そらいプロジェクト。

そらイのなすこと、思うこと。

画の悲しみ

2008年11月02日 20時22分53秒 | 努力し続けるために

時々読み返したくなる、高校んときの現代文かな?
国木田独歩の画の悲しみの最後。

 爾来数年、志村は故ありて中学校を退いて村落に帰り、自分は国を去って東京に遊学することとなり、いつしか二人の間には音信もなくなって、忽ちまた四、五年経ってしまった。東京に出てから、自分は画を思いつつも画を自ら書かなくなり、ただ都会の大家の名作を見て、僅に自分の画心を満足さしていたのである。
 ところが自分の二十の時であった、久しぶりで故郷の村落に帰った。宅の物置にかつて自分が持あるいた画板があったのを見つけ、同時に志村のことを思いだしたので、早速人に聞いて見ると、驚くまいことか、彼は十七の歳病死したとのことである。
 自分は久しぶりで画板と鉛筆を提げて家を出た。故郷の風景は旧の通りである、しかし自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳かの年を増したばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁は暫時も自分を安めない。
 時は夏の最中自分はただ画板を提げたというばかり、何を書いて見る気にもならん、独りぶらぶらと野末に出た。かつて志村と共に能く写生に出た野末に。
 闇にも歓びあり、光にも悲あり、麦藁帽の廂を傾けて、彼方の丘、此方の林を望めば、まじまじと照る日に輝いて眩ゆきばかりの景色。自分は思わず泣いた。

※写真は、「夢」