以前掲載していた「警察術科の長い長い歴史」のなかで、空手が正式に「警察武術を構成する1つのエッセンス」として登場したのは、戦後生まれの逮捕術であるという話をしました。
しかし「何かのイベントの発生」は、ある日突然、足元から鳥が飛び立つように発生することはほとんどなく、いくつかの「前振り」が重なって重なって顕在化するもの。逮捕術への空手の導入も、内務省が逮捕術を編纂する段になって急に思いついたことではなく、きちんとした前振りがあったわけです。
今回はそんなお話の紹介です。
わが国の警察機構で最も早く空手を取り入れたのは、当然といえば当然のことですが、沖縄県警察。
大正11(1922)年ころから巡査教習所の授業の一部として採用され、昭和9(1934)年には、柔剣道同様の正科目に昇格しています。
船越義珍が講道館において、当時東京商大(現在の一橋大学)学生であった儀間真謹と空手の演武を行い、内地の人間に対して初めて「沖縄に空手あり」ということを示したのが大正11年5月であり、これは沖縄県警の空手採用年とピッタリ合致します。
偶然の一致なのか、はたまたそうでないのか…このあたりの機微を示す資料はありませんが、その後に続く「空手を日本伝武道の仲間入りさせよう」というムーブメント内のひとつの出来事と位置付けることは、まったく問題ないと思います。
このとき、警察官のタマゴに空手を教えていた教授ですが、当初は剛柔流開祖の宮城朝順。その後、沖縄県警察官をやめたばっかりという、のちの糸東流開祖・摩文仁賢和(明治22(1889)~1952(昭和27)年)が加わる…といった感じであり、あまり流派へのこだわりはなかったようです。
ただ、このころの巡査教習所学生であり、後に「松林流」という首里・泊系の一門一派を構えることとなる長嶺将真(明治40(1907)~平成9(1997)年)は、「私の空手は首里手、宮城先生の空手は那覇手だから、先生の剛柔流の形は習わなかった。」というこだわりを見せていたりします(;^_^A。
その次の動きである「昭和9年に空手が柔道や県道と並ぶ正式科目となった」という理由の方はじつに単純。
その前年の昭和8年4月、空手が大日本武徳会沖縄支部柔道部門に、正式に入部許可を受けたことによります。
当時は治安維持法施行下の世の中であり、且つ、武徳会自体が内務省の息がかかった半官半民の団体(=空手の何たるかを知らないナイチャー出向者がたくさんいる)ですから、そうした連中に「なんだ、この怪しい土着武術は」とひと睨みされただけでも、「国技としての武術」という認可は下りません。
沖縄の空手の名人たちは、「警察でも採用しているきちんとした武道です」「師範たちの横のつながりもちゃんとしており、空手研究倶楽部という親睦団体も持っています」といったことを警察に再三説明するなど、慎重すぎるほど慎重に下準備を行い、約10年もの歳月をかけて「正式な日本伝武道」に格上げさせたわけです。
そして昭和10年代となり、前出の長嶺将真が「警察と空手」を結びつけるキーマンとして浮上します。
長嶺は県立那覇商業学校(現・那覇商業高校)出身だけあって経済に明るく、経済事案(横領等)を扱い、立件することができる優秀警察官として注目されており、東京への「警察官修行」(当時の沖縄県警には、優秀な警察官を東京や大阪に半年ばかり派遣し、修行させるという制度があった)に駆り出されています。
このほか当時は、警部補などのの責任ある階級に昇進する際、東京の警察講習所で研修を受けるという制度になっており、そのための上京も果たしていました(現在の同研修は、各地方管区警察学校で実施されているため、「みんな東京へ」ということはない)。
昭和16年、長嶺は内務省警察講習所(現在の警察大学校)へ1か月(警部補研修。平時は半年だが、戦争のため短縮)の出向を命ぜられ、そこで教習所の後輩・山川泰邦(1908~1991)とともに空手の演武をしており、この様子は昭和16年12月4日付「読売新聞」に掲載されています。
「三日朝十一時、警視庁裏手の特別警備隊武道場で公務で上京中の沖縄県警部補長嶺将真(三五)氏が全庁員を前に空手道の神髄を公開した。」
その理由として記事では「空手道がとにかく暴力行為の具として用いられるのを痛感して、正しい空手を普及するため」としており、東京の大学生を中心に流行っていた、筋もガラも悪い空手のことをチクリと一刺ししています。
その後「松の三分板三枚を足先と手で見事に割る手練の余技を見せた」とあり、長嶺が右の突きで松板を割っている写真が掲載されています。
おそらくメインで形かその分解を行い、オマケで試し割りをやったのでしょう。
戦前は武道の統括団体と内務省・警察がベッタリであり、その団体に参加するための「社会的信用状」として、沖縄県の警察組織や警察官空手マンが活躍し、それが戦後になって、逮捕術への空手採用につながった…と考えれば、これはかなりの合縁奇縁といえましょう。
【参考文献】
「空手は沖縄の魂なり 長嶺将真伝」 柳原滋雄 論創社
しかし「何かのイベントの発生」は、ある日突然、足元から鳥が飛び立つように発生することはほとんどなく、いくつかの「前振り」が重なって重なって顕在化するもの。逮捕術への空手の導入も、内務省が逮捕術を編纂する段になって急に思いついたことではなく、きちんとした前振りがあったわけです。
今回はそんなお話の紹介です。
わが国の警察機構で最も早く空手を取り入れたのは、当然といえば当然のことですが、沖縄県警察。
大正11(1922)年ころから巡査教習所の授業の一部として採用され、昭和9(1934)年には、柔剣道同様の正科目に昇格しています。
船越義珍が講道館において、当時東京商大(現在の一橋大学)学生であった儀間真謹と空手の演武を行い、内地の人間に対して初めて「沖縄に空手あり」ということを示したのが大正11年5月であり、これは沖縄県警の空手採用年とピッタリ合致します。
偶然の一致なのか、はたまたそうでないのか…このあたりの機微を示す資料はありませんが、その後に続く「空手を日本伝武道の仲間入りさせよう」というムーブメント内のひとつの出来事と位置付けることは、まったく問題ないと思います。
このとき、警察官のタマゴに空手を教えていた教授ですが、当初は剛柔流開祖の宮城朝順。その後、沖縄県警察官をやめたばっかりという、のちの糸東流開祖・摩文仁賢和(明治22(1889)~1952(昭和27)年)が加わる…といった感じであり、あまり流派へのこだわりはなかったようです。
ただ、このころの巡査教習所学生であり、後に「松林流」という首里・泊系の一門一派を構えることとなる長嶺将真(明治40(1907)~平成9(1997)年)は、「私の空手は首里手、宮城先生の空手は那覇手だから、先生の剛柔流の形は習わなかった。」というこだわりを見せていたりします(;^_^A。
その次の動きである「昭和9年に空手が柔道や県道と並ぶ正式科目となった」という理由の方はじつに単純。
その前年の昭和8年4月、空手が大日本武徳会沖縄支部柔道部門に、正式に入部許可を受けたことによります。
当時は治安維持法施行下の世の中であり、且つ、武徳会自体が内務省の息がかかった半官半民の団体(=空手の何たるかを知らないナイチャー出向者がたくさんいる)ですから、そうした連中に「なんだ、この怪しい土着武術は」とひと睨みされただけでも、「国技としての武術」という認可は下りません。
沖縄の空手の名人たちは、「警察でも採用しているきちんとした武道です」「師範たちの横のつながりもちゃんとしており、空手研究倶楽部という親睦団体も持っています」といったことを警察に再三説明するなど、慎重すぎるほど慎重に下準備を行い、約10年もの歳月をかけて「正式な日本伝武道」に格上げさせたわけです。
そして昭和10年代となり、前出の長嶺将真が「警察と空手」を結びつけるキーマンとして浮上します。
長嶺は県立那覇商業学校(現・那覇商業高校)出身だけあって経済に明るく、経済事案(横領等)を扱い、立件することができる優秀警察官として注目されており、東京への「警察官修行」(当時の沖縄県警には、優秀な警察官を東京や大阪に半年ばかり派遣し、修行させるという制度があった)に駆り出されています。
このほか当時は、警部補などのの責任ある階級に昇進する際、東京の警察講習所で研修を受けるという制度になっており、そのための上京も果たしていました(現在の同研修は、各地方管区警察学校で実施されているため、「みんな東京へ」ということはない)。
昭和16年、長嶺は内務省警察講習所(現在の警察大学校)へ1か月(警部補研修。平時は半年だが、戦争のため短縮)の出向を命ぜられ、そこで教習所の後輩・山川泰邦(1908~1991)とともに空手の演武をしており、この様子は昭和16年12月4日付「読売新聞」に掲載されています。
「三日朝十一時、警視庁裏手の特別警備隊武道場で公務で上京中の沖縄県警部補長嶺将真(三五)氏が全庁員を前に空手道の神髄を公開した。」
その理由として記事では「空手道がとにかく暴力行為の具として用いられるのを痛感して、正しい空手を普及するため」としており、東京の大学生を中心に流行っていた、筋もガラも悪い空手のことをチクリと一刺ししています。
その後「松の三分板三枚を足先と手で見事に割る手練の余技を見せた」とあり、長嶺が右の突きで松板を割っている写真が掲載されています。
おそらくメインで形かその分解を行い、オマケで試し割りをやったのでしょう。
戦前は武道の統括団体と内務省・警察がベッタリであり、その団体に参加するための「社会的信用状」として、沖縄県の警察組織や警察官空手マンが活躍し、それが戦後になって、逮捕術への空手採用につながった…と考えれば、これはかなりの合縁奇縁といえましょう。
【参考文献】
「空手は沖縄の魂なり 長嶺将真伝」 柳原滋雄 論創社
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます