岡市駿河区・清水区の一番南、海岸線沿いの150号線を突き進んだのです。
この辺は苺が名産らしく、本当に空気の中に常に苺の香りがしておりましたのです。
午前6時にもなってなくて、前方。東の空には朝日が素晴らしいく、おかげで海も綺麗に輝いておりました。
進むこと10㌔くらい、左手に連なる山の頂のところに、宮が!『久能山東照宮』です。

そこにたどり着くために何段もの石段を昇り、正門はまだ開かずで、少し待つと
管理人らしき人が開門。朝のトレーニングのために昇ってきた人も幾人か。
朝一番ということもあり、一番奥の霊廟まではただで進める事が出来
その荘厳な造りが如何に素晴らしいかは、私には多分、まだ何となくにしか分かってないような気がします。
でも、それいいのです。
しかし、家康がどれだけ敬われているのかを知る1つの教材であり
南の太平洋を標高100mから望める素晴らしいロケーションでは家康も安眠でしょう。

久能山を離れると、ひたすらまた東へ進み、今度は美保という景勝を訪ねる。
『美保の松』と呼ばれるくらい、松が有名であり、松を手前に、富士をバックに頂く情景は
3大なんとかの1つらし。早く富士市に着いてしまいたいと逸る気持ちを抑えて
「でも、ここまで来て美保を見ずに進めるか!」という義務感が私を引き止めるのでした。
そして、目的の場所に着いて、富士を眺めたのですが晴れていなかったので、富士が見えなく
…最悪でした。でも、こういう処があるのだと、それだけでいいのです。

ここからは、清水区を縦断。1号線と合流して東進するのですが
清水区の興津町・由比町と過ぐる。特に由比町というところは
海岸線ギリギリを1号線が走っており、徒歩・自転車は1号線から外れて
山肌に多々ずむ昔の村・由比の中、旧東海道を進むむのがベストで
3年前も通らなければならなかったこの由比町の町並みは今年になってもなんら変わってませんでした。

普段から全く馴染みのない町を懐かしむというのも、この自転車旅行を
2度も遂行して初めてできることなのです。
由比→蒲原ときて、やっと富士山山麗に来たのです。ちなみに、やはり富士山見えず…。
嫌われているんだと思います。3年前も結局富士全体を望む事はありませんでした。

まず、富士川市、そして富士市。この町には紙・パルプ工場があり、すこし異様な匂いもちらほら。
問題の王子製紙も、ご自慢の煙突から堂々と白い煙を吐き出していました。
富士駅前は、寂れていました。この町全体はそんなに発達していなく

美容院の前で勧誘していた女の子にも「富士駅前と新富士駅周辺、どっちが栄えています?」と聞いても
この寂れた富士駅前の方がまだ店はあるというけれど

休憩しようとインターネットカフェを探しても、勿論そんなものもなく

早々と退散して新富士駅に向かいました。この頃には眠気が凄く、
新富士駅構内のベンチで安心して寝るために、新聞を買い

読んでいると見せかけて、頭を垂れて、4時間ほど爆睡。
午後3時頃に#17君が到着。車に乗って富士の懐に入り、攻めて行きました。
登山に備えてまず、銭湯に入り、ご飯を食べて…なんやかんやしながら時間を潰して

夜5時頃?に2合目駐車場で準備をし、バスで5合目に行き
5合目では、10時出発までは杖など買い、お菓子を買って食べて、透明な冷たい空気なんかも食べて

黒い空の下で、黒い山の下で、来たる激闘に備えていたのです★

旅の記録『4』~からだはこうやってリフレッシュしていく~

2006-08-11 00:25:04 | Weblog
え~、この4日目はずっと静岡は御前崎・相良周辺。

前日の夕方5時くらいに同伴の#17君のご実家の方に着きまして
台風とレースをしながらも、超順調に3日弱で静岡の中間地点には到着したのです。

また、運悪くご実家の方がバタバタしているようで、申し訳なかったのですが…
この日は朝の9時までゆっくり寝かせていただき、起床すると朝から
豪勢にカレー、煮物などを頂きました。天気は晴れ。風もなく、太陽も最高の輝きを放っていました。

昼前までは、居間の方で寝たり、本を読んだりとそれぞれの好きに過し
(私は3冊を持参して旅に出たのですが、読んでる暇がない!ということで、初めて表紙を開きました。)
読んだり、寝たり、読んだりで…とても、ゆったとりした時間の中にいる心地がしました。
それまでの三日間常に『動』いていた事も、この時の『静』をさらに強調させているのだと思います。

正午前、「海に行こうか」ということになって、都会では99%見られない軽トラックで
静岡最南端を目指したのです。(20㌔くらいなので「目指した」とは大袈裟か?)
車に乗って、その便利さから旅を止めてしまうなんて思い起こしたらどうしよう!!
と、少し心配しつつも
折角の休みに、また何十㌔も自転車で行動してたら、やってらんない!!!!ので

すっかり助手席に収まる事になりました♪
さて、ここらへん(御前崎・牧の原)でよく見かけるのは
茶畑と水力発電用の風車です。
ということで、まず埠頭に立つでかい風車を観に行きました。
デカイ、デカイと教えられていましたが
まさか、あそこまででかいと驚きました。驚き桃の木20世紀です、ほんにで。

高さが約100メートルはあろうか…。
重さは持しあげることができないので、分かりません…。
根元のところに行って、巨大な羽が動く音、風圧は恐怖に値する!と#17君に聞かされていて
「そんなことないやろ」と疑いつつも、とても楽しみにして行きました。
実際そこに行くと、とてもいい天気の中、風もなく風車も回ってなく、最低でした。
でも、その巨大さには驚くばかりです。

その背後に広がるのは、太平洋です。
青いです。貨物船の往来が遠くに霞んで見えます。
風の音だけが聞こえるのです。
…さて、昼のご飯は港の水産物販売施設のようなところで
海鮮料理の定食屋に入り、結構なご馳走を頼みました。
お金にモノをいわす旅です。貧乏旅行ではありません。
#17君が頼んだのは、金目鯛の煮付け定食で、なかなか食べれる代物ではないのこと。
私は、【がわ】というカツオの身が入った冷たい味噌汁で、これは漁師の人達の賄(まかない)料理。

それと、海鮮フライ(キス(アナゴ?)、エビ、イカ)定食です。1000円くらいします。
この時もアタマがどうかしてたのか、隣向かいの人が食べていた海鮮天丼を見て
「うまそうだな」と思い、自分もそれを頼んだつもりが、なぜかフライ定食を頼んでいて
フライを一口食べた時のはじめて「おれが食べたかったの、これちゃうわ…」と気付いた始末。
まぁいっか☆うまいことには変わりはないのです。
特に、先に書いた【がわ】。お椀の中の冷たい味噌汁に氷、カツオの切り身、葱、生姜が入った
この土地特有の料理で、多少カツオの臭みはありつつ、しかし、とても美味しく頂きました。
食べ終わると、水産物特売場にて試食品を物色し、あと、静岡に入ってよく目にする
イタリアンジェラートもミルクとわさびのダブルを#17君がお頼みなさって、すこし頂く。
わさびのソフトクリームも大変おいしゅう御座いましたです。

この後、御前崎灯台に昇り、また、海岸に下りると
美しい形をした貝殻を求めて多くの人がしゃがんで砂浜と闘っていました。
御前崎海岸の砂利はすこしだけの大きめのものが殆どで、形も波に何年も晒されていたのだろう
角が磨り減らされみんな丸みを帯びたものでした。
私たちは海岸を下りると、それぞれ好きなことをしていました。
#17君が何をしていたのか記憶にありません。なぜなら、私は…
波打ち際に横たわる?岩石群(プレート)に立ちしゃがんで、ずーーっと波を見つめていました。
なぜか、やけに感傷的になっていたように思い出せます。

「あの波が…こっちの波と合流して…そうそう、えっ!そこ行くかぁ!?」など
波に動きの一々に感情を昂ぶらせていました。
そして、「もう行かねばならんな」と決心したのもこの時だったろうか。
厳しい現実を隠して2日目も牧の原に居る訳にはいかないのです。
海岸を離れるときに、石ころを2つ拝借しました。僕は海に行くと必ず石を持ち帰るのです。
沖縄の珊瑚(の死骸)も未だに部屋のどこかに飾って置いてあります。
なんでもないような石ですけど、いいんです、それでも。

帰りには日本一の茶畑・牧の原台地に挟まれた道を通り、【金谷】という町にDSL機関車を見に行くも
その正体にはお目にかかることは出来ませんでしたが
しかし、この町もとても古い町なのでしょう。そのメインストリートを通るだけでも分かるのです。
そして、本当に帰りの途中に、今も木立の中にひっそり走る旧東海道の石畳の道を歩くと
蚊に襲われました。当たり前です。まぁ、しかし、昔の人は本当に歩いて江戸を目指していた
そんなことを実感すると共に、自分も自転車とはまだまだ甘いなと身に沁みました☆

「何を目指してんねん!」という話なのですが…
#17君宅に帰ると、夕食もまたご馳走して貰いまして!!感謝感激雨嵐の極みであります。
#17家の盛大な饗応のおかげで
それまでの心身の疲れ、痛み、病等々・からだのなかの悪は完全に払拭されたのです。
荷物の整理を終わらすと、翌日の打ち合わせを終わらすと

旅立ちに備えお先に睡眠を頂いたのです。
出発は深夜2時くらい。
1時くらいになって、目は自然を開き、完全にからだが、起きました。
その、これからの長い道のりの事を思うと、寝てる暇ではないと、こうなるのです。

予定として、私が一足先に旅立って、富士の裾野・新富士駅で車で来た#17君と合流し
そこから富士山を登るという策を講じたのです。
どうやらマイカー規制が実施され、五合目まで車で行けないのこと。

自転車で五合目まで行くつもりでしたが、#17君に強く止められたので、そこは折れました★
しかし、この、次の日の予定は、はっきり言って…ベストです。

もう一回言います!!    それがベストです。はっきり言って…♪

旅の記録『3』~1日の終わりに観る月が綺麗であれば、全て善しと思える~

2006-08-10 00:28:24 | Weblog
外の、トラックが行き交う騒々しい音がきこえる。眠りから醒めた…。

寝床も地べたにダンボールを敷いただけなので、埃と土の匂いがいつもより臭う。
既に陽は昇ったのだろう、シャッターと地の境目から光が差し込み、ガレージの中はほの暗い。

さて、この日8月9日の記録。豊橋から静岡・牧の原。
時間はもう9時。十分寝れて、疲れも和らぎ、台風のせいで「ちょっと、濡れ過ぎ」という具合の服も
多少は乾…乾い…「まだ濡れてんのか」乾いてへん↓

シャッターを上げると、前の日の台風は何処?といった具合の天気。光が瞼に痛いほど突き刺さる。
なんだかんだで現実に戻り、出発の支度を。
本当にお世話になったおばあちゃんに挨拶をする。せずにはこっちの気は収まらない。
なぜなら、眠ってみて、本当に言葉に甘えてよかったと思うからなおさらである。

挨拶したときにまたお茶を頂いて、またそれに対しても感謝をするのである。
どこまでも続くのかと思ったら、続きませんでしたが…。
「生きている内にまた顔見せてくれ」と言われ、本当にそうだな思った。
しかし、僕は結構長生きするつもりだけど、その頃におばあちゃんが生きているだろうか…?
すいません、(おばあちゃんが生きている内に)って事でした。

なんでも自分中心に考えるところ、アカンわ。
直せるかなぁ~…無理だろうなぁ↓結構他人には投資するタイプなんだけど
それ以上に自分に投資しているからなぁ…まぁどうでもいい!
出発すると、広大な畑が広がり、工場が点在し、林が見え…それぐらいの風景。
3年前は、この辺りは夜の内に通過しただけなので、今回初めて来たような新鮮な心地で
風景の一々を目に焼く。

町は、まず昼間に訪れてみないとその雰囲気は分からないというのが、今回感じたことの1つです。
1時間半くらいたったろうか…愛知脱出!
そして、長い長い、そして永い永い『しかずお』否!『しずおか』である★
終わった今だから言える事だろうけど、あれほど静岡が長(永)いとは!!思いませんでした。
さて、静岡最初の市は湖西。浜名湖の西に位置しているからだろう。
目の前に見えたのは湖??ちがう、太平洋でしたの。
潮見バイパスといって、海岸線沿いの車しか走ったアカン道路で

勿論僕たちは道を外れてもう一本の1号線を走っていたのですが
3年前、何も知らず夜中ここら辺を走っていた僕は
闇と孤独がが怖すぎて怖すぎてトラックの轢かれかねない危険を顧みず
半分過失、半分故意に自転車で進入した問題のハイウェイなのです。
まぁ、そんな話はさておき…(こういうの多い。)
走っているのは旧国道。新居駅(とても小さい駅だが、後ろで新幹線がガンガン通る)を過ぎ
弁天島という浜名湖の南側(地図ではとても細いところ)はサーファーが彷徨する海水浴場がるのです。
そこのコンビニでしばしアイス休憩。

普段アイスなんて食べないんですけど、旅の開放感からか嗜好品を食べまくりで
体を使い続ける旅なのに、逆に太りそうという逆説?がこの頃の懸念。
出発すると、ここからが大変でした…。
同じような景色がずーっと30㌔くらい続く1号線をただ走るだけ。
左斜め前、もの凄く遠くに浜松のタワーが建っているが分かる。
それを横目にずっと、ただ漕ぐのみ。国道1号線の癖に歩道の舗装は全くの不十分で
車道を走る、そんな時の胸は申し訳ない気持ちではちきれそうな胸。
なんだかんだこぎまくり、やがて、1号線から外れ御前崎を目指し150号線に移る。
1号線はここから内陸に入り組んでいくのだが、150号線はずーっと海岸線である。

『でも海が見えない』
天竜川に架かる遠州大橋を渡り、ここからも引き続きヒドく疲れる道のり。
これは肉体的でなく、精神的にやられる心地↓気分転換に松林の中の「太平洋自転車道」という道へ!
防風林たる松林のなかを、木漏れ日を浴びながら枯葉が散らかり落ちているアスファルトを
スイスイ、なぜかガタガタ進む。
目の前に河があり、いい加減150号線に戻り、あとはひたすらこぐのみ…
『全然面白くない…』
こいでこいで。
『きつい…』
ホンマこいで約40キロくらいか…ほんまキツイ。#17君も、後から聞いた話、きつかったらしい…

『きつい。』
やっと御前崎らへんに着くと、前にそびえたつのは浜岡原発。
ここらへんまで来ると#17君の守備範囲だろうか、この原発についても詳しく
なにやら見学できるらしい。
見学しない訳がない。普段から原発なんて珍しいし…こういう社会見学も旅行なのの目的の1つである。
プルサーマル計画やら、プルトニウム抽出やら詳しいことを何となく吸収し
目的は展望台と3Dの映画。
展望台はというと…まぁこんなもんか…。映画は…爆睡。
でも、まぁ浜岡原発の存在は決して忘れないだろう…☆

普段からも#17君に実家のことを聞くと、「御前崎」が必出で
御前崎に実家があるかと思ったら、20㌔くらいまた北上した牧の原・相良町。
『着いたぁ~…』と気を許した後の20㌔は体感30㌔はあるの★
150号線からも外れ、やがて茶畑がどこかしこにも広がっており
これが中学校で習った『牧の原の茶畑』かと一寸感動。
やはり教科書を読むだけと、実際訪れて観るのとでは訳が違う。
具体的に記憶としてのイメージできるし、今回は旅行ということもあり、まさに『思ひ出』なのである。
その茶畑といい、浜岡原発といい、いつか何かに役に立つときがくるだろうか?

果たして、それは疑問なのだが…。漫談で使えるかぁ?
役に立つかどうかわからないけど、でも、僕は知識、物事等自分の内に無いモノを
常に取り込み続けなければならないと思うし、だからこうやって旅行するのだ!
…と、ペダルをこいでいる間何度も再確認したのである。
さて、夕方5時頃…到着!!!!!!!
さすがに、#17君の実家に、たどり着いたときは、嬉しかったですね。
一応それが、今回の旅行の中の節目の1つと認識していたし、やっとゆっくり休めると安堵できたから。

着くと、今回2度目の銭湯へ直行!移動は軽トラで。
この日は朝から太陽が隠れる事も無く、ずっと私達はその暑さを肌に感じ続けてたので
(オイル塗り忘れで)火傷状態ですんで、湯船にはまともに浸かれず、サウナへ♪
もっと熱かったんですが…。
でも、最近は銭湯に行くと必ずサウナには入り、自分との勝負。そして他人とも勝負。
弱くなってきた気がするよ、最近!(形はSPEED「熱帯夜」より再現)

上がると、隣の町・榛原へおいしいラーメンの店へ!もの凄くボリュームの塩チャーシュー麺を食し
とても、美味しいのであろうが、僕はやはりとんこつがいいです。塩はだめです↓
#17君の家での僕はというと、これから2、3日お世話になるわけだから
暗い素を出している場合でなく、しかも語りきれないことをやってきたこともあり
私は、人見知りな自分とこの2,3日だけはバイバイしようと、頑張りました!

でも、大人相手ならいける訳で御座いまして、駄目なのは、同じ年代の若い子達だけでしたの★
#17君のお母様、お父様、おばあさま、おじいさま、近所の人々と
悉く感嘆されており、感心されており…
僕はといえば、悉く同じ話をし、しかし、とても話し甲斐のあるシチュエーションでした☆

その日は、既に23時頃だったろうか
直ぐには寝付けず…
なぜなら、その夜は満月で

とても、とても、とても、とても、とても、とても
すごく、すごく、すごく、すごく、すごく、すごく

とてもすごく綺麗な月でしたの★(←この夜、月と星が共存でいないことを初めて知る。だから黒い星)

旅の記録『2』~名古屋に着いてちょっとだけ、嬉しかった~

2006-08-09 16:54:20 | Weblog
どうも☆この日は四日市から豊橋。

四日市のインターネットカフェで5,6時間は寝たんですが、それでも不十分でも寝足りない
といった感じ、最悪でした。最悪ぅ。

一応朝には「すき屋」に灰ってのですが、牛肉も豚肉も食べる気も起こらず
納豆定職だったか、メニューの中では健康食のそれしか食道を通らず。会話あまりなし。
通りませんでした。でも通しました。そして、気分は上がることなく出発!(AM8:00)

四日市から名古屋までの道はそれは、それは平坦で、全く面白みのない道↓
歩道と車道の繋ぎ目が酷く荒く
平坦だけど、がたがたなのです。
その度に体が激しく揺れ…それが約50キロくらい続いただろうか。

四日市から名古屋までの町並みは、それでも全くの田舎ではなく
また、木曽川、長良川、あと何川がったっけ?
大きな河が約3っつほど流れており、だから何だという話なのですが
その、本当なら感動できる大きな大きな河を、小さな小さな私は、ただ横目で流すのみ。
(注:「小さい」とは器ではなくて、人間の存在が自然のそれと比べて小さいということ!)

やがて交通量もかなり増えてきて、12時頃に中川区から名古屋に入りました。
名古屋入りと同時に標識から名古屋の文字は消え去り、新たに静岡・豊橋の表示が!
やったぁーー!静岡まで150㌔!…要らんねん、ほんまに。
嬉しい反面、その時の本音は「此れからが長いねん!」でした。
大都会・名古屋でまずすべき事は、風呂に入ることと、シューズを買うこと。
この時点私の体の一番の痛みは、高級サンダル長時間着用によるサンダルずれでした。

それはそう。黒いサンダルは、長時間自転車を漕ぐのに使われるために作られたのではないはずです。
果たして、この問題は、高級サンダルに私の足がついていけていないのか?
それとも、私の足に高級サンダルがついていけていないのか?きっと、後者にちがいない…きっと。
「高級サンダルは長時間自転車漕ぐためのものではない」という反論もあろうが
しかし、どんな履物をどのように履こうが個人の自由なはずである。…(かなり紆余曲折の論議を経)
結果的には、自転車旅行に必要な準備をちゃんとしてこなかった私が悪い、と自己完結します。
(この意味のない議論がどこまで続くか分からんし…)

名古屋でまず行ったのは、中区・金山の銭湯。
もの凄く汚れているに違いない体をもの凄く綺麗綺麗にしたかったのです。
#17君はあまり嫌いらしく、適当な時間で上がって行ったのである。
私も嫌いなのですが、なんか長く入っておかないと損かな、と1時間は入っているのです。
そこらへんがセコイ#6さんにセコイと言われる所以か…。
『台風が上陸するらし!』
上がったあと、ロビー見たいなところで約2時間程爆睡させていただき
『台風が後ろから迫ってる!』

その知らせを受け、どうしようか?
もし私ひとりなら、いい案も思い浮かばず、そこにうな垂れているばかりであろう…
通り過ぎるのを名古屋で待つか?めっちゃ漕いで逆に台風を突き放すか?悩みどころである。
通り過ぎるのに2,3日かかったら、その間の旅費要るし…。
でも、めっちゃ漕ぐのには足が痛すぎるし…。
しかし、#17君の意思としては、早く発とうということなので、大の急ぎで、靴を買いに。
大須の辺りを探しても靴屋はなく、否、あったのだが
折角大きなお金を出して買うなら、末のホノルルを見据えてアシックスかミズノのエエ奴を買おうと
こだわっていました。最善の策は…インターネットカフェに入って店を調べだすこと!

一応栄に行って、上記の策を即遂行!30分で店を出、調べたアシックスの専門店は意外に近く!
(今は、#17君と別行動。)
アシックスの店に入り、直ぐかって、旅立たねば!という気持ちはあったのですが
…結構、靴選びに迷うものでございやして。
結局買い上げるのに1時間。事情を話すと若い店員は1500円程安くしてもらい記念撮影。
このような交流もまた、旅の思ひ出の一つとなりうるのである。
買った靴は、本格ランニング用のズック(13500円)と靴下2足(2000円)!
それが合計で13500円!客の僕からも、ありがとうございました!です。

皆さん、名古屋に来た祭には、栄のアシックスへ!
そのあと#17君を合流(17:00)。
なぜか急ぐ気持ちはさておいて、私の希望により中区・金山へ戻り「世界のやまちゃん」へ!
そこでビール1杯ずつ飲んで、手羽先5人前、どて飯といふものを食ふ。
手羽先の感想は…「さすが#6さんが絶賛しただけのことはある」
(この自転車旅行に#6さんは全く関係ないのに登場させるのは腑に落ちないが
  料理の味、せこさを表現するにはとても効果的である。)

やまちゃん手羽先の世界から、現実世界へ戻ると、それはまさに黄昏という言葉通りの空模様。
ただの黄昏ではなく、黄金色を紫と、鼠色の雲のグラデーション。
「台風が来るわけだ。」と納得できる正に異様な雰囲気で、でもなぜかそれが美しかったのも確か。
その時自分たちが居た名古屋だけが雲に覆われていたのです。こわーい。
すぐさま東の彼方を目指し、名古屋を後にしました。
それからはやや風も少しは強くなるだけで、まぁ程よい温度。

名古屋・南区から1号線に乗り、豊明・刈谷・知立・安城と過ぎ、
徳川家康の郷・岡崎に着いたのは大体PM9:00位か。
この町も古い町でその頃には町全体が既に眠りについており、静まり返っているのです。
1号線を走る車種も、一般の乗用車は疎らで、トラック多し!
それでも、歩いている人も居なく、進む進む。

1号線と高速がぶつかり、外れて意味の分からない所へ外れてしまったのですが
私が誇る方向感覚で何とか1号線に戻れました!(ちょっと地図見たけど…。)
そのころだったか台風の影響で雨も激しくなり、激しくなり、激しくなり…
でも、休むアイデァも生まれず(とういうか休める処ないんですが)

というのは、丁度岡崎を抜ける山越え時に台風の影響をもろに受け
雨の具合も異国語をつかえばrains cats and dogsで御座いました。
何にもない、ただ、先を急ぐトラックががんがんに通り過ぎていく広い車道の傍の歩道を

しかも岡崎市行政は何も手をつけていないだろう、傍に生える野草が刈られず
私の体に抵抗してくるのでした。言って置きますが、「びちょびちょ」どころではありません。

「びしょびしょびしょ」です。

人が、人生の間に体に受ける以上の雨粒の量を一夜にして受けたと自身があります。
その自身、なんにも成らんけどのだけどね…そしてまた明日から、新しい雨に出会うんだけどね…。

何とか山を下り始め、サンクスで少し休憩、そしてすぐ出発。
雨も少しだけだが弱まり始めた豊橋の外れ既に日がまわって2006年は8月9日の深夜。
何となく立ち寄ったサークルKのおばあちゃんが濡れ鼠な僕らを見兼ねて

そのおばあちゃんが所有している、店の傍のガレージの計2畳程のスペースに
廃棄されたダンボールを崩して、そこに敷く。僕らはボロボロの体をそこに横たえると

意識は直ぐに奥に沈んでいった…。

旅の記録『1』~疲れてたから、事実の提示だけ~

2006-08-08 02:56:17 | Weblog
この更新は三重県は四日市のインターネットカフェから☆

今、もの凄く、疲れています。というのはまさか、24時間後に名古屋の手前まで来ているとは
出発する時には思ってもいませんでした。

7日のAM2時くらいだっただろうか、2人家を出たのは。
ルートは宝塚から旧176号線で川西→池田→171に乗り換え箕面→茨木→高槻。
高槻の広いこと!

「高槻結構広い…」「まだ高槻…」「高つk…ええ加減にせぇ!」という勝利の方程式。
でも、何とかかんとか抜けて、長岡京・向日、そして、京都!に着いたのが朝7時くらいだろうか。
まず東寺→京都駅前→加茂川八条→東山五条→清水寺☆
清水寺はあさ。昼間の清水寺は観光客でごった返すので、満喫するには早朝がいいかと!

前日の徹夜から寝ず、さらにバスケが重なり、疲労が!…寝る場所を求めて四条へ。
『尻が痛い』
えぇ、あまりの眠気で会話も必要最小限。なお、格好は僕の場合、FABSのユニでして
もの凄い気まずいはずですが、僕の場合知ったことではないという感じ。
何とか新京極にインターネットカフェを探し出し、5時間パックで爆の睡でした。

私は、例えば前回2003年の東上の際でも、あまり休憩せずに漕ぎまくりました。
なんとか、なんとかで我慢し続ける行動傾向。休憩を「水を差す」と考える思考回路。
調子が良く優勢の時にタイムアウト採らないでしょ?それとおんなじこと。
ただ、旅において郵政とか劣勢とかないので、結局自己満足に過ぎず、休憩すると
もの凄く楽なのに気づいたのです。
四条から三条へ北上し、レストラン・ミヤコで昼食を。二人ともゴマ味噌冷麺。

しかし、私のほうは、大盛に加え、ご飯つきにしてしまい、結局気持ち悪くなりながら食べる始末↓
三条から山科区を抜けて大津へ!ここが1時間半。そして草津。
草津で、ある工事騒音。今まで生きてきた中で一番やかましき、最低の音、それが印象。
草津から栗東、湖南、水口、土山。道なき道…というか、通ったら駄目なとこを通ってただけなんです。
『手が痛い』

鈴鹿峠目前の土山の道の駅は閉まっていて、意味ないじゃん。
すでに日も暮れ、一応ベンチで2、3時間寝て夜10時くらい、それから、まさかの峠越し。
『足が痛い』
まぁ、その峠は滋賀県側からの傾斜はなだらかなので、難なく越峠。

亀山、鈴鹿、そして四日市!
このような旅で一番楽しみなのは、行く先々の情景!もそうですが
それより、標識の表示に変化があった瞬間です。

それまで『大津』であったのが、大津に着いて『四日市・草津』に変わった際は至上の悦び。
ただ四日市は強敵で、そこからの距離は90㌔強!ずっと、旅のおともでした。

今は、疲れすぎて、50キロ先の名古屋に近づく気力は湧きません。おやすみなさい☆

旅立つ前に。

2006-08-07 01:13:08 | Weblog
さて、本日7日の朝早よーに私は後輩と旅立つ事になりました。

東京へ♪
自転車(ママチャリ)で♪

2003年の夏にも私、同じようにママチャリで東京に行ったのですが
今年の夏も、まったく同じ手段で、全く同じような事をする事になりました。
しかし、それは成長がないと言われるようなことでしょうか?

自分で言うのも何ですが
成長してるっちゅーに、ほんにで。
たぶん。
きっと。

前回は静岡を死に物狂いで素通りしましたが
今回は結構お世話になりそうです。
なぜなら、富士山に登り、箱根も上らず伊豆半島を周るからです。

あと、この暑さもも前回と違って大きな障害になることでしょう。かといって雨も嫌だしなぁ…
今回結構無理をするのですが、だれも音沙汰がなかったら誰か警察に通報してください。

ファンと不安で既にいっぱいいっぱいです…☆

ちょちょろ

2006-08-03 15:14:32 | Weblog
この前金曜ロードショーでやってた「となりのトトロ」を、今日のお昼やっとチェック出来ました☆

観た後、「ホッ」と安心感が沸き起こりました。
というのは、私にも感動できたという安堵感です。

此れだけ「感動する映画」としてフューチャーされているのに
自分だけ感動できなかったらどうしようという「自分の中の人間性の欠如」を不安視していたのです。
「となりのトトロ」に感動しなければいけないのか。と問われるとそれは違うのであるが

しかし、そう頭で理解してても、「日本人らしい情緒あふれる心」がないという不安が
どうしても過ぎってくるのです。
だから、ここ15、6年は敢えて遠ざかってきたのです。
別に子どもの頃からそんな事を考えながら見なかったのではないのだけれど

なぜか、長い間観て来ませんでした。
というのはトトロを純真無垢で、信じる者にしか見えない生き物ではなくて
ほんとに実在する不思議な生き物と勘違いしていまして
そのような非科学的な設定を勝手に嫌っていたのです…。
小さい頃は、どこか理解出来てないままに観ていたようです。

猫バスを見てサツキが「みんなには見えないんだわ」という台詞も
「見えないくらい早いんだろうなぁ…」と勝手に片付けていました。
一つ一つの台詞に対して「そういう意味か」と一々納得して
普通にサツキやメイの邪念のない子どもらしさに、涙しちゃったのですが…

しかし、この「となりのトトロ」にスピンオフ作品があるのはご承知でしょうか?
その後のメイの話で、僕もまだ見たことはないのですが、何でも三鷹にて見ることが出来るのこと☆
まぁ、トトロのような目に見えないものを感じる感受性が今の日本は未だ取り戻せない事への失望と

また、変に現実主義的空気(憲法9条改正)に満ちた社会への問いへと繋がると思います。
つまり今の日本国憲法が理想とする徹底的な平和は幻想に近いけど

我々は夢見続けても良い、素晴らしきものだと思うのです。

負けるかと思った。

2006-08-02 23:45:20 | Weblog
この日8月2日、日本人なら観なければならない試合がありました☆

WBAライトフライ級王座決定戦が浜で行われたのこと。
今回のアクターの一方が亀田興毅選手ということで、私はTVにかぶり付いて観まして

これが亀田選手でなく、別の人だったら観てないっす。例えば小泉総理だったら…観たいなぁ。
これまでボクシングの「ボク」の字も知らなかった私がこの亀田ブームに乗って観ているのは
明らかにミーハーですが、「別にミーハーでもいいじゃない、好きに言わせておけ」といった感じです。

生中継は7時半からTBS系列で放映されていて、亀田家特集が組まれておりました。
僕は、それを斜めから見ることなく、真正面で受け止めました。
だから、亀田選手の勝利が決まった時も、少し
うるうるうるうるうるうるうるうるうるきちゃいました。完全にド壷です。

#92さんはかなり批判的ですが
TBSの演出に完全に感化されている僕は、そんな批判的になれず
また、ボクシングに関して全くの素人が今回の対戦だけをみてとやかく言うのも不細工につき
僕はこれはこれでいいと思うのです。結構感動できましたし。
最近分かってきたのですが

映画でも恋愛に関しては全く感動できないのだが
今日のような男くさいものは、例えば海猿(最初の)とかは感動できるのです。
裏では、テレビ朝日系列で「銭金」か?やってまして
Berry工房オタクが訪問を受けていました。その結末がもの凄い気になったのですが

さすがに、それは亀田選手に失礼だなと思い、TBSに集中しました。
試合は、僕の目には、それでも亀田選手が少しは優勢のように映っていましたけども
解説者も亀田選手のヒットしか実況しないので、ランダエタ選手の攻撃が実際のところどうなのか

と常に不安でしたね。結局総ポイントは2、3Pという僅差だったし
あの解説でのラジオ中継だったら、一人目の判定は「えっ!?」ですね。

兎に角、今日はハラハラしましたが、あんな辛勝とはいえ亀田選手が勝てたのは、なんか嬉しいですね。

あれだけ、亀田選手のクリーンヒットが解説で強調されれば、もうすぐいけるんちゃうか?と
希望を抱いてしまうのですが、ランダエタ選手もなかなか倒れないし下記の如き不安を抱いてました↓

「実は全く効いてなかったりして…それを亀田選手は既に悟ってるんじゃないか…」などと。