Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

舞台と灯籠

2017-09-23 23:07:53 | 民俗学

「小屋掛け」より

重柳「舞台」

 

角灯籠

 

法被と角灯籠を持って帰る伍長

 

火を灯された角灯籠

 

神社入口の5本灯籠

 

舞台上の角灯籠

 

矢原公民館を出発するお船

 

神社に鳥居前に着いたお船

 

拝殿前に入るお船

 

帰路の舞台(井伊直虎の木偶)

 

笛(すべて女の子だった)

 

 お船の調査だから「舞台」と呼ばれるものは対象外、だとは思うのだが、一緒に調査に入っている大学院生のSさんとは舞台の位置づけがはっきりしないとお船も見えてこないよね、と何度も言葉を交わしたもの。午前8時から舞台を造り上げるのだが、これを担うのは保存会ではなく、伍長の方たち。重柳には8の常会がある。ひとつの常会内にいくつかの隣組があり、その長が「伍長」と呼ばれ、重柳には27人の伍長がいるという。今年は1から4常会までが舞台作り、5から8常会までは幟立てと灯籠立てを行った。もともとは舞台も青年団が作って曳いたというが、保存会が担うようになった段位で既に伍長の人たちによって舞台は造り、曳かれていたという。祭りのほとんどを保存会が仕切っている中で、伍長の人たちが担う仕事があるというのは特徴的だ。この舞台はお船と違って途絶えることなく続けられてきたという。今でこそ船中心であるが、もしかしたら舞台に意味がより深い意味があったのかもしれない。写真でも解るように、ここの舞台には腕木というものが付けられ、これが曳行時の舵となる。伍長の人たちは毎年これを担うわけではないため、写真を見たり、経験者の指示に従って舞台を造り上げていく。今でこそ舞台を煽ることはしないが、かつては張り出しているハネ木が壊れるまで煽ったという。煽るからこそ、この舞台には腕木が付けられるのである。腕木がないと舞台を前後に煽ることはできない。煽った形跡が「腕木」に残っているというわけだ。

 5から8の常会の人たちによる灯籠などの準備の方が、4までの常会の人たちによる舞台製作よりも時間を要した。聞けば1本灯籠の数は35本ほどあるという。これを重柳地区の中に立てる。そのほか5本灯籠というものを神社の入口に立てる。エリアの広さに比べて灯籠の数が多いという印象を受ける。さらに伍長の方たちはすべての準備を終えると神社拝殿の横に並べられていた角灯籠を二つずつ手にして家に帰っていった。自分の住む組の中の道端にこれら角灯籠は灯されるのである。

 さて、この日舞台の準備を終えた後、夕方まで時間に余裕があった。Sさんとともに昼をとった後、隣の旧穂高町矢原のお船を見ることに。公民館と神社の間の距離はそれほどない。矢原ではこの間を曳行するのみだということで、午後1時半に公民館を出発した船は、片道20分ほどで神社に着いて神事となる。神事終了後の午後2時半に神社を出発すると、15分ほどで公民館に戻る。曳行時間はわずかなもので、この曳行のためにお船が造られる。重柳と違って、宵祭りにもお船を曳行するというので、集落の方たちに披露する時間はそこそこあるものの、これだけのためにかけるエネルギーは並大抵のものではない。矢原では3っつの地区が年番を順繰りに務めるといい、年番がすべての準備を行うという。重柳と違ってお船には腕木はつかず、煽るようなことはしない。船の骨格はやはり舞台のような櫓であり、そこにナラの木を使って船型に膨らみをつけて造られる。木偶は穂高の人形師にお願いして用意するという。またお船の後ろに舞台が曳かれ、、こちらにも木偶が乗せられる。今年は井伊直虎の木偶であった。谷原には2台の舞台があって、宵祭りに曳かれるものと、本祭りに曳かれるものは別のもの。そして宵祭りの舞台は重柳のものに近く、本祭りに曳かれるものはまさに舞台らしいもの。また矢原ではお船が時計回りで神社に入ると、拝殿前に止められ、神事終了後そのまま神社を出て公民館に帰っていく。いわゆる他のお船のように境内3周回る、というようなことはない。

続く


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