今回はいつもの技術論的「サバキ・ふしぎ発見!」からは少し離れますが、「武道」なるものの実戦への供与に関する所見と、それに付随し、芦原会館が試合を永年しなかったことに関する所見について申し述べようと思います。
先般、神奈川県川崎市において、引きこもりをこじらせた50代のおっさんが社会を逆恨みした挙句に通り魔を行い、死者2名、重軽傷者10数名を出すという痛ましい事件が発生しました。本件の犠牲者・負傷者につきましては、弊ブログからも衷心よりお悔やみ、あるいはお見舞い申し上げます。
さて、本件に関する話題を収集する中で、このようなツイートを発見しました。
「●さんのツイート
去年、お師匠に、『刃物を振り回している人に勝てますかね?』と聞いたら、
『無理だね。相手は間合いも何もない。自分の意のままにしか動いていないから、何するか分かったもんじゃない。下手に応戦なんかしないで走って逃げろ。』
これが剣道最高段位保持者の答え。」
これに対するネットの反応も、「合気道でも逃げろと教わりますね」「素人はまず基本が無いから動きが読みにくく相手にするにはとても疲れました。(´×ω×`)相手が刃物を振り回してる狂人となればなおのことムリだと思います。」「走って逃げろ。教訓です。(❁´ω`❁)」といった具合に、概ね肯定的な意見ばかりでした。
先述の「剣道高段者」の意見に関し、私見をズバリ申し述べます。
これが「何も武道・格闘技を修めていない一般人(特に女性)」の意見であれば、これは百点満点の回答でしょう。
またこの「剣道高段者」が、●さんの蛮勇の発起を戒めた言葉であるとの心根が確定できれば、頷けないこともない言葉です。
しかしこれが、「俺はスポーツの竹刀剣道しか知らないから、刃物を持ったキチガイを相手にするノウハウも胆力も技術もない。だから走って逃げろとしか教えられない。だから俺も、そうした変事に遭遇したら、何もかもうっちゃらかして走って逃げる」というような性根から出た言葉であるなら、人様からお金を取って武道を教える者として最低最悪の逃げであり、さっさと剣道のカンバンを下ろし、「スポーツ竹刀道」というカンバンでも掲げ直すべきだと思います。
以前も弊ブログでお話ししましたが、武道とはもともとお侍さんが戦場でやっていた実戦の一部を切りとり、その部分の技術を先鋭化させたものとされていますし、柔道・剣道・合気道などといったいわゆる日本伝武道はそうしたものが源流であるとされ、「これはかつて命のやり取りで使われた、磨き上げられた技だ」などと標榜する指導者も少なくありません。
であれば、いやしくも「武道」を標榜する技術を人様からお金をいただいて教えているのであれば、スポーツルールという枠内にとどまらず、「実戦に供与する」ということを常にシビアに考え、現実に生起しうるであろう「実戦」というものの情報を細かく収集し、相手はどのように凶行に及ぶのか、自ら教えている武道がそれに対してどのような有効性を発揮しうるのか、あるいはその武道の技術で対応しきれないのならほかの類似の武道・格闘技の技でどのようなものが使えるか…ということを虚心坦懐に研究し、きちんと教えなければダメです。
しかし悲しいことにその多くは、スポーツルールの枠内で許された技を漫然と教えているだけであり、実戦とは何か、犯罪に巻き込まれるとはどういうことか、ということを真剣に考えているところは、ゼロとはいいませんが、本当に数少ないのが悲しい現実です。
それを裏付けるように、武道家・格闘家が実際に自分の身に起こった変事に際し、何もできず、やられ放題にやられたという話はよく耳にしますが、ここでは冒頭に剣道の先生の話が出てきましたので「竹刀剣道」が実戦で敗れた例を挙げます。
昭和7年に勃発した第一次上海事変では実際に刀での斬り合いが生起しましたが、剣道の高段者ほど、支那兵に斬り殺されました。
支那兵は厚い綿入れの上着を着用し、鉄兜をかぶっていたため、スポーツ剣道の「面」「胴」を打っても相手が死なない、倒れない。逆に懐に入られ、青龍刀の斬撃の餌食になりました。これは「スポーツ武道の実戦からの乖離」を示す好例といっていいでしょう。
これはその本人はもとより、やられた人間の師匠あるいは上部組織が「実戦」というものを調べる・考える・対策を築く・鍛えるということを怠った末路であり、いずれにしても恥さらし以外の何物でもありません。
先代芦原館長が「試合をしない、サバキを練る」ということを芦原カラテの基本方針とし、これを貫いた理由は、スポーツ的ルールに固執することで『実戦』に向ける目がおろそかになり、『実戦に役立つ武道』の色合いが薄くなることを危惧したからではないか。最近このように考えることが本当に増えています。
先代のサバキは先代の「実戦経験」のみならず、各種の格闘技を研究・実践した集大成ともいえるものであり、その完成度の高さはまさに折り紙付きといえます。
ワタクシもいくつかの「実戦らしきもの」を経験しましたが、サバキの思想に基づいた技は非常に使い前がよく、その都度危機を救ってくれました。また、ほかの格闘技に転向してからも「あ、サバキのあそこでやっていたヤツは、こういうことじゃったんか!」と気づかされることも多々あり、その完成度の高さはハンパではありません。
先代は、出身道場である極真会館が、試合・大会の隆盛に伴って試合に勝つテクニックだけを先鋭化させ、いつしか修行者の上に「試合での成績こそが全て」という一方的な価値観がのしかかるようになり、それによってフルコンの可能性が「試合テクニック=ローと腹の蹴り合い・殴り合い」だけにシュリンクしていく過程をつぶさに見ていたからこそ、その極北である実戦性を磨きあげ、「理不尽に打ち勝つ」(「理不尽な暴力」とか「世の中の理不尽」といった言葉は先代の著書に多数出てきており、サバキを理解するキーワードでもあります)技術を制定し、これを磨くことを組織の方針としたことにより、芦原の会員を「ある組織の試合」という狭い世界の勝者ではなく、社会の勝者として元気づけるようにした。これこそ「武道」のあるべき姿であり、ワタクシが今も先代を尊崇してやまない理由です。
ワタクシはなにも、「手に何らの技術も持たない人が、蛮勇を振るってキチガイと戦え」と言っているわけではありません。制圧技術を何も持たない人が、自分だけに向けられた理不尽や悪意を躱すには、逃げるのが何よりイチバン。これはワタクシも同意いたします。
しかし、世の中には「逃げられない、逃げてはいけない」という状況が惹起すること、そして、それを制止できる技能や力がある人が、その責務を何もかも放棄して逃亡することを許しているわけでない、ということを忘れてはいけません。
今回の川崎の事件でのように、逃げる足を持たない子供が理不尽な狂気に晒されている、あるいは逃げる場所が限られている、あるいは警察が臨場するまでに長い時間がかかる…そうした状況下で、手に制圧技術を持つ大の男が自分の怖気の赴くまま、自分の身の安全だけを最優先し、ケツに帆掛けて走って逃げる…これはまさしく、先代芦原館長が嫌った「理不尽な暴力」を野放しにする行為であり、先代館長が生きていれば「バカな先生っちゅうのは、どこでもおるんよのー!」と言いつつ、そのバカ先生を道場破りして、ボコボコにするでしょう(;^ω^)。
そんなヤツがいたとすれば、ワタクシは心の底から軽蔑しますし、そんなヤツの道場なんか、さっさとつぶれてしまえとしか思いません
先般、神奈川県川崎市において、引きこもりをこじらせた50代のおっさんが社会を逆恨みした挙句に通り魔を行い、死者2名、重軽傷者10数名を出すという痛ましい事件が発生しました。本件の犠牲者・負傷者につきましては、弊ブログからも衷心よりお悔やみ、あるいはお見舞い申し上げます。
さて、本件に関する話題を収集する中で、このようなツイートを発見しました。
「●さんのツイート
去年、お師匠に、『刃物を振り回している人に勝てますかね?』と聞いたら、
『無理だね。相手は間合いも何もない。自分の意のままにしか動いていないから、何するか分かったもんじゃない。下手に応戦なんかしないで走って逃げろ。』
これが剣道最高段位保持者の答え。」
これに対するネットの反応も、「合気道でも逃げろと教わりますね」「素人はまず基本が無いから動きが読みにくく相手にするにはとても疲れました。(´×ω×`)相手が刃物を振り回してる狂人となればなおのことムリだと思います。」「走って逃げろ。教訓です。(❁´ω`❁)」といった具合に、概ね肯定的な意見ばかりでした。
先述の「剣道高段者」の意見に関し、私見をズバリ申し述べます。
これが「何も武道・格闘技を修めていない一般人(特に女性)」の意見であれば、これは百点満点の回答でしょう。
またこの「剣道高段者」が、●さんの蛮勇の発起を戒めた言葉であるとの心根が確定できれば、頷けないこともない言葉です。
しかしこれが、「俺はスポーツの竹刀剣道しか知らないから、刃物を持ったキチガイを相手にするノウハウも胆力も技術もない。だから走って逃げろとしか教えられない。だから俺も、そうした変事に遭遇したら、何もかもうっちゃらかして走って逃げる」というような性根から出た言葉であるなら、人様からお金を取って武道を教える者として最低最悪の逃げであり、さっさと剣道のカンバンを下ろし、「スポーツ竹刀道」というカンバンでも掲げ直すべきだと思います。
以前も弊ブログでお話ししましたが、武道とはもともとお侍さんが戦場でやっていた実戦の一部を切りとり、その部分の技術を先鋭化させたものとされていますし、柔道・剣道・合気道などといったいわゆる日本伝武道はそうしたものが源流であるとされ、「これはかつて命のやり取りで使われた、磨き上げられた技だ」などと標榜する指導者も少なくありません。
であれば、いやしくも「武道」を標榜する技術を人様からお金をいただいて教えているのであれば、スポーツルールという枠内にとどまらず、「実戦に供与する」ということを常にシビアに考え、現実に生起しうるであろう「実戦」というものの情報を細かく収集し、相手はどのように凶行に及ぶのか、自ら教えている武道がそれに対してどのような有効性を発揮しうるのか、あるいはその武道の技術で対応しきれないのならほかの類似の武道・格闘技の技でどのようなものが使えるか…ということを虚心坦懐に研究し、きちんと教えなければダメです。
しかし悲しいことにその多くは、スポーツルールの枠内で許された技を漫然と教えているだけであり、実戦とは何か、犯罪に巻き込まれるとはどういうことか、ということを真剣に考えているところは、ゼロとはいいませんが、本当に数少ないのが悲しい現実です。
それを裏付けるように、武道家・格闘家が実際に自分の身に起こった変事に際し、何もできず、やられ放題にやられたという話はよく耳にしますが、ここでは冒頭に剣道の先生の話が出てきましたので「竹刀剣道」が実戦で敗れた例を挙げます。
昭和7年に勃発した第一次上海事変では実際に刀での斬り合いが生起しましたが、剣道の高段者ほど、支那兵に斬り殺されました。
支那兵は厚い綿入れの上着を着用し、鉄兜をかぶっていたため、スポーツ剣道の「面」「胴」を打っても相手が死なない、倒れない。逆に懐に入られ、青龍刀の斬撃の餌食になりました。これは「スポーツ武道の実戦からの乖離」を示す好例といっていいでしょう。
これはその本人はもとより、やられた人間の師匠あるいは上部組織が「実戦」というものを調べる・考える・対策を築く・鍛えるということを怠った末路であり、いずれにしても恥さらし以外の何物でもありません。
先代芦原館長が「試合をしない、サバキを練る」ということを芦原カラテの基本方針とし、これを貫いた理由は、スポーツ的ルールに固執することで『実戦』に向ける目がおろそかになり、『実戦に役立つ武道』の色合いが薄くなることを危惧したからではないか。最近このように考えることが本当に増えています。
先代のサバキは先代の「実戦経験」のみならず、各種の格闘技を研究・実践した集大成ともいえるものであり、その完成度の高さはまさに折り紙付きといえます。
ワタクシもいくつかの「実戦らしきもの」を経験しましたが、サバキの思想に基づいた技は非常に使い前がよく、その都度危機を救ってくれました。また、ほかの格闘技に転向してからも「あ、サバキのあそこでやっていたヤツは、こういうことじゃったんか!」と気づかされることも多々あり、その完成度の高さはハンパではありません。
先代は、出身道場である極真会館が、試合・大会の隆盛に伴って試合に勝つテクニックだけを先鋭化させ、いつしか修行者の上に「試合での成績こそが全て」という一方的な価値観がのしかかるようになり、それによってフルコンの可能性が「試合テクニック=ローと腹の蹴り合い・殴り合い」だけにシュリンクしていく過程をつぶさに見ていたからこそ、その極北である実戦性を磨きあげ、「理不尽に打ち勝つ」(「理不尽な暴力」とか「世の中の理不尽」といった言葉は先代の著書に多数出てきており、サバキを理解するキーワードでもあります)技術を制定し、これを磨くことを組織の方針としたことにより、芦原の会員を「ある組織の試合」という狭い世界の勝者ではなく、社会の勝者として元気づけるようにした。これこそ「武道」のあるべき姿であり、ワタクシが今も先代を尊崇してやまない理由です。
ワタクシはなにも、「手に何らの技術も持たない人が、蛮勇を振るってキチガイと戦え」と言っているわけではありません。制圧技術を何も持たない人が、自分だけに向けられた理不尽や悪意を躱すには、逃げるのが何よりイチバン。これはワタクシも同意いたします。
しかし、世の中には「逃げられない、逃げてはいけない」という状況が惹起すること、そして、それを制止できる技能や力がある人が、その責務を何もかも放棄して逃亡することを許しているわけでない、ということを忘れてはいけません。
今回の川崎の事件でのように、逃げる足を持たない子供が理不尽な狂気に晒されている、あるいは逃げる場所が限られている、あるいは警察が臨場するまでに長い時間がかかる…そうした状況下で、手に制圧技術を持つ大の男が自分の怖気の赴くまま、自分の身の安全だけを最優先し、ケツに帆掛けて走って逃げる…これはまさしく、先代芦原館長が嫌った「理不尽な暴力」を野放しにする行為であり、先代館長が生きていれば「バカな先生っちゅうのは、どこでもおるんよのー!」と言いつつ、そのバカ先生を道場破りして、ボコボコにするでしょう(;^ω^)。
そんなヤツがいたとすれば、ワタクシは心の底から軽蔑しますし、そんなヤツの道場なんか、さっさとつぶれてしまえとしか思いません
老骨武道オヤジさまの、空手クラブ保護者に対する呼びかけや、制圧する腕と力を持つ者は逃げるな!という教えは大変共感致します。
ワタクシも多少格闘技を経験した者として、犯罪の研究や各種国外格闘技、武器術を可能な限り知るように努めております。それを続けることが、武道・格闘技をやるものが、余人に代わって背負うべき十字架であり、死ぬまでその十字架はおろしてはならない、と思っております。
またよろしくお願いいたしますm(__)m
今回のような凶悪な事件を聞くと、格闘技だけでなく武器術も知って(可能なかぎり身につけて)おかなくてはならないと痛感しています。
試合の開催なし、実戦性の維持。
芦原会館はCQCが世に出てくるずっと前からその路線でやっているんですよね。
武器の技術も発展していったのかもしれない…と考えると、先代館長の早逝が悔やまれます。
できることなら、これからも独自の路線(試合を開催しない)でいってほしいものです。
…まだまだ修行が足りていないですorz
四十路メタラーさまのおっしゃるとおり、先代はCQCとか、コンバットテクニックとか呼ばれるものがクローズアップされる前から、そうしたものを独自に研究しており、それがまた、現在「これがCQCじゃい!」として広められていることのすべてを凌駕している!(これはおべんちゃらでも何でもなく、ワタクシが知っている程度のことを、海外の人にやっただけで「!!!」と喜んでもらえたほどなので、ホンモノはもっとスゴい!と確信しています)…今に至って言われているCQCでのテクニックや留意事項が、実は先代が病魔に倒れる前にはほぼ明らかになっていて…本当に、先代はスゴいとしかいいようがないです。
老骨武道オヤジさま、いつも貴重な経験談を本当にありがとうございます!こうした話を伺うことを、弊ブログは常に諸手を挙げて大歓迎しております!
現在は組織の重鎮として活躍されているであろう武道オヤジさまの、伝統空手への愛着と、その過程にあった苦い出来事が克明にわかる投稿、周防平民珍山は平伏しつつ、その艱難辛苦をリスペクトしております!
今回もそうですが、時折お話しいただける「武道と実戦」が常に隣合わせだったころのエピソードは、本当に勉強になります!
老骨武道オヤジさまと違い、ワタクシはただの「格闘技凡夫」ですが、いつか悟りの境地に達することを夢見て、今も鍛錬だけはやめないようにしています。
お二方とも、これからも弊ブログをお見捨てなきよう、よろしくお願い申し上げますm(__)m