I.出会い編
いそがし過ぎるけれど、僕も観光したいな。
週休二日制の勤務形態とはいえ、肉体労働の部類に入るお仕事。週休二日と言ったって、連休なんかもらえるわけがなく。せっかくの休日は、何年やってもなってしまう筋肉痛と、びっくりするくらいの眠気とで、まず半日はつぶれてしまう。レシピを見よう見真似で、チョッと洒落たパスタでも作ろうものなら、もう一日が終わってしまいます。ゆっくり風呂につかるヒマもない…。
「あー。風呂かぁ。ゆっくり風呂に入りたいなぁ。」
布団から起き出して、パソコンのスイッチを入れる。お気に入りの銭湯は何軒かあったんだけど、数年前にすべて廃業した。燃料の高騰もあるけれど、あとを継ぐ人がいないのと、建物の老朽化。そればっかりはどうにもならないねぇ。
「日帰り」「入浴」「和食」などというキーワードを入れて検索にかけ、定山渓だとか、登別だとか、よさげな旅館をみつけては、口コミなんかを見たりもするんですが。結局はやめてしまう。そこへ行くまでが大変なんだ。登別は、思い出があるから、久しぶりに行きたいなぁとは思うんだけれど。札幌駅から特急使っても、片道一時間以上。そこからタクシーなりバスなりに乗らなきゃいけない。往復で何時間かかるの?
ならば、定山渓はどうかというと、札幌駅からバスで一時間はかかる。じゃあタクシーと思って調べてみると、そんなに変わらない。一本道だからな。バスと同じ道を走らざるをえないんじゃあ、タクシー使う利点がないです。観光シーズンともなれば、何時に到着するか分からない。一日しかないんだ。いや、一日もない。
何時に終わるか分からない仕事をやっつけて、タクシーつかまえて、とにかく札幌駅へ。夕飯なんか食うヒマもない。それから一時間、電車に揺られ、バスに揺られ。到着は何時?二一時?二二時?そこからさらに、現地のバスなりタクシーなりに乗らなきゃならない。そんな時間に走ってるバスはあるのかな。二二時に駅に降り立って、客待ちしているタクシーがいるのだろうか。繁華街へ出払ってしまって、もう一台もありませんと言われるのがオチなんじゃないか。オチなんじゃないかというか、過去に何度か経験もした。
そんなんじゃダメだ。いそがし過ぎる日常から抜け出して、「ほっ」としたい。だのにこれじゃ、分単位のスケジュールになるだろう。もう少しここにいたい。その「もう少し」が欲しいのに、速攻、ダメって言われてしまう。観光って難しいもんだなぁ…。時は金に代えがたいとか言うけれど、まさにそれだわ。
「風呂入りてぇなぁ…」
ぼやきつつ、時計を気にかけもしつつ。だけど諦めきれないから、「近所」「穴場」「市内」「現地」「一時間以内」などなど、思いつく言葉を足したり引いたりして検索にかけてはみるんだが。調べても調べても埒(らち)があかない。むしろどんどん遠くなるわ。仕事は、どんなに早くても一九時より前には終わらない。通勤カバンに着替えだけ持って、会社を出たその足で向かいたい。飛行機?もぅ…、無理かな。ついに諦めて、マウスを放り出したんだが。拍子ってのは面白いもんで。
「なら、市内のホテルでよくね?」
という考えがひらめいた。ホテル…、か。脳裏には、過去に経験したビジネスホテルでの出来事が、あれこれとよみがえってくる。ホテルかぁ。あんまりいい思い出はないなぁ。寿司でも買って、家でシャワー浴びたほうがよさそうだ。露天風呂もない。食いきれないほど出てくる夕食もない。カニのグラタンは要らないけど(笑)。窓から見えるのは隣のビルの壁だろう。かといって、カーテンを閉めたら、部屋の狭さがいっそう感じられる。浴室はない。あってもユニットバス。古い。狭い。デザインはちぐはぐ。古いんなら古いままでいいよ。タバコの匂いは嫌いじゃないが、照明がヤニ色に染まっているのは、萎えるわ。仕事思い出しちまうじゃないか。そんなんで、わざわざ行く理由がないねぇ。
だいたい、仕事で疲れきったあとなのに、繁華街の人波をかきわけて行かなきゃならないなんて。もうそれだけで吐き気がしそうだ。会社を出たその足で、交通機関一本。乗り換えは無し。降りたら、長くは歩きたくない。繁華街の近くはイヤ。夜中にオッサンのがなる歌なんか聞きたくないわ。風呂はせめてタップリの湯で、足を伸ばして入りたい。食事は部屋で静かに食べたい。朝食はどこもバイキングなんだろうが、朝っぱらから争奪戦に参戦するつもりはないです。
となれば、いわゆる「高級ホテル」しかないだろうな。高いゾ。一泊素泊まりで五万円とかするんだ。タキシードやドレスに身を包んだ人たちが、一杯いくらなのか分からないワインやシャンパンをたしなむ。そんな脇で、やっとテーブルマナーを覚えたくらいの奴が、上下セット九九八〇円の安物スーツでさ。味なんかしないと思うわ。
だけどほかに、選択肢はないんだな。使える時間は、一日しかない。移動時間を最小限にして、現地でのんびり過ごすには、市内のどこかの高級ホテルを開拓するしかないんだろう。放り出したマウスを拾い上げて、検索キーワードをリセットする。「宿泊」「市内」「ホテル」「結婚式場」と入れて、検索ボタンを押す。「結婚式場」というキーワードが、検索結果からビジネスホテルを取り除いてくれるはずだ。
しかし、やはり高い。高いというか、どこも広い部屋ばかりだから、それに応じた料金になってしまう。二部屋も三部屋も要らないんだ。かえって落ち着かないよ。一部屋でいい。使い慣れたこの部屋と同じくらいの広さでいいんだけど。高級ホテルがそういう部屋を用意したところで、需要があるのかどうか。普段から高級ホテルを使う人たちって、二部屋も三部屋もある部屋がデフォだからなぁ。一部屋なんてかえって落ち着かないだろう。本州勢の、有名どころのホテルは、どこも広い部屋を売りにしている。ダメか。そういうのにこっちが慣れるしかないのか。まあだけど、探せばあるものだねぇ。
僕と、このホテルとの出会いは、そんな感じで始まりました。えぇ…?、天皇陛下が泊まったところ?。創業以来、道内随一で名の通っている名門ホテルですよ?。恐らく…。どうやら、北海道っていう立地条件が効いているようだな。大部屋ばかりでは、ここの需要を満たせない。高級ホテルでありながら、ビジネスホテルの役割も兼ね備えて、地域の需要に応えている。いわば「北海道仕様」というところか。
ありがたいことに、このホテルは、完成してまだ間もない「地下歩行空間」から、直接入っていけるようになっているんで。寒空の下を、人混みに紛れて、延々と歩かなくていいってのは嬉しい。控えめだが、いい雰囲気の階段がしつらえてあります。