おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

駄菓子屋の夏

2024年11月22日 | 小金井充の

 昭和六十二年の夏、私は二十年ほどやった配達の仕事を辞して、思うところあって、町外れの小さな工場へと再就職した。体が資本の職場で、体力がガタ落ちになったのを自覚して、もはや、誰かの上に居られる立場ではなくなったなと。ここは手に職をつけて、将来の生活の安定を得たいと、職安で、かねてから興味のあった駄菓子屋の仕事をまさぐった。世の中は、間もなく年号が変わろうかという気配のなかで、何か新しい、希望のありそうなものへ変身しようと、急速に動き出している。そんな風に圧されたわけではないと、独り呟いてはみるものの、実際は、旧来の知人らの華やかな転職物語を聞くたび、焦りに似たものを感じていたことは否めない。
 その工場は、郊外の広い広い空き地であった所へ、倉庫群や配送センター、大型ショッピングモールなんかがグングンと建ち始めたにぎやかな地域の只中の、まるで時間が止まったかのような、取り残されたような古参の建物の一隅にあった。車屋のガレージなんかが並んでいたかもしれない、長屋のような建物のはずれが、その工場の在り処である。看板らしい看板もなくて、迷いに迷ってしまい、危うく面談の時間に遅れそうになって冷や汗をかいたが。しかし、季節も季節だ。所々砂利のはみ出した軽舗装の路地から延々と立ちのぼる陽炎のなかでは、冷や汗なんぞ一瞬にして蒸散してしまう。
 私はその建物の正面に立ち、汗を拭くのも忘れて、下辺の腐り落ちたドアの脇へ危なっかしくネジ止めされた、これが恐らくはインターホンなのだろうとおぼしき、黒くて四角い物体からはみ出ている、茶化て泡だったような丸いボタンを押した。ビーっとでも言うのかと思ったが、音の高低の危うい「エリーゼのために」が流れ出して和んだ。それがひとしきり演奏を終えるころ、ガタリという音を出して、それは老いた女性の声を私の耳に伝えた。
 「はい、どなた。」
 私が職安から紹介してもらった旨を伝えると、その鬱々とした女性の声は明るいものへと変わり、間もなく、ドアのノブがギッと鳴って、丸顔に銀色のビジネス眼鏡をかけた、笑顔のお婆さんがあらわれた。
 「さ、どうぞ。お待ちしてました。」
 私をなかへと導くお婆さんの指には、緑色の指サックがついている。どうやら、事務方のひとであるらしい。のちに、それは私の勘違いで、誰あろう、この柔らなお婆ちゃんこそが、先代の未亡人、現の社長だと知れるのだが。しかし私は、ややしばらくの間このお婆ちゃんを、パートか何かの事務員だと思っていた。それは私にはほとんど、以後このお婆ちゃんと顔をあわせる機会がなかったことに原因している。私はいきなり工場の鍵を任され、早朝一番に来て、まだ誰も居ない工場に火を入れる役回りとなったし、仕事が終わって帰るころには、お婆ちゃんはもう退勤していた。
 二階建ての工場は、二階を材料や物品の倉庫として使っているがために、ひとが常在するのは一階のみに限られている。他所から駄菓子屋の店主なんかが来ると、まずは工場とガラス窓一枚で仕切られた応接室に案内せられ、そこでお婆ちゃんのいれた茶を飲みながら、工場の製品を食べながら、工場長と談笑して帰るのだが。しかしそれはまた、のちのお話で。今日は面談。自分が客となり、お婆ちゃんのいれた、味のしないお茶をいただきながら、五十路も後半の工場長の、つるりと髭を剃った難しい顔とにらめっこしている。持参した履歴書を眺めて、うーんと唸る工場長。白衣のすそに、きなこだろうか。黄色い粉が散っている。
 「難しいかもしれませんよ。」
 工場長の、予想通りの言葉を聞いて、私は用意した言葉を返した。
 「とにかく何日かでも、やらせてもらえませんか。今からでもいいです。」
 実際、そのつもりで来たんだし。ほかに何を言えばいいんだろう。こっちも生活かかっているし、この日照りのなかを、何の収穫もなく、手ぶらで帰ろうとは思わない。そんなことになれば、しばらくは立ち直れないだろうな。ダメならダメでいいから、ダメだってことを分かりたい。次の仕事を探すにしたって、未練があるままじゃ、目移りしてしまう。
 私がそう言うのを聞いて、工場長はふと私の顔を見て、何だか気まずいような、渋いような顔をして、手にした履歴書を机の上へと投げた。そしてスックと立ち上がり、工場と応接室とを隔てる窓をガラリと開けて、
 「修司、白衣あったか。」
 と、延べ台でタネをのしている男性を、真っ直ぐに見て言った。言ったというより怒鳴ったに近いが、奥の機械の音があるので、そのくらいでしゃべらないと、相手に声が届かない。私はそのデカイ声で言うというのに苦労することになるが。しかし慣れるとまあ気持ちいいものでもある。ネタをのしていた男性は、無言で振り向いて、かまどの前で作業していた二人の人物のうちの一人を見た。偶然か、見られたほうも顔をあげており、代われというような合図にうなずいて、何の疑問もない素振りでスタスタと延べ台へとやってくる。ネタをのしていた、工場長から修司と呼ばれたその男性はというと、もうあとも見ないで、二階へ続く階段のほうへと歩き出していた。まあなんという、なめらかな連携であることか。これまで自分が経験してきた、独り芝居の職場とは、はなから別物の世界がここにある。男の職場とか世間では言っているが、違うな。現に、かのお婆ちゃんだって、気が利くレベルを超えて、実にタイミングよく物事を運んでしまう。要するに、同じ生物だから通じるってことだな。それをより簡単に実現する要素として、同性ってのが有効なだけだ。しかしその早合点が、私を苦しめることになる。外れてはいなかったんだが、それはメインの理由ではなかったのだ。
 工場の二階には、両端に階段がついており、作業場からもあがれるし、ぐるっと歩いて、応接室の側へと降りることもできる。それをまだ知らない私は、修司さんが、作業場とは逆の応接室のドアから現れたので、思わず「あれっ?」と声をもらしてしまった。私の様子を見て、修司さんが笑う。
 「上は、こっちにも降りられるんだ。」と、工場長。「これ着て、髪の毛覆うやつもな。いや、そうじゃない。ったく……」無言で修司さんを見遣る工場長。修司さんは自分の白衣を脱いで、着て見せてくれる。髪を覆う使い捨ての帽子をかむるのが、なかなかに難しい。見れば、工場長はもう、あとも見ないで自席につき、パソコンの画面とにらめっこしている。
 「来て。」と修司さん。あとについて応接室を出、ドアをあけて、作業場の前室へと入る。白い長靴を借り受けて、もうね、手の洗いかたから違うわ。修司さんに最初のレッスンを受けながら、私は今確かに自分が、これまで知らなかった世界に入り込んでいるのを、入り込んでしまったのを、なんとも言えない気分で自覚していた。これでよかったのか?あまりにも急ぎ過ぎではないか?蛇口からほとばしる温水の流れは、しかし、私の不安を洗い流してはくれない。せめて冷たい水であれば、もう少しシャキッとするだろうに。ブロアーで濡れた手を乾かし、続く狭い通路では全身に風を当てられて、ようやく、作業場へと続くドアが開かれる。途端に、かいだことのない香りが身を包む。思わず立ち止まって、鼻を使う私の姿を見て、修司さんが笑う。
 「あれ?かいだことない?砂糖の匂いだよ。砂糖ってか、糖蜜の。」当たり前のように、修司さんが言う。指さされるままに、私は銅鍋から湯気を立てる、透明な液体を見た。それぞれに温度計が入っており、先の二人のうちの一人が、しゃがみこんで、ねんごろにコンロの火力を調整している。その様子に見入る私を見て、
 「沸かしたら終わり。」とだけ修司さんが言った。そのときの私は、沸かし終えたら作業終了という意味だと思ったものだが。しかし違った。沸かしたが最後、この香気はみな飛んでしまう。さらに沸騰まで行くと、コンロの火が回ってしまい、大火災になるのだ。駄菓子といえど、品質を一定に保たなければ、顧客は逃げてしまう。糖蜜への火の入れ具合ひとつにしても、それがそのまま、品質を左右するわけで。その難しさには、熟練したと言われてもまだ、頭をかかえることがあるくらいだ。
 初日の体験は、昼までとなった。体験というか、迷惑かけただけで終わったのが、私には残念でならない。職安で探してた時分には、自炊経験くらいで何とかなるだろうと、甘い、甘すぎる考えでいた自分である。目に見えてしょげかえっていたのだろうか。修司さんが黙ってコーヒー缶をおごってくれた。それを見てか、工場長がスタスタとやってくる。ああ、お断りか。
 「あしたは休んで、住民票とってきてくれ。あさってから六時な。」事も無げにそう言って、工場長は透明ファイルに挟んだ契約書を、私に渡した。えっ?という顔でただ書類を見つめる私。
 「契約は今日からになってるから。ちゃんとカネは払うよ。」そう言って、工場長は私の背中をポンポンと叩くと、スタスタと自席へ戻っていった。修司さんがニヤニヤ笑って見ている。
 「俺もそんな感じだったわ。」修司さんは手招きして、私をロッカー室へと案内してくれた。見れば、いくつかのロッカーの扉が、開け放たれたままになっている。あるものは凹んでおり、あるものは取っ手がなくなっている。脇の壁には穴まであいているじゃないか。でもこの光景は、前の職場にもあった。人生の壮絶な景色は、ここにもあるんだな。修司さんは、手近なロッカーの、鍵がささっている1つを指差した。ここを使っていいようだ。見ればもう、修司さんはロッカー室を出ていた。仕事の流れが見えていなければ、そうもいくまい。私にとっては、それが一番の難問だった。
 「じゃ。」
 私が入社して二年目の春、修司さんは家業を継ぐために、この工場を離れた。盆に遊びに行くと約束して、私は修司さんの愛車である、年代ものの白いクラウンを見送った。工場長は何も言わない。後ろ手を組んで、いつものようにスッと立ち、去り行くクラウンを真っ直ぐに見届ける。あの日、コンロの火の番をしていた奴も、この工場を去っていた。不況の波は、いかんともしがたい。後ろでは、かのお婆ちゃんが、両手で老眼の進んだ眼鏡を持ち上げて、同じように何も言わず、クラウンを見送っている。寂しくなったが、工場は終わらない。スタスタと作業場へ戻る工場長。段取りは、分かっている。まあ、気分で変わることもあるが。
 私が作業場へ戻ると、案の定、工場長は鍋ではなく、延べ棒を持って延べ台に向かった。予定と違うじゃねぇか。そんなことをボヤキつつ、私は糖蜜の鍋に火を入れて、計量台にボールを据え麦粉を計りにかかる。工場長は抜き型を並べだす。私はタネを作りにかかるが、思えばこれも、練るものだとばかり思っていた。
 「麦粉はね、練れば練るほど、焼いたものが固くなる。」修司さんの言ったことが、昨日のように思い出される。ああ、やばい。チョッとウルウルしてきた。でも手を顔にはやれない。鼻水は、マスクが何とかしてくれるだろう。タネがまとまった頃合、工場長が延べ台にパッと打ち粉をする。その音を聞いて、勢い、ボールをかついで、延べ台に返しに行く。子供のほっぺたのようなタネが、フワリと延べ台に着地するや、工場長が指で、それをチョッとひねってみる。よしよし。何も言わないな。工場長は抜き型を自分に引き寄せる。私はもう、延べ棒を手に、タネをのしにかかっている。平釜のかすかなファンの音だけが、今日も作業場を満たしている。もっとも、焼きが始まれば、こんな静けさは吹っ飛んでしまうが。焼き板に次々と型が並び、私はタネをのす合間、頃合を見て焼き板を棚へあげ、順次、新しいものと取り替えていく。棚は間もなく、焼き板でいっぱいになる。カバーをかけ、新しい棚を据え……。ちょっ!今日は手が早いな工場長。絶好調じゃん。見れば、抜き型を脇へ置いて、抜いた残りを集め、工場長直々、自分でタネをのしにかかる。私は延べ棒をあきらめて、計量台に戻り、麦粉を計る。麦のかすかな香りのなかへ、糖蜜の香りが匂いだす。平釜を回す。さあ、忙しくなるぞ。


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