昔の子どものクイズに「鉄一トンと綿一トン。どちらが重いか」というのがあった。鉄と答えたくなるが、どちらも一トンなのだから同じ重さである▼寒さはちょっと違う。気温が同じセ氏一度でも風や湿度によって人の肌の感じ方は異なる。体感温度によるもので同じ一度でも風が強ければより寒く感じる▼この問題を気温にたとえれば、どうやら寒くはなっていないらしい。昔に比べれば、過ごしやすくなっている。なのに日本人はより寒さを感じているそうだ。何の話かといえば治安である▼警察庁のアンケートによると治安が悪くなったと回答した人は約六割に及ぶ。実際、昨年、全国で発生した刑法犯認知件数は戦後最少記録を更新したにもかかわらずである。体感する治安が悪い▼世界的ベストセラー『ファクトフルネス』によると人間は世界を悲観的に見る傾向があるらしい。今、起きている悪い出来事ばかりをニュースで見ていれば、誰でも不安を覚えるようになるという。逆に過去は美化されやすく、結果、世界は悪くなっていると感じるそうだ▼治安悪化は錯覚か。どうも素直にうなずけぬ。電車内で刃物を振り回すなど理解しにくい事件や意見の異なる者を決して許さぬ風潮を思えばやはり寒さにコートの襟を立てたくなる。<合点して居ても寒いぞ貧しいぞ>小林一茶。治安の悪さを体感させる風の正体を知りたい。
沙羅双樹(さらそうじゅ)はインド原産の常緑樹。高さは三十〜五十メートル、幹の直径は一〜二・五メートルという。淡黄色の小さな花をつける▼仏教では聖なる木とされる。釈迦(しゃか)の死の際、その場所の四方には二本ずつ計八本の沙羅の木があったが、死を悲しみ、にわかに白く変わったとも伝わる。万物は変化してとどまることがない<無常>を象徴する木とされる▼そう名付けられた理由は知らないが、高梨沙羅選手(25)は少しでも元気を取り戻しただろうか。北京五輪のノルディックスキー・ジャンプ混合団体で、スーツの規定違反で失格になった▼100メートルを超えた一回目のジャンプ後の検査で、判断された。大飛躍の喜びが一転、悲しみに変わることも<無常>なのかもしれないが、あまりに残酷な展開。よくぞ二回目を飛んだものだと敬服する▼高梨選手は自身のインスタグラムに「私のせいでメダルをとれなかった」「深く反省しております」などと投稿したが、仲間やファンから激励のメッセージが相次いでいるという。本人は「今後の私の競技に関しては考える必要があります」とも書いた。心の整理にはまだ時間がいるのかもしれない▼インドはスキーのジャンプが盛んとは聞かないが、古代のサンスクリット語で<サラ>は<高く遠いさま>も意味するという。世の万物が流転するのなら、人生も悪いことばかり続くまい。花はまた咲く。
長いテーブルの端と端に分かれて座った二人の夫婦が言葉もなく朝食を取っている。夫の方は大富豪の新聞王なのだが、妻がその席で読んでいるのは夫が憎む、ライバル紙の方。古い映画ファンならお気づきか。オーソン・ウェルズ監督・主演の「市民ケーン」(一九四一年)にそんな場面がある▼長いテーブルに遠く離れて座る二人。それだけで夫婦の冷えきった関係を明確に表している。あのテーブルのシーンをふと思い出させる、七日のモスクワでの出来事である▼登場人物は仲の悪い夫婦ではない。ロシアのプーチン大統領とフランスのマクロン大統領。緊迫の度を深めるウクライナ情勢について約五時間にわたって協議した。目を引いたのは会談に使われたテーブルの長さである▼ゆうに五メートルはあったそうだ。このテーブルに二人の大統領が遠く離れて座る。話しにくかろうし、親密な雰囲気とは無縁なテーブルである▼自身のコロナ感染に神経をとがらせるプーチン大統領の指示で、化け物のようなテーブルが用意されたと聞くが、理由はそれだけではなかろう。先の北京では中国の習近平国家主席と身体が触れ合うほど近い場所にいたプーチンさんである▼会談後、マクロン大統領は緊張緩和に向け、前進があったかのように説明したが、ロシア側は否定している。確かにあのテーブルの距離が簡単に縮むとは思えない。
「火の用心さっしゃりましょう」。町内を回って火の用心を呼びかけていた旦那衆。あまりの寒さに番小屋で暖を取っていたが、そのうち隠し持ってきた酒を飲みだし、揚げ句はシシ鍋まで。もはや宴会である▼おなじみの落語の「二番煎じ」。志ん朝さんの名調子が懐かしい。大切な火の回りの務めもすっかり忘れ、宴会とはあきれた話。その現場を目撃した役人もとがめるどころか一緒になって酒を酌む▼英国に似たような話がある。「コロナの用心さっしゃりましょう」。そう呼びかけ、厳しいロックダウン(都市封鎖)で市民生活を規制しながら、自分たちは許されるのだといわんばかりに首相官邸で規制違反のパーティーを繰り返し開いていた。ジョンソン首相を含む首相官邸の職員らである▼感染対策の行動制限が求められていた二〇二〇年五月以降、官邸などで十数回のパーティーが行われたと伝わる▼人には厳しく自分には甘く。この件で首相の支持率は大きくダウンしたが、国民が腹を立てるのも無理はない。とがめられ、パーティーを仕事だと当初、言い訳したことも火に油を注いだ▼ジョンソンさんが尊敬するチャーチル元英首相の名言を思い出す。「私はアルコールに奪われた以上のものをアルコールから奪った」。酒の効用を語っているのだが、ジョンソンさんの場合は奪われたものの方がはるかに大きい。
岡山県に転勤を命じられた会社員の夫(池部良)が妻(淡島千景)と相談する。「山ン中だぜ」「いいじゃないの。東京でクサクサしているよかよっぽどいいわ」。小津安二郎監督の映画「早春」(一九五六年)にそんな場面がある▼夫に浮気相手(岸恵子)ができ、夫婦関係はのっぴきならない状態になっている。最終的に夫婦は岡山へ行くのだが、ラストシーンで夫が通り過ぎる列車をながめながらつぶやくセリフが印象に残る。「あれに乗ると、明日の朝は東京に着くんだなあ」。東京への未練がまだ残っている▼「早春」の時代に比べれば今の人は東京を離れることにさほどの未練もためらいもないのだろう。総務省が発表した二〇二一年の人口移動報告によると東京二十三区の転出者数は転入者数を上回ったそうだ▼比較できる一四年以降で初めての転出超過という。コロナ禍の影響が大きいらしい。東京の過密さを嫌い、自然豊かな地方へ目を向けるのはよく分かる▼テレワークの普及によって東京に住まなくとも今の仕事を続けられるとなれば「東京よさようなら」を選択する人も増えるのだろう▼行き過ぎた東京一極集中の緩和や地方再生は歓迎すべき方向とはいえ、この流れは本物か。転出先を見れば神奈川、埼玉、千葉が中心である。東京二十三区を離れても「東京圏」には未練がなお断ち切れないのかもしれぬ。