貸又(2013.11.1)
下氏乗(2013.11.1)
仕事で喬木村氏乗の現場に行くと、そのすぐ脇に貸又の青面金剛が立っていた。貸又の青面金剛は以前「彩色青面金剛」で触れたことがある。氏乗は喬木村の役場の近くに流れ出てくる小川川の上流奥まったところにある集落。飯田から遠山谷に向かう途中にあることから、この地を知らない人はいないくらい認知度の高い集落ではあるが、奥まったところにあるという印象が強い山間のムラである。その氏乗の中心からさらに遠山に向けて走ったところにある貸又は、遠山谷へ向かう本道沿いではなく、一段高いところに集落が展開している。その道端にたくさんの「庚申」塔が並んでいて、その中に覆屋に安置された青面金剛が立つ。この庚申塔が立つ脇に小さな集会施設があり「庚申堂」と呼ばれている。青面金剛は今でこそ道端に立つが、かつてはこの庚申堂に祀られていたという。「新しい碑を建てたとき」と言うから昭和55年の庚申年のことだろう、道端に青面金剛を移動したという。かつては庚申講では地域の全戸が集って行われていたというが、今は3月に当番だけで行われているという。貸又と本谷の人々によって祀られている。「彩色青面金剛」で掲載した際の写真と比較すると、少し色あせたという印象がするが、それほど変わりがないのは覆屋に安置されているせいだろう。この色塗りをしたのも「新しい碑を建てたとき」というから昭和55年のことだったのだろう。もう33年ほど前のこと。近くに住む木下さん(83歳)によると、「その時初めて色塗りを経験した」というから、定期的に色塗りをしたわけではないようだ。庚申堂にあったときにも彩色されていたというから、もともと彩色されていた。外に出すにあたり、化粧直しをしたというわけだ。色を塗る理由などについては解からないという。庚申講が行われているものの、おそらく木下さんもめったにその場に居合わすこともないようで、掛軸があるかどうかもはっきりしなかった。
さてもう一体は同じ氏乗でも入り口にあたる下氏乗にあるもの。城山に上る歩く道の脇に、貸又同様に何体もの「庚申」とともに覆屋に安置された青面金剛が立つ。いつ彩色したか聞いてみたが、やはり高齢の方たちの記憶にもほとんどない。ここも昭和55年に建てられた「庚申」碑があることから、そのころに塗られたものなのだろう。貸又のものと同様にペンキで塗られたようで、その鮮やかな色は昔とそう変わっていない。ただしここの青面金剛は竹薮の中の日陰にあるせいか、彩色の上に黴のようなものがこびりついて、「彩色青面金剛」で触れた際のものより見た目は汚くなっている。下氏乗では青面金剛のほかに「庚申」が6体、貸又では5体が並ぶ。貸又の青面金剛には碑面に「享保十二」年の銘がある。ここに並ぶ「庚申」碑の中では最も古いものになる。1727年にあたるから、この地域の庚申の中では古い事例にあたる。いつの時代からこうして彩色されていたものなのか。いずれにせよ昔はペンキなどなかっただろうから、こんな派手な彩色ではなかっただろうが・・・。
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