「学習しない人たち」を記したばかりだが、続編である。前回「信号が赤で、あるいは赤になりそうなのに、横道から出ようとしている車の前に出て、道を防ぐ行為」に対して学習能力がないと言った。それほど「ほかの車を入れたくない」という意志の表れであるが、この場合は確かに運転手にとっては1台でも前に入れば、その分到着が遅れるかもしれない(1、2秒あるいはその1台のせいで信号が赤くなって最大1分くらい、もっと言えばそのせいで運が重なって数分遅くなる可能性はある)。したがってその気持ちがわからないでもないが、まさに自分だけが、という個人主義の表れだ。
ここで示す例は時間にはおそらくほぼ無関係な例だ。こちらが店舗の駐車場に入ろうと右折しようとしている時、対向車線に車が繋がっている。対向車線の前方にある信号機が青なら仕方ないが、車列が繋がっていて速度が落ちている、さらには前方の信号機が黄色くなって赤になろうとしているのに右折車を入れさせてあげない。結局「これ以上前進できない」というところまで車が詰まってから、きるで仕方ないように前方の車が間を空けて停車した。よってわたしは右折できたが、何台車が目の前を通過していったことか。それらすべて信号待ちで停車している姿を横目に、わたしはようやく店舗の駐車場に入ることができた。冒頭の例と意識は同じなのかもしれない(自分の前で車を通したくない)が、こういう人たちを見ていると、この人たちの辞書には「人のために」などという言葉はないとつくづく思う。もしそのような言葉を口にするとしたらパフォーマンスだろうと悟る。
さて、昔はパソコンで文字を打つのは誰よりも「早い」と思っていた。ところがタイプミスはもちろんだが、わたしの場合日本語で文字をタイプしていくから濁点に問題が多発するようになった。これって年齢というよりわたしの頭の中で右半身と左半身への伝達速度に違いが表れてきたせいだと最近思うようになった。ようは濁点の位置は右側にある。例えば「あじがさわ」と文字を打つ際、「あじさわ」、あるいは「あ゛しがさわ」としてしまうことがある。濁点のキーは右側にあるから当然右手で打つ。左で先で打たなければならない文字をタイプする前に濁点を先に打ってしまうのである。とくに濁点が重なっている文字が怪しい。これって何かの前兆…?。