Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

一軒家の民俗

2012-10-15 12:45:23 | 民俗学

 いつも伊藤修さんの報告に驚かされる。もちろん村の資料館の学芸員という肩書きが一応あるから当然と言えば当然なのだろうが、どんな些細な疑問でも解決してみようという思いがないと実行に移せないものだ。常勤ではないという自由な身分もそれを後押ししているようだ。今回『伊那路』10月号(通巻669 上伊那郷土研究会)に掲載したものは「中川村漆ケ窪の民俗」というもの。おそらく中川村誌編纂に携わるなかで桑原に入ったのだろう、その際に「桑原の東の山に入ると道に迷い出られなくなる」と聞いた話を記憶にとどめていて、その地へ足を踏み入れたのである。

 桑原地区は小渋ダムによって四徳川沿いは水没した。加えてダム建設に弾みをつけた昭和36年の梅雨前線豪雨災害、通称三六災害によって四徳川沿いも含めて桑原では大きな被害を被った。数や多くあった家々はそれを機に瞬く間に減少した。今はかつての集落は見る影もないが、かろうじて尾根を中心に数戸の集落をなしている。その桑原から四徳川を挟んだ反対側が伊藤さんが記憶に「迷い出られなくなる」ととどめていた「東の山」になる。その頂に山の神があるというが、さらに東に進んだ山の中腹に漆ケ窪というところがあって、かつてここに一軒家があったというのだ。2度の試みによってその場所を探し当てたという伊藤さんは、家のあった跡に粘土細工の女の子の顔を見つけた。その製作者を探し当て聞き取りを行ったのである。

 それによるともともと一軒家だったわけではなく、数軒あったという。場所が場所だけにしだいに家がなくなって一軒家になったようだ。話者の経験は昭和30年代のことというから半世紀ほど前のこと。予断だがこのごろとくに思うのは、昭和30年代がかつての時代が残存した最後の時代だったということだ。なぜならば今はまったく消してしまったような事象が昭和30年代にはまだ残っていたという事実を盛んに耳にするからだ。8代目にあたるというから200年ほど前にはこの地に住んでいたいた人がいたということになる。尾根を削って造られた屋敷の裏には沢から引いた井戸があったという。伊藤さんが作成された屋敷とその周辺の見取り図を見ると周囲には水田もあったというし、山の中だから当然のこと山の恵みは豊富だったといえる。まさしく車社会が到来する以前なら裕福をもたらせるような環境であったのかもしれない。炭以外はなるべく軽いものを作ったという。家畜はアンゴラのほか木曽馬を飼ったこともあったといい、シメジ、日本ミツバチなども手がけた。やはり三六災害で被害にあって移住したようで、漆ケ窪の歴史が閉じられて半世紀ということになる。かつて農業技術員をされていた方に言わせると「漆ケ窪は裕福だ」ったという。当時も猪による被害があったというが、今ではこのような奥では農産物はなかなか生産できない環境だろう。伊藤さんの報告は三六災害が中心にあって、「民俗」に関してはそう多くはないが、大変興味を抱く事実である。


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