銃剣を喉元に、突きつけられたのだという。二・二六事件のその日、十七歳だった日本画家の堀文子さんは、自宅近くで、決起した軍人に呼び止められている。<死への予感と目前に迫り来る戦争の気配を強く感じた>と恐怖の体験を著書で振り返っている▼大正七年の東京生まれ。いやでも、混乱の中を生きなければならなかった世代だ。戦争では、航空隊の弟らを亡くした。家は空襲で焼かれた。幼少のころの関東大震災では、死を目の当たりにしている▼時代に絶望と死を突きつけられたところから始まった画家としての歩みであろう。名もない草花や鳥、獣たち…。画風を変えながらの長い活動で、描かれた作品には、命の美しさや自然の息吹を感じさせるものが多い▼絶望を知ればこそ、みる人の心に染み込んでくるような絵の中の生命感ではないか。「一所不住」と自ら言って、旅を続けた人でもある▼四十代で三年間、世界をひとりで放浪している。七十代の前半はイタリアで過ごした。八十歳を過ぎてヒマラヤに行き、高地に咲く花を探した。一生、何かを追い求めた人が先日、百歳で亡くなった▼特定秘密保護法の成立を受けて、平和への危機感をつづり、東京新聞に投稿していたのが五年前。九十五歳のことだ。少女時代、戦争反対を口にしたくてもできなかった。無念の思いも、長い旅の終わりに晴らしている。