市職員、勤務中にゲームや昼寝 京都・向日市
京都府向日市のごみ収集を担当する清掃職員の大半が、所定勤務時間中にもかかわらず、市庁舎横の職場でテレビ鑑賞やゲーム、昼寝などをしていることが19日、京都新聞の取材で分かった。背景に、業務内容が勤務時間に比べて少ない実態もあり、それを市は把握しながら是正に積極的に取り組んでこなかった。市は「徐々に仕事を増やしてきたつもりだが、踏み込めていなかった」としている。
清掃職員の所定勤務時間は午前8時半~午後5時15分で、現在、アルバイトと嘱託を含めて17人いる。市や関係者によると通常、ごみ収集は午前中には終了し、それ以降の勤務時間については大型ごみ収集などを行う当番以外、犬や猫の死骸収集といった急な出動に備えて待機することになっている。
しかし、急な出動はまれで午後は仕事がない状態が少なくとも十数年、恒常化しているという。関係者の話や取材では、正午前から多くの職員が職場にこもり、携帯電話のゲームや音楽鑑賞、読書のほか、仮眠をとる状態が続いているという。
市は「今後は外部委託や事務事業の見直しを含め改善したい」としている。(京都新聞)
こういうニュースはあちこちでよく聞く。
ゴミ収集という人の嫌がる仕事、キツい・汚い・危険な仕事をしているのだから、
その見返りにある程度多めの休息が与えられるのは、認められてもいいと思う。
ただ、それにしたって、
「午前中に仕事が終わり、あとは夕方まで暇潰しをしているだけ」というのは、
あまりにもルーズな労働環境だし、本人たちにしたって、
終業時刻をひたすら待つだけの不毛な時間潰しを毎日強いられるのは苦痛だろう。
そうかと言って、全員をパートタイム勤務にして、
「実労働時間分しか給料を出さない」というのも乱暴だ。
社会に必要不可欠な仕事なのだから、労働者の身分保障も必要だ。
こういうニュースを聞くたびに思う。
「そんなに労働力が余っているのなら、集積所方式のゴミ収集はやめて、戸別収集にすればいいのに」と。
特に住宅密集地に住んでいると、ゴミ集積所というのがいかに“諸悪の根源”になっているかがわかる。
まず、集積所をどこにするかで揉める。
誰も自分の家の前に他人のゴミをうず高く積まれたくはない。
公園や空き地の前が狙われる。
うちの実家近くでは、小さな児童公園の周囲に4か所ものゴミ集積所がある。
近隣のゴミ集積所がみなここに「吹き寄せられて」きたのだ。
公園も空き地も周辺になければ、誰かの家が貧乏くじを引かざるを得ない。
持ち回りで何年かごとにその場所を変えるにしたって、
週に3度も4度もゴミの山ができるのは、相当なストレスだ。
「自分の家の前ではない」「置いてしまえば混ざって誰のゴミかわからなくなる」状況は、
容易に「分別がいい加減な投棄」や「通りすがりの不法投棄」を生みやすくなる。
近隣住民がきちんと管理しあえる環境にあればまだいいが、
時代はもうそういう雰囲気ではなくなってきているのではないか。
たとえば、昔は宅配便が荷物を配達に来て住人が不在なら、
隣家が代わりに預かるのが当たり前の習慣としてあった。
「隣同士、お互い様」の意識があったからだろう。
今は宅配便もそんなことはしない。何度だって持ち帰って再配達する。
「うちはうち、隣家は隣家」という意識が強まり、
「隣近所のために協力する」ということも、必ずしも自明のことではなくなってきている。
いいとか悪いとか価値判断を挟む余地もなく、今はそういう時代だ。
そうなると結局は、「集積所が目の前にある家」だけにゴミの後始末の犠牲が降りかかる。
また、「ここがゴミ集積所ですよ」と常に明示されている状況
(看板が出ているとか、カラス除けネットがだらしなく垂れ下がっているとか、
そもそも後始末できていなくて地面にゴミが散乱しているとか)は、
それ自体が町の美観を損ねる。
さらに、地域の自治会組織が形骸化しているにもかかわらず、
(集めた自治会費が役員連中の飲み食いにしか使われていない、とか)
「入会しないとゴミ集積所が使えない。ゆえに、ゴミが捨てられない」という一点において、
それがあたかも「人質」のようになり、
自治会の不本意な延命策に悪用されている地域だってあるのではないか。
このように“諸悪の根源”たる「ゴミ集積所」は、もうきっぱりやめればいいのだ。
そのかわり、一軒一軒、ゴミを収集する。
「ゴミを出す家は、自分の家の前に出すゴミについて、自分で責任を負う」
…これほど清々しい道理もないはずだ。
「集積所」にはいい加減な捨て方をしていた人も、自分の家の前に出すことになれば、
(そして「そのゴミはその家に帰属している」ということが傍目にも明白であれば)
捨て方には気を配るようになるだろうし、工夫もするようになるだろう。
実際、戸別収集に移行した自治体では、資源リサイクル率が高まり、ゴミ収集量が減った事例もあると聞く。
どうもみな、「一軒一軒ゴミを集めるのは大変な手間だ」という思い込みが強いのかも知れないが、
引用記事のように、ゴミ収集員の実労働時間はえてして短い。むしろ、短すぎて対処に困っている。
そもそも、郵便・新聞配達や電気・ガス・水道検針のように、
「家を一軒一軒地道に回る」仕事は、決して珍しくもない。
もちろん、マンションやアパートなど、管理人がおり、敷地に余裕もある集合住宅は、
管理人の監督下で、集積所の利用を継続すればよい。
それでも「ゴミ収集員の負担が大きい」という意見が根強く残るのなら、
個人的には収集日を減らしてもらってもいい。自分なら半減でもいい。
可燃ゴミは週1回、プラスチックゴミ・資源ゴミは隔週1回、不燃ゴミは月1回でいい。
(本当はもっと減らしてもらってもいいが、さすがにそこまでできるのは
自分くらいの特殊事情で、広く世間に敷衍できるものではないと思う)
また、「新聞配達員が、配達先でポストに新聞が溜まっているのに気づき、住人の異変に気づいた」
というニュースをよく耳にするように、
ゴミ収集員も、家一軒一軒を毎日のように隈なく回るその特性を活かし、
「地域の些細な変化にも気づける見守り人」の役割を担ってもらうのも良いだろう。
「ゴミ収集員が週に何回か家の前まで来てくれ、様子をさりげなく窺ってくれる」ことが、
生きるよすがになる独居老人だっているかも知れない。いや、冗談ではなく。
各地に現れて問題化しているゴミ屋敷(多くは住人の精神疾患が原因ではないかと思われる)や、
放置されて荒れる空き家などにも、いちばん敏感に気づけるのは彼らではないだろうか。
時代は変わっている。
いかにも前近代的な佇まいを呈している「ゴミの集積所」は、もう、やめにしてよい。
<後日追記>
台東区では2016年から全域で戸別収集に移行したそうだ。
メリットとして下記が挙げられている。
・それぞれの玄関先に出すので、ごみの出し方に対する意識が向上する。
・「分別の徹底」はもちろん、生ごみの水分を絞ったり、
ごみが増えないよう不要な包装を断ったり等、「排出の抑制」が促進される。
・集積所が廃止されたため、集積所管理の負担が軽減されたり、不法投棄の防止につながる。
その結果、区の収集ごみ量は、2016年度上半期(4~9月)で前年度比1.6%減となっているそうだ。
京都府向日市のごみ収集を担当する清掃職員の大半が、所定勤務時間中にもかかわらず、市庁舎横の職場でテレビ鑑賞やゲーム、昼寝などをしていることが19日、京都新聞の取材で分かった。背景に、業務内容が勤務時間に比べて少ない実態もあり、それを市は把握しながら是正に積極的に取り組んでこなかった。市は「徐々に仕事を増やしてきたつもりだが、踏み込めていなかった」としている。
清掃職員の所定勤務時間は午前8時半~午後5時15分で、現在、アルバイトと嘱託を含めて17人いる。市や関係者によると通常、ごみ収集は午前中には終了し、それ以降の勤務時間については大型ごみ収集などを行う当番以外、犬や猫の死骸収集といった急な出動に備えて待機することになっている。
しかし、急な出動はまれで午後は仕事がない状態が少なくとも十数年、恒常化しているという。関係者の話や取材では、正午前から多くの職員が職場にこもり、携帯電話のゲームや音楽鑑賞、読書のほか、仮眠をとる状態が続いているという。
市は「今後は外部委託や事務事業の見直しを含め改善したい」としている。(京都新聞)
こういうニュースはあちこちでよく聞く。
ゴミ収集という人の嫌がる仕事、キツい・汚い・危険な仕事をしているのだから、
その見返りにある程度多めの休息が与えられるのは、認められてもいいと思う。
ただ、それにしたって、
「午前中に仕事が終わり、あとは夕方まで暇潰しをしているだけ」というのは、
あまりにもルーズな労働環境だし、本人たちにしたって、
終業時刻をひたすら待つだけの不毛な時間潰しを毎日強いられるのは苦痛だろう。
そうかと言って、全員をパートタイム勤務にして、
「実労働時間分しか給料を出さない」というのも乱暴だ。
社会に必要不可欠な仕事なのだから、労働者の身分保障も必要だ。
こういうニュースを聞くたびに思う。
「そんなに労働力が余っているのなら、集積所方式のゴミ収集はやめて、戸別収集にすればいいのに」と。
特に住宅密集地に住んでいると、ゴミ集積所というのがいかに“諸悪の根源”になっているかがわかる。
まず、集積所をどこにするかで揉める。
誰も自分の家の前に他人のゴミをうず高く積まれたくはない。
公園や空き地の前が狙われる。
うちの実家近くでは、小さな児童公園の周囲に4か所ものゴミ集積所がある。
近隣のゴミ集積所がみなここに「吹き寄せられて」きたのだ。
公園も空き地も周辺になければ、誰かの家が貧乏くじを引かざるを得ない。
持ち回りで何年かごとにその場所を変えるにしたって、
週に3度も4度もゴミの山ができるのは、相当なストレスだ。
「自分の家の前ではない」「置いてしまえば混ざって誰のゴミかわからなくなる」状況は、
容易に「分別がいい加減な投棄」や「通りすがりの不法投棄」を生みやすくなる。
近隣住民がきちんと管理しあえる環境にあればまだいいが、
時代はもうそういう雰囲気ではなくなってきているのではないか。
たとえば、昔は宅配便が荷物を配達に来て住人が不在なら、
隣家が代わりに預かるのが当たり前の習慣としてあった。
「隣同士、お互い様」の意識があったからだろう。
今は宅配便もそんなことはしない。何度だって持ち帰って再配達する。
「うちはうち、隣家は隣家」という意識が強まり、
「隣近所のために協力する」ということも、必ずしも自明のことではなくなってきている。
いいとか悪いとか価値判断を挟む余地もなく、今はそういう時代だ。
そうなると結局は、「集積所が目の前にある家」だけにゴミの後始末の犠牲が降りかかる。
また、「ここがゴミ集積所ですよ」と常に明示されている状況
(看板が出ているとか、カラス除けネットがだらしなく垂れ下がっているとか、
そもそも後始末できていなくて地面にゴミが散乱しているとか)は、
それ自体が町の美観を損ねる。
さらに、地域の自治会組織が形骸化しているにもかかわらず、
(集めた自治会費が役員連中の飲み食いにしか使われていない、とか)
「入会しないとゴミ集積所が使えない。ゆえに、ゴミが捨てられない」という一点において、
それがあたかも「人質」のようになり、
自治会の不本意な延命策に悪用されている地域だってあるのではないか。
このように“諸悪の根源”たる「ゴミ集積所」は、もうきっぱりやめればいいのだ。
そのかわり、一軒一軒、ゴミを収集する。
「ゴミを出す家は、自分の家の前に出すゴミについて、自分で責任を負う」
…これほど清々しい道理もないはずだ。
「集積所」にはいい加減な捨て方をしていた人も、自分の家の前に出すことになれば、
(そして「そのゴミはその家に帰属している」ということが傍目にも明白であれば)
捨て方には気を配るようになるだろうし、工夫もするようになるだろう。
実際、戸別収集に移行した自治体では、資源リサイクル率が高まり、ゴミ収集量が減った事例もあると聞く。
どうもみな、「一軒一軒ゴミを集めるのは大変な手間だ」という思い込みが強いのかも知れないが、
引用記事のように、ゴミ収集員の実労働時間はえてして短い。むしろ、短すぎて対処に困っている。
そもそも、郵便・新聞配達や電気・ガス・水道検針のように、
「家を一軒一軒地道に回る」仕事は、決して珍しくもない。
もちろん、マンションやアパートなど、管理人がおり、敷地に余裕もある集合住宅は、
管理人の監督下で、集積所の利用を継続すればよい。
それでも「ゴミ収集員の負担が大きい」という意見が根強く残るのなら、
個人的には収集日を減らしてもらってもいい。自分なら半減でもいい。
可燃ゴミは週1回、プラスチックゴミ・資源ゴミは隔週1回、不燃ゴミは月1回でいい。
(本当はもっと減らしてもらってもいいが、さすがにそこまでできるのは
自分くらいの特殊事情で、広く世間に敷衍できるものではないと思う)
また、「新聞配達員が、配達先でポストに新聞が溜まっているのに気づき、住人の異変に気づいた」
というニュースをよく耳にするように、
ゴミ収集員も、家一軒一軒を毎日のように隈なく回るその特性を活かし、
「地域の些細な変化にも気づける見守り人」の役割を担ってもらうのも良いだろう。
「ゴミ収集員が週に何回か家の前まで来てくれ、様子をさりげなく窺ってくれる」ことが、
生きるよすがになる独居老人だっているかも知れない。いや、冗談ではなく。
各地に現れて問題化しているゴミ屋敷(多くは住人の精神疾患が原因ではないかと思われる)や、
放置されて荒れる空き家などにも、いちばん敏感に気づけるのは彼らではないだろうか。
時代は変わっている。
いかにも前近代的な佇まいを呈している「ゴミの集積所」は、もう、やめにしてよい。
<後日追記>
台東区では2016年から全域で戸別収集に移行したそうだ。
メリットとして下記が挙げられている。
・それぞれの玄関先に出すので、ごみの出し方に対する意識が向上する。
・「分別の徹底」はもちろん、生ごみの水分を絞ったり、
ごみが増えないよう不要な包装を断ったり等、「排出の抑制」が促進される。
・集積所が廃止されたため、集積所管理の負担が軽減されたり、不法投棄の防止につながる。
その結果、区の収集ごみ量は、2016年度上半期(4~9月)で前年度比1.6%減となっているそうだ。