お金のことは?と、
お便りがあったので、
あゝさういえば、忘れてたなと。
もちろん、貨幣制度そのものが
悪いわけではないです。
問題はやはり、使う側。
馬鹿が使うと、何でもダメになります。
お金というのは、その実態は、
誰かの権利を形にしたものです。
ご飯を食べる権利。遊んでもらう権利。
水を飲む権利。排泄する権利。
お金のないひとは使えない食堂。
お金のないひとは使えない遊具。
お金のないひとは飲めない水。
お金のないひとは使えないトイレ。
じゃあ、貨幣制度以前ならば、
誰でも食べ、遊び、飲み、排泄できたのか。
そのころはまた別の制限があった。
とある共通の理由で、
入れない食堂、使えない遊具、
飲めない水、使えないトイレがありました。
使うに値しない奴には使わせない。
貨幣が信用を得るまで、
その理由は有効でした。
しかし、貨幣制度が広まるにつれ、
人物評価は省略された。
ゴールド1トンやるから、銃を呉れと、
せがまれたのを、つっぱねた店主が見たのは、
隣の店が1トンの金塊を手に入れて、
優雅で自由な暮らしを始める様子でした。
あんな野郎に売りやがって!と、
口では言うものの、内心はうらやましい。
その日のうちにはもう、
買った奴が攻めてきて、
隣の店主もお亡くなりになる。
あの世で店主が、隣の店主に、
お前があんな奴に銃を売るからだ!
なんて文句を言っても、もう遅い。
銃ならまだしも、それが革新的な技術とか。
例えば冷蔵庫なんか、この世の最大の発明品。
それで馬鹿もだいぶん生き延びるようになった。
自然の淘汰の手は、もはや、
馬鹿をつかむことができなくなりました。
何の努力も痛みも要らない。
それらはみな、貨幣が持ってます。
権利という手に取れないものは、
商品になりません。取引できない。
しかし形になってしまえば、
商品になり、取引できます。
成長することなしに、
あらゆる権利を手にできるようになった。
お金さえあれば。
人物評価なんてもう、誰もやらない。
そんなまどろっこしいことをする暇があったら、
お金を稼ぐことだ。
馬鹿にとってはパラダイスです。
人生の目的は、
いかにしてお金を集めるかに変更され、
成長することに興味を持たないひとたちが、
昔ながらの人々の周りを、
幾重にも取り囲む状況になった。
そんななかで、成長が!とか言っても、
誰も見向きもしないな。
生まれた理由は見失われ、
生きる価値は、
あとで考えるものになった。
それらが不明になれば、
死ぬことの意味も
分からなくなって当然です。
何でもできるこの世、
馬鹿のパラダイスに
感動したひとたちにとって、
死は最も嫌なものになりました。
死とは、遊園地からの退場。
こんなつまらないことは無いと。
それゆえ、死をもたらすものは、
重罪中の重罪とされた。が、
死刑はずっと存続してます。
それは、どういうこと?
中世、ところにより近代、
現代に至るまでも、
生きたままお肉を引きちぎり、
内臓を引きずり出す。
なんてことをやってました。
しかしそれらは、
死をもたらす者への虐殺でしたし、
特別に太らせたゾウに、
手足や頭を踏ませたり、
ギロチン刑の前には、
市中にビラが撒かれて、
大勢の見物客を呼んだりしたのは、
馬鹿にとっては楽しいイベントでした。
オレは死なないけどね!
誰かの死に様を見ることで、
オレは生きてる気がするわ。
今でこそ、見えないところで
絞首刑をしたり、
受刑者の苦痛に配慮したり
し始めたわけですが。
それはもはや、死を与えるものがいなくなり、
馬鹿だらけの世の中になって、
それでようやく、ほかにどうしようもない場合、
馬鹿が馬鹿を取り除く手段になったわけで。
心の面でも輪廻思想が広がり、
遊園地からの永遠の退場はない。
また生まれて来られる。
お金を集めさえすれば、
またこんな楽しい人生をおくることができる。
という信仰のもと、
死は選択肢の1つになりました。
これが、この世における、
お金、貨幣制度のすべてです。
他人のものを奪って生きるほかない
アーリアにとって、
こんな簡単なことはありません。
盗みやタカリは、アーリアの十八番です。
貨幣制度の使いかたを誤ると、
こんな世の中になる。
このごろはゲームもありますし、
ニッチな、いわゆる「人外もの」も
豊富に流通しています。
世の中が嫌なら、ゲームの世界に。
ひとが嫌なら、気に入った「人外もの」に
入り浸ればいい。
よくはないですが(笑
それができる世の中になりました。
お金があれば、お金さえあれば、
それは可能です。
この間違いの原因は、
人物評価なしにお金を使えるようにした
ってことにあるのを、
みなさんはお気づきになるでしょう。
貨幣制度そのものは、
なかなか便利なものです。
物々交換ではね。大根や玉ねぎと
交換ならば、しばらくは、
腐らずにやれるでしょう。
けど、生ものと交換するとなれば、
交換できる期間が、あまりにも短い。
下手をすれば来年まで手に入らない。
不漁ならばさらに翌年までダメ。
なんてことにもなるんで。
お金は腐らないですから(笑
重たい食料や衣類を持たなくても、
ポケットマネーを持っていけば、
その地で必要なものと交換できます。
この世はそのときに、
コイツに与えて大丈夫か?
与えるべきか否かを、判断しない。
医療なんかもう破綻してますね。
来る者は拒まずという原則。
なにせ、数の力しかありませんから。
人数が減る方向へは、行かせたくない。
生きててくれさえすれば、
何かと、お金は回るしさ。
市場へ出てこないことには、
取引できませんから。
いくら自由に刷れるといっても、
無限には無いので。
市場のお金が枯渇するのはマズいです。
刷れば刷るほど、
お金単位あたりの権利は希薄になる。
全人類の権利が資本ですから、
無限に刷れるわけではないんです。
これは、お金持ちには、相当、影響がある。
250円で食えたビッグマックが、
500円になれば、
貯金は半減。つまり、可能性が半減します。
できることが半減する。
まあ、人物評価をやるようになったら、
お金持ちか貧乏かなんて、
どうでもよくなりますけどw
誰がその、人物評価をするのか?
特別な機関でも作るのか?
データベースとAIにでも任せるのか?
中華みたいな点数制にするのか?
いえ。どれも違います。
売り手がオンデマンドで
買い手を評価するんです。
買い手がオンデマンドで
売り手を評価するんです。
コイツに売るべきかどうか。
コイツから買うべきかどうか。
売るほうは難しいですが、
買い手が売り手を評価するのは、
楽天やアマゾンとかでも、
みなさん普通にやっている。
面白いですよ。
売り手が、お前には売らないってのは、
差別!って言われますけれども。
買い手が、お前からは買わないってのは、
何にも言われないです。
そういうところに、
この世の素顔が、チラリと見える。
この世が終わるということの中身は、
ズバリ、人物評価が始まるということです。
人事評価じゃなく、人物評価な。
この世への貢献度じゃなく、
人としてどの程度成長してるのか。
人類としてじゃなく、人として。
社会人としてじゃなく、人としてです。
だけど今時、それじゃ、
評価できるひとがいないね(笑
人里離れた森や海で、
この地上に生きてきたとかいうひとにでも、
評価してもらいますか?(笑
そいつは猿かもしれませんが、
人なのかしら。
会う人、会う人、愛玩物にして
精神的な苦痛を与えて喜ぶ、そんな奴らに、
人なんぞ評価できませんよ。
なら、例の「人の子」にさせますか?
過去のいつかなら、いざしらず。
現代に育った「人の子」にですか?
バカですからね「人の子」(笑
デスノートのLとかMとかNとか、
そんな脳味噌は持ってない。
今もなお消息不明だから、
たぶん行動力も無いんでしょう。
聖書によれば、もう五十路だから、
誰かと戦う体力もない。
数の力に簡単に押し切られてしまいます。
まだどこかで生きていれば、
社会人してるでしょう。
世間のひとたちと同じに、
社会や会社の方針に従順ですね。
でなきゃ、五十路まで生きられない(笑
ましてや、聖書が言うように、
この世を終わらせる力なんか無い。
生きてれば、このブログを
見に来てはいるかもしれませんが、
このブログのPV同様、
お友達は多くないでしょう。
少なくとも社会人になって以降は、
森や海に出入りすることもないだろうな。
それが辛くなることは、
みなさんも経験あるかもしれない。
仕事で目茶目茶疲れて、
電車で森へ行こうとしても、
そのまま乗って帰ってきちゃいます(笑
もうね、めまいがすごいよ。
だから、この地上のことも、
そんな分かってない。
トンボや鹿や熊なんかの話を聞くことも、
社会人になってからは、無いというか、
無理ですね(笑
「人の子」は、人の子なんです。
人の未来と関わるんだから、
「人の」子じゃないとね。
このまま、この星が動かなければ、
この世という装置が終わることはない。
幾多の混乱は続くでしょうが。
このブログ、読者のみなさんとの
双方向の対話は、元より停止しています。
僕としてもつまらないですが、
過去の経験から、それが一番幸せかもと。
僕にも、みなさんにもね。
対話してみたいというか、
それが礼儀なのだろうとも思います。
一方的に話されてもな(笑
でも過去、それをして、失敗してるんです。
長らく、もう40年以上、
こんなことと関わってきた、
自分で言うのも何ですが、変人ですので(笑
このまま、対話を遮断したままで、
続けるつもりです。ご容赦のほど。