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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「水害の伊那谷へ飛んで」-『伊那路』を読み返して㉓

2020-01-02 23:56:53 | 地域から学ぶ

「災害当時の編集室」-『伊那路』を読み返して㉒より

 「三六災」の特集が組まれたのは、昭和36年9月号である。副題は「梅雨前線災害特集号」である。冒頭に全日空ヘリコプター運航部操縦士であった中垣秋男氏の「水害の伊那谷へ飛んで」という寄稿文が掲載されている。朝日新聞社よりチャーターされた中垣氏のヘリコプターが、6月28日正午に長野市飛行場を離陸したという。

伊那市附近から水田の冠水が目に付き始め、駒ヶ根市中沢の天竜橋附近では、屋根近くまで水の来ているのが見られる。飯島を過ぎたころ川添いに曲がった飯田線の線路に覆い被さる様に土砂が崩れているのが認められた。カメラマンに合図して機首をぐっと下げ、一旋回しながら高度五十メートルところからカメラのシャッターを切った。下では二十人ほどの線路工夫が、山の様に線路上に崩れ落ちた土砂の取除き作業をしている。(中略)大島・市田附近に来ると、一度に天竜川の幅が広くなり、濁流が音を立てて流れているのが聞える様な気がする。下伊那では穀倉地帯の青田が赤黒く濁った水につかり、既に流された家の屋根や木材が流れていくのが見られた。市田駅の北を流れ天竜川に入っている小さな川が数倍に大きくふくれて、はん濫し、工場をひと飲みにしそうな様子だ。線路も大島から南では水没している個所が見られる。南下するに従い被害の大きさが強く感じられ始めた。東山の方に目を移すと巨大な手の爪が山を引っかいた様な山崩れの跡が緑の山なみの随所に赤肌を見せていて、自然の力の威大さが痛感される。

 中沢の天竜橋、ようは新宮川岸のあたりは大きな被害を受けている。「飯島を過ぎたころ川添いに曲がった飯田線」とは、伊那本郷駅へ上る段丘崖の飯田線のことだろう、かつてはよくこのあたりが不通になることがよくあった。そして「市田駅の北」の川は大島川のことだろう。このあたりを「出砂原」(ださら)と言う。段丘崖から下ってきた川は、このあたりで天井川となっている。家1軒がすっかり埋まってしまうほどの土砂流出がこのあたりではあった。

飯田の町に入ると桜町を流れる川が暴れ城下ではおおかた百戸程の民家に濁流が入り、コンクリートの橋も両岸を洗われて危機一発といふ状態で残っている。(中略)飯田市の南で一寸狭くなった天竜川が川路附近では一杯に拡がり丁度湖の様な観を呈している。鉄道も道路も水没し西の方の高台にある家のみが満足な状態で、他はみんな水の中だ。川路小学校は二階の半分くらいまで水につかっている。駅も屋根だけ見える。

 「桜町を流れる川」とは野底川のことだろう。野底川の流域の災害は、歴史上何度も記されてきている。もちろん三六災でも大きな被害を被った。川路のことは言うまでもないだろう。水害の常習地であって、下流側の天竜峡で川が狭まるため、どうしてもここで水位が上がる。下流にあるダムが影響しているともよく言われた。そうした因果もあって、天竜川右岸の川路と、左岸の竜丘は、平成4年から10年にかけて治水対策によって盤上げされて、常習地という汚名は返上された。

 中垣氏は最後に「山国の労苦に耐へ営々として築き上げた財産を失い一瞬にして肉親をも失った人々に早く救いの手がさしのべられることを祈りつつ第一日目の取材を終へて帰途についた」と綴っている。

「災害体験記」-『伊那路』を読み返して㉔


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