「死亡したら○○円の保険が下ります」「入院したら○○円支払われます」「不慮の事故に遭われた場合は…」「自殺した場合は○○です」、とまあこんな感じで説明が続くと、若いころなら気にも留めなかったことだが、この歳でそんな話を聞いていると、「もしかしたら」と思ってしまうのも無理もないだろう。
郵便局に積んでいた定期が満期になったといって、妻がわたしの保険を契約すると言う。このご時世だから勝手に契約できないから、担当の方が説明に来るという。いつでも良いというので、シーンとした執務室内の昼にお出でいただいた。ひそひそ話というわけにもいかないから、小さめな声で説明を受け続けるが、「死亡」とか「自殺」とか「不慮の事故」に「病気」とか、いってみればふだんはあまり縁のない単語が続々と登場する。「保険」なんだから当たり前といえば当たり前のことだが、やっぱりこんな単語が続出して「こんな時は○○」と連発されると、「もしや」と感じてしまうもの。そんな頭に浮かんだ「もしかしたら何かある」という話を説明される方にすると、「鬼怒川の災害では契約後数日で亡くなった方に保険金が下りた」とか。背中を押されるような説明に「まじ、何かあるかも」と感じてしまう。もちろん受取人は妻である。またまた輪をかけて「奥様が亡くなったら息子さんに…」とくる。歳を重ねたころにおおっぴらに話す内容じゃないなーとつくづく思う。
昨日も独り現場に行って隧道にもぐった。ところが先の怪我のことがトラウマになっていて、素掘りの部分に入ると足が進まない。一昨日も同じ現場に出向いた際は、地元の方と役場の方、そしてわたしとで隧道の入口に行くと、地元の方が「わたしが行ってくる」と隧道にもぐるという。入口はコンクリートで巻いてあるので危険さはないが、その先には必ず素掘りの部分がある。「ではわたしも」と地元の方とともにもぐっていくが、やはり素掘りの部分にたどり着くと寒気がする。すると地元の方が「わたしが…」と四つん這いでどんどん行ってしまった。「壁に手を触れないほうが良いですよ」と言うのがせいぜいで、わたしはさすがに行けなかった。地元のかたも「地震があったらおしまいかも」と解っていても躊躇しているわけにもいかない雰囲気があったかもしれない。無事何事もなく下山したが、この現場にはまだ何度か足を運ぶことになるだろう。保険の説明を受けながら、そんなことも頭に浮かんだ。
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