多くの武道・格闘技の道場には神棚があり、それぞれの信心する神様を祭っています。そして神様に礼をして稽古が始まり、神様に礼をして稽古が終わります。
この理由についてワタクシ、意外と永く考え込んでしました。
正直に申し上げますが、ワタクシは「拝んで強くなるのなら、坊主や神主、牧師が一番強いだろ!」と、武道における形式的な信心を小馬鹿にしていました。
ただ、どういった心境の変化があったのか、全く自覚症状はないのですが、あるころから「ワタクシのそうした考えは間違っていたのでは…?」と思うことが多くなるようになっていました。
そんなワタクシの永年の疑問を解き明かしてくれたのは、弊ブログの格闘・ケンカ話でたびたび登場しております、岐阜は士心館館長・林悦道先生でした。
林先生の名著「誰でも勝てる!完全ケンカマニュアル」(東方出版)の末尾に、このようなことが書かれておりました。
「人はここまで耐えられる、これ以上は壊れるというラインがあるのでしょう。これはDNAなどの設計図に書かれているのでしょうが、我々の見ることはできないものです。
それを書いた人のことを、神と呼び、仏と呼び、天と呼ぶのでしょう。
つまり、極限まで修行を行うということは、この神仏が描いた設計図を盗み見する行為なのです。
本来であれば、神仏に対して、たいへんに失礼な行為です。そんな越権行為をした代償が、肉体的損傷です。
武道場が、古来からなぜ神聖な場所とされてきたかもわかります。極限の修行をする場が道場であり、そこで神仏の域に、足を踏み入れるからです。」
「修行者が、限界に挑み、神仏との結界を超える度に、日常と非日常も入れ換わります。」
こうした観点から林先生は、「修行を続けることは、生きることと死ぬことを一本の線でつなげることにほかなりません」と結論付けていますが、これはかつて、柔道の大家・牛島辰熊先生が「生の極限は死、死の極限は生」として、木村政彦先生を筆頭とする各種の門下生、そして自分自身に、驚くばかりの猛稽古を課していたことと全く同じ悟り。おそらく全国にあまたいる、武道・格闘技で身を削るような猛稽古を行っている方々も、同じような心境を抱いているに違いありません。ハンチク修行者のワタクシですらも、膝を叩いて「その通り!」とうなるばかりでした。
ただ、こうした「鍛錬とその艱難辛苦を窮め抜いた悟り」は、初心者には理解することが難しい。そのため、そうした悟りを極言した短いフレーズは、しばしばハンチク野郎(特に、指導に携わるバカ)が自らの知識・実力不足を糊塗する隠れ蓑とする…つまり、弟子に伝えるべき強さも技術もなく、技術を伝えるボキャブラリーも持たないような馬鹿・不勉強・不見識極まる阿呆の指導陣が、先輩面して威張り倒すのに便利なキャッチコピーとなりやすいのです。
どこかコンサルの先生の動画で、「どうしようもないダメ社員の最終兵器は『自分が仕事をしないことを正当化・それを言語化する能力』であり、30歳までにそれが改まらない場合、どこの会社でも使えないゴミ社員にしかならない」という話をしていました。
サラリーマンとして、そうしたダメ社員ができる時間を計算するとだいたい4~6年くらい。格闘技は「三倍段」の法則から考えると、上達も劣化も大むねその「三倍」で計算して間違いありませんので、武道の世界でそうしたゴミが生産される年数を考えますと、だいたい入門から1年ちょっと~2年ちょっとくらい、と考えていいでしょう。
ワタクシが存在した芦原会館中国本部(総本部以外の本部・その他支部は知りませんよ(;^_^A)や格闘技吉田道場は「修行者としての強さ」と、「強くなったら、教える側としての背中がをしっかり確立してないとダメ」という姿勢が確立しており、「強くない、手下の面倒を見れないダメ人間」は生きていけないようになっておりますが、武道・格闘技の道場は先輩後輩関係という「絶対秩序」が存在するため、そうしたゴミを排除する自浄作用が働かないゴミのような組織・道場も多数存在し、今の言葉でいえば「パワハラ」「セクハラ」に当たるようなことを平然としているところが多数存在するのも、また残念な現実でございます。
しかし本来、道場に神仏が鎮座ましましておらせられる意義は林先生が冒頭に語られたとおりであり、それを僭用する馬鹿は、武道・格闘技というものが根本的にはあらゆる意味で「実力社会」であり、神仏の境をさまようものであるという性質を持つ以上、いずれ世間の批判にさらされ、文字通りの神仏の罰を受けることは必定でしょう。
ワタクシも武道・格闘技の修行者の末席を汚すようになって、ほんのわずかな年月が経ちますが、いつか武道・格闘技の修行を全うした時(たぶん死んだとき(;^ω^))、武道の神様と、これまで師事した師匠(特に格闘技吉田道場の師匠!)が「オマエは武道・格闘技の貫目を汚しやかっがたな、コノヤロー!!!」と殴りまわしてくることなく、逆に「まあ、これくらいだったらオマエに教えること、鍛えることを許してやってよかったな!」と、缶ビールを差し出してくれるくらいのレベル(;^ω^)まで鍛え、勉強することをやめないでおこうと思います。
これは、帯に黒い色がついた人間の背負った重い重い十字架、そして、武道・格闘技に手を染めなかった人間が立ちいってはいけない、理解することができない、経験者だけが心に秘めたとっても重くて、そして大切な十字架であると思います。
この理由についてワタクシ、意外と永く考え込んでしました。
正直に申し上げますが、ワタクシは「拝んで強くなるのなら、坊主や神主、牧師が一番強いだろ!」と、武道における形式的な信心を小馬鹿にしていました。
ただ、どういった心境の変化があったのか、全く自覚症状はないのですが、あるころから「ワタクシのそうした考えは間違っていたのでは…?」と思うことが多くなるようになっていました。
そんなワタクシの永年の疑問を解き明かしてくれたのは、弊ブログの格闘・ケンカ話でたびたび登場しております、岐阜は士心館館長・林悦道先生でした。
林先生の名著「誰でも勝てる!完全ケンカマニュアル」(東方出版)の末尾に、このようなことが書かれておりました。
「人はここまで耐えられる、これ以上は壊れるというラインがあるのでしょう。これはDNAなどの設計図に書かれているのでしょうが、我々の見ることはできないものです。
それを書いた人のことを、神と呼び、仏と呼び、天と呼ぶのでしょう。
つまり、極限まで修行を行うということは、この神仏が描いた設計図を盗み見する行為なのです。
本来であれば、神仏に対して、たいへんに失礼な行為です。そんな越権行為をした代償が、肉体的損傷です。
武道場が、古来からなぜ神聖な場所とされてきたかもわかります。極限の修行をする場が道場であり、そこで神仏の域に、足を踏み入れるからです。」
「修行者が、限界に挑み、神仏との結界を超える度に、日常と非日常も入れ換わります。」
こうした観点から林先生は、「修行を続けることは、生きることと死ぬことを一本の線でつなげることにほかなりません」と結論付けていますが、これはかつて、柔道の大家・牛島辰熊先生が「生の極限は死、死の極限は生」として、木村政彦先生を筆頭とする各種の門下生、そして自分自身に、驚くばかりの猛稽古を課していたことと全く同じ悟り。おそらく全国にあまたいる、武道・格闘技で身を削るような猛稽古を行っている方々も、同じような心境を抱いているに違いありません。ハンチク修行者のワタクシですらも、膝を叩いて「その通り!」とうなるばかりでした。
ただ、こうした「鍛錬とその艱難辛苦を窮め抜いた悟り」は、初心者には理解することが難しい。そのため、そうした悟りを極言した短いフレーズは、しばしばハンチク野郎(特に、指導に携わるバカ)が自らの知識・実力不足を糊塗する隠れ蓑とする…つまり、弟子に伝えるべき強さも技術もなく、技術を伝えるボキャブラリーも持たないような馬鹿・不勉強・不見識極まる阿呆の指導陣が、先輩面して威張り倒すのに便利なキャッチコピーとなりやすいのです。
どこかコンサルの先生の動画で、「どうしようもないダメ社員の最終兵器は『自分が仕事をしないことを正当化・それを言語化する能力』であり、30歳までにそれが改まらない場合、どこの会社でも使えないゴミ社員にしかならない」という話をしていました。
サラリーマンとして、そうしたダメ社員ができる時間を計算するとだいたい4~6年くらい。格闘技は「三倍段」の法則から考えると、上達も劣化も大むねその「三倍」で計算して間違いありませんので、武道の世界でそうしたゴミが生産される年数を考えますと、だいたい入門から1年ちょっと~2年ちょっとくらい、と考えていいでしょう。
ワタクシが存在した芦原会館中国本部(総本部以外の本部・その他支部は知りませんよ(;^_^A)や格闘技吉田道場は「修行者としての強さ」と、「強くなったら、教える側としての背中がをしっかり確立してないとダメ」という姿勢が確立しており、「強くない、手下の面倒を見れないダメ人間」は生きていけないようになっておりますが、武道・格闘技の道場は先輩後輩関係という「絶対秩序」が存在するため、そうしたゴミを排除する自浄作用が働かないゴミのような組織・道場も多数存在し、今の言葉でいえば「パワハラ」「セクハラ」に当たるようなことを平然としているところが多数存在するのも、また残念な現実でございます。
しかし本来、道場に神仏が鎮座ましましておらせられる意義は林先生が冒頭に語られたとおりであり、それを僭用する馬鹿は、武道・格闘技というものが根本的にはあらゆる意味で「実力社会」であり、神仏の境をさまようものであるという性質を持つ以上、いずれ世間の批判にさらされ、文字通りの神仏の罰を受けることは必定でしょう。
ワタクシも武道・格闘技の修行者の末席を汚すようになって、ほんのわずかな年月が経ちますが、いつか武道・格闘技の修行を全うした時(たぶん死んだとき(;^ω^))、武道の神様と、これまで師事した師匠(特に格闘技吉田道場の師匠!)が「オマエは武道・格闘技の貫目を汚しやかっがたな、コノヤロー!!!」と殴りまわしてくることなく、逆に「まあ、これくらいだったらオマエに教えること、鍛えることを許してやってよかったな!」と、缶ビールを差し出してくれるくらいのレベル(;^ω^)まで鍛え、勉強することをやめないでおこうと思います。
これは、帯に黒い色がついた人間の背負った重い重い十字架、そして、武道・格闘技に手を染めなかった人間が立ちいってはいけない、理解することができない、経験者だけが心に秘めたとっても重くて、そして大切な十字架であると思います。
神仏ならぬ人のやることは不完全。だから自分を戒めるために神様に礼をする。確かにそのとおりでございます。
それにしても極左はバカな見解を述べるものですねえ~(;^ω^)!!!
またよろしくお願いいたします!