どうも。なんと言うか、資料を集める暇がなくて、独り言の連続なんだけどさ。また、議論の話だ。
そうね。思想的とか宗教的とか、対立のようなものって、要するに相手の考え方は一切受け入れられないなんて言うところから始まるんじゃない。
少なくとも、対話、議論のようなものが行われる環境なら、必ずしも、互いに相いれないものが向かい合っているとは言えないでしょう。統合の可能性があるんだからね。
つまるところが平和的共存だとするなら、対話やら議論やらは、第一歩とか、そう言う位置付けになるんだろう。
結局さ。行動ばかりでなく、暴力的な言葉も含めてね。過激派がうるさいんだよ。それが其々の中心のような顔をしてワーワー騒ぐんだわ。そして組する主義主張の評判を落とすんだよね。
実際は、穏健派もいる訳なんだけど、自己主張しないから穏健派でいられるんだよなぁ。だから、中々表には出てこないんだわ。
穏健派同士で議論しても、過激派に色んな意味で、ぶっ壊されるのが落ちだったりしてね。所謂さ、暴力的な応酬を招くんだわ。
当然、社会の構造で暴力を用いなければ、言い分が一切通らない、一部が大きな不利益を被るなんて場合もあるのだから、程度の問題ではあるのだろうけど、それでもだ、平和な社会においてだよ、言葉も含めた暴力を用いて相手を捻じ伏せると言うのは、ちょっと過ぎた考え方なんじゃないなんて言われても仕方ない訳さ。
人其々考え方が違うのは当たり前なんです。だから多様な考えとの平和的共存が必要な訳ね。そうだな、共存するには優先順位として何を上位に持ってくるかが重要になってくるんじゃない。
より普遍に近い価値観になり得ると言うか、より共通認識化できそうな価値観と言うか、共感が可能な思いと言うか、そう例えば暴力は用いないとか、そう言ったことを互いに優先順位の上位に持って来るところから始めるこったね。そこから徐々に詰めて行くのが妥当な線でしょう。
まぁ、当事者が一番熱いのだから、当事者間での話し合いは怒りのような感情を伴って拗れるのもしばしばなんだけどさ。そうね。仲立ちと言うか、中立的な立場の人が間に入ってくれると良いのかなぁ。仲裁。
仲裁なんてものは、利害調整やら何やら、双方に対して交渉のようなものを必要とするだろうからね。多分。単にワーワー自分の言い分をぶつけるよりも高い能力が必要だろうなぁ。
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