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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業用水の考え方⑦

2010-07-21 12:32:36 | 農村環境

農業用水の考え方⑥より

 よく水田はダムであるということを言う。代掻き時の減水深を100mmとして仮の計算をしてきたが、実際は100mmは少ない方で130mmから150mmといったところが一般的だ。たとえ100mmとしても10アールの水田に水を貯めれば100m3の水となる。10ヘクタールあれば1万m3の水が必要。ため池に水源を求めているような地域なら代掻きをすれば使い切って足らないほど水を使うことになる。しかしここに降雨というものが関わってくるから、最も水を使う時期ではあるが、ため池の水がこの時期に空になってしまうということはまずない。そして梅雨があるから梅雨明けのころにはため池は満杯となって夏を迎える。もちろん空梅雨であったりすればその状況は変わってくるが、いずれにしても自然の恵みを利用していることに違いはない。この水田に水が浸いていたとしても畦の高さは20センチから整備されたところなら30センチほどある。この高さを有効に利用すれば冒頭で計算した量と同じ程度、あるいはそれ以上の水を水田に貯めることができる。先ごろ時間60mm以上の雨があって大きな被災を受けた地域があったが、連続的に300mm降ったとしてもすべてが水田である場合と、すべてが宅地化された場合では明らかに河川の負担は違うことになる。昭和57年と58年、連続して水害に見舞われた飯山市の例をとってみれば、河川が決壊して、その水が水田地帯に流れ出たことによって、被災を受けずに済んだ人たちもいた。被災とは、受けた人たちにとってはつらいものなのであるが、いっぽうでそのお陰で難を免れるということも日常的にある。「壊れる」ことがなければどこかにその影響は必ず出る。「壊れないものはない」というのがこの世の常識だと、常にわたしたちは理解していなくてはならないこと。

 少し話は逸れたが、水田の減少はそのままダム機能を失っていくわけで、さらに転作されていればアトが切られているからある程度保水することはできてもダムとしての機能までは発揮できないことが多い。ようは管理された水田地帯ほど災害にも強いということは言える。個人の水田の畦なのに公的災害で復旧してもらえるというのは、そもそも国土の保全に一役買っているという事実が背景にあるからだ。ということはそのために管理を怠っているようなケースでは災害として認められないということになる。ごく当たり前のことなのだが、水田農業が多面的機能を有しているとよく言われる背景の一事例であるものの、実は総体的空間保持がなくて、部分保持では機能はどんどん低下していくことになる。農業の実態を捉えると、そんな当たり前のことがむしろ地域住民の意欲を失わせていくことに繋がっていってしまう。「人」重視の時代にあって、このあたりの問題はまったく意識されていないようだ。

続く


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