一昨年前、国民的アニメ作家と呼ばれた宮崎パヤオという人の最終作「風立ちぬ」という映画が上映されました。
私はこの原作を映画公開前から「モデルグラフィックス」という雑誌で読んでおり、大変アカ臭い匂いがしたのでまったく見に行く気がしませんでしたが、なぜかその主題歌に、ユーミンが大昔に歌っていた「ひこうき雲」を使ったと聞き、そのことだけが妙に記憶に残りました。
私にとって、若き日に空を見上げて、何かに死ぬほど打ち込んだことって、なんだったのかなあ…と回想すると、すぐに答えが出てきました。
私にとってのそれはまさしく、芦原空手でした。
平成9年10月から平成14年3月までの4年半、まだ21~25歳と、若くてバカかった私にとって、芦原空手は人生そのものでした。
詳細は省きますが、本当にあの頃の私は、気が狂っていたと思います。
今も覚えています。平成10年の4月、芦原会館徳山支部から中国本部に移って初めての稽古の時。このブログでもよく紹介する、水曜のインストラクターだった、尊敬するU先輩にローキックをぶち蹴られ、「遠慮したらつまらんスよ!」と注意されてから、本当に気が狂ったように練習しました。
今からすれば「若いねえ~」と笑ってしまうようなヤル気と稽古内容でしたが、当時は本当にマジでした。
血のションベンが出るまで、あるいは手の甲が裂けて血が出るまで、砂袋やサンドバッグを殴るのはあたりまえ、基本の正拳中段突きを、意識がもうろうとするまでやったり(たしか3000回までは数えた記憶がある)、自主トレを終えて家に帰って玄関で倒れ、翌朝までそのまま寝てた・・・なんてこともありました。
今も思います。岩国在勤時の3年間、週3回のペースで広島まで通って稽古し、それ以外は自宅付近で自主トレ。どう考えても39歳の現在では、絶対にできない出席率、稽古状況であったと・・・。
で、それで劇的に強くなったかというとそんなことはなく、芦原会館を辞め、そのほかの格闘技をある程度修めた現在でも、いまだに「ワシは弱い、まだ弱い、あれができてない、これができてない・・・」と戦々恐々としているのですが(^_^;)。
そういえば、河島英五の名曲「なにかいいことないかな」では、河島英五は「中学校の頃の僕はバスケがこの世のすべてのような顔をしていた」と歌っていましたが、20代前半の私にとっては、芦原空手がまさにそれでした。
その成否はともかくとして、若い頃に後先考えず、体を張った一事に没頭することは、人間がしょせん動物である以上、とても重要なことだと考えています。おじさんになってからそれがない人と付き合う機会があっても、考え方の根底が違うのか、なんか私はとっつきにくい・・・。
松任谷由実「ひこうき雲」の一節です。
「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ」
私にとって、「ほかの人にはわから」ず、「若すぎた」からできて「しあわせ」だったこと。それは間違いなく、芦原空手でした。
その後、格闘技の「母港」となったのは、大阪府泉佐野市の格闘技吉田道場でしたが、その前段階、何者でもなく、ただ若かった私が「空に憧れて、空をかけてゆく」・・・みたいな感じで、無我夢中で駆け抜けることができたのは、まぎれもなく、芦原空手でした。今も感謝の気持ちでいっぱいです。
今私の手元にある修行の遺産としては、1着の空手着と、初段の黒帯だけです。
私はこの原作を映画公開前から「モデルグラフィックス」という雑誌で読んでおり、大変アカ臭い匂いがしたのでまったく見に行く気がしませんでしたが、なぜかその主題歌に、ユーミンが大昔に歌っていた「ひこうき雲」を使ったと聞き、そのことだけが妙に記憶に残りました。
私にとって、若き日に空を見上げて、何かに死ぬほど打ち込んだことって、なんだったのかなあ…と回想すると、すぐに答えが出てきました。
私にとってのそれはまさしく、芦原空手でした。
平成9年10月から平成14年3月までの4年半、まだ21~25歳と、若くてバカかった私にとって、芦原空手は人生そのものでした。
詳細は省きますが、本当にあの頃の私は、気が狂っていたと思います。
今も覚えています。平成10年の4月、芦原会館徳山支部から中国本部に移って初めての稽古の時。このブログでもよく紹介する、水曜のインストラクターだった、尊敬するU先輩にローキックをぶち蹴られ、「遠慮したらつまらんスよ!」と注意されてから、本当に気が狂ったように練習しました。
今からすれば「若いねえ~」と笑ってしまうようなヤル気と稽古内容でしたが、当時は本当にマジでした。
血のションベンが出るまで、あるいは手の甲が裂けて血が出るまで、砂袋やサンドバッグを殴るのはあたりまえ、基本の正拳中段突きを、意識がもうろうとするまでやったり(たしか3000回までは数えた記憶がある)、自主トレを終えて家に帰って玄関で倒れ、翌朝までそのまま寝てた・・・なんてこともありました。
今も思います。岩国在勤時の3年間、週3回のペースで広島まで通って稽古し、それ以外は自宅付近で自主トレ。どう考えても39歳の現在では、絶対にできない出席率、稽古状況であったと・・・。
で、それで劇的に強くなったかというとそんなことはなく、芦原会館を辞め、そのほかの格闘技をある程度修めた現在でも、いまだに「ワシは弱い、まだ弱い、あれができてない、これができてない・・・」と戦々恐々としているのですが(^_^;)。
そういえば、河島英五の名曲「なにかいいことないかな」では、河島英五は「中学校の頃の僕はバスケがこの世のすべてのような顔をしていた」と歌っていましたが、20代前半の私にとっては、芦原空手がまさにそれでした。
その成否はともかくとして、若い頃に後先考えず、体を張った一事に没頭することは、人間がしょせん動物である以上、とても重要なことだと考えています。おじさんになってからそれがない人と付き合う機会があっても、考え方の根底が違うのか、なんか私はとっつきにくい・・・。
松任谷由実「ひこうき雲」の一節です。
「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ」
私にとって、「ほかの人にはわから」ず、「若すぎた」からできて「しあわせ」だったこと。それは間違いなく、芦原空手でした。
その後、格闘技の「母港」となったのは、大阪府泉佐野市の格闘技吉田道場でしたが、その前段階、何者でもなく、ただ若かった私が「空に憧れて、空をかけてゆく」・・・みたいな感じで、無我夢中で駆け抜けることができたのは、まぎれもなく、芦原空手でした。今も感謝の気持ちでいっぱいです。
今私の手元にある修行の遺産としては、1着の空手着と、初段の黒帯だけです。
する意義とは何か?を考えるようになりました。多くは語りません、私はこれを続けることは人生を堂々と生き抜くのに役立つ!そんじょそこらの並みのオトコより値打ちのあるオトコになれる!・・という単純明快な生き方を続けることで理不尽な目にあっても乗り越えてきました・・以上、とりとめのないコメントでゴメン!お互い頑張りましょうね・・いつか私の次男坊に会えたらよろしくね。
いつもありがとうございます。
おおお、ちょうど多感な大学生の頃にあの「空バカ」や「地上最強のカラテ」。確かに真面目に伝統的な空手をされている方には、さぞかし面白くない時代であったことでしょう…全空連系にも、田中昌彦先生とか、矢原美紀夫先生とか強豪がたくさんおられたのに…
私も武道オヤジさまと同様、武道・格闘技とは、入る門は違えども、男として堂々と生きるため、余裕を持って生きるために必要な修行であり、人生を通じてやるものであると考えています。
還暦過ぎ武道オヤジさまの頑張りには及びませんが、私も微力を尽くします…。