生まれ育ちが恵まれていなくて、立身出世して勝ち組にのし上がって見返した元貧民はあまたいるけれど
社会を、弱者にとってよりよく変えた世界の偉人たちには、元貧民よりも、家庭が裕福で恵まれていた人が多くみられます。
ブッダは王子様、ヘレン・ケラーは地主の娘、ナイチンゲールも裕福な家庭の育ちで、看護師という「卑しい」職業を
志して家族に猛反対された、マハトマ・ガンジーもポールバンダル藩王国の宰相と夫人の子として生まれた、
ネルソン・マンデラはテンブ人の首長の子として生まれた、ベネズエラの元大統領ウゴ・チャベスは
教師をしていた両親の間に生まれた、マーチン・ルーサー・キング.Jrは牧師の子、ローザ・パークスの母は
教師で11歳になるまでローザに教育を施した、「沈黙の春」のレイチェル・カーソンの母も当時まだ珍しい教師、
キューバ革命を起こしたフィデル・カストロは裕福な農場主の息子として生まれた、チェ・ゲバラはペルー副王
ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり経済的に恵まれた家庭で育った、Bob Marleyは英海軍大尉でジャマイカ最大の
建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人の父とアフリカ系ジャマイカ人の母との間に
生まれる、田中正造の生まれは名士の家(本人によれば村では中流でそれほど裕福ではかったと)、
内村鑑三は高崎藩士の子として江戸藩邸に生まれ、札幌農学校・アーモスト大・ハートファード神学校卒。
幸徳秋水の一族は酒造業と薬種業を営む町の有力者だった。
私が敬愛する、弱者側を守る弁護士界の重鎮のおじいちゃん2人も、戦前に生まれ、戦後1950・60年代に
東大や九大の法学部を出ている。それから大好きなこの人も、とても恵まれた家庭環境で育った人です。
湯浅誠さんの生まれは中流家庭で、兄が身体障害者であったが、家にはボランティアのお兄ちゃんお姉ちゃんが
しょっちゅう出入りしていて自身も遊んでもらっていた。
社会活動家ではないけれど私の好きなターシャ・テューダーも裕福な育ちで、参加させられていた上流階級の
社交パーティが苦手で、庭園にいつも逃げ出していた女の子だった。アーツ&クラフツ運動創始者で熱心な
社会主義者のウィリアム・モリスは、William Morris as real Socialist ロンドンの証券仲買人の子として生まれ、
父は投資で巨額の富を得たので裕福な邸宅で子ども時代を過ごしている。ジョージ・オーウェルの曽祖父は
ジャマイカの農場での収入による不在地主として裕福な資産家であり、祖父は聖職者で、父はインド高等文官
(イギリス領インドの植民地統治に従事した高級官僚)であった。
弱い者にとって社会をよく変えた世界の偉人の伝記を見ると「やっぱりこの人も恵まれた育ち」と思うことが多いです。
守られてこそ、守ることができる
自分が守られていないのに 他のものを守ることはできない
私は生きている中でそう感じることがあり、子育てでもそれが念頭にあります。(褒められた子育てをしてませんが><)
私が出会った尊敬する人達のように育って欲しいから。
子どもを絶対的に守りもしないで、その子が外に出てなにを守れるようになると言うのか…
守られてこそ、外に飛び出して行ける。これは発達心理学における「安全地帯」という概念です。
この考えは、 底上げするに底を広げるべからず 外国人労働者② にも通じています。
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自身が、貧しくて恵まれない生まれ育ちをして、社会を弱者にとってよりよく変えた人は誰がいるでしょうか。
立身出世して莫大な財をなして「社会慈善活動家」にもなった、よくある例を除く。
アン・サリバンがいました。
奇跡の人アン・サリバンは幼少期に入った劣悪な衛生環境の孤児院にて弟を亡くしています。彼女自身目に障害があり、手術をしています。哀しい経験が、彼女の信念と忍耐強さの原動力になっていました。ヘレン・ケラーという社会活動家を育てた背景には、アン・サリバンという家庭教師を邸宅に住み込みで招いて雇う裕福な家庭環境がありました。また、サリバンの申し出でにより、家族と別々に2人で生活する離れの家がありました。
小林多喜二もでした。秋田県で小作農家の次男として生まれ、生活は豊かではなかったが、事業に成功した伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受けた。
それから、全国を設立した人達もでした。その中心人物で、日本最初の人権宣言である宣言を起草した西光万吉は奈良県の被差別の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれた。
宣言
全國に散在する吾が特殊民よ團結せよ。
長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
大正一一年三月三日 全國創立大會
— 1922年3月3日、京都市・岡崎公会堂にて宣言