7月30日、大阪市平野区で実姉を刺殺したとして殺人罪に問われた被告人の裁判員裁判で、検察官の求刑(懲役16年)を上回る、懲役20年の判決が言い渡されました。
検察官の求刑を上回る判決も異例ですが、これまでもなくはありません。
しかし、この判決は結論以上に、発達障害者に対する差別、刑罰のあり方という点で大きな問題を抱えており、到底許される判決ではありません。
判決によれば、被告人には先天的に広汎性発達障害の一種であるアスペルガー症候群という精神障害があり、小学校5年生から30年間引きこもりの生活を送っていました。判決で認定された生育歴や殺害動機の形成過程をみても、アスペルガー症候群の影響が色濃く出ています。
異例の判決になった理由については、十分に反省しておらず、親族も被告人との同居を断り、アスペルガー症候群に対応できる受け皿が何ら用意もされておらず、その見込みもない現状のもとでは再犯のおそれが強く心配されるので、許される限り長期間刑務所に収容することで内省を深めされることが必要であり、そうすることが社会秩序の維持に資するとして、有期懲役刑の上限である懲役20年にしたとされています。
この判決の主な問題点は、次の3つ。
1 発達障害を量刑要素としてきちんと考慮していないこと
アスペルガー症候群や、同症候群に対する家族や周囲の人の適切な対応がなかったという事情が犯行動機や事件後の反省のなさに強く影響を及ぼしているのに、そのことを量刑上考慮していないこと。
2 発達障害者に対する差別的判決であること
被告人がアスペルガー症候群であり、その受け皿がないことから、再び殺人を犯す危険性があるとして刑罰を重くしており、同症候群の人に対する差別的判決であること。
3 刑罰のあり方に反すること
将来の危険性に着目して、許される限り長期間刑務所に収容して社会秩序を維持すべきという、予防拘禁(保安処分)としての刑罰を科したこと。
発達障害を抱える人が、対人コミュニケーションの困難さや特有のこだわりという症状のために大きなストレスを抱え、それが時に不幸な犯罪に結びついてしまうことがあります。
しかし、それは発達障害という、本人にはどうしようもない障害によるものであり、社会に適切な受け皿がないのも本人の責任ではありません。それなのに、本人の責任にして刑罰を重くすることは許されません。
また、将来の危険性を理由に収容することは、やった行為と生じた結果に対する責任を負わせるという刑罰の本質(行為責任主義)に反しています。
この判決は極めて感情的で、差別的で、およそ司法として許容されません。
裁判員となった一般市民の素朴な感情としては、こういう思いになるのかも知れません。
しかし、裁判とは何か、刑罰とは何かという、私たち人類が多くの悲しみの上に築き上げた崇高な理念を、裁判官、検察官、弁護人がきちんと裁判員に説明して、理解してもらって、結論を出す必要があります。
もし、裁判員にどうしても理解されないのであれば、裁判官は裁判員に逆らってでも反対票を投じて、暴走を防がなければなりません。裁判員法は、そのために、裁判員だけで結論を決めることができないシステムを作っています。
しかし、今回、裁判官はブレーキを踏みませんでした。
もし、仮に発達障害が影響して犯罪が起こったという事実があるのなら、そうした人たちが犯罪に至らずに生活していける環境を整えるべきです。
もし犯罪を犯してしまっても、その受け皿を整備して、再び、社会の中で受け入れる体制こそ整えるべきです。
刑務所に隔離することで解決すべきではありません。
この無謀な判決が控訴審で覆されることを信じています。