おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

月の庭(終)

2025年02月10日 | 小金井充の

 雲天の平日火曜日。二十三時を過ぎる頃だろうか。大きく左にカーブした、街灯のない田舎の坂道を、遠方から、二台のマイクロバスがのぼってくる。最初はわずかにエンジンの音が聞こえ、音は次第に大きくなり、路面を照らすヘッドライトの明かりが見えたかと思うと、突然のように目の前にバスが姿をあらわし、大きく右へハンドルを切って、かつてのベンチャー企業、今は大企業の一部門となったユニバス社の敷地内へと乗り入れていく。
 真っ暗な倉庫内。グオン、グオンと、電動シャッターが開きだす。マイクロバスのエンジン音はまだ遠く、シャッターがあがるにつれてそれは大きくなり、開ききる辺りで、その二台のマイクロバスが走り込んでくる。バスは並列に停車して、電動シャッターが閉まるのも待たずに、おのおの十名ずつの男女が、時折、ゴム長の作業靴の音をキュッ、キュッとさせつつ、バスから次々に下車していく。
 電動シャッターが閉まりきり、パチンというスイッチの音とともに、まばらに灯りだす蛍光灯の冷たい明かりが、倉庫の内部をほの暗く照明する。手前に置かれた四つの大きな銀色の箱の並びにならって、シャッター側に向かい、男女それぞれが五名ずつの隊列を作り、団長らの登場を待つ。キィッ、バタンと、金属製のドアの開閉する音がして、手前から角刈り頭の団長と、スラリとした短髪の女性副団長とが、威厳というよりも事務的な姿勢で、コツコツと軍靴の音をさせながら、隊列の前へとやってくる。
 見渡す限り、団員は、男女ともに薄緑色の作業服を着て、同色の帽子をかむり、ズボンの縫い目に中指をあて、ビシッと姿勢を正している。
 「マニュアルは理解したか」と、角刈り頭の団長。手を後ろへ組んで、胸を張る。言えば分かる奴らを前にしては、声を荒げる必要もない。
 「はい!」と、団員は一斉に返事をする。
 「シッ。」団長は白い手袋をした人差し指を、口に当てて見せる。「声がでかい。」
 まばらな笑い声が、団員の中で起こる。副団長も、顔を伏せてちょっと笑っている。
 「指令書は厳格だが、我々はリラックスして行こう。」団長は片手をあげて、笑いを制する。「作業もたいして難しくない。ただ本当に、今回ばかりは、この地上ではなく、あの月の腹の中で、一度きりのチャンスしかない。ここならば、ヘリでかけつけることもできるが。あそこで応援を呼ぶことはできない。男女の居住スペースは、五キロと離れていないが、どういうわけか、居住者は、互いの存在を知らされていない。たとえ五キロの距離であっても、女が男湯へ、男が女湯へかけつけるわけには、いかないのだ。事を荒立てて成し遂げるのであれば、わざわざ我々が出向く必要はない。」角刈り頭は、振り返って、副団長に話題を譲る。副団長は一歩前へ出る。
 「我々はこれから、あくまでも修理屋として、月に乗り込む。」副団長の厳しい口調が、場を締める。「我々が活動中、居住者は部屋に退避させるが、万一、居住者と出会った場合は、挨拶以上の話はするな。ただし、地球への送還を希望する者がいれば、すみやかに、宇宙船へ行くよう指示せよ。荷物はカバンひとつまで。プラグの入手方法、挿入箇所への経路と挿入方法は、マニュアルに従え。完了次第、速やかに離脱する。以上。」一歩下がって、副団長は顔を伏せる。あとを角刈り頭が引き受ける。
 「諸君も知っての通り、夕刊真実が伝えたように、ちかぢか、あそこは運用を終わって、主催者の手で、破壊されることになっている。それは表向きではないのかと、世界中が心配している。あれは、我々人類にとって、非常に危険な実験なのだ。といって、事を表沙汰にすれば、とにかく反対したい輩が、きっと出てくる。そうならんように、我々が出向く。今、この世に平安をもたらすことができるのは、我々しかいない。我々がやらなければ、ほかにやれる者などいない。もし、我々のうちの誰かが、あそこに残されたとしても、我々はかえりみない。計画を遂行するまでだ。計画の完了は、最終的に、この建物内の司令室にある、起爆装置の作動によって確認される。地盤を破壊して、構造物をすべて、月の内側へ落とす仕組みだ。観測可能な変化が、月の表面に及ぶことはない。それは、ちかぢか、月への進出を計画している、我が国の首脳部が望む結果でもある。お前らは、俺だけじゃない、全世界百億の人類から、期待されているんだ。それを忘れるな。」
 「出発!」副団長の号令に従い、団員は回れ右をする。男女各十名のなかから、おのおの四名ずつが、手前の銀色の箱を二つあて取りに来る。残りの団員が男女それぞれ、別々に左右のドアを出るのにならい、箱のロープ製の取っ手を持った二人一組の団員も、男女おのおの、別々のドアから出て行く。最後に副団長が、キビキビとした身のこなしで、女性陣のあとへと続く。
 「吉報を待っている。」角刈り頭が、副団長の背中に敬礼する。副団長は立ち止まり、回れ右をして、答礼を返した。

 夕食を済ませた僕は、机の完了ボタンをタップして、表示される明日の日課に、軽く目を走らせる。ピピッと、机が鳴って、これもまた、あの時と同じくらいの、長文の告知が表示される。
 「班長会より居住者のみなさまに。かねてお知らせした、汚水処理プラントの機器交換修理が、今晩、行われます。その件で、来場の作業班から、居住者のみなさんに、当夜、守っていただきたい事柄などをお伝えするよう、指示がありましたので、告知いたします。有毒ガスが発生する可能性があるため、居住者は今晩、部屋から出ぬように。殊に中庭への出入りは、ゲートの電源を切りますので、機械的に不可となります。各部屋からの排水については、今晩、極力、排出を控えてほしいとのこと。ただ、新しい機械を取り付けるまで、古い機械にバイパスを作るので、部屋に溜める必要まではないとのことです。最後に、帰還を希望されるかたは、作業班の到着次第、すみやかにハッチへ来るように。手荷物はカバンひとつまでとのことです。以上。」
 「ちょうどいいや」と、僕。前田さんとは、もう、会えないのだろう。斉藤さんは、同期の半数が帰還したと言っていた。僕も、前田さん以外、同じ船で来たひとを知らない。まあ、角刈り頭は……。
 歯をみがいて、ベッドに身を投げる。自分は、そんなにも、少数派なのかと。それとも、斉藤さんや角さんの時で、出尽くしたということなのか。絶滅という言葉が、僕の頭をよぎる。それもまあ、いいかな。
 「ひでぇ星だ……」どこかで聞いたセリフを、僕も呟く。本当に、ひどい星だと思う。横になり、掛け布団を抱き込む。モヤモヤとした気分で、とりとめもないことを思ううち、いつしか眠っていた。
 ハッチに着陸した船の中から、防水服を着て、酸素マスクをかむった六人が、一列に連なって、静かにタラップを降りてくる。続く四人の団員が、二つの銀色の大きな箱を携えて、そのあとに続く。
 ハッチから伸びる広い通路を、各部屋へと続く脇の廊下へは入らずに、そのまま進んで行く。誰一人、話す者もない。突き当たりの階段を、全員が下へ降り、汚水処理区画よりもさらに下へと降りて、最深部の扉の前に出る。各自、端末を取り出して、扉の前の脇の壁の、四角く囲われた部分へ、おのおの、端末をかざして中へと進む。
 天井からの、間のあいたスポット照明の下で、隊列はサイレント・フィルムのひとコマずつのようでもある。時折、中庭の側の壁の中から、ピシッ、ピシッという、何かが押し砕かれるような音が聞こえる。この最深部のフロアは、引力によって生じる、月の内部のわずかな歪みを利用して、発電の研究をしていた場所。歪みを電気に変える結晶が突然に砕けて、飛んできた破片で研究者が死亡したため、現在は放置されている。
 廊下は直角に曲がって、さらに先へと伸びている。隊列はしずしずと、道なりに歩いていく。やがて突き当たりとなり、先頭を務める団員が、目の高さにある囲われた部分に端末をかざすと、その突き当たりの壁が内側へと沈み込み、横へ隠れて、各部屋へと続く廊下のような、青白く縁取られた、短い廊下があらわれる。
 左右の壁、ちょうど両手が触れる辺りに、すべて違う形で縁取られ、ナンバリングされた部分が並んでいる。先頭の者が、そこを手でなぞりつつ、廊下の奥へと歩くと、その縁取られた部分が壁から剥離し、その部分の裏に固定された、六本の細くて長い、筒状の端子の一部分をのぞかせる。
 続く団員らが、それらを壁から、慎重に両手で抜き取り、持参した銀色の大きな箱の中の、それぞれのプラグの形に工作せられた穴の中へ、上から差し込んで収納する。全部で十個のプラグ・セットが、すべて回収せられた。
 団員らは隊列を整えて、今度は階段をのぼりにかかる。この階段で、最上階まで、行かねばならない。そこは中庭の天井裏であり、中庭の壁と天井とを支える十本の太い柱が、唯一、コンクリート打ちはなしの、生の表面を晒す場所でもある。
 到着した一行は、めいめい、箱の中から指定された番号のプラグを取り出し、その同じ番号がふられている、太い柱のひとつひとつへと向かう。隊列のさきがけをつとめる団員は、しんがりをつとめる団員とともに、おのおの五番と六番のプラグをたずさえ、はるか彼方の柱を目指して、黙々と歩き出す。銀色の箱はその場に放棄せられ、プラグの挿入を終えた団員らは、三々五々、階段を降り、宇宙船へと帰還する。計画上、一番最後に挿入されるこれらのプラグについて、警告するような仕組みは、元よりない。
 さきがけをつとめる団員は、今、ようやくにして、五番の柱に到着し、青白く柔らかな照明のなかにそびえたつ、その威厳ある物体の前にひざまずけば、ちょうど肩の高さに、プラグと同じ形状の穴が工作されてある。持参したエア・スプレーのスイッチを入れ、降り積もったチリや、穴の中の接点を吹き清める。おもむろに、持参したプラグを両手でかかげて、まずは番号と上下の間違いとがないことを確認してから、慎重にその穴へと差し入れる。
 最後にスッと吸い込まれるように入った感覚があり、プラグに書かれた数字の背景が、ほの青く光る。さきがけをつとめる団員は、そのほの青い光に、うむ、とうなずいて立ち上がり、六番の柱へ向けて歩きだす。
 途中、六番のプラグを担当した、しんがりをつとめる団員とすれ違い、軽く片手をあげて、プラグの挿入完了を伝え合う。半周分、五箇所のプラグのほの青い光を確かめて、さきがけをつとめる団員は、階段へと戻る。ややあって、しんがりをつとめる団員が到着し、二人で、足のつくようなものが残されていないか、周囲をくまなく確認する。互いにうなずき、チラリと辺りを見渡してから、二人は階段を降りていった。

 深夜、ユニバス社の、月のミッション専用の司令室に、背広を着た角刈り頭が、ひとり座っている。見下ろす端末の画面が明滅して、副団長からの、両船ともに離脱完了の通知が、音もなく届く。背広の胸ポケットに端末をしまい、角刈り頭は、グイと、背広の襟を引き締める。ユニバス者の襟章が、モニターの光に鈍く輝く。
 上着のポケットに手を入れると、かねてから準備しておいた、二個の小さな鍵が、指先に触れる。その存在を確かめて、椅子から立ち、角刈り頭は、最前列の責任者の席へと、ゆっくりと降りていく。
 指令席のコンソールの、その一角だけ、更新のたびに切り取られて、はめ込まれてきた、古めかしい、傷だらけの、五インチほどの液晶タッチパネルがある。左右の鍵穴にこの鍵を差し、回してやれば、電源が入る。ドラマのように、同時に回す必要はない。月のほうで、プラグが完全に差し込まれていれば、パスワードを要求する画面と、ソフト・キーボードとが表示されるはず。
 角刈り頭は、上着のポケットから、小さな鍵を取り出し、ひとつずつ、鍵穴にさす。ギュッと拳を握り締めて、力を解き、ひとつ、またひとつ、鍵を回す。確かに、画面には“PASSWORD?”の文字と、自分の指には小さい、アルファベットのみが順番に升目に並んだソフト・キーボードとが、表示されている。
 こんなもんだろうと、角刈り頭は苦笑する。内の胸ポケットに手を入れ、タッチペンを取り出す。ソフト・キーボードの上をさまよいながら“DAWN”と入力し、一番下の、横に細長く表示されたエンター・キーを押す。内の胸ポケットに、タッチペンを戻して、角刈り頭は結果を待つ。ややあって、画面が暗転し、数行の文章が表示されたが。しかし、文字が小さくて、角刈り頭は、両手をコンソールに置き、それを支えにして、画面にグッと頭を近づける。
 “THE SELF-DESTRUCT CIRCUIT 
  WAS SAFELY LOCKED DOWN. 
  NOW, ERASING SOFTWARE."
 その下の表示が、五分の一、五分の二と、秒単位で分子の数字を上げてくる。角刈り頭は、両手の拳で、ガンガンと、コンソールを叩きつけるが、しかしそれも虚しく“COMPLETE”の表示。司令室のモニターが、その古風な液晶タッチパネルのみを残して、一斉に暗転する。角刈り頭の、赤く握り締められた両手の拳のなかで、画面が暗転し、新たな表示があらわれる。
 “YOU CAN TYPE THIS LETTER 
  INTO YOUR OWN CONSOLE 
  "DONE" THAT IS OUR SELF-
  DESTRUCT PASSWORD. 
  WHO KNOWS IT WAS 
  SUCCESSFUL OR NOT?”
 握り締められた拳が、次第に開いていく。

 仕事明け、喫茶「夜明け」で、内藤はひとり、ホット・コーヒーを楽しんでいる。佐々木さんは初孫の誕生日。福ちゃんはトルコ辺りで、何か買い付けをしているらしい。今日のコーヒーは格別に美味いと、内藤の顔が言っている。
 「ありがとうございます」と、店主に見送られ、内藤は地下一階の踊り場から、階段をのぼり、地上へと出る。ビルの高さすれすれに、ポッと、明るい月が出ている。ズボンのポケットに手を突っ込んで、内藤は道行くひとびとの流れに呑まれ、タクシー乗り場まで歩く。ビル街を抜けると、タクシーの窓からも、月が見えだす。
 「済んだよ親父。」内藤は呟く。もしも人が、この先も続いていくのだとすれば、彼彼女らは、いずれは、お互いの存在に気がつくだろう。月を見上げて、内藤は微笑む。あの人たちは、何と呼ばれるんだろうな。宇宙人?、月の人?。
 馴染みの、近所の商店の看板が見えてくる。今日の道は、割とスムーズだったなと、内藤は来た道を振り返る。座席に身をゆだね、両手を腹の前に組んで、目をつむる。たのむぞ、と、内藤は心の中で呟いた。


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月の庭(3)

2025年02月09日 | 小金井充の

 「こんな星はやく宇宙から消えろっつってんだよ!」
 目を開くと、机や窓の輪郭が、うっすらと見える。まだ夜明け前。起きるには早い。参ったな。叫んじゃったんだろうか……。掛け布団を抱き込み、胎児のようにちぢこまって、僕はあの、カンカンと鳴る、軽い造りの廊下のことを思う。まだ時々、発作のように、あそこでの夢を見る。
 暑い。ものうげに、仰向けになる。フゥとひとつ、溜め息が出る。天井はもう、元の天井にしてある。中庭に雨が降れば、連動して、天井にも雨が降る。天井が落ちた家で、ビニール・シートにくるまって見上げたのと同じ空。それを見てから、天井は天井のままにしてある。
 そろそろと、布団から片手を出して、汗で湿った前髪をぬぐう。でも、思ってみれば、誰かの叫びを聞いたことはない。はや存在を忘れかけた、窓枠と一体型のスピーカーから聞こえる中庭の音のほかには、自分が出す生活の音以外、聞こえてこないな。なら大丈夫かと、気分は軽くなる。外れた枕を手繰り寄せて、首の下へ詰め込む。スッと息が深まる。
 目覚めはよかった。ピピッと机が鳴る前に、起床完了のボタンをタップする。続けて日課が数行、表示されるが。しかしもう、見ずとも分かっている。昨日干した靴下を、浴室へと取りに行く。シーツ類と一緒に、衣類を全部、回収に出すひともいるけれど、僕は下着と靴下だけ、洗面所で洗っている。回収されたシーツ類が、どのように洗われ、仕分けされるのかは、当番で実際にやっているので、よく分かっている。下着や靴下を回収に出したとしても、衛生的に問題ないし、誰かの手間になることもない。あとは個人の好み。ここでは時間があるから。時間があるというだけで、部屋も綺麗になる。
 机の引き出しから端末を出し、昨晩支給されて、扉の前の壁のフックにかけておいた、今日の分の作業着一式を着込む。レイン・コートのような、防水性の作業着。帽子を前後ろにかむり、フードをかむる。あの日支給された長靴をはく。今日は軍手ではなく、厚手のゴム手。あの日、ずぶ濡れになった靴は、ちゃんと乾かされて戻ってきて、今は、なかなか履く機会のないままに、扉の脇へ置かれてある。
 キュッキュッと靴底を鳴らしながら、青白い光の回廊を歩き、緩やかに照度を上げる空間に立つ。ゲートの脇の細い換気口が開き、ゴロゴロとゲートが引き上げられる。端末の画面に出る矢印は、もう見なくていい。見学は頓挫してしまったが、あの日、斉藤さんに連れられて降りた螺旋階段を、まさにその地下二階まで降りていく。台風と洪水とを難なく過ぎて、廊下で酸素マスクを受け取り、汚水処理のプラントに入る。誰かポンと、僕の肩を叩く。
 「今日も早いね」と、斉藤さん。マスクの中で、いつもの笑顔が少し汗ばんでいる。「前田さん今起きたところだから、来たら始めましょう。」
 僕はうなずいて、細長い処理槽の奥で、段取りを始めている角さんの脇へつき、水のホースの接続を手伝う。
 「あ、おはよー。」と、マスクの中の、いつもの眠たげな顔で角さんは言う。斉藤さんの次の船で来た、ひょろりと背の高いひと。挨拶した日に、首の傷を見せてもらった。
 「おはようございます」と僕。「もう一機、使いますよね。」
 「うん。じゃあ、任せたね。」と、角さんは、僕が横手に水ホースをつなげた、まるで酸素ボンベのような機械を、よいしょという具合に両手で抱え上げて、処理槽のさらに奥へと入っていく。機械の頭についている、太くて短い排水ホースが、前回の残りの水分を垂らしながら、ズルズルと、角さんのあとをついていく。
 僕は残りの一機に水ホースをつなぎ終え、角さんのように抱え上げようとするが。しかし、ことのほか重いこと。おまけに排水ホースのせいで、あちらへ、こちらへと振り回されそうになる。
 「コツがいるんだよ」と、僕の後ろで斉藤さんが言う。「後ろ、持ったげるから。」
 角さんは、機械を床に置いて、慣れた手つきで、排水ホースを処理槽の下のすき間へ引き回し、脇の乾燥機の下側につないでいる。見よう見まねで、僕もやってはみるものの。処理槽の下のすき間はけっこうシビアで、思うように通ってくれない。そうこうするうちに、太い腕がヌッと、僕の前にあらわれた。排水ホースをつかむ。
 「機械、も少し前に出してくれたら、俺つなぐから。」と、前田さん。宇宙船の中で、角刈り頭と、力こぶの見せ合いしていたひと。僕は排水ホースを手放して、機械を押しにかかろうとするけど、前田さんの力だけで、機械がグイグイと前へ出て行く。
 「つなげたぁ?じゃあ、フタ、開けよっか。」眠そうな角さん。でもアクビは出ない。「これやらないとぉ、みーんな、生きていけなくなっちゃうから。」そう言って、ハハハと、力なく笑う。
 斉藤さんと僕とで、片手ずつ、処理槽のフタの取っ手をつかむ。「ィヨッ!」と、気合を入れて持ち上げる。重っ!。持ち上がるそばから、黒い泥があふれ出す。空調がうなりをあげる。
 「あー、カラカラ言ってる。」斉藤さんは、天井の吸い込み口のそれぞれに、耳を向けてみる。「次の班のひとたちに、お願いしなけりゃ。」
 角さんはそつなく、前田さんは力技で機械を抱え上げて、泥のなかへ、その先を差し入れるが、しかしなかなか、ウレタンのような黒い泥の中へは、入っていかない。
 「水ぅ。」と、角さんが、マスクの中から表情のない顔で、僕を見やる。この顔には、最初はドキリとさせられたものだ。
 フタが倒れないのを確かめて、僕はさっき、機械に水ホースを組み付けたところまでとって返し、かがんで、壁から出ているコックに手を伸ばす。ブォォォという、プロペラの回る音が聞こえだす。
 「ぶはっ!」という、前田さんの声。振り返れば、前田さんの側から、黒い水しぶきが上がっている。角さんが、前田さんの機械を、グイと引き寄せる。水しぶきは止んだが。しかし、二人とも、泥をかむって散々な姿。斉藤さんは、元よりフタの陰に隠れていて、無事の様子。
 「もっと出せ!」前田さんの、マスクのせいでくぐもった、太い声が響く。出し過ぎると、かえって泥があふれてしまうから、単純に全開というわけにもいかない。斉藤さんが僕のほうを向いて、両手で大きく丸を作る。
 乾燥機の底からは、ゴボゴボと泥があふれ、コンベアで、一段目の電熱器の下へと運ばれていく。生乾きになった泥は、ローラーで押されて薄い板状になり、二段目の電熱器で焼かれて、養分に富んだ、無菌の土になる。粉砕されたあと、コンベアで中庭におろされ、居住者の食卓にあがる菜園の、新たな土壌として利用される。
 「もういいでしょう。水、止めてください。」斉藤さんが、僕に手を振る。泥が引いて、澄んだ水が流れ始めたころあい。角さんと前田さんは、泥の散った床へ機械を寝かせて、水ホースを外しにかかる。
 「水ぅ。ちょっとね。」と、角さん。前田さんと、お互い、かむった泥を洗い流す。それからホースを床へ向けて、「いいぞ」と、前田さんは僕に言う。ここからは水全開。処理槽や天井に跳ねた泥を、丁寧に洗う。
 角さんは、機械を洗ってから、床の泥を流しにかかる。常に空気が吸われるために、どれだけ濡らしたところで、じきに乾いてしまう。綺麗にしておかないと、虫や動物に侵食されかねず、次に自分らがやるとなれば、気が滅入ることにもなる。それは誰だって同じだろう。
 斉藤さんと僕は、機械を引いてきて、コックの向こうの、二つあいた横穴に、それぞれ押し込む。頭までは入らないので、そこへ排水ホースを巻きつける。
 「おーい」と、前田さんの声。コックを閉めて、斉藤さんと僕は、水ホースを引っ張りながら、手前のフックへと、巻き収めていく。
 「ちょっと出して、私らも洗いましょう。」斉藤さんが、僕にホースの口を向ける。上はフードから、下は長靴の底まで、互いに水をかけあう。まあとにかく、みんなビショ濡れだ。年をとったら、こんな作業はできないだろうなと、僕は思った。
 プラントの出口で、酸素マスクと防水服、厚手の手袋をあずけ、長靴は、消毒槽の中でジャブジャブやって。満足げな面持ちで、四人はプラントを出る。青白く縁取られた螺旋階段をのぼりだす。上からの光が眩しい。
 「ごくろうさんです。午後は牛をやりますから。」と、斉藤さん。頭上の枝に、小鳥のさえずりが聞こえる。
 「あの汚水は、あの先は、どうなるんです?」と、僕は斉藤さんに聞く。
 「この中庭の土からの蒸発と、木々の蒸散とで、いわば濾過されて、あの上の換気扇とパイプで」斉藤さんは天井を指差す。「回収されて、生活用水になります。その一部がフィルターを経て、飲用水になる。」
 「吸い出した臭いは、どうなります?」と僕。この際だから、聞きたいことは聞いてしまえ。
 「場内の排気はすべて、ダクトの中を流れて、一度、月の表面に出るんです。」斉藤さんは、片手の指を上へ向かわせ、その手にもう片方の手の指を、上から降り注ぐ感じで当てて見せる。「そこでは、宇宙線から二次的に出る粒子を適当に減速して、脱臭の効果を持たせてあります。そして」
 斉藤さんは、自分らの行く手にそびえる、中庭の周囲の壁と天井とを支えている太い柱の一本の、その一番上のほうを指差して見せる。「あそこら辺から横へ噴き出したのが、中庭を大きく、ゆっくりと巡るうちに、虫や木々や細菌、建材、ホコリなどで成分を調整されて、この地べたで、私らも呼吸する空気になります。」
 「だからぁ、変なもの、使っちゃダメだよ。」角さんが、相変わらずの眠そうな顔で、僕らに微笑む。自分の部屋へと、やんわり、歩き出す。
 「さあ、飯だ飯だ。」前田さんも、ズンズンと先へ歩いていく。
 「私らも、ご飯にしましょう。食べてから、あの泥を見る気には、なれないなぁ。」斉藤さんは、背中越しに、手を振って見せる。みなさん、なんだか楽しそうな。前田さんは飯があるとしても、斉藤さんや角さんは?。僕も、だな。
 「ニャア」と、脇の木陰で、猫氏の鳴き声がする。今日もオヤツにありついて、ご満悦の様子。ここにいる動物は、僕の見た限り、オスだけだ。午後から世話に入る牛も、オスしかいない。牛とは言うものの、子牛ばかりだし。
 猫氏の隣に座って、僕は木にもたれる。はるか以前の記憶に、こんな景色があったかもしれない。猫氏は、頭をかいてやると、気持ちよさそうに顎を出して、目を細める。この中庭に何匹かはいて、それぞれが誰か彼かからオヤツをもらうので、少々太り気味。イヌやカラス、騒々しい輩は、ここにはいない。
 ドヤドヤと談笑しつつ、他の班のひとたちも戻ってくる。僕がここにいることを、誰もとがめない。一人が立ち止まって、僕に声をかける。
 「泥の掃除、大変だったでしょう。」港さんは、斉藤さんと同期。小柄ながら、作業服の似合うひと。あそこでは、無理をして、電気工事の下請けをしたのが、最後の仕事だそうな。
 「みんなズブ濡れになりました。」と僕。港さんは、うんうんとうなずいて、片手を振って、自室へと戻っていく。科学の進歩。見た目では分からないが。しかし、感電して墜落して、左足を失ったことは、みんな知っている。僕は……。
 そうだ。午後も力仕事。飯、食っとかなきゃ。猫氏とお別れして、僕は自分の部屋へと続く、高いゲートの前に立った。
 部屋へ戻ると、麦の焦げた、いい香りがする。思い出したように、唾が湧いてくる。机の上に帽子を放りだし、ビジネス・チェアを押して、洗面台の横へ。いい感じに焼けた分厚いトーストが、四角く斜め半分に切られて、編みかごの布の中に、鎮座している。
 「さすが」と、思わず声が出る。今日のうちに何もなければ、僕らは明日、これを作る。黄身のトロリとした茹で卵の脇には、ジャムと、バター風味のマーガリン。ジャーマン・ポテトも、いい塩加減。ここでは希少品のコショウも、惜しげなく入っている。牛肉なのを除けば、本場もビックリだろう。
 半分くらい、一気に食べてしまったが。しかし、昼の時間は、十分にある。デザートのリンゴを一切れ。紅茶を飲み、気分を落ち着かせる。子供の頃、あそこでは、よく噛んで食べろと言われたなと。ここではおのずと、よく噛むようになる。よく噛むというか、味わうようになる。
 机に戻って、完了のボタンをタップする。昼から散水の告知が出ている。うまく水が回ったようだ。午後の仕事は、それからだな。ビジネス・チェアの背にもたれて、あれも自動化すればいいのにと、僕は思う。思ってから、考えてみれば。忘れかけていた。ここは研修所なのだから。
 ピピッと、机が鳴る。ここに来て以来、見たことのない長文の告知が、画面に表示されている。
 「班長会より居住区のみなさまに。汚水処理プラントの、昨今の故障頻発の状況にかんがみ、本社へ修理改修を打診しておるところです。その返答が来ましたので、みなさまにお知らせいたします。まだ期日は決まっておりませんが、準備が整い次第、緊急の要件として、新たな装置持参で、作業班が派遣されます。おそらくは、次回の物資輸送に伴って、来場するものと思われます。その際、みなさまの日課には、一日から数日の間、汚水貯留の作業が追加されます。方法などについては、追ってお知らせいたします。以上。」
 「故障かよ……」思わず声が出る。いやしかし、どんな故障にも、対処していかねばならないのだろう。サーッと、ホワイト・ノイズのようなかすかな音が、窓から聞こえてくる。散水が始まったようだ。僕はビジネス・チェアを立ち、窓辺へ寄る。雨というよりは、霧に近い。見上げれば、けぶった天井の所々から、水が噴きだしている。いずれ、あれも修理しなけりゃならなくなるのか。僕はいつしか、窓枠に添えた手を、握り締めていた。
 牛舎と畑とは、地下へ降りる螺旋階段を過ぎて、中庭のもっと真ん中辺りに設営されている。僕は散水が終わってすぐ、中庭に出た。道端の、つややかに光る芝生を眺めながら、螺旋階段を過ぎて、稀に、どこかで水浴びしている小鳥の羽音を聞きなどしつつ、牛舎へと歩く。後ろから、ドシドシと迫ってくる、長靴の音。振り返らずとも、前田さんとは知れる。
 「告知見た?」前田さんは、横へ並ぶなり、少し背をかがめて、僕の横顔を覗き込む。「俺、帰ろうと思うんだ。」
 「帰る、って?」どこへ?、と聞きそうになって、僕は言葉を呑む。もうすっかり、ここの住人だな。
 苦笑いを浮かべる僕の顔を、別の意味で見取って、前田さんは黙ってしまう。
 二人並んで歩いている姿は、きっと、僕が子供のころ好きだった、獣人さんの漫画みたいだろう。何となく筋書きを思い出して、僕は微笑む。
 「なんだよ。渋い顔したり笑ったり。」隣で前田さんがいぶかる。「まあいいや。ちかぢか来るっていう修理の船に、便乗させてもらうつもりだ。部品をおろしたら、そのくらい余裕はあるだろ。」
 僕は、うんうんと、うなずいて見せる。実際、希望すれば無条件で戻れるんだし。希望しなくても、戻されるくらいなんだから。
 「ここへ来る前、前田さんは、どんな仕事をしてたんですか。」と僕。宇宙船で乗り合わせた時から、聞いてみたかったこと。
 「トレーラー運転してた。運び屋さ。半日かけて荷物を積み込んで、半日かけておろす。ティッシュの箱は辛かった。」ズボンのポケットに手を突っ込んで、前田さんは、中庭のはるかな天井を見遣る。クンクンと鼻を鳴らして、渋い顔になる。
 「ンゴォォォ」という、子牛の鳴き声が聞こえてくる。作業、もう始まっているんだろう。
 僕らは軍手をして、戸口に立てかけられたフォークを手に取る。とりあえずは、斉藤さんと角さんとで集めた古いワラを、一輪車に積んで、脇の堆肥場へと運ぶ。土をかけて、臭いをおさえる。
 ちらりと、斉藤さんたちのほうを見れば、角さんが、僕らを手招きしている。
 「これから牛舎へ戻すんですが」と、斉藤さん。角さんは、何かを取りに、牛舎の中へ入っていく。
 背後の柵に立てかけてある、黒く塗ったベニヤ板を、斉藤さんはコンコンと、僕らにノックしてみせる。「どれか一頭、二人で、この板で追って、向こうの小屋へ閉じ込めてください。子牛とはいえ、力が強いです。甘く見ないように。」
 見渡せば、十頭もいない。次の物資補給船が来るまで、もてばいいくらいの数字。運悪く、一番遠く、小屋の近くに、一頭、草をはんでいる子牛がいる。
 角さんが、牛舎の中から戻ってくる。背中にポータブル電源を背負い、手には、磨かれた分厚い電極が先っぽについている、棒状の器具と、アース線のクランプとを持っている。太い一本の電線が、棒をつたって、角さんの肩越しに、背中の電源へ接続されている。
 「肉の在庫が不足気味です。」と、斉藤さん。「さばくのは、別の班ですが。私らは、絶命させるところまでです。」
 ここへ来て、初めて、嫌な仕事だなと、僕は思った。角さんは、そんなそぶりも見せないが……。
 「僕もねぇ、悩んだ。」角さんは、例の表情のない顔で、電極を、僕らの前へ突き出す。「だいじょーぶ。スイッチ、入れてないから。」電極には、研がれて薄くなってはいるが、確かに、焦げた跡がある。
 「僕の答えは、言わないョ。」角さんは、いろんな意味で当惑する僕らに、ニッコリと笑って見せ、小屋のほうへ歩いていく。
 前田さんが、無言で板を取り、小屋の近くにいる子牛のほうへ、スタスタと近づいていく。僕も板を持って、そのあとを追う。僕らの狙いが定まると、斉藤さんは僕らに近い側から、子牛を牛舎に追っていく。
 閉じ込められても、子牛は暴れる様子もなく。おそらくは怯えてしまっているのか、でなければ、何か新しい遊びでも始まるように思っているのか。角さんが、アース線のクランプを、小屋の床に敷かれた金属板につなぐ。
 「スイッチ、入れてぇ。」背負ったポータブル電源を、角さんは、たまたま近くに突っ立っていた僕に向けてくる。「右の上の、丸ぁるいツマミ。右にひねって。」
 カンッと、スイッチが入る。四角い赤いランプが灯る。ヒューと、電流回路の動作音が聞こえる。角さんは頭をかしげて、その音を確かめてから、小屋を覗き込み、子牛のおでこの位置を確認する。棒を差し入れる。ピーと、ポータブル電源が鳴った。
 「そのままでいいです。」いつの間にか、斉藤さんが、僕らの後ろで見ている。「別の班のひとたちが、回収してくれます。スイッチ、切ってあげて。」
 「自動で、切れるんだけどー。」角さんは、僕のほうへ、背中を向ける。四角い赤いランプは消えて、ヒューという音もない。スイッチを左へひねると、ただ、カチッという、小さな音だけがした。
 「子牛なのは、輸送費の問題ですか。」と、前田さん。「大きいと、扱いも難しそうだ。」
 「そうです。」と、斉藤さん。角さんは、道具を置きに、牛舎へと戻る。
 「そうですが、それだけではないです。」斉藤さんは、腕を組んで、ちょっと、首をかしげる。話したものかどうか。話して何かになるのか、思案している様子。やおら、斉藤さんは言葉を継いだ。「その生物の文化や秩序を受け継ぐことができるのは、大人だけです。子供に、何の価値があるのでしょうね。」
 「子供がいなければ、その生物は絶えてしまいますよ。」と、前田さん。僕は何も言えないまま、二人の問答を聞いている。
 「その通りです。だから、沢山生まれてくるんです。時間をかけて、大人を残していくために。」と、斉藤さん。僕らに寂しく微笑んで、牛舎へと歩きだす。
 前田さんは、渋い顔をして、何か決意したとでもいうように、うんと、無言でうなずく。僕のことは忘れたふうで、スタスタと、牛舎へ歩いていく。
 僕はそこに突っ立ったまま、胸の鼓動を感じていた。僕は気がついた。いや、改めて、確認したと言うべきかもしれない。僕がここへ来た理由。ここが好きな理由。もう何があっても、あそこへ戻ることは、けっしてない。戻っちゃダメなんだ。僕には今、そのことがハッキリと分かった。


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月の庭(2)

2025年02月03日 | 小金井充の

 喫茶「夜明け」の、小さなテーブルを挟んで、ビジネス・ウェアをさりげなく着こなした男女が、声を落として談笑している。短いお昼休み。
 「何年になるかしら。」目じりのシワは増えても、えくぼの可愛らしさは、なお、変わらない。企画課を経て、この十年来、人事課で人材リサーチをやっている。肩まで伸ばしたつややかな黒髪は、今もう、後ろで簡単にくくられて、年齢相応の落ち着いた雰囲気に、軽快感を添えている。
 「八年?十年?」男性は茶化すように言う。手にした白いコーヒー・カップを引っ込め、残る手を女性にむけて、ちょっと前のめりになる感じ。センターで分けた、白髪の混じった短めの髪が揺れる。その白と、白いコーヒー・カップとが、茶色のスーツに映える。
 「会長さんがお亡くなりになってから……」女性は顔を恥かしげにティー・カップへ向け、両手でその温もりを包む。「もう八年かしら。」色とりどりの控えめな花柄に縁取られたティー・カップが、深い青のドレスに映える。
 「そんなになるかぁ……」男性は椅子の背にもたれて微笑む。「親父の遺言みたいなものだから。」ひと口コーヒーをすすり、カップを置く。老いて節の目立ち始めた両手を、腹の前へ組んで、フゥと軽く溜め息をする。
 「でも、ひどい言われようね。」女性は微笑み返し、カップを持って軽く揺らす。立ちのぼる紅茶の香りを楽しみ、ひと口飲む。お肌のケアは欠かしていないが、男性同様、節の目立ち始めた華奢な両手のなかへ、カップを戻す。男性の胸の辺りに、かすかな光のまたたきを感じて、女性は顔をあげる。「社長、お電話ですわ。」
 え?、という顔をして、椅子の背から起き上がり、男性は胸ポケットを探る。探り当てたとみえて、かすかなバイブレーションの音が、女性の耳に届く。手のひらに十分収まるサイズのスマホを、もう片方の手に持ち替えて、男性は画面の明滅の眩しさに切れ長の目を細めつつ、通話ボタンを押し上げる。
 「どした?うん。今、佐々木さんとお茶してるとこ。あー、例の件ね。はい。十分くらいで戻るから。よろしく。」通話ボタンを軽やかにタップして、男性は慣れた仕草で、スマホを胸ポケットへ返す。「あんまり関心持たんで欲しいなぁ。」やれやれという具合で、男性は椅子の背にうなだれ、ダラリと両手をたらす。口をとがらせて、女性の手の中のカップを見遣る。
 「送還のことで?」女性はやや体を曲げて、顔を少し斜めに、男性の顔を確かめるような仕草で、ん?というふうに目を見張って見せる。
 男性は口をとがらせて、渋い顔だ。「新聞が取材に来てるって。約束の時間くらい守れよなぁ。せっかく佐々木さんとお茶しに来たのに。」背を起こして、まだ中身が十分に残っているカップを取り、顔の前で揺らす。コーヒーの香りを楽しんで、飲まずに、そのままカップを戻す。「ねぇ、佐々木さん、急で済まないけど、一緒に取材受けてくれない?。世間の評判とか、うちも把握してますって、ちょっと披露しておきたいから。」
 「でも、あんまりいい評判ではないですけど。」女性はティー・カップを持ち、ひと口飲む。飲むときに無意識に目をつむってしまう。
 その様子を微笑ましく見守りながら、男性は頭の中で、言うべき内容を整理し始める。「佐々木さんの所へは、どんな噂が聞こえているの?」
 「路頭に迷うよりまだひどい。面白いことは何もない。刑務所よりひどい。監禁。強制労働。社長の独裁。趣味の悪い道楽。」手帳を見ながらのほうがいいと、女性は脇の小さな黒いバッグへ手をやるが、しかし男性の、もう十分という仕草を見てやめる。「いい噂は、ありませんね。」
 「それはむしろ歓迎さ。」男性は、あらためてカップを取り、ひと口飲む。カップを戻し、両手を両のひざへかける。女性に微笑んで見せ、椅子の背に戻る。「そういう噂が広まれば、かえって集まるひとたちがいる。カネは無いが、むしろこの世を謳歌しているそういうひとたちが嫌うほど、やって来るひとがいる。そこは、取材には言わないけど。」男性は、テーブルの上にちょっと見えるくらいの位置で、片手の人差し指を立てて、チッチッと振って見せる。
 「世間様は、悪いほうに取りますわ。」ティー・カップに顔を向けてしまい、女性は紅茶の水面に映る、船倉のように梁の多い天井の影を見遣る。「ゴシップで有名な新聞社ですもの。八年前のように、一流の新聞からの取材ではありませんわ。」そして男性の顔を見て、「なぜお受けになりましたの?」と言い、何か出すぎたことを言ってしまったというような、後悔の表情を浮かべて、女性はまた、紅茶の水面に目を戻す。
 男性は、顔を女性のほうへ近づけて、さらに声を落として言った。「これはまだ秘密だけど。役員会の満場の一致で、計画の終了を決めたからさ。」
 「ええ?」女性は、面白そうに微笑みを浮かべて自分を見ている男性の、まるで事も無げな姿に、困惑してしまう。
 そんな女性の姿を前にして、男性は、事の経緯を説明しておかねばと思った。「すべては、この喫茶店から始まったんだ。」椅子の背にもたれ、カップを口へと運ぶ。コーヒーの香りを楽しみ、今度はしっかりと飲む。「佐々木さんがまだ企画やってたころ、親父と親父の知り合いと、ここへ初めて来てね。僕はまだあの時分、レトロな趣味はなかったけど。世の中がどんどん変わり始めるなかで、目覚めたさ。」男性は女性に紅茶をすすめる。「その時、親父が声をひそめて、変なことを言い出した。この世でカネを残すのはよくない。俺もそろそろお迎えだから、パッと使ってしまいたいって。そりゃあ、親父が稼いだカネなんだから、異存はないさ。けど額が額だから。何に使うのって聞いたら、秘密基地を作るって言うんだ。ガキかよって笑った。それが、ただの秘密基地じゃなかったのは、世間も佐々木さんも知ってる。」
 楽しげに微笑む男性の顔に、女性は真顔で頷く。「宇宙基地ですものね。」そして男性の話を促すように少し微笑んで見せ、もう冷めかけた紅茶を、ひと口飲む。
 その女性の仕草に、さすが、人材リサーチの室長だけあるわと、男性は改めて思った。その微笑みに甘えて、話を続けるとしよう。「僕らはここで、週に一度か二度、その話をすることにした。親父は言うのさ。社会人としては、確かに成功したようだが、生物としては落第だって。その時の残念そうな顔、昨日のように覚えている。」両手を小さく振り、おでこに触りなどして、手振りを交えつつ、男性は思い出話を続ける。「もう、どこへ行っても遅いが、希望はあるってね。親父と一緒に来てた知り合いが、宇宙進出を目論むベンチャーの社長でさ。スポンサーと事業主ってわけ。その次にはもう、お前には今の会社と、これだけ残すからって、弁護士も連れてきて、ここで生前贈与のハンコ押したさ。お前は成り行きを見ててくれればいい。直接には関わるなって言われた。ただ、予算が尽きたら、事業を閉めてくれ。その手続きは頼むって。金持ちの秘密の道楽に、つきあわされたってわけ。」
 困ったなというふうに、男性はおでこに手をやって、自分でも苦笑いしながら、ひと呼吸置くべく、冷めたコーヒーを飲む。「登記上は、うちのハッチャケた、奇想天外な事業の扱いで、世間様の興味関心をひきつつ、正味八年やったわけ。その予算が尽きつつあったから、いい機会だと思ってさ。月の腹の中に、生きものだった頃の僕らの生活を再現するなんて、僕には意味不明だったけど。親父の道楽だから仕方ないくらいに思ったけど。今は親父と同じ思いだわ。僕ももう、あそこへは行けないが。希望はある、と思いたい。結局、十二回かな、男女別に、可能性のありそうなひとたちを、」
 ブブーと、男性の胸ポケットがふるえる。ペカペカ光る画面を、眩しそうに見ながら、通話ボタンを押し上げる。「はい、今から向かいます。待たせといて。よろしく。」小さなスマホを、スルリと胸のポケットに滑り込ませて、それがちゃんとあることを確かめるように、背広の胸をポンポンと触って安心する。「さあ、行きますか。佐々木さんに話して欲しいところは、僕がふるから。さっきの噂のとこね。」
 「ありがとうございました。」と、店主に送り出されて、二人は喫茶「夜明け」を、あとにする。ガラス戸の自動ドアを出れば、そこは踊り場。地下二階にある地下鉄駅から、地上へと続く階段の、地下一階の踊り場。下からのぼってくるひとの波は、二人を飲み込んで、地上にあふれだす。タクシーをひろって、走ること数分。かつて名うての新聞社だった建物が、内藤商事のオフィス。輪転機のあった広い空間が、空調を効かせた倉庫に、もってこいだった。
 「お待たせして申しわけない。」ふて腐れて椅子に雪崩れている記者の姿を認めて、内藤社長は自分から声をかける。
 「いえ……」と、小柄ながら、なかなかのおなか回りな記者は、めんどくさそうに立ち上がり、背広の脇の膨れたポケットに手を突っ込んで、擦れた名刺入れを取り出す。「夕刊真実の鈴木といいます。今日の版に間に合わせたいので、さっそく伺いますが、」
 「今日?それはまた急だな。いや、光栄です。」内藤は鈴木記者に先の椅子をすすめ、自分は佐々木室長を連れて、向かいの席に座る。
 「光栄?」と、鈴木記者は無表情に呟いて、メモ帳を広げたテーブルすれすれの位置から、内藤の顔をマジマジとのぞきこむ。短髪の丸顔に、黒眼鏡が光る。眼鏡の奥に宿る眼光は、本物のようだ。
 「ええ。」と、その眼光を避けるように、ちょっと背をそらしつつ、内藤は応じる。テーブルの上に両手を軽く組んで、記者に真向かう。大きく息を吸う。「この事業はもう、世間から飽きられていますから。わざわざ取材に来てくださる新聞社さんは、ありがたいです。」
 内藤の自然な微笑みを見取って、鈴木記者はしばしメモ帳を見下ろす。しかし、何かが足りないらしく、テーブルの上や下をキョロキョロと見てから、今気がついたというふうに、自分の黒カバンに手を入れ、短くなった鉛筆を拾い出す。黒眼鏡の相当に近くまで鉛筆を持ってきて、芯が出ていることを確かめてから、ノートに「栄光。世俗から忘られつつある事業に、今も親しみを忘れ得ぬ内藤社長。」としたためた。相手に見られても、一向、構わないらしい。
 「それでは伺いますが」と鈴木記者。「月へひとを送るというこの事業は、亡くなった会長さんの御遺志だそうですが。会長さんがこの事業を始められたのは、どういういきさつですか。」相変わらず、テーブルすれすれの位置から、内藤の顔をのぞきこむ鈴木記者。
 「その前に、佐々木室長を紹介します。」と内藤。隣で佐々木室長が礼をする。鈴木記者は答礼をするだけはして、もう内藤のほうへ意識を向けてしまう。佐々木室長は微笑んで、鈴木記者のその姿勢を受け入れた。渋い顔の内藤。
 内藤のご機嫌を察してか、鈴木記者は再び佐々木室長のほうへ顔を向けて、「すみません佐々木さん。次回、お話を伺う機会もあるでしょう。なにぶん、今日の版に間に合わせたいので。勘弁願います。」と言って微笑んだ。
 この男、微笑むことができるのかと、内藤は思った。まあいい。今は質問に答えよう。「父は生前、儲けることに忙しくて、夢を持てなかったと、嘆いておりました。それで何か、ハッチャケたことをしてやろうと、思ったようです。」
 ところが鈴木記者、先ほどとは打って変わって、今度はスラスラと、メモ帳に記号のようなものを引き出す。ははぁ、速記かと、内藤は思った。なるほどこれならば、相手に見られても構うまい。
 「事業規模は、金額にして、どのくらいですか。」と、鈴木記者。椅子にしゃんと座り直し、もう、ノートから目を離さない。
 「およそ、五八〇億ほどです。」と、内藤。これを聞いて、ほぉ!という雰囲気を漂わせる鈴木記者。顔が見えないから、察するほかない。
 「当時は、世間に夢を与えた事業でしたね。反響は大きかった。」と、鈴木記者。
 まあ、今のところ好意的だなと、内藤は思った。「そうです。みなさんに夢を持ってもらえて、父もあの世で喜んでいると思います。」
 内藤の言葉を聞いて、鈴木記者の鉛筆が止まる。「すると、会長さんの夢は、叶ったということですね。」念を押すように、しかしやはり、ノートからは目を離さずに、鈴木記者は言う。
 「そう思います。父も満足でしょう。」内藤は、鈴木記者の頭の、大きなつむじを相手にして言った。
 「会長さんも、ということは、社長さんも満足されているということですね。」と、鈴木記者は念を押す。おしまいの「ね」は、問いかけというよりも、そのように理解したという通告だなと、内藤は感じた。
 ヤバイな。質問に押されそうだ。内藤は少し不安になる。ゴシップ新聞とはいえ、いや、ゴシップ新聞であればこそ、気軽に取材を受けるべきでなかったかな。
 「ううむ」と、鈴木記者が突然に唸る。鉛筆は止まったままだ。今、たぶん、すごい勢いで、鈴木記者の頭の中に、何かが駆け巡ったのだろう。
 内藤の横で、黙って見ていた佐々木室長も、鈴木記者に何があったのかと、テーブルに身を乗り出している。
 「社長さん」と、突然、ぶっきらぼうに鈴木記者が言う。
 「はい?」少々驚かされて、内藤の言葉の語尾が上がる。
 語尾があがったのを、鈴木記者は、内藤の不服の意志のあらわれだと、とらえたのかもしれない。フッと、ノートから顔をあげて、鈴木記者は、内藤の顔を、今度はテーブルすれすれからではなく、姿勢を正した真っ直ぐなままに、のぞきこむ。
 「社長さん、今日の版は、諦めました。」と、鈴木記者は、ぼそっと言った。
 「え?、どうして?」内藤は、横の佐々木室長と、不思議そうに顔を見合わせる。
 ためらいがちに、もしかしたら、少し恥らうようにも見える様子で、鈴木記者は、身振りも、手振りも交えずに言う。「ご存じのように、うちは、ゴシップで売っている新聞です。でもその前は、そうなる前までは、無名の平凡なタブロイド新聞でした。大手とは住み分けて、地元のちょっとした喜怒哀楽を、取材してました。私的な話で恐縮ですが、私はそれが好きで、入社したんです。」微笑む鈴木記者。寂しい微笑みだと、佐々木室長は感じた。内藤も黙って、鈴木記者の言葉を待つ。
 「これは、久々に、そのころの新聞として書ける記事です。ぜひ、書かせていただきたい。」そう言うや、メモ帳に鉛筆を挟み込み、黒カバンをひったくって、あっけにとられている二人を前に、スックと、鈴木記者は立った。「戻って、デスクとかけあいます。近々、改めてお話をうかがいたい。お電話します。では。」
 「分かりました。電話お待ちしてます。」内藤は、テーブルの上に両手を組みつつ、鈴木記者の背中に、そう言葉をかけた。
 「張り切ってますわね。」佐々木室長が、胸の前に、両手を握って微笑む。
 うん、と、内藤はうなずく。あのひとも、月へ行くべきだったと、内藤は思った。
 仕事を終えて、内藤はひとり、喫茶「夜明け」に向かう。ここで一杯コーヒーを飲んで、仕事とプライベートとを切り替えてから、家路に就くのが常だ。
 「あれ?、内藤ちゃん。」ガラスの自動ドアをくぐるや、聞き覚えのある声が、内藤を見舞う。見れば、奥の四人がけの席に、ひとりで陣取って、誰か手招きをしている。シワシワの白いコートを着た、やや大柄な体の、短髪面長のふくよかな顔の男。名前も覚えやすい。
 「よぉ。福ちゃん。元気してた?」軽く片手をあげて、内藤は手招きに応える。「あ、コーヒー。ブラックで。」
 好物のハンバーグ定食にありついて、福ちゃんはご機嫌な様子。「午後に空港へ着いたんだ。ここの雰囲気が懐かしくてさ。時間ギリギリで、食えるか分かんなかったけど。」
 「ハンバーグなんて、海外のほうが普通に食べられるだろ。洋食なんだから。」コーヒーが来る。カップを手に取り、内藤はコーヒーの香りにひたる。
 「んー、いい香りだな。」福ちゃんが鼻を鳴らす。「すいません、食後のコーヒー、今もらえます?」
 「ハンバーグ美味そうだな。僕ももらおうかな。」福ちゃんの食べかけを覗き込んで、内藤は喉を鳴らす。
 「残念。オーダーストップです。ちょっとつまむか?」福ちゃんは、内藤のコーヒーに添えられたスプーンで、ハンバーグを切り出しにかかる。「ほら。」
 「悪いね、折角の好物を。あー、美味い。明日の昼飯だな。」内藤はスプーンをねぶって、カップの脇へ戻す。
 「そうさ。何か楽しみがあったほうがいいよ。会社のほふは?」テーブルに覆いかぶさるようにして、サラダを頬張る福ちゃん。シャリシャリといい音がする。
 「本業は相変わらず。」椅子の背にもたれて、内藤はそっけなく言う。
 「本業?本業以外にあるのか?」と言ってから、「ああ、月な。」と、思い出す福ちゃん。カップを取り、コーヒーの香りを吸う。ひと口飲んで、満足そうな顔をする。
 「福ちゃんほんと、美味しそうに食べるよね。」内藤の顔から、微笑みが薄れる。「あれ、終了するわ。」
 「終了?月をか?」手にしたフォークで、福ちゃんは内藤を指差す。「まあ、いろいろ噂は聞いてるけどな。」
 「噂じゃない。費用が予定の額に達したんだ。ここまで続くとは、僕も思ってなかった。」手を腹の前に組んで、内藤はひとつ、深呼吸をする。「けっこう、成し遂げた感があるわ。」
 「月かぁ。まあ俺は、地上を飛び回ってるだけで十分だ。美味いものも食えるしな。」ハンバーグの最後のかけらを食べてしまって、福ちゃんはご満悦。「んー。故郷の味が一番だ。」皿を脇へあずけて、コーヒーを、自分の前へ引いてくる。
 「あと、月へ行ったひとたちの帰還と、基地の処分と。けっこうギリギリの額しか残ってない。」手にカップを持ち、椅子の背にもたれたまま、内藤は目を閉じる。改めて思い返せば、けっこう長い八年だった。
 「へぇ。壊しちまうんだ。」言いながら、福ちゃんは皿の隅に見つけた野菜のかけらを、フォークで追っている。
 「ああ。建物を維持するお金は無いし、次の開発の邪魔になるかもしれないし、生物汚染の可能性もあるから、当初の契約でそうなんだ。特集番組でもアニメーションでやってたから、覚えてるひとも、いるかもしれない。焼却して、最後は爆薬でドカン。地盤を落下させて、完全に埋める。建設当初に、装置は組み込んであるから、その費用はかからない。」内藤は、手まねでドカンとやって見せて、微笑む。「五八〇億の、一夜の夢もおしまい。」
 「ひとがいるうちに、ドカンなんてことは無いのか?」野菜のかけらをやっつけて、福ちゃんはコーヒーで祝杯をあげる。
 「ない。一部、現地で組み立てる構造になってる。」内藤は、福ちゃんの前に両手を出して、ゆっくりと組んでみせる。「壁にあいた一塊の穴に、一塊になったソケットを差し込むだけさ。数は多いが、簡単にできるから、最後に離れるひとたちで組みつけて、こっちから信号を送って発火、起爆させる。それで完全に終わり。」
 「SFみたいだな。暗号とか送信してさ。」福ちゃんのほがらかな笑いを、半年振りに見る内藤。
 「僕ね、あの特集番組に、ちょっとだけ出てたんだ。」福ちゃんのほうへ顔を寄せて、内藤は声をひそめて、はずかしげに言う。「暗号、僕が決めたから。」
 「へぇ。そんな場面、あったか?」福ちゃんも、内藤のほうへ顔を寄せる。
 「思い出の場所。そうでもなきゃ、八年も覚えてる自信ないよ。」椅子の背に戻って、内藤は微笑む。コーヒーを飲み干して、満足げにカップを戻す。「久しぶりに、福ちゃんに会えてよかった。いい気分転換になった。しばらくは、こっちにいるのかい?」
 「そうしたいんだがなぁ。」福ちゃんもコーヒーを飲み終えて、ホッと、椅子の背に身をあずける。「週末にはもう、機上のひとさ。ま、今時、忙しいのは、ありがたいことだ。稼げる時に、稼ぐに限るわ。」
 会計を済ませ、地下一階の踊り場へ出る。「じゃあ。」と、お互い片手をあげて、福ちゃんは階段をおり、内藤は階段をあがる。陽はとうに暮れて、空一面を雲が覆い、風が出ている。この時間では、流しのタクシーはつかまるまい。階段の途中で、内藤は振り返る。父との思い出の場所、喫茶「夜明け」の、小ぢんまりとしたレトロな店構えに、内藤は思わず知らず、懐かしさを覚えた。
 地下二階の踊り場に、この時間でも客足の途絶えない、立ち食いそば屋がある。角刈り頭の、外套とジーパンの上からでも体格のよさが知れるオッサンが、二人分のスペースを占領して、天玉うどんを豪快にすすっている。その後ろでは、女子たちと観光客らが、声をひそめてキャアキャア言いながら、立ち食いそば屋とムキムキのオッサンという、稀に見る光景を写真におさめている。誰か、外国のドラマ俳優と、勘違いしているらしい。
 シワだらけの白いコートを着た、短髪面長の冴えないオッサンが、階段をおりてくる。角刈り頭を、ものめずらしそうに眺めながら、コートのポケットから釣り銭を出して、天玉うどんを注文する。角刈り頭が気をきかせて、一歩脇へ退き、スペースを作ってやると、後ろでは女子たちのブーイング。
 汁を一気に飲み干し、優しくトンと、どんぶりを置く角刈り頭の横で、短髪面長のオッサンが、「夜明け」と囁く。
 しかし、角刈り頭には何も聞こえなかった様子で、ただ「ごっそさん」と言い残して、角刈り頭は地下鉄へと向かうひとびとの流れに混じり、改札の中へと消えた。


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月の庭(1)

2025年01月28日 | 小金井充の

 「ひでぇ星だったぜ……。」前の席の角刈り頭が、そう呟く。
 僕は窓の外の、はるか下の地面が遠のいていくのを、ただ眺めていた。
 ひとが、死ぬことなしに、生まれた星を離れられるようになったのは、つい昨日の話のように思える。
 星系内の他の惑星で、開拓の仕事をするという、冗談のような求人を公共職業安定所で紹介されてから、再利用可能な宇宙船ができあがり、それに乗船するまで、二年も経たない。とりあえず月で研修してから、隣の惑星に行くそうな。
 「よぅ、おまえは何で志願したんだよ。」前の席の角刈りが、ヘッドレストと壁との間に顔半分を突っ込んで、ギロッと、目玉だけで睨んでくる。
 「ひっ!」と、思わず声が出て、僕は体が椅子にメリ込むくらいその目玉から逃げて、「職安……」とだけ言った。腹にベルトが食い込んで痛い。
 「職安!」角刈りは、すき間から顔半分を引っこ抜いて、モロ手をあげて大声を出した。船内が静まり返る。
 ほぼ全員の目線が僕に刺さる。僕は椅子に埋もれてしまいたいほど体をちぢこませて、いつものようにギュッと目をつむる。「だからこの星の奴らは嫌なんだよ……。」壁に口づけするほど顔をそむけて、僕はそう呟いた。しかし、それも一瞬。
 船内はザワメキを取り戻して、もう僕の存在を忘れている。前の席の角刈りは、隣の奴と、ちからコブの見せ合いを始めた。
 「どこかの軍人さんかな?」僕は溜め息をして、椅子から浮かび出る。この感じ。この空気が、僕をここに居させる。言ってしまえば、雑多な連中の集まり。ここへ至った経歴も、年齢も国籍も、ここでは「ふーん」で済んでしまう。
 急に船内の照明が落ちて、ザワメキが止む。みな、窓の外や、正面の映像を見つめている。窓の外、ずっと下のほうで、地表はもう鮮明さを失い、茶色と緑色と青色と白の塗り絵になっている。もう二度と、この景色を見ることはない。
 シューっと、かすかだが、聞きなれた音をとらえて、僕はそのための姿勢に直る。間もなく眠くなり、深い吐息をして、記憶が途絶える。最初の夢は、子供のころ、町内の子供らと、ケイドロをした場面。
 「おまえがトロいから、またドロじゃん。」耳元で、ガキ大将の大声がした。
 「ごめん……」と、僕は泣く。縁石に座って、体をちぢこめる。ゲームは僕抜きで再開して、楽しそうな子供らの様子を、僕はただ見ていた。あそこに、僕の居場所はなかったなぁと、僕は思った。最初の夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 誰か大人が、僕の植木鉢を、ポイと投げ捨てた。土しか入ってないようだから、その扱いも仕方がない。横倒しになって、雪崩出た土の中に、やっと根を出したカボチャの種があることを、僕は誰にも言わずにいた。あれを号泣というんだなと、僕は思った。あの時は、本当に悲しかったが。すでに車の中にいて、そこから出ることを許されなかった僕には、なす術もない。懐かしい家。幸せだった家。あの家に帰ることはなかったな。夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 何の集まりだろう。大学のコンパかな。古びた部屋に、ギュウギュウに机が詰まって、みんなでガヤガヤ騒いでいる。
 「ひとーーーつ!」と、間延びした大声が、僕のうしろで始まる。
 「よぉー!」みんな喝采。グラスをかかげる奴、から揚げを箸で持ち上げる奴、ビローっと焼きそばを引きのばす奴もいる。
 「剣道部所ぞーく!春季大会第さーーーん位!」間延びした大声は続く。
 「おぉー!」みんな拍手。頭の上で手を叩く奴。机をドンドンする奴。
 「伝とぉーーと栄こーーぅの!しば!うえ!たに!よん!きょう!ぞーく!」みんな大笑い。何言ってるのか分からんが、あれは楽しかったなぁ。あのあと焼きそばにあたって、みんな寝込んだんだっけ。
 ズキッと、頭に激痛が走って、僕は目を覚ます。
 「この頭痛だけは慣れん。」前の席の角刈りが、無い髪の毛を片手でかきむしる。「ふぁー」と、両手をうんと伸ばして、あくびをする。
 角刈りはあれから、まったく、僕のことなど忘れたふうだ。ありがたいと、僕は思った。体が、ゆっくりと、後ろへ回りだす。間もなく、着陸するらしい。
 ザザッと、船内のスピーカーから音が出る。「当機は着陸態勢に入る。諸君の自主性に期待する。」プツンと、それだけ言って、スピーカーは黙った。パイロットは乗っていない。代わりに、自動操縦のプログラムが走っている。
 ゴォーッという逆噴射の音が始まり、宇宙船は、重厚なハッチを、規定通りの間隔と速度とで通過する。このハッチが閉まれば、もう空を見ることもない。
 逆噴射の音が止まり、船内のあちこちで、ガチャリと、シートベルトを外す音がする。ハッチの内部に空気が満たされるまで、みな、船内にとどめられる。全員が居住区に入ると、この船は自動で飛び立ち、次の旅団を迎えに行く。
 「誰もいねぇな。」前の席の角刈りが、窓の外を眺めて言う。「逃げ出したい奴は、いないらしいな。」角刈りは、ヘヘッと笑って席を立ち、後方のハッチへと歩き出す。荷物は先に、それぞれの部屋に届いているはず。
 僕は座席の肘かけを、名残り惜しく撫でて立ち、後方のハッチから並ぶ列の最後についた。誰も、僕も、自分の後ろを見ない。
 列の前方で、シャーッと、ハッチが開く。無味乾燥だが、新鮮な空気が流れ込んでくる。みんな深呼吸している。おそらく、新天地なんて、誰も思ってやしない。出社する感覚。それだけ。
 カンカンと、軽い金属音のする廊下を歩いて、言葉もなく、自分の番号の部屋へと散っていく。個人のスケジュールは、その部屋の机の上に、すでに用意されてある。あの角刈りと出会うことも、もう無いだろう。
 扉は僕を認識して、音もなく開いた。これからここで、僕は暮らす。コンクリート打ち放しの、寒い部屋だろうと思っていたが。ホテルのダブルベッドの部屋のようだ。
 なんと、窓がある。思わず歩み寄って見れば、どうやら中庭が見渡せるようだ。窓は開かないが、眼下に広がる果樹。川まで流れている。小鳥もいるのか。
 窓枠に、スピーカーが埋まっているのに気がついて、僕はスイッチを押した。ボリュームを上げると、かすかに水の流れる音が聞こえる。時折、小鳥の鳴き声も聞こえる。わずかにエコーがかかっているから、中庭も天井で覆われているのだろう。
 しばし景色に見とれていると、ピピッと、机でアラームが鳴った。スケジュールはもう、始まっているようだ。机の天板を兼ねたディスプレイに、「入浴」、「昼食」、「採血」の文字が浮かぶ。それぞれの文字の隣には、完了のボタンがある。完了以外のボタンは無い。どこへ行けとも言わないから、始めは座学なのだろう。
 湯船に体を沈めるのは、久しぶり。ずっと、シャワーだけだった。それも、シャワー室のある場所がとれればの話。朝早く起きて、遅くまで現場で働く毎日。食いつなぐだけの毎日だった。
 思わず長湯してしまって、気まずい思いで完了のボタンをタップする。トイレの手前の、洗面所の明かりが自動でついて、ピピッと、そこのアラームが鳴る。洗面所の脇の台に、せりあがってきた昼飯を見て、僕は驚いた。ビニールに包まれた、そっけない保存食一式だろうと思っていたが。ホテルの朝食並みだな。パンにバターにジャムに目玉焼き。サラダとドレッシング、グラスにつがれたジュース、牛乳、コーヒーまである。
 「ここで作っているのか!」僕はうなった。合成食品ではなく、まぎれもない、栽培された野菜、加工された肉。これは、どういうメカニズムなのかと、僕は食べながら空想していた。原理は、宇宙船に乗る前に、ひと通り教わりはした。それが実際、機能しているとはな。
 トレイを持って、机で食べようと思ったが。台に固定されている。ここで食えということらしい。机からビジネスチェアを引いてきて、座る。まあなんて、久しぶりの晩餐だろう。コショウと塩が欲しいところだが、この際、贅沢は言うまい。
 ウキウキで完了のボタンをタップすると、ふたたび、洗面所のほうで、ピピッと、アラームが鳴った。さっき、昼食が乗っていた台に、採血用の小さな器具が乗っている。指の先に当てると、自動で針が出て、少量の血を採取する。宇宙船に乗る前に、何度かやった。チクリとはするが、血はすぐに止まる。これも、台に固定されていて、指のほうをあてる方式らしい。
 机に戻って、完了のボタンをタップしたが、続く指示は出ない。今日のスケジュールは、これだけということのようだ。
 とりあえず、ベッドにもぐりこむ。なかなか心地よいが、カビ臭く汚れたベッドに慣れた身では、戸惑いのほうが先に出てしまう。
 僕の荷物は、何もない。衣類一式は支給される。あそこから持ってこようなどと思うものは、何もなかった。枕の上には、いくつかスイッチがある。カーテンの開け閉め、照明のオンオフ、空調まである。このスイッチは?。押すと、天井がなくなった。どうやら、ベッドの上の天井は、一面のディスプレイらしい。中庭の照明に連動した、空の風景が映し出される。窓枠のスピーカーの音が、実感を添えてくれる。
 旅の疲れだけでは説明できなさそうな疲れで、僕はすぐに、ウトウトしだした。「病院みたいだな。」不明瞭な意識のなかで、僕はそう呟く。記憶にある、唯一、安らぎを感じた場所。現場の事故で救急搬送されて、気づけば、体中に管が差し込まれていた。一週間くらい、意識不明だったそうだが。病院にいたときは、涙が出るくらい、初めての、安らかな気持ちだった。あれがなければ、この求人に応じることもなかったな。
 目を覚ますと、夜になっていた。中庭の照明で、二十四時間を演出する仕組みのようだ。アナログの時計を持ってくればよかったなと、今更に思う。デジタルばかりのこの部屋に、アナログの時計でもあれば、ぬくもりを感じるだろう。
 机のディスプレイは、天板を兼ねているので、立てることができない。ベッドからは位置的に、画面を見ることはできない。なかなか上手くできているなと思う。ひょっとして、天井のディスプレイに表示されるのかと思ったが、そんなことはなくて。あくまでも天井か、または、空の景色を映すだけだ。ピピッとアラームが鳴る以外は、スケジュールの存在を意識させないつもりらしいな。
 「しかし、あまりにも……」僕は呟く。あまりにも、良すぎるのではないか。これまでの経験が、何かあるぞと僕に警告してくる。どんな研修が、始まるのだろう?。いつまでやるのだろう?。あの肉は、何の肉だろう?。
 ピピッと、机でアラームが鳴る。「夜に?」僕はベッドを抜け出して、机の前に立つ。「睡眠導入剤」の文字の横に、「要」、「不要」のボタンがある。不要のボタンがあるなと、僕は思った。「要」のボタンを押してから、あの頭痛を思い出して凹んだ。続いて、ベッドに入るよう指示が出る。シューという、聞きなれた音が聞こえて、僕は眠りに落ちた。
 夢の中で、僕はどこかの岬の突端にいた。足元から吹き上げてくる、潮の香り。霧が立ち込めるなか、赤と白とに塗られた、ひとつの灯台が、彼方へ一筋の光を投げている。どこだったか。いくつか思い当たる場所はあるが、判然としない。けれども、そこへ行った目的は、同じだった。とどろく波の音におじけて、夜明けまで、そこに座っていただけ。この求人に応じたのも、同じ理由だなと、僕は思った。
 ズキッという頭痛が走って、僕は飛び起きた。ピピピピと、目覚まし時計のようなアラームが、机のほうで鳴り続けている。それが頭に響いて、両手で顔をこすりながら、ベッドを出る。
 「起床」の文字が、机のディスプレイに出ている。僕は片手で顔を覆って、指の間からディスプレイを見下ろし、起床完了のボタンをタップする。続いて、「身支度」、「端末持出」の指示。しかし、時間の指定は無い。常識の範囲内で、ということだろうか。
 朝シャンの趣味もないので、昨日の上着を着て靴下をはき、汚れたままの靴をはいて、身支度完了のボタンを押す。カシャッと、机の引き出しが少し出る。引き出して見れば、スマホがひとつ。手に取ると、「場内見学」の文字が現れた。しかしこれにも、時間の指定は無い。
 「どういうこと?」僕は不安になる。初日だからだろうか。いや、初日ならなおさら、今にも部屋の扉が開いて、「17号出ろ!」とでも、言われるのではないか。
 僕は身構えたが、しかし、誰も来ないな。窓枠から流れる、川のせせらぎ。太陽はとっくに、始業時間を過ぎ越して昇っている。ボヤボヤしていていい時間ではないが……。
 部屋の中を見回してみるが、本棚のようなものは、見当たらない。ルール・ブックとか、ないのか?。机に戻って、天板を兼ねたディスプレイを、あちこちと触ってみる。キーボードはおろか、カーソルすらも出ない。ただ相変わらず、「場内見学」の文字だけが、表示されているだけ。
 このまま篭城してみるのも、いいかもしれないと、僕は思った。思いはしたが、しかし、この建物への興味のほうが勝ってしまうのは、悲しいサガだなと、つくづく自分でも思う。
 「そうだ。端末……。」胸ポケットから、スマホ型の端末を取って、画面をあちこち触れてみる。サイドにあるはずの、ボタンや穴はない。裏面はのっぺらぼうだ。画面には、机と同じに、「場内見学」の文字があるばかりで、ほかには何も出ない。ほかに持参するものもないし。
 「中庭、行けるのかな?」地図くらい見たいなという気持ちで、僕は手にした端末に、なに言うともなしに言ってみた。「シカトかよ。」期待はしていないが、実際、何も出ないと凹む。端末は胸ポケットに仕舞ってしまい、歩きたいほうへ歩くことにする。
 部屋の扉は、何の抵抗もなく開いて。そして、誰もいない。靴音も話し声もない。床と壁面との境には、こなたから彼方に至るまで、薄青い間接照明が植わっている。サイバーな雰囲気。いかにも最新という感じ。
 カン、カン、という軽い金属の足音をさせながら、僕はとりあえず、昨日きた方向と、同じほうへ歩いてみる。ハッチから散り散りになった僕らは、誰も誰かのあとを追うことなく、ひとりっきりで散っていった。僕も僕の部屋まで、僕だけが歩いてきたし。だから同じほうへ歩いていけば、ずっとひとりでいられるだろう。
 カン、カン、という軽い金属の足音を聞きながら、僕は思った。窓から見た中庭は、相当な規模だ。宇宙船に乗っていた人数と、この中庭の大きさ。たぶん、この道は、ハッチと中庭とを、つないでいるだけだろう。
 見れば、行く手の先で、薄青い照明が途切れている。振り返れば、道は緩やかに弧を描いていて、まだそんなに離れてはいないはずなのだが、しかし僕の部屋の扉は見えない。通勤してる感じ。バスの窓から、遠ざかる自分の部屋の窓を、悲しく見ていた。そんな記憶。
 薄青い照明が途切れたところからは、道の幅はそのままで、天井だけ斜め上にあがっていて、その先には、やはり、ハッチがあった。僕の背後で、スッという、かすかな音がして。振り向くと、来た道は、扉で閉ざされていた。
 そして今度は、斜めになった天井から、真昼のような明るさが、その強度をゆるりと増しつつ、この空間を満たしていく。
 静かなブウンという、ファンの回る音がして、嗅ぎ慣れた土のにおいがする。都会の、枯れた土のにおいじゃなく、田舎のドカタで嗅ぐにおいだ。光に目も慣れた頃合い、わずかにゴロゴロという音をさせて、道の幅のままではあれ、ハッチが大きく、上へと引き上げられた。途端に僕を覆う湿気。
 「何か、ハエ?」僕の耳元を、何かが飛び去った。小鳥のさえずりが聞こえる。見上げれば、はるか上には、やはり、天井らしきものがある。うまく塗装はされているが、無数のダクトや換気口を見てとれる。
 僕の背後で、ゴロゴロとハッチが閉まる。と、ハッチの両側に、細いすき間が開いて、そこからかなりの勢いで、内側の空気を排気しだす。ブウンと、さっきのハエの羽音が、僕の耳元をかすめていった。
 ピピッと、胸ポケットのスマホが鳴る。取り出して見れば、画面に「斉藤さん」の文字。行方に目を向ければ、確かに誰かが、こちらへ手を振っている。
 「斉藤、さん?」僕はスマホの画面を相手に見せる。小柄な斉藤さんは、首にかけた手ぬぐいで顔を拭きながら、ウンウンと、僕にうなずいてみせる。
 「ここへ来るまで、大変だったでしょう。」にこやかに話す斉藤さん。ここへ来るまでという部分に、実感がこもっている。
 「ええ、まあ。」ひとよりも、まだ見足りない景色のほうへ、僕は視界を持っていかれる。斉藤さんは、そんな僕の様子を見て、微笑んでいる。
 「あなたよりも、四つ前の便で、私はここへ来ました。」と斉藤さん。僕は、えっ?という顔をして、斉藤さんの顔を見る。
 「四つ前……。一年と少し前ですか。」現場主任とか、教官とかだと、僕は思っていた。
 「私も、そんな顔をしてたんでしょう。」斉藤さんは、道端にしゃがんで、草取りの続きをする。「ここには、指導教官のようなひとは、いません。研修を終えたひとたちは、みんな、隣の惑星へ行ってしまうから。」それきり、ベルトに下げた、根切り用の、先が二股になった棒をとって、斉藤さんは、黙々として、作業を続ける。
 気が引けたが、僕はどうしても、聞きたいことがあった。「ルール・ブックとか、ないんですか。」
 「ないです。」と斉藤さん。即答だった。「私も、来た時分に探しました。ここには、ルール・ブックはおろか、法律も、警察もありません。ただ、不適格な者は、送還されるみたいです。私と来たひとたちは、一週間経たないうちに、半数になってました。」
 ピピッと、スマホが鳴る。手に持ったままなのを忘れていて、僕は空の胸ポケットを見、周囲を見回してから、ようやく、手元のスマホに気がついた。慌てて画面を見ようとしたところ、ちょうど、ズボンのポケットからスマホを出した斉藤さんの姿が目に映った。
 「用意ができたみたいです。行きましょう。」タオルで顔を拭きながら、斉藤さんはもう、スタスタと道を歩き出す。僕は言葉もなく、スマホを胸のポケットに仕舞った。それをポケットの上から触ってみて、改めて存在を確認してから、だいぶ先へ行ってしまった斉藤さんの背中を、僕は追いかけた。
 「あとからゆっくり見られますから。」微笑む斉藤さんに諭されて、僕は歩きを早めて、斉藤さんに追いつく。行く手に、丸い天井のかかった、幅の広い螺旋階段があり、地下へと降りられる仕組み。掘削した当時の穴の形状そのままなのだろう。
 「最初の何段か、滑りますから。気をつけて。」斉藤さんに倣い、僕も手すりをしっかりと握る。思わず胸ポケットに片手をやって、安心する。
 ぐるりと一周して、中庭からの光が薄れた辺りから、廊下の薄青い照明が始まる。二周目に踊り場があって、同様に高いハッチが開き、僕らは中へ入った。螺旋階段は、その先もずっと続いている。
 ハッチが閉まると、その脇の細いすき間が開いて、僕らは、猛烈な旋風に巻かれた。僕は思わず身構えたが、しかし斉藤さんは慣れたもの。薄い髪の毛から上着からズボンから、旋風のなかでバサバサとはためかす。上着などは前を開けてしまって、旗みたいにあおられている。しかしいまだ、旋風は止まない。
 斉藤さんは気づいて、僕のほうへと歩み寄り、耳元で教えてくれた。「ホコリや虫が飛んでしまわないと、この風は止まらないんです!あなたも私のようにやってください!あっ!上着、脱がないで!飛んでいってしまいますから!」
 ようやくにして旋風が止み、二人とも、寝起きの髪のような格好になって、半ば放心状態でいると、今度は足元へ、早瀬のように水が流れだした。僕の靴など、見る間に、水浸しになるくらいの量。僕ひとりでバシャバシャ慌てている。斉藤さんは慣れたもの。両の長靴を互いにすりあわせて、ついた泥をうまく洗い流している。水は間もなく止んだ。バシャバシャやった甲斐があったんだろう。
 「この先で長靴もらえますから。靴下ももらえます。」にこやかではあるものの、笑いはしない斉藤さん。たぶん、自分も同じ目にあったんだろう。
 廊下への扉を入ってすぐ、ピピッと僕のスマホが鳴る。「二番」とだけ、画面に出ている。斉藤さんが指をさす。その先を見れば、壁に方形の線が入っていて、その枠のひとつに「二番」の文字が出ている。
 斉藤さんが、向かいの壁の「一番」をタップすると、そこがパカンと上へ開いて、斉藤さんはその中へ、汚れた軍手と道具一式とを預ける。
 僕も倣って「二番」をタップする。パカンと開いたその中には、横に置かれた長靴と、靴下と、手ぬぐいとが入っていた。濡れた靴と靴下と、拭いた手ぬぐいとをそこへ戻して、新品の長靴をはく。長靴ではあれ、新品の靴なんて、久しぶり。
 見れば斉藤さんが、スマホを出すように、身振りで教えてくれている。自分のスマホを出して見れば、四角いバーコードが表示されている。「その日のスケジュールは、スマホが教えてくれますから。」と斉藤さん。
 短い廊下の突き当たりにある、扉の脇の壁面に、黒い線で四角く囲われた部分がある。斉藤さんがそこへ、スマホの画面をかざすと、スッと扉が開いた。「電波でやればいいのに。ここはみんな、バーコードを読ませて出入りします。あなたも読ませて。でないと、すごい勢いで扉が閉まるから。クセつけとかないと、病院送りです。」
 怖いな、と思いながらも、なるほどこれが、ここのルール・ブックだなと僕は思った。音もなく開閉するこの扉。ということは、十分に余力のある動力に、つながれているということだろう。病院送りで済むのかしら。
 先を進む斉藤さんに、半ば冗談のつもりで、僕は問うた。「ここに墓地はあるんですか。」
 「ないです。」これも即答。「ここへ来た日が誕生日で、ここを去る日が命日みたいなものですよ。」独り言のように、斉藤さんは言う。なるほど、わかりみが深い。
 さっきから、実に美味そうなにおいがしている。ピピッと、スマホが鳴る。僕はまた「二番」。通路の壁面に、さっきよりもずっと大きな、ドアのサイズの黒い囲いがいくつかあり、その一番手前に「二番」の表示が出ている。
 斉藤さんが「一番」の表示をタップすると、パカンとドアのように開いて、台に置かれた紫色の手袋が見える。
 「中で着替えます。上着とズボンを脱いで、白い作業着と、紫色の手袋と、マスクと、頭にかむる網をつけてください。つけたら扉が開くので、消毒液に、手袋をしたまま浸してから、風のなかを歩いて、先へ進んでください。スマホは、服のポケットに入れてください。」と斉藤さん。
 僕は「二番」の表示をタップして、言われたように着替えて、また風にあおられ、先へと進む。斉藤さんはもう待っていて、僕をにこやかに迎えてくれる。
 「ここでは、居住者全員の、朝昼晩、三食をまかないます。さっき私がやっていた、中庭の手入れもそうですが、この作業も、全員が持ち回りでやります。し尿の処理から、家畜の世話、回収した衣類やリネンなどの洗濯、発電所の管理、道具の製造から修理、リサイクル、廃棄まで、すべてやらねばなりません。居住区で虫やカビが発生すると、それだけで面倒な仕事が沢山増えますから、中庭のものを、部屋へ持ち込まないでくださいね。これらの作業がない時間は、いつでも、中庭に出られますから。」斉藤さんの話を聞きながら、僕は昨日食べた肉が、ちゃんと飼育された牛の肉だと確かめた。
 ぐるりと調理場を歩いて、着替えを済ませ、螺旋階段に向かう通路で、僕は斉藤さんに聞いた。「電力の源は、何ですか。」
 「それは、最後に案内しますよ。宇宙服を着なければならないので。」斉藤さんは、事も無げに言う。
 「宇宙服?。すると、原子力か何かですか?。」と僕。
 「いえ。宇宙線です。月の表面へは出られませんが、監視室から全体を見渡せます。もちろんその役目も、輪番でやります。修理は、規模にもよりますが、住人総出でやることも、あったみたいです。」斉藤さんは、螺旋階段へ出るハッチの前で、僕に、宇宙服の着かたを、そのコツを、ゼスチャーを交えて教えてくれた。
 螺旋階段は、頑丈な作りらしく、通路のような、軽い音はしない。それがかえって寂しくもあり。斉藤さんと一緒に降りていることが、心強い。下の階のハッチでは、先の失敗もなくて。新品の長靴に、僕はついぞ、現場では考えたこともない、ありがたみを覚えた。
 「この階は、し尿などの処理をするところです。部屋ごとに陰圧になってますから、においはここまで来ないです。」斉藤さんのスマホが、ピピッと鳴る。
 画面を見る斉藤さんの顔が、見てとれるほど暗くなる。「ごめんなさい。今日のスケジュールは延期です。事故がありました。あなたは指示あるまで、部屋へ戻っていてください。あなたの部屋へ続くハッチは、スマホが教えてくれます。矢印が出るので、従ってください。私はこのまま、一番下まで行きます。」
 ハッチを出て、斉藤さんと別れる。なるほど、スマホの画面に、矢印が出ている。薄青い照明のなか、ぐるぐると螺旋階段をのぼって、中庭に出る。真上からの強い光が、僕におよその時間を教える。
 「そういえば、朝飯、食いっぱぐれたなぁ。」部屋に戻れば、何か食えるだろう。そう思うと、歩みも速まる。スマホの矢印に従い、旋風と洪水とを難なくこなして、カンカンと鳴る通路へと入る。僕の部屋の扉が見える。
 「おい。」と、ドスのきいた声。ビクッとして、声のほうを振り返る間もなく、僕の肩に、誰かの手がかかる。力づくで振り返らされて、見ればあの、前の席の角刈りじゃないか。
 「逃げるぞ。一緒に来い。」言うなり、角刈りは「しっ!」というふうに、自分の口の前に指を立て、通路の前後を、鋭く睨む。自分でも驚いたが、僕はその角刈りの手を、払いのけていた。
 「なんだお前!助けにきてやったんだぞ!」角刈りは、今度は両手で僕の両肩をわしづかみ、ガクガクと僕をゆさぶる。「どうしちまったんだ!もうおかしくなったのか?。」座席と壁との間から、ギロリと睨んだその目と同じ目で、角刈りは僕の目を見る。しかし僕は、僕の両手で外側から角刈りの両手をつかみにかかり、持ち上げるようにして、それらを払った。
 角刈りは、怒りにうち震えながらも、もはや何も言わず、どこで手に入れたのか、コルク抜きのような金具を通路の床材に突き入れて、その一枚を引き剥がす。そのままストンと、中へ飛び降りた。ほとんど同時に、僕は強力な眠気を感じて、意識を失った。


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もろびとこぞりて

2024年12月25日 | 小金井充の

 イブの翌日だというのに、私は朝っぱらから、港にある刑務所まで、車を走らせていた。海岸通りの標識はみな、海側の半分は凍っている。空は大抵が白。そこへかすかな桃色が流れて、海をより一層、暗く見せている。こんな景色じゃ、道を間違ったって仕方がないが。しかし、その暗さのなかで、不定期にキラリと、彼方の標識が朝日に反射して、私の意識を掴む。お前の行く先はほかにない、と。
 接見が許されたのは、2時間前のことだ。当局にはこれまで、何度も接見を申し込んだ。死刑囚と対面するのは、そう簡単なことじゃない。いよいよ執行の当日になって、私はようやく、126号とだけ呼ばれる1頭の人狼と、対面する機会を得た。それがために、今こうして、車を走らせている。彼は別に、誰かをあやめたというのではないが。しかし、死刑に処せられることは、疑問の余地の無いことであった。
 建物のはるか手前のゲートで、FAXされた1枚の許可書を見せ、そこから一直線に円柱の建物本体へと続く、草むらも何も無い、ただ広く開けただけの吹きっさらしの道を、ひたすらに走る。時計に目をやる。あと1時間と35分しかない。刑の執行までに間に合うのか?。不安が胸をよぎる。
 円柱の建物本体はドーナッツ状で、穴の部分に、申しわけ程度の駐車スペースがある。指定されたスペースへ、円の半径に沿って車をきっちり止めるのは、思いのほか難しい作業だ。車を降りる先から、動物園のような獣臭がする。この人間工学に反した駐車スペースからしても、普通の刑務所ではないのだ。どこか上のほうで、力任せに鉄格子をギシギシ揺する音がする。見上げてはみるが、壁には同じ色、同じ形の凹みしか見えない。
 よそ見をしているうちに、音も無く分厚いドアが開いており、反応が遅れた私は、慌てて中へと駆け込むような格好になった。そのすぐ後ろで、分厚いドアが滑るように、音も無く閉まる。出られるのだろうか?。私はふと、不安になった。もしかしてこれは、私を捕らえるための…
 床に描かれる矢印に導かれて、私は地階をぐるりと歩いて、恐らくは、先のドアの反対側辺りにやってきた。あと1時間20分。気は焦るが、頭がついてこない。行く手の右側で、厚いドアがスッと開く。ここへ入れということか。私が踏み込むと、部屋の明かりがパッとついて、目の前のガラスの向こうに、126号がいた。
 「20分間の接見を許可します。会話内容はビデオとして保存されることを、あらかじめお知らせします。」天井のスピーカーから、ほとんど棒読みなメッセージが流れる。
 20分だと!。私はスピーカーに向かって拳をあげた。「約束が違う。執行直前まで話せるはずじゃないか。」
 「俺がそうした。」と、126号は言った。呟いたのだが、マイクの音量は十分だった。「もう話すことなど無い。」126号はそう言って、私を黙って見ている。
 私はガラスの前の席についた。見上げるような人狼の体は、泥にまみれたように汚れている。これが126号、市谷光男だった男の姿なのだ。
 「あと15分です。」抑揚の無い声が、天井のスピーカーから流れる。私は顔をあげてスピーカーを睨む。フフッと、市谷が鼻で笑う。下あごの尖った歯が見える。それは茶けて、輝きは無かった。
 もう時間が無い。私は口を開いた。が、言葉は出なかった。質問なれば、ノート1冊書き溜めている。その欠片すらも出なかった。この死刑になるほかない男に、いまさら、何を聞けばいいのだろう。ひとをあやめたというのでもない。私の調べた限り、法に触れることは何もしていないのだが、死刑になるほかないこの男。私はこの男に向かって質問すべきだろうか。質問する相手が違うのではないか。
 「あと10分です。」抑揚の無い声が告げる。気づけば、市谷はニタッと笑って、その獰猛な目で、私を睨んでいる。鋭い眼差しではあるが、その眼差しのなかに、私は黄疸の症状を見て取った。この男は、どのみち死ぬのだと、私は思った。このバネのようにしなやかな肉体の持ち主、生きることしか頭にない人狼が、ことのほか身の健康を思う人狼が、その目に黄疸をきたすという。いったい、どれほどの苦悩を経験したのか。
 「あと5分です。」抑揚の無い声が流れる。突然、126号は立ち上がり、私の頭上のガラスを、両手でバシンと叩きつける。私はもんどりうって、床へ転がった。縦一筋に、ガラスにヒビが走る。
 「うっせぇぞ!いちいち言うな!」荒い息をして、市谷は人差し指の汚れた鍵爪を、天井のスピーカーに差し向けた。
 「なぜ逃げない?」私は口走った。逃げない、だと?。口走ってから、私は、書き溜めた質問ノートの中身を、思い巡らした。そんな質問、書いた覚えはない。
 市谷だった獣は、今あげた手をぶらりと下げ、無防備な姿で、何か珍しいものでも見るような顔をして、私を見下ろしている。不意に目線を下げ、まるで何かを諦めたかのように、力なく床へと座ってしまう。投げ出された右の足には、ふくらはぎから股間にかけて、捕獲のときに負っただろう、深い傷跡があった。
 私は、その獣の、あまりの変わりように驚いて、縦一筋にヒビの入ったガラスに、かまわず両手をついて、その大きな体を見上げた。おそらくは聞き取れないほどの、小さな呟きだっただろうが。しかし、マイクが、十分にその呟きを増幅して、私の耳にまで届けた。
 「主は、来なかった。」私は確かに、そう聞いた。そしてそれが、人間だったこの生物の、記録では最期の言葉となった。


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雪遊び

2024年12月15日 | 小金井充の

 「何をご覧になっておいでですか。」

 「雪を観ているのです。」背の高い、ショートヘアーの、切れ長の、力強い眼差しを持つ、名も知らぬその女性は、そう答えた。

 「雪?」

 「ええ。」赤いマニキュアをした、白い両手で、浅黄色のパーカーのホロを脱ぎ、女性は顔をあげて、真っ暗な夜空から、しんしんと降りる雪を、見上げた。

 「僕を、振り向いては、くださらないのですね。」

 「ええ。」女性は、赤いマニキュアの手を伸ばし、軽やかに、一歩踏み出して、まっすぐに落ちてくる、雪を手にする。足元で、キュッと、雪が鳴る。

 (なるほど、僕は、雪ではあるまい。)

 「冷たい雪。温かい雪。」女性は両手で、雪をとらえ、その両手を交えて、いとおしそうに、雪をめでる。

 「止みそうもない。」

 「止むものですか。そら。」女性は、また手を伸ばして、雪をとらえる。

 (実際、止むことはないのだ。)

 「赤い雪。青い雪。」両手のなかで、マリを抱くようにして、女性は、雪を転がす。

 「楽しそうだ。」

 「楽しいですわ。」ぱっと、女性は、両手を空へと開く。色とりどりの雪が、吹雪のように、闇に散る。

 「本当に限りがない。」

 「ひとの想像は無限ですわ。」ふっと、女性は、膝の高さで、ひと粒の雪を、受け止める。

 「見つけましたね。」

 「ええ。あなたは?」そのひと粒の雪を、大切に両手で抱えて、女性は、闇のなかへ、歩き出す。

 「歩いてゆけるのですね。あしたへ。」

 浅黄色のパーカーの裾が、しゃらんと揺れて、女性の姿は無く。
 僕は動転して、振り返る。
 あちら、こちらで、沢山のひとたちが、雪のなかに、手を差し伸べている。

 (ひとの願いもまた、無限なのだな。)

 茶色のコートの、襟を合わせて、僕は、冷たい真冬の空気のなかを、無限に、歩いていった。


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真心 - まごころ -

2024年11月26日 | 小金井充の

アナウンサー伊丹「見えました!みなさん!滑走路に止まったままの、小型ジェット機をご覧ください!今、太平洋300キロ沖合いにある、地図にない島から、今、クラウドン、アメリカ臨時大使に先導されて、あっ!、白い長い髭をたくわえたお爺さんの顔が、今、飛行機の中から、あらわれました。臨時大使は、タラップを降りながら、出迎えのひとたちに、しきりと手を振っております。お爺さんは、や、まだ、タラップの上にいます。まっすぐ前を見たまま、動きません。肩まではあるでしょうか。長い白髪が、時折、風に揺れています。」

解説斉藤「あれは、外務省の長井政務次官でしょうか。」

アナウンサー伊丹「一歩進み出て、あー、今、クラウドン臨時大使と、固い握手を交わしました。振り返って、あっ!、大使が、タラップを駆け上がって行きます!。早い!。お爺さんの背中に手を置いたようです。大柄の、はつらつとしたクラウドン臨時大使と比べて、お爺さんはかなり小柄に見えます。今!、お爺さんは、大使に伴われて、一歩一歩、タラップを降り始めました。斉藤さん、なぜ、アメリカの臨時大使が、付き添っているのでしょうか。」

解説斉藤「はい。お爺さんが来た島、オレガノというコードネームで、仮に呼ばれている島は、位置としては、アメリカ合衆国の一部です。それで、アメリカの臨時大使に、エスコートされて来たようです。」

アナウンサー伊丹「オレガノ…。何か、植物にありますね。」

解説斉藤「はい。香辛料の一種として、ドレッシングなどにも入っていますが…、その香辛料のことなのか。資料には、カタカナで書かれてあるだけですので、実際の意味や、発音のイントネーションなどは、分かりません。政府のなかでは、そのオレガノだと思って発音するひとが一般的です。しかし、俺、私がの、というニュアンスで発音するひとともまたいます。」

アナウンサー伊丹「ニュースとしては、困りますね。オレガノ。俺がのぉ。どっちでしょうか。」

解説斉藤「のぉとは伸ばしません。オレガノッです。政府としては、太平洋方面の国際情勢に詳しい、高尚国際大学の榊原名誉教授を交えて、近く、有識者会合を開き、共通の見解を求める予定になっています。実は私も呼ば」

アナウンサー伊丹「今、お爺さんと、長井政務次官とが、握手を交わしました。そのまま、次官の先導で、待機している車に、乗り込む、今、乗り込みました。東洋人に近い顔立ちですね。」

解説斉藤「はい。資料によりますと、遺伝子解析によれば、島のひとたちは、遺伝子的に、東洋系とのことですが。エッしかし、長い間、ウォールハード・コングロマリット社の、個人的な資金提供によって、文明から隔絶されてきた島ですので、住民に対する、公式の調査結果などは、一切、知られていません。」

アナウンサー伊丹「そんな島が、この現代、本当にあるんですか。市販の地図にも、載っていないようですが。」

解説斉藤「政府は先ほど、衛星写真に、しかるべき処理がなされていたことを、公式見解として、発表しました。市販の地図の多くは、衛星写真に基づいて作成されていますので、載っていないですが。実は私、載っている地」

アナウンサー伊丹「スタジオ、それは本当ですか?。スタジオどうぞ。えー。この場で、お爺さんの会見があるそうです。中身については、まだ申し上げられません。間もなく」

解説斉藤「申し上げられない?」

アナウンサー伊丹「……。」

解説斉藤「いや、どうぞ、続けてください。」

アナウンサー伊丹「間もなく、車内から、音声での会見が、オッ伝えできれるかと思います。ラジオの前のみなさま、今少しお待ちください。」

同時通訳風見「日本のみなさま。」

解説斉藤「日本語ですね?」

同時通訳風見「私は逐次訳を勤めます、根地大学東部太平洋言語圏研究室の風見と申します。なにぶん、政府からの急な要請で、さしたる準備もなく、通訳にあたらせていただきますので、不明瞭な点もあるかと思います。マスコミ各社には、追って、正確な訳出を、文章で提出させていただきますので、ご了解ください。イベ、プリンスキトナ」

アナウンサー伊丹「今、何かの、聞いたことの無い、あるいは、ラテン語のような外国語でしょうか。おそらく、現地の言葉だと思いますが。斉藤さん。」

解説斉藤「私も、初めて聞く言葉です。二十七年、この仕事に」

同時訳風見「リアリー?」

解説斉藤「今度は英語だ。」

アナウンサー伊丹「クラウドン臨時大使との、会話の一部のようです。」

同時訳風見「Oh…」

アナウンサー伊丹「何か、深刻な内容のようですが…」

同時訳風見「日本のみなさん、お伝えします。このかたは、来たる九月二十七日に、非常に大きな災害が、太平洋沿岸の国々を襲うということを、ご覧になったとのことです。」

解説斉藤「ご覧に?未来のことを?あはは。そんな…」

同時訳風見「今、クラウドン臨時大使から、背景をうかがいました。メイ アイ スピーク?。」

解説斉藤「誰と話しているんでしょう?」

アナウンサー伊丹「おそらく、クラウドン臨時大使と、会話しているものと思われます。」

同時訳風見「お許しを得ましたので、このかたについて、お話します。このご老人。現地では、見知らぬひとたちに、名前を知られるのを恐れますので、仮に、ご老人とします。このかたは、アメリカの国内、国外に対する政策について、その当初から、有意な未来の情報を、もたらしたかたです。メット大統領暗殺事件や、西海岸大震災など、このかたの情報によって、影響を最小限にすることができた。そうした実績をお持ちのこのご老人が、たっての希望で、日本への渡航を、決意されたとのことです。ア マッカチヨ ンナ」

アナウンサー伊丹「現在、同時通訳を務める、根地大、東部太平洋言語圏研究室の、風見上席教授と、お爺さんとの会話が、続いているようです。」

同時訳風見「通訳します。日本のみなさん。このような悲しい出来事を伝えに来るのでなければ、噂に聞く素晴らしいこの国に、喜んで訪問できたでしょう。しかしあと、ひと月もしないうちに、この国ばかりか、世界中で、もはや、お金は使えなくなります。ものを買うことも、売ることもできなくなり、みなさんの歴史は、終わってしまいます。予兆はす」

解説斉藤「揺れてる?」

アナウンサー伊丹「緊急地震速報です。緊急地震速報が発令されました!。震度6程度の揺れが予想され、震源は日本海溝付近で、あ、今、今、空港の一室のこの部屋も、揺れていま。大き!すな!みなさん机の下に隠れ!かく!」

解説斉藤「痛!」

アナウンサー伊丹「音声!逃げるな!マイクよこせ。下から!。失礼しました。現在まだ、んふ…、現在まだ、揺れが続いています。真下から突き上げる、非常に大きな揺れ。スタッフが複数、落下物に当たり、負傷しております。今、窓の外を見ますと、あっ!、空港の下から、大きな亀裂が、小型ジェット機の真下に、できています。出迎えのひとたちが、散り散りに逃げています。しかし、しかし、お爺さんの乗った車は動きません。風見さん、大丈夫ですか。風見さん、音声入っておりますか。」

同時訳風見「はい。入っております。」

アナウンサー伊丹「そちらは、んふ…、大丈夫でしょうか。かなり大きな地震でしたが。」

同時訳風見「先ほどの会話のなかで、ご老人が、地震のことを教えてくださいました。それで身構えることができました。こちらは大丈夫です。」

アナウンサー伊丹「お爺さんの話、具体的に聞いて。風見さんに。」

タイム西脇「申しわけありません。アナウンサーも負傷いたしましたので、ここからは私、西脇がお伝えします。タイムキーパーをしておりまして、アナウンサー職ではありませんので、お聞き苦しい点はご了承ください。速見さん、ご老人から地震の話があったという話ですが。具体的にはどんな?」

同時訳風見「風見です。会話の途中で、急に黙られて、今、悪魔が用事をたしに来るが、この車は大丈夫だと。」

タイム西脇「失礼しました。風見さん…」

アナウンサー伊丹「悪魔。んふ…、悪魔について聞け。」

タイム西脇「風見さん、悪魔とは、地震のこと?」

同時訳風見「そうだと思います。直後にこれですから。」

アナウンサー伊丹「会話の中身!」

タイム西脇「会話の中身を、聞かしてください。」

同時訳風見「ミ?。シュア。すみません。このような状況なので、会話の内容は、追って正式に文章でお伝えしたいと。」

アナウンサー伊丹「スタジオ。局に返して。もうここは無理だ。」

タイム西脇「それでは一旦、スタジオにお返しします。風見さん、ありがとうございました。」

同時訳風見「ありがとうございました。」

地学者井上「ノボル、USGSから遠隔地のチャートは来たか。」

院生ノボル「はい。来てマス、ガ…」

地学者井上「ガ、って何だ。振幅、計ってみてくれ。」

院生ノボル「出てまセンね。」

地学者井上「出てない?。まーた、日付け間違ってるんじゃないのか。どら。」

院生ノボル「ニホンの日付け、私の国と逆デス。でも慣れマシタ。」

地学者井上「ほんとだ。何でだ?」

院生ノボル「ワッカリマセーン。初めてデスね。」

地学者井上「国内で一番遠い井戸はどこになる?」

院生ノボル「この方向からデスト、ココ、ホッカイドの、ハーマ、トーンベーツーです。出しまスか。」

地学者井上「何だこれ…」

院生ノボル「小さいデスね。減衰、シちゃっタでショかね。」

地学者井上「……。」

院生ノボル「ドしました先生?」

地学者井上「またか…。」

院生ノボル「ア、科長サン、こんにちワ。お世話になってイいます。先生、ドア。科長サン来られました。」

科長玉井「先生、ちょっと、学長室までいらして。」

地学者井上「学長?。はい。すぐに。」

院生ノボル「時系列ヲ、出しておきマス。」

地学者井上「おい、背広どこやった?」

院生ノボル「会議のままジャないでしょカ。お車のなか。」

地学者井上「そうだ。あのままだ。助かるよ。時系列が終わったら、あさっての、地熱発電所のスライドも、見ておいてくれ。どこか二枚、抜かなきゃならん。」

院生ノボル「ワかりまシした。いってラしゃい。」

地学者井上「おぅ。叱られてくるわ。」

院生ノボル「ハハハ。ダイジョブです。」

科長玉井「その格好のままでも、かまいませんよ。」

地学者井上「いや、こんなシワシワのままじゃ、格好がつきませんよ。すみませんが、チョッと時間をください。車に背広がありますんで。」

科長玉井「ドアを閉めてくださる?」

地学者井上「ええ。そのほうがいいでしょう。あと頼むなノボル。」

院生ノボル「ハイ。まかシてくだサい。」

科長玉井「急でごめんなさいね。」

地学者井上「いえ。前にも何度か…。地震のことですね。」

科長玉井「お分かりなのね。」

地学者井上「まあ、これで飯食ってますからね。学長からお呼びがかかる時は。」

科長玉井「今回は、それだけじゃないみたいよ。」

地学者井上「え?。どういうことです?」

科長玉井「さあ。でも、もうこの大学でお会いすることは、無いかもしれないわね。政府のかたが、いらしてたわ。」

地学者井上「そんな…。この大学は、居心地がいいんですよ。機材も古い。僕の年代のものだから、使い勝手がいいんです。馴染みの食堂のおばちゃんもいるし、昔からの飲み屋もある。住み心地と学問的成果とは、比例関係にありますから。なんとか、どうか、ここに居させてもらえませんか。」

科長玉井「それは、わたくしには判断できませんわ。ともかく、学長室へいらして。みなさんを待たせるのは、得策ではないでしょう。」

地学者井上「分かりました。では、この格好のままで、駆けつけるとしましょう。」

学長「あ、また。そんな格好で。」

地学者井上「え?。ほら。科長…。」

科長玉井「学長、お急ぎのようでしたから、わたくしから、先生にその格好のまま、急いで来られるようにと、お伝えいたしました。申しわけございません。」

学長「それなら。政府のかたが来られてるんだが、仕方がない。まあ先生、お座りなさい。玉井さん、悪いけど、席をはずしてくれないかな。」

科長玉井「承知しました。御用がありましたら、お呼びください。」

学長「またたのみます。さあ、先生、お座りなさい。こちらが、文科省の得田参事。そのお隣が、内閣情報室の高井次官補。」

高井次官捕「地震のことで、取り急ぎお訪ねしました。すみません、急いでいるものですから。学長さん。」

学長「いや、かまいません。どうぞ先を。」

高井次官捕「ありがとうございます。先生、すでに、あの地震の解析に、入られていると思います。見立ては、いかがですか。」

地学者井上「爆弾です。」

得田参事「ほら。バレてるよ。どうするかね、高井さん。この先生ほど勘が働かなくても、世間の地学研究者らだって、近いうちに気がつくね。」

高井次官捕「だから、こうして急いで来たんですよ。」

地学者井上「あの、」

高井次官補「なんでしょう?」

地学者井上「今回は、難しいと思いますが。初手でこれだけ報道されてますし。」

得田参事「私もそう思う。だいち、東京と札幌とで、揺れが違い過ぎる。地殻の不連続性とかいう、私らにも意味の分からんことを言って、やり過ごすには、証拠が多すぎるだろう。」

高井次官捕「いえ、それは、それでいいんです。あの老人の実力を思い知る、この国で最初の事例になればいい。」

得田参事「だって、あれじゃ、あらかじめ知ってたって、言われかねない。失敗だよ。長井君も可哀想だ。誰も知らせてやらないんだから。」

高井次官捕「万歳して逃げ回ってましたね。中継で観ました。臨時大使は?」

得田参事「声明が出次第、爺さん連れて帰るそうだよ。ウォールストリートのひとだからね。本業が忙しいんだろう。謎は多ければいい。」

地学者井上「え。じゃあ、あの地図にない島というのは?」

得田参事「無いよ?今時、金持ちならどこへでも行けるんだもの。下手すりゃ、うちらより解像度のいい写真撮って、ネットにあげちゃうからね。」

地学者井上「……。」

高井次官補「どうされました、先生?」

地学者井上「どうして、そんな話を、私の前でなさるのですか。あらかじめ申し上げておきますが、私は、この大学を去るつもりは、ありません。」

得田参事「へ?、いや、そんな話をしに来たんじゃないですよ。誰からお聞きになったか知らないが、先生は、この大学におられるのでしょう。ねぇ学長さん。」

学長「無論です。ただチョッとばかり、身だしなみには、注意して欲しいですが。」

高井次官補「ははは。やられましたな先生。」

地学者井上「いや、これはどうも…。」

得田参事「そろそろ、用件に入りますかな。実は今回は、先生に、やる側に回っていただきたいんです。」

地学者井上「やる側?、と、おっしゃいますと…」

高井次官補「爆弾を仕掛ける側です。」

得田参事「おいおい、高井さんそれは、ストレート過ぎるよ。」

高井次官捕「昔の学者相手に、どんな言いかたしたって同じでしょう。や、これは失礼。昔のというのは、経験あるという意味です。」

地学者井上「余計な経験ですね。」

得田参事「まあ先生、そうひがむことはないです。私らは、先生のご実績に、全幅の信頼を寄せてます。そしてそういう研究者、いや、学者はもう、先生くらいしか、おられない。だからこうして、お願いにあがったのです。」

地学者井上「お願いというより、出来レースですな。」

得田参事「さすが先生。理解がお早い。これから先生のなさることが、世界を救うのです。いや、真面目な話です。非常に特殊な方法で、今回しか使えないような方法ですが、今は、これ以外にない。」

地学者井上「どんな方法ですか。それは。」

高井次官補「もちろん、お話します。先生は同志だ。地震波の解析では、たびたび、お世話になっています。」

地学者井上「同志、というより、共犯者になれと?」

得田参事「そうです。ねぇ先生、ひとには、たまに、やらなきゃならないことが出来る。そういう時代に生まれなければ、そんなこともないでしょう。私は、自分がこの時代に生まれたことを、呪いますよ。」

アナウンサー伊丹「先に、アメリカのクラウドン臨時大使に伴われて来日した、あのお爺さんと、根地大、東部太平洋言語圏研究室の、風見上席教授との会話の、正式な通訳文が、報道各社に配布されました。驚くべき内容ですが、そのまま、みなさんにお伝えします。『すでにお話したように、来たるべき九月二十七日、赤い雨が降り注ぐそのときに、太平洋沿岸地域全域を、非常に大きな災害が襲います。今回のような、爆弾などを使って、人の手で起こせる規模をはるかに越える災害が、多くのひとびとの幸せな生活のみならず、すべての国家の営みをも、一瞬のうちに、そしてまた継続的に、破壊し尽くすでしょう。もしもそれが、私たちの未来として定められたものであれば、私がこの麗しい国に来ることはなかった。この災害に対して、できる備えはありません。あの地下鉄工事の祭典で披露されたように、みなさんは文明を奪い取られ、再び、シャーマニズムの時代に戻るのです。しかし、それで終わりではありません。確かに、時間はかかります。ですが、その時間の先に、新たな文明は拓かれる。私がお知らせしたかったのは、このことです。当然、現在の文明とは、大きく異なるものになる。現在のような貨幣制度や経済活動は、もはや、失われてしまうのです。しかしその時、今の文明にまさるものが建つのを、私ははっきりと見ました。希望はあります。ただ、まずは、現在の文明を、清算しなければなりません。災害までに、できることはある。そのことに、みなさんに気づいてほしいと思います。それが、幸せに至る道なのですから。みなさん一人一人が、悔いのない終末を迎えられるよう、祈っております。』以上です。斉藤さん、これは…、どう思われますか。」

解説斉藤「二十七年間、解説の仕事をしてきましたが。さすがに、こんなことは、経験がありません。あの謎の老人が、ペテン師であることは、十分に考えられる。実際、あの日の地震だって、公のデータをもとに、ネットでは、作為的な可能性について、激しい議論が巻き起こっていますね。このことを、私たちに信じ込ませるための、演技だったと。」

アナウンサー伊丹「コメンテーターの間でも、人為説や、あのお爺ちゃん、実は存在しない人物なのではないかという説を、支持するひとは、多いと聞きます。」

解説斉藤「ええ。公の立場から、そうした見かたを支持するという発言は、今もありません。ただ、私、気づいたんですけれどもね。」

アナウンサー伊丹「斉藤さん、何に、気づかれましたか。」

解説斉藤「アメリカの、これは公式文章で確認できるんですが、実在する臨時大使が、直々に、存在しないかもしれないあの老人を連れて来た。それは、実際に起きたことです。よしんば、これらの出来事が虚構だったとしても、私のこの額の傷は、まぎれもない事実ですし。」

アナウンサー伊丹「私はあの日、転倒したところへ重い機材が落ちてきて、あばら骨を折りました。機材がどけられるまで、寝そべったままお伝えしたので、ラジオの前のみなさまには、お聞き苦しい点があったかと思います。」

解説斉藤「これまで、いわくつきの出来事は、沢山起きましたけれどもね。私自身の、この身に被害が及んだのは、これが初めてなんです。もう、どこか遠くの出来事ではなくなったということに、私は気がつきました。」

アナウンサー伊丹「また地震速報です。予想される震度は6弱。震源は太平洋沖。広い範囲が揺れる可能性があります。ですが、地震の到達まで、まだ30秒ほど時間があります。火を使っているかたは、火を消してください。落下物の心配のない場所であれば、無理に動かないでください。丈夫な机などがあれば、その下に隠れて、落下物を防いでください。今、スタジオも揺れ始めています。天井のライトが、大きく揺れています。」

解説斉藤「この前よりも、穏やかですね。」

アナウンサー伊丹「スタジオの揺れが、おさまってきました。続いて地震が起きる可能性もあります。不安定な場所にいるかたは、今のうちに安全な場所へ移動してください。これ?。はい。警報です。気象庁から、津波に関する警報が発令されました。太平洋側全域に、津波警報が発令されています。船の様子などを見に行かないでください。また、津波が川をさかのぼる可能性があります。水田や道路の様子を見に行かないでください。」

解説斉藤「この前は津波なんてなかった。」

アナウンサー伊丹「西日本の太平洋側沿岸に、大津波警報が発令されました。沿岸のお住まいのかたは、ただちに高台へ避難してください。震源のマグニチュードは8.8。これは暫定値です。アメリカの地質調査所の発表では、震源地はハワイ沖。当初お伝えした震源域が、変更になっています。現在、ハワイの短波ラジオ局からの送信が止まった状態です。また、インターネット上の情報によりますと、ハワイに拠点を置く複数の企業のホームページが、現在、閲覧できない状況だということです。今入りましたニュースです。東京日比谷の帝国ホテル前から、銀座、和光の時計台付近までの道路沿線に、多量の紙幣が散らばっているのを、警戒中の警察車両が発見しました。今現在、何者かが時計台に登り、上から紙幣を撒いているという情報もあります。現地にリポーターが向かっていますが、地震の混乱で、渋滞が発生しており、到着次第、現地から状況をお伝えする予定です。」

得田参事「長井君、元気にやっているようだね。」

高井次官補「あのひとはもう、何がなんだか、分からなくなってしまったんですよ。」

得田参事「え?、じゃあ、あれは長井君個人のカネなのかい?」

高井次官補「いやぁ、まさか。機密費から出ているはずです。」

得田参事「そう願うよ。バラ撒きはバラ撒きだが、世帯に配るのとじゃ、カネの動きがまったく違うからね。」

高井次官補「ええ。火がつくまでは、何度でもやるでしょう。しかし、いいタイミングで、本物の地震が起きたもんです。あの先生、腕は確かですね。」

得田参事「ああ。思えば、あのひとも、時代に召されたひとなのかも知れないねぇ。研究者ならば、腐るほど居るが。ああいう学者はもう、けっして、この世には生まれまい。」

高井次官補「お昼ですね。」

得田参事「ん。私はソバだ。君もどうかね。」

高井次官補「お供しますよ。どこです?」

得田参事「境ビルの地下の、新しい店だ。天ぷらが美味い。今月はな、懐が寂しいんだ。妻が特老に、転院になってな。もう私のことも…。」

高井次官補「聞いていますよ。お察ししますよ。」

得田参事「ありがとう。私の車で行こう。待たせてあるから。」

地学者井上「核が、あんなちっちゃな爆弾が、どうしてあんなに、大きな物理的破壊力を持つのか、考えたことがあるかい。」

院生ノボル「爆発スルと、とてもアッツイです。大気ガ、温められて、沢山、膨張スル、ので、建物などヲ、押し倒しマス。」

地学者井上「だけど、火球の半径は、せいぜい数十メートルだ。そのなかにある空気の量なんて、いくら膨張したところで、たかが知れている。あっという間に、真空に近づいて終わりだ。問題はな、そのあとだよノボル。そのあと、どうなる?」

院生ノボル「核反応ガ終わるので、冷えマス。」

地学者井上「そうだ。急激に冷えるな。すると、どうなる?。ポッカリ開いた真空の穴だ。」

院生ノボル「周りの空気ガ、流れ込むでしょう。」

地学者井上「この前の座談会の余興、覚えているか?。換気扇の話。あんな小さな扇風機で、どうして、部屋全体の空気が動くのか。」

院生ノボル「ハイ。空気ノ粘性や、慣性ガ、周りの空気ヲ引っ張りマス。」

地学者井上「そのために、何が必要だった?」

院生ノボル「窓ヲ、チョット開ける、デス。」

地学者井上「そうだ。初動は、換気扇の吸い出す能力しかない。換気扇が作れる気圧差以上の空気を、供給してはダメさ。つまり、どんなに小さな換気扇でも、どうにかして気圧差を作ることができれば、空気を動かせる。動けば、あとは雪崩式に、周りの空気がその周りを引っ張る。」

院生ノボル「ナルホド。冷えた火球ガ、換気扇デスね。」

地学者井上「そうだ。そして、そこに引き込まれる空気の量は、限りがない。無限にある。爆発で膨張する空気の量とは、比べ物にならない量の空気が、引きずり込まれる。核はな、火球が冷えたあとの、吹き戻しの風がヤバイ。戦時中の、核実験の記録フィルムを観る機会があったら、注意して観るといい。」

院生ノボル「それガ、何か?。津波のハナシ?。ア、そうか。なるほどデス。」

地学者井上「だから、隆起型の津波よりも、沈降型の津波のほうに、注意する必要がある。逆に言えば、海底を大きく陥没させられれば、地震はともかく、自然に匹敵するほどの、大きな津波を作ることができるわけさ。」

院生ノボル「コワーイですネ。デモ、難しいデス。そんな、大きな陥没ヲ、引き起こすのは、無理でしょう。」

地学者井上「ノボル、飛行機が、どうして飛ぶのか、知っているか。」

院生ノボル「ソレ、私、ネットで見ましタ。結局ワ、よく分からない。」

地学者井上「例えば、ジャンボジェットはな、機体全体の上下に、0.3気圧の気圧差をつくることができれば、浮くんだ。そのために、あんなに走らなきゃならない。わずか0.3気圧だと言えば、簡単なようだが。300ミリバール以上。今は、300ヘクトパスカル以上だな。下げなきゃならない。700ミリバールなんて数字、巨大台風でも、見ない数字だ。自然の真似など、はなから無理な話さ。でもな、原理は同じなんだ。あとは工夫だな。」

院生ノボル「他力本願デスね。」

地学者井上「飲み込みが早いね。ノボルだったら、核をどう使う?」

院生ノボル「ンー。地中デ、爆発させマス。高温デ、岩石ヲ溶かせマス。空洞になりマスね。」

地学者井上「それだって、半径数十メートルに過ぎない。私なら、マグマの抜け殻を使う。まだドロンしてない、鍋状に天井が落ちていないやつをな。」

院生ノボル「古い海山列に、あるカモですね。コワーイ。先生ワ、マッド・サイエンティストです。」

地学者井上「でもな、実際には、そんなことは不可能なんだ。」

院生ノボル「ナゼ?。理論的には、可能と思いマス。」

地学者井上「俺が、やらないからだ。」

院生ノボル「ハハハ。ア、先生、もう、お昼デスね。私、ハマのラーメン食べマス。行きます。先生、行きませんか。」

地学者井上「なんだ、今月はリッチだな。宝くじでも当たったのか。」

院生ノボル「銀座で、拾いましタ。内緒ですヨ。」

地学者井上「ああ…。弱ったな。なんて言えばいいんだ…。」

アナウンサー伊丹「しかし、驚きましたね、斉藤さん。外務省の長井政務次官が、こんなことで逮捕されてしまうとは。」

解説斉藤「許可無く、時計台に立ち入ったことが、逮捕の原因です。お金を撒いたということが、逮捕の原因ではないですね。」

アナウンサー伊丹「心神耗弱ということで、不起訴処分になりましたが。役職についての処遇は、今後、どうなるでしょうか。」

解説斉藤「党本部で、対応を検討しているようですが。まず本人に、続ける意思があるのかどうかでしょう。撒いてしまったお金も、回収する意思がないようですし。」

アナウンサー伊丹「警察のほうでも、遺失物としての扱いをするのかどうか、対応に苦慮しているようですね。」

解説斉藤「落し物であれば、当然、遺失物としての扱いになりますが。今回は本人が、ご自分の意思で撒いたわけでしょ?。譲渡になるのか、寄付になるのか。寄付というか、喜捨ですかね。拾われる前提で撒いたのかどうかも、争点になっているようです。」

アナウンサー伊丹「結論が出ないまま、使ってしまうひとも、続出しているそうですね。」

解説斉藤「なかなかの問題ですね。法律のほうで結論が出れば、扱いも決まるんですが。今はまだ、いわゆるグレーゾーンですからね。こんな、世間を騒がせるようなことをしなくても、我慢してきた自分の楽しみのために、使えばいいんですよ。」

アナウンサー伊丹「斉藤さんは、何か楽しみのためにされたんですか。」

解説斉藤「ええ。私は、とっておきのウイスキー、元町二十二年を開けましたよ。タンスに仕舞っといたって、もう、しょうがないじゃありませんか。伊丹さんは、何か?」

アナウンサー伊丹「私は車を買い替えることにしました。では、これまでに入ってきたニュースを、まとめてお伝えします。(チャイム)ドイツのザクセン市で行われた、各国の中央銀行の代表者による臨時会合は、予定通り、利下げをする方針で合意し、閉会しました。これは市場への、資金流入の順調な拡大を受けて、この流れを、さらに、ゆるぎないものとすべく、全会一致で採択されたものです。今後、住宅ローンや就学ローンが組みやすくなるなど、日常生活への負担を軽減する方向での、経済的な良い影響が期待されます。(チャイム)個人消費の伸びを受けて、白物家電業界で作るホワイト・ナイト・クラブは、ひとつ前の製品、いわゆる型落ちした冷蔵庫や洗濯機などを、現在の販売価格の半額から、七割程度値下げして販売する、期間限定のセールを、来月から、全国の加盟店で一斉に開催することで合意しました。日時や、商品の詳細については、お近くの加盟店のホームページなどで、ご確認くださいとのことです。(チャイム)今日、お昼前、長野県中区美々の県道脇の、民家に続く小道で、七十八歳のお年寄りの女性が、この女性の親族と思われる二十三歳の無職の女性に、後ろから押し倒され、バッグに入っていた現金を奪われる事件がありました。無職の女性は犯行を認めています。供述によりますと、お年寄りと、この女性とは、二人で暮らしており、収入はなく、お年寄りの、いわゆるタンス預金だけが、生活の資金だったとのことです。お年寄りが、突然、自分のために使うと言って、タンス預金を全額持ち出したために、この女性が慌てて取り押さえ、奪った現金は、元通りタンスに仕舞ったとのことです。警察では、お年寄りの女性を、背後から押し倒したことについて、虐待にあたるのかどうかを視野に、捜査を進めています。斉藤さん、こうしたタンス預金をめぐる、身内の間での争いごとが、このところ増えているようですね。」

解説斉藤「はい。タンス預金だけに限らず、自分の貯金を現金化して、自分の楽しみに使おうとするのを、家族が止めに入るという形の事案が、全国のみならず、世界的規模で、頻繁にニュースになっています。国内だけでも、タンス預金の総額は、六十兆円とも言われています。それだけの金額が、今、市場へ戻ろうとしているんですから、こうした痛みを伴うのは、避けられないのかもしれません。私たちが初めて経験する、お金の流れですからね。」

アナウンサー伊丹「どうせなら、自分だけでなく、家族とパーッと使うほうが、楽しいんじゃないでしょうか。」

解説斉藤「そうですね。パーッと。」

アナウンサー伊丹「それではみなさん、よい週末をお過ごしください。」

得田参事「産経省の試算を見たかい?」

高井次官補「ええ。予想外の数字で、驚きました。これならば、赤い雨も必要はないですね。」

得田参事「民衆の力だよ。それだけ鬱憤が溜まってたんだ。タンス預金を表に出したいが、どうやって出したらいいかが分からない。そんなモヤモヤが、爆発したんだ。私らには予想外。とはいえ、国民には、いい機会になったじゃないか。」

高井次官補「ご存じですか。あの学長、退職して、科長さんとバカンスの最中だそうですよ。」

得田参事「どっちも、独身で通した身だからね。そのくらい、報われてもいいじゃないか。それより、あの先生と、ノボル君だったかな、外人の院生の始末は、どうするんだね。」

高井次官補「国内に留まり、国に貢献する限り、面倒は見るという、上の決定です。あの院生については、すでに、国籍取得の手配は済んでいます。将来、当人が申請することがあればですが。」

得田参事「じゃあ、私も今まで通り、彼らと接していいんだね。」

高井次官補「その件については、何も。得田さん…、良かったんでしょうか。これで。」

得田参事「良かぁないさ。だけど、今のヒトの発達段階では、これが最善の方法だと信じるよ。持ってきたんだろ。さあ、私の最後の仕事を、手伝ってくれたまえ。栄光への道をな。」

高井次官補(得田参事を射殺)。

アナウンサー伊丹「ただいま入ってきたニュースです。えー、今日の午後、東京赤山にある、文部科学省の、得田参事官の自宅で、銃声が聞こえたと、警察に複数の通報がありました。玄関の鍵はかかっており、警察官が、居間のガラスを割って、なかへ入ったところ、一階応接間で、得田参事官が、頭から血を流して倒れているのが発見され、その場で死亡が確認されました。自殺と見られます。得田参事官は、日本が技術立国であった時代に、小中学校国語科の、指定教科書の作成にあたったほか、文部科学省を退職後は、資金繰りに苦しむ学生のための、給付型の奨学生制度として知られる、得田奨学金を創設するなど、教育の分野で、広く内外に知られています。お待ちください。しばらく、お待ちください。これ?これね。えー、先ほどの、得田参事官についてのニュースですが、遺書が発見されたとのことです。公表された内容を、そのまま読み上げます。『私、得田は、国民のみなさまに、お詫び申し上げねばならないことがあります。先頃、アメリカのクラウドン臨時大使に付き添われて来日した、オレガノ、という島から来た老人と、その話とは、経済的に死につつある世界への、残された最後のカンフル注射となるべく、国際的な取り決めのもと、私がシナリオを担当した虚構です。赤い雨など降りません。太平洋沿岸を襲う災害など起こりません。どうぞ安心してください。』斉藤さん、これは、どういう…。」

解説斉藤「また、騙されたってことですね。ですが…。この国の経済は今、確実に、回復路線を歩み始めています。みなさんも、かつてない経済指標の立ち上がりを、ご覧になったでしょう。お店へ行かれて、久しぶりの活気を、肌で感じられたことでしょう。しかも今回は、世界中が、足並みをそろえて、回復路線を歩んでいる。長く続いた不況から、この国は脱出するでしょう。乾坤一擲。サイは投げられました。あとは、国民のみなさん次第です。」

地学者井上「コーヒーは、机の上に置いてくれ。だが、本を閉じちゃいけないぞ。」

院生ノボル「先生、ナニを、見てますカ。私、コーヒー、習いましタ。自信作デス。冷める前に、召し上がってくだサイ。」

地学者井上「ニュースを見ていた。すまん。ちょっと、疲れているんだ。」

院生ノボル「それナラ、コーヒー、いいデス。効きマス。ケーキもありマス。甘いもの、食べてくだサイ。」

地学者井上「うん…。それじゃ、いただくか。お、いい香りだ。おいおい、ずいぶん買ってきたな。」

院生ノボル「駅のナカに、できましタ。ルルーのお店テ、看板、書いてましタ。安い。オイシイです。」

地学者井上「ルルー?。あそこ、再開したのか。いや、隣の、プリンのやつをくれ。好物だったんだ。また食えるとはなぁ。んー、コーヒー、いけるじゃないか。客が来たら、ぜひ、たのむよ。」

院生ノボル「アリガトございまス。先生、何のニュース、見てましたカ?」

地学者井上「文科省の、知ってるひとが、亡くなったそうだ。おい、背広、どこやったかな。葬式に出てくるよ。学生実験は、任せていいかい?。偏光顕微鏡で、変成岩の判定やらせてくれ。雲母と石灰で戸惑う学生多いから。」

院生ノボル「ハイ。任せてくだサーイ。任せてもらうの、初めてデス。うれしいデス。先生、背広、見つけました。コレ。」

地学者井上「まあ、このコーヒーは飲ませてくれ。六時には戻るから。」


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駄菓子屋の夏

2024年11月22日 | 小金井充の

 昭和六十二年の夏、私は二十年ほどやった配達の仕事を辞して、思うところあって、町外れの小さな工場へと再就職した。体が資本の職場で、体力がガタ落ちになったのを自覚して、もはや、誰かの上に居られる立場ではなくなったなと。ここは手に職をつけて、将来の生活の安定を得たいと、職安で、かねてから興味のあった駄菓子屋の仕事をまさぐった。世の中は、間もなく年号が変わろうかという気配のなかで、何か新しい、希望のありそうなものへ変身しようと、急速に動き出している。そんな風に圧されたわけではないと、独り呟いてはみるものの、実際は、旧来の知人らの華やかな転職物語を聞くたび、焦りに似たものを感じていたことは否めない。
 その工場は、郊外の広い広い空き地であった所へ、倉庫群や配送センター、大型ショッピングモールなんかがグングンと建ち始めたにぎやかな地域の只中の、まるで時間が止まったかのような、取り残されたような古参の建物の一隅にあった。車屋のガレージなんかが並んでいたかもしれない、長屋のような建物のはずれが、その工場の在り処である。看板らしい看板もなくて、迷いに迷ってしまい、危うく面談の時間に遅れそうになって冷や汗をかいたが。しかし、季節も季節だ。所々砂利のはみ出した軽舗装の路地から延々と立ちのぼる陽炎のなかでは、冷や汗なんぞ一瞬にして蒸散してしまう。
 私はその建物の正面に立ち、汗を拭くのも忘れて、下辺の腐り落ちたドアの脇へ危なっかしくネジ止めされた、これが恐らくはインターホンなのだろうとおぼしき、黒くて四角い物体からはみ出ている、茶化て泡だったような丸いボタンを押した。ビーっとでも言うのかと思ったが、音の高低の危うい「エリーゼのために」が流れ出して和んだ。それがひとしきり演奏を終えるころ、ガタリという音を出して、それは老いた女性の声を私の耳に伝えた。
 「はい、どなた。」
 私が職安から紹介してもらった旨を伝えると、その鬱々とした女性の声は明るいものへと変わり、間もなく、ドアのノブがギッと鳴って、丸顔に銀色のビジネス眼鏡をかけた、笑顔のお婆さんがあらわれた。
 「さ、どうぞ。お待ちしてました。」
 私をなかへと導くお婆さんの指には、緑色の指サックがついている。どうやら、事務方のひとであるらしい。のちに、それは私の勘違いで、誰あろう、この柔らなお婆ちゃんこそが、先代の未亡人、現の社長だと知れるのだが。しかし私は、ややしばらくの間このお婆ちゃんを、パートか何かの事務員だと思っていた。それは私にはほとんど、以後このお婆ちゃんと顔をあわせる機会がなかったことに原因している。私はいきなり工場の鍵を任され、早朝一番に来て、まだ誰も居ない工場に火を入れる役回りとなったし、仕事が終わって帰るころには、お婆ちゃんはもう退勤していた。
 二階建ての工場は、二階を材料や物品の倉庫として使っているがために、ひとが常在するのは一階のみに限られている。他所から駄菓子屋の店主なんかが来ると、まずは工場とガラス窓一枚で仕切られた応接室に案内せられ、そこでお婆ちゃんのいれた茶を飲みながら、工場の製品を食べながら、工場長と談笑して帰るのだが。しかしそれはまた、のちのお話で。今日は面談。自分が客となり、お婆ちゃんのいれた、味のしないお茶をいただきながら、五十路も後半の工場長の、つるりと髭を剃った難しい顔とにらめっこしている。持参した履歴書を眺めて、うーんと唸る工場長。白衣のすそに、きなこだろうか。黄色い粉が散っている。
 「難しいかもしれませんよ。」
 工場長の、予想通りの言葉を聞いて、私は用意した言葉を返した。
 「とにかく何日かでも、やらせてもらえませんか。今からでもいいです。」
 実際、そのつもりで来たんだし。ほかに何を言えばいいんだろう。こっちも生活かかっているし、この日照りのなかを、何の収穫もなく、手ぶらで帰ろうとは思わない。そんなことになれば、しばらくは立ち直れないだろうな。ダメならダメでいいから、ダメだってことを分かりたい。次の仕事を探すにしたって、未練があるままじゃ、目移りしてしまう。
 私がそう言うのを聞いて、工場長はふと私の顔を見て、何だか気まずいような、渋いような顔をして、手にした履歴書を机の上へと投げた。そしてスックと立ち上がり、工場と応接室とを隔てる窓をガラリと開けて、
 「修司、白衣あったか。」
 と、延べ台でタネをのしている男性を、真っ直ぐに見て言った。言ったというより怒鳴ったに近いが、奥の機械の音があるので、そのくらいでしゃべらないと、相手に声が届かない。私はそのデカイ声で言うというのに苦労することになるが。しかし慣れるとまあ気持ちいいものでもある。ネタをのしていた男性は、無言で振り向いて、かまどの前で作業していた二人の人物のうちの一人を見た。偶然か、見られたほうも顔をあげており、代われというような合図にうなずいて、何の疑問もない素振りでスタスタと延べ台へとやってくる。ネタをのしていた、工場長から修司と呼ばれたその男性はというと、もうあとも見ないで、二階へ続く階段のほうへと歩き出していた。まあなんという、なめらかな連携であることか。これまで自分が経験してきた、独り芝居の職場とは、はなから別物の世界がここにある。男の職場とか世間では言っているが、違うな。現に、かのお婆ちゃんだって、気が利くレベルを超えて、実にタイミングよく物事を運んでしまう。要するに、同じ生物だから通じるってことだな。それをより簡単に実現する要素として、同性ってのが有効なだけだ。しかしその早合点が、私を苦しめることになる。外れてはいなかったんだが、それはメインの理由ではなかったのだ。
 工場の二階には、両端に階段がついており、作業場からもあがれるし、ぐるっと歩いて、応接室の側へと降りることもできる。それをまだ知らない私は、修司さんが、作業場とは逆の応接室のドアから現れたので、思わず「あれっ?」と声をもらしてしまった。私の様子を見て、修司さんが笑う。
 「上は、こっちにも降りられるんだ。」と、工場長。「これ着て、髪の毛覆うやつもな。いや、そうじゃない。ったく……」無言で修司さんを見遣る工場長。修司さんは自分の白衣を脱いで、着て見せてくれる。髪を覆う使い捨ての帽子をかむるのが、なかなかに難しい。見れば、工場長はもう、あとも見ないで自席につき、パソコンの画面とにらめっこしている。
 「来て。」と修司さん。あとについて応接室を出、ドアをあけて、作業場の前室へと入る。白い長靴を借り受けて、もうね、手の洗いかたから違うわ。修司さんに最初のレッスンを受けながら、私は今確かに自分が、これまで知らなかった世界に入り込んでいるのを、入り込んでしまったのを、なんとも言えない気分で自覚していた。これでよかったのか?あまりにも急ぎ過ぎではないか?蛇口からほとばしる温水の流れは、しかし、私の不安を洗い流してはくれない。せめて冷たい水であれば、もう少しシャキッとするだろうに。ブロアーで濡れた手を乾かし、続く狭い通路では全身に風を当てられて、ようやく、作業場へと続くドアが開かれる。途端に、かいだことのない香りが身を包む。思わず立ち止まって、鼻を使う私の姿を見て、修司さんが笑う。
 「あれ?かいだことない?砂糖の匂いだよ。砂糖ってか、糖蜜の。」当たり前のように、修司さんが言う。指さされるままに、私は銅鍋から湯気を立てる、透明な液体を見た。それぞれに温度計が入っており、先の二人のうちの一人が、しゃがみこんで、ねんごろにコンロの火力を調整している。その様子に見入る私を見て、
 「沸かしたら終わり。」とだけ修司さんが言った。そのときの私は、沸かし終えたら作業終了という意味だと思ったものだが。しかし違った。沸かしたが最後、この香気はみな飛んでしまう。さらに沸騰まで行くと、コンロの火が回ってしまい、大火災になるのだ。駄菓子といえど、品質を一定に保たなければ、顧客は逃げてしまう。糖蜜への火の入れ具合ひとつにしても、それがそのまま、品質を左右するわけで。その難しさには、熟練したと言われてもまだ、頭をかかえることがあるくらいだ。
 初日の体験は、昼までとなった。体験というか、迷惑かけただけで終わったのが、私には残念でならない。職安で探してた時分には、自炊経験くらいで何とかなるだろうと、甘い、甘すぎる考えでいた自分である。目に見えてしょげかえっていたのだろうか。修司さんが黙ってコーヒー缶をおごってくれた。それを見てか、工場長がスタスタとやってくる。ああ、お断りか。
 「あしたは休んで、住民票とってきてくれ。あさってから六時な。」事も無げにそう言って、工場長は透明ファイルに挟んだ契約書を、私に渡した。えっ?という顔でただ書類を見つめる私。
 「契約は今日からになってるから。ちゃんとカネは払うよ。」そう言って、工場長は私の背中をポンポンと叩くと、スタスタと自席へ戻っていった。修司さんがニヤニヤ笑って見ている。
 「俺もそんな感じだったわ。」修司さんは手招きして、私をロッカー室へと案内してくれた。見れば、いくつかのロッカーの扉が、開け放たれたままになっている。あるものは凹んでおり、あるものは取っ手がなくなっている。脇の壁には穴まであいているじゃないか。でもこの光景は、前の職場にもあった。人生の壮絶な景色は、ここにもあるんだな。修司さんは、手近なロッカーの、鍵がささっている1つを指差した。ここを使っていいようだ。見ればもう、修司さんはロッカー室を出ていた。仕事の流れが見えていなければ、そうもいくまい。私にとっては、それが一番の難問だった。
 「じゃ。」
 私が入社して二年目の春、修司さんは家業を継ぐために、この工場を離れた。盆に遊びに行くと約束して、私は修司さんの愛車である、年代ものの白いクラウンを見送った。工場長は何も言わない。後ろ手を組んで、いつものようにスッと立ち、去り行くクラウンを真っ直ぐに見届ける。あの日、コンロの火の番をしていた奴も、この工場を去っていた。不況の波は、いかんともしがたい。後ろでは、かのお婆ちゃんが、両手で老眼の進んだ眼鏡を持ち上げて、同じように何も言わず、クラウンを見送っている。寂しくなったが、工場は終わらない。スタスタと作業場へ戻る工場長。段取りは、分かっている。まあ、気分で変わることもあるが。
 私が作業場へ戻ると、案の定、工場長は鍋ではなく、延べ棒を持って延べ台に向かった。予定と違うじゃねぇか。そんなことをボヤキつつ、私は糖蜜の鍋に火を入れて、計量台にボールを据え麦粉を計りにかかる。工場長は抜き型を並べだす。私はタネを作りにかかるが、思えばこれも、練るものだとばかり思っていた。
 「麦粉はね、練れば練るほど、焼いたものが固くなる。」修司さんの言ったことが、昨日のように思い出される。ああ、やばい。チョッとウルウルしてきた。でも手を顔にはやれない。鼻水は、マスクが何とかしてくれるだろう。タネがまとまった頃合、工場長が延べ台にパッと打ち粉をする。その音を聞いて、勢い、ボールをかついで、延べ台に返しに行く。子供のほっぺたのようなタネが、フワリと延べ台に着地するや、工場長が指で、それをチョッとひねってみる。よしよし。何も言わないな。工場長は抜き型を自分に引き寄せる。私はもう、延べ棒を手に、タネをのしにかかっている。平釜のかすかなファンの音だけが、今日も作業場を満たしている。もっとも、焼きが始まれば、こんな静けさは吹っ飛んでしまうが。焼き板に次々と型が並び、私はタネをのす合間、頃合を見て焼き板を棚へあげ、順次、新しいものと取り替えていく。棚は間もなく、焼き板でいっぱいになる。カバーをかけ、新しい棚を据え……。ちょっ!今日は手が早いな工場長。絶好調じゃん。見れば、抜き型を脇へ置いて、抜いた残りを集め、工場長直々、自分でタネをのしにかかる。私は延べ棒をあきらめて、計量台に戻り、麦粉を計る。麦のかすかな香りのなかへ、糖蜜の香りが匂いだす。平釜を回す。さあ、忙しくなるぞ。


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クリスマスの あさ

2024年11月22日 | 小金井充の

 がたん! という おと がして、
 びっくりして、めを さました。
 くらい へやの なかに、
 あおじろい ゆきの ひかりが、
 ぼーっと だれかの せなかを てらして いる。
 まるい せなかが、 カーテンの かげで
 ぬれた ように、 ぼーっと、 あおじろく ひかっている。
 せなかの むこうに さんかくけいの ぼうしが みえる。
 ぼうしも その うえの まるい かざりも、
 ぬれた ように あおじろく ひかっている。
 ぼうしの したには まるい めがね。
 まるい めがねが、 キラッと、
 ゆきの あかりに あおじろく ひかった。

 「だれ?」

 だれ?と いわれて、 まるい せなかが
 キュッと ちぢこまる。
 まるい めがねが せなか ごしに 
 こっちを むいた。
 まるい はなの した には、 あおじろい ひげ。
 ひげに かくれて くちは みえない。
 モゴモゴと ひげが うごいて いる。

 「だれ?」

 また だれ?と いわれて、 まるい めがねが
 ピョンと とびあがる。
 まるい めがねが、 まるい せなかの むこうに
 かくれた。
 いまは ゆきの ひかりに、 まるい せなか だけが
 ぬれた ように、 ぼーっと、 ひかって みえるだけ。
 そこから ひくい こえが きこえて きた。

 「ごめんよ。 おこす つもりは なかったんだ。
  なつかしい フィギュアが あったから、 つい、
  てに とって しまった。 そのとき なにか
  おとした らしい。 めが わるくてね。 きみは
  しょうらい おはなしを かく ように なる。
  そして ある クリスマスイブの よるに、
  むかしの じぶんへ、 おはなしを かこうと おもう。
  ちょうど きみ くらいの こどもにね。 だけど、
  かけないんだ。 アイデアは うかんでくる。 でも、
  どれも これも もう だれかが かいてるんだ。
  こまって しまってね。 そしたら ここに いた。」

 それきり、 こえは きこえなく なった。
 まるい せなかが ひくくて たいらに なった。

 「かいて!」

 おもわず そう いうと、 たいらに なった せなかは、
 また まるく なった。
 フフフと、 ひくい わらい ごえが きこえる。
 そして また、 ひくい こえが きこえた。

 「そう、 だね。 かかなきゃ。 だれかの おはなしに
  にて いても、 じぶんの おはなし だよね。
  ありがとう。 きみは……」

 こえは もう きこえなく なった。 まるい せなかも
 みえなく なった。 めを とじる。 めを あけると、
 カーテンは あさの ひかりに かがやいて いた。

                       おしまい。
 


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2024年11月09日 | 小金井充の

 大通りの松ノ木の下に延びる小道から、三丁ほど歩いたところであろうか。長唄のおっしょう様のところに花という、大体の白猫が住まいしていた。猫界では少しく年増のおばさんではあるけれども、それがために経験豊富な男衆の羨望の的とはなり、毎年のようにプロポーズを受けてはツンとハネッ返す気丈な女性である。大体の白猫というのは、全体として白猫のなかに淡いオレンジの縞が見え、特にその胸の辺りのチョッと真ん中から寄った所の縞が少しは鮮やかに出ていて、あたかも花のように広がっているものだから、家人が目ざとくそのように呼んだという。
 花はマリで遊ぶのがお気に入りである。おっしょう様が手縫いしたゴルフボールほどの、白地に赤で星を刺繍したそのマリを、ひがな一日チョイチョイと両手でつついたり、勢いよく弾いてはモーレツに追いかける。糸と布とで作られたマリは板の間を転がっても音が無い。実家の幼少の記憶から、あのゴロゴロという騒々しい音に猫は惹かれるものだとばかり僕は思っていたが、花は違うようだ。試しにビー玉のなかの大玉をゴロゴロと転がしてやると花は怪しんで逃げていく。長唄の席ではアンモニャイトと化す花ではあるが、騒々しいものは嫌いのようだ。僕の幼少の記憶にある猫氏とは間逆だな。彼はあくまでも音楽を嫌い、大通りの騒音をこそ好んでいた。人も三様、猫も三様である。
 休みの、天気のよい日に限り、僕は午睡のあと散歩に出るのだが、つい気も知れずこの小道に入り込んでいる。懐手をして何かと思案して行くと、道なり、おっしょう宅の庭先へと出る。そこで歩みを止めて、宅の縁側を眺めおると、雨戸の陰からプイと小さなマリが転がって、間もなく花がモーレツに走り込んでくる。マリをつかまえて、次は元来たほうへと弾き飛ばすと、花は尻尾を立てて餅のように真っ白な尻をプリプリと振って飛び出していく。その可愛らしさ、可笑しさに、僕はそこから離れられなくなり。すると奥から僕の姿を認めて、家人の誰かしらが手招きをされる。ご挨拶をしながら照れ隠しに片手でうなじを掻きつつ、僕は縁側にお邪魔をする。お掃除が行き届いているがために、花はよくよく廊下で後ろ足を滑らせて、稀には庭へと滑落しそうになるが。ために顔を傾けて歯を食いしばって前足をバタつかせる花の必死で真面目な仕草が可愛らしく。ついつい長居をしがちなのだが、それがいつしか縁になって、今はお年始をご一緒させていただくお仲間に加えてもいただいた。お孫さんの芽衣子さんは、おっしょう様に似て丸いお顔立ちの、はつらつとした声を持っておられる。この方とも親しくなれたのは、真に花のお陰である。我が家の店の使いの帰り、雨の日など番傘をさして水色にけぶるおっしょう宅のお庭の前を過ぎると、雨戸の向こうでペンペンと三味線の調子を合わせる音が聞こえ、おっしょう様の澄んだ唄いに続けて芽衣子さんのまだおぼつかない唄いが続く。僕は自然と足が止まってしまい、寒さにブルッと身が震えるまでぼんやりとそれを聞いていたりする。来年の春には、芽衣子さんも一人でお客の前に立つのだろう。今こうして番傘の下で雨に打たれるばかりの我が身上を思えば、なおのこと体が震える思いがする。
 とある晴れの日の午後、僕はまた何とはなくて松ノ木の小道を辿っていたが。不意に脇からゴロニャアとドスの利いた雄猫の鳴き声がした。見れば、界隈では顔の知れた番長猫が、僕と同じ道を辿っていくようだ。毛長の雑種で、黒地に三毛らしい色が混じっている。この毛色は界隈でも若い衆のなかに見るものだから、してみると三毛というのではないらしい。もう毛が絡まったようにそこここで渦を巻いてはいるが、猫だけに不潔さは感じない。毛長でなければ、歌舞伎役者のような端正なたたずまいを見せるところだろう。番長は僕に向かって警戒心の強い眼差しを残しては、雑草のなかに身を隠しつつ歩いていく。チラリチラリと、お前まだついて来るのかというふうな嫌な顔をして見せるから、僕も嫌な顔をして見返してやるのだが、番長はお構いなしの様子だ。そのままズケズケとおっしょう宅の縁側に迫る。嗚呼僕はあんな近くまで一息には行けなかったのに。今もう番長は宅の縁側へ飛びあがろうかという勢いだ。またコロニャアとドスの利いた声で鳴く。これは見ものだなと、僕は懐手をして事態の行く末を見届ける気になった。過去幾たびか界隈の雄猫どもが、老いも若きもこうして花のもとを訪ねては、花の一括におじ怖気づいて退散したのを観てきたが。哀れ番長も面目を潰されることになるのだろうと予想して、僕は内心でウキウキしながら、離れたところで観客を決め込んだ。そら、花のお出まし。ところが花は、やんのかポーズで走り出てくるものと僕は思ったのだが、雨戸の陰からしとしとと歩み出てチョンと縁側に座ると、何も言わずに番長の顔を見下ろしている。相手に対してやや斜めに身を置くところが、花の気品を匂わせる。番長も番長で、地面にどっしりと座ったまま、ゴロニャアとも言わずに花の顔を見上げておる。界隈の猫衆を仕切ってきた実力がその背中からにじみ出ている。あらまぁこれはお見合いかなと、僕は少々残念に思った。しかしなるほど、花ともなれば、このくらいの御仁でなくては物足らないのだろう。僕の見ているのに気がついて、奥の障子の陰からおっしょう様が手招きをされるが、この状況ではお断りせざるを得まい。僕は片手をチョッと振って見せる。おっしょう様が軽くうなずかれるのを見て、僕は少しく残念ではあったが、まあ両猫のお見合いの席ともあらば、いたしかたなし。と、番長は何も言わないまま振り返り、その拍子に僕と顔が合って、お前まだいたのかというふうなムッとした表情を残して向こうの草むらへと去っていく。僕もムッとした顔で番長の行方を見遣った。宅の縁側へ目を返すと、花の姿も無い。代わりにおっしょう様のにこやかな笑顔がこちらを向いて、手招きをされている。僕はうなじに手をやって、いそいそと宅の縁側へと歩き出す。芽衣子さんが盆にお茶を持って来られる。これはこれは、ご馳走になろうじゃないか。僕は縁側へ腰をかけさせてもらって、芽衣子さんからのお茶をいただいた。
 「さあどうぞ。」とおっしょう様も勧めてくださる。かたじけなく。
 「めずらしいですのよ、花が。」と芽衣子さん。
 「ええ。僕も初めて見ました。」と僕。ちょうどいい温もりのお番茶である。
 花が雨戸の日陰でニャアと鳴いて、僕のところへ来る。頭を僕にスリスリして、鼻を鳴らして撫でを催促してくる。これは撫でざるを得まい。
 「あんまり気位が高こうて、お婿さんもろうたこと無いもんな。」とおっしょう様。僕は苦笑い。花はおっしょう様の膝へ登る。
 「手術はしないのですか。」と僕。芽衣子さんはおっしょう様と顔を合わせて微笑む。
 「この子とな、インターネットで猫の動画を見ましてな。」とおっしょう様。「そのなかに、自分の玉が無くなっているのに気がついて、あっけにとられてしまうのがあってなぁ。」
 「ああ。あれですか。」と僕は言い、小道の向こうの藪を眺める。
 「手術はせなならんのが世の流れですけど、一度は子を産ませてやろうと思いましたんですわ。」とおっしょう様。花はもう寝入っている。芽衣子さんは花の可愛らしい寝顔を覗き込んで、頭をそっと撫でる。花の耳がピンピンと跳ねる。
 「この子は来年、初舞台ですわ。見てやってくださいな。」とおっしょう様。芽衣子さんが顔を赤らめる。
 「はい。店閉めてでも行かしてもらいます。」と僕。ホホホと芽衣子さんが笑う。僕も思わず微笑み返す。
 ほどなくして、僕はあの番長猫が事故にあったと聞いた。若いのが走り出たのを止めに入って、はねられたのだという。ボランティアの人が駆けつけた時にはもう、息がなかったそうだ。花はそれからしばらく、マリで遊ばなくなった。縁側でおっしょう様の座布団の上に丸くなり、芽衣子さんに頭を撫でられなどしておる。時々は僕が代理を務めるが。たまに花のゴロゴロが聞こえると安心したものだ。花を囲んでお茶をいただきながら、しみじみと庭を眺めれば、はや紅や黄色の彩りとはなり。大きな柿の葉が落ちて、秋の雰囲気を添えている。花はマリで遊ぶようになり、それを見ておっしょう様が一番喜んでおられた。界隈では隻眼の黒猫があとを継ぎ、やってくる厳しい季節に向けて陣を整えている。
 「あのね、この子、おなかが大きくなってきたようなの。」と芽衣子さん。
 「え、寝ていて太ったのじゃないですか。」と僕。おっしょう様がホホホと笑う。僕は思わずうなじに手をやる。
 「縁の下をウロウロしたり、天袋に上がったりもするんです。」と芽衣子さん。
 「初めてじゃけ。人の子は経験があるけどな。どうしたもんか。」とおっしょう様。
 「ボランティアの人に聞いてみましょうか。」と僕。
 「ご苦労さんですけど、そうしてもらえますか。」とおっしょう様。
 「じゃあ早速。店のはす向かいの家ですから。」お茶のお礼をして、僕はポンと膝を打って立つ。
 「やるなぁ番長。」僕は呟く。思いのほか整然とした猫の社会に少なからぬ驚きを覚えつつ、サクサクと枯野を分けて小道に出る。めずらしく早足になりながら僕はその家へと向かった。行く手の彼方に青空を背景にして高く盛り上がる雲が、あの日縁側に座って花を見上げる番長の姿にも見えた。


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秋晴れ

2024年10月13日 | 小金井充の

 青空へと大きく伸び上がる長い長い坂道の向こうから、無精ひげを生やしたソース顔のオッサンがやってくる。彼方を1機の旅客機が、長い長い白い尾を引きながら、まるでコマ撮りの映像のようにゆっくりと空を渡っていく。青い空、白い雲。すがすがしいはずのこの景色のド真ん中に汗だくのオッサンの黒ずんだ顔があるものだから、絵的にはもう暑苦しくてしょうがないのではあるが、しかし季節は秋である。それが真夏にも見えるのは、オッサンのユラユラと揺れるメタボリックな胴体のせいもあるが。むしろ坂道の両脇に生えている街路樹がまったく紅葉していない、初々しいとすら思われる緑色を保っているからでもある。
 村の1車線道路には車1台も通ることがなく、それでオッサンは今もなお道の真ん中をモタモタと歩くことができている。ゼェゼェいうオッサンの吐息がうっすらと聞こえだす。沿道の古民家の軒先では数人の村人が集って、このオッサンを横目で見ては何やら噂している様子。「この男なのか?」「じょうだんじゃない」というような掛け合いをこのオッサンも聞いているのかいないのか。ウの口に唇を尖らせてフウフウ言いながら坂を越して、ここからは下りになるというのでオッサンの顔に少しく安堵の色が見え出す。脇を過ぎる丸いヘッドライトの年季の入った自転車が急にギギギとブレーキをかけズズズと足をひきずって停まり、ハンドルから片手を離してパンチパーマのオバハンの顔がオッサンを振り返る。茶けた花柄の長袖にフリルのついたエプロンをしたオバハンの前で、自転車のかごに入れたマイバックから玉ねぎが1つコロンと転げ落ちた。
 「あらヤダ」と言いながらオバハンは慌てて自転車から降り、熟練した動作で自転車のスタンドを立てると、コロコロと下り坂を転げ落ちる玉ねぎに向かって走り出すが、しかし玉ねぎのほうが幾分早いと見えてオバハンとの距離を次第に広げていく。オバハンはもうパンチパーマがオールバック気味になるのもかまわずに両手を前へ突き出してしまって、何だか分からないことをボヤきながら、パタパタとサンダルの音を鳴らしてオッサンの横を過ぎようとする。と、オッサンがまるで別人のような鮮やかな身のこなしでもって二歩三歩駆け出してサッと玉ねぎを拾い上げた。
 「あ!ドロボウ!」息も絶え絶えにオバハンが言うと、沿道の古民家からは何事かと男女の頭がのぞく。玉ねぎを差し出すオッサンにやっと追いついて、オバハンはその差し出されたオッサンの手を平手で打ち落とす。勢い玉ねぎはオッサンの手を離れて、またコロコロと長い坂道を転がっていく。オバハンはもう両膝に両手をついてしまってゼェゼェ息をするばかりで、玉ねぎを追いかける気力もなく只々転げては飛び跳ね転げては飛び跳ねする玉ねぎを見送るばかりだ。玉ねぎを追って走り出すオッサンの背中に、「ちょっと!それ私のだから!」とオバハンは言おうとするが、しかし後半はもう咳き込んでしまって声にならない。けれども思いのほか機敏な身のこなしで玉ねぎに追いついたオッサンが、プルンとメタボな脇腹を振るわせて玉ねぎを拾い上げた時は、「ちょっと!」と言いながらもオバハンは続く言葉を飲み込んで、ふくれっ面はするものの、黙ってオッサンを見下ろすだけになっていた。オッサンが玉ねぎを握った手の袖で額の汗をぬぐい、微笑んで、フゥフゥいいながらオバハンのほうへと坂道を登ってくるころには、オバハンは地面を見てしまってオッサンの到着を待つよりなかった。
 「ごめんね。わたいはすっかり……」とオバハンは丸い顔をちょっと赤らめて、フリルのついた前掛けを両手でしぼっている。茶けた花柄の上着のすそが前掛けの脇で秋風に揺られる。オッサンはニタッと赤鬼のように笑ってオバハンに玉ねぎを手渡した。そしてクルッと背中を向けて、スタスタと長い坂道を下りにかかる。沿道の古民家からヒョコヒョコと顔を出した男女の姿はとうになくて、「なぁんだ」「いい奴じゃないか」という囁きだけが聞こえてくる。オバハンは息もやっと落ち着いて、オッサンの背中にちょっと頭を下げて自転車へと戻っていった。自転車のスタンドを見事な足さばきで跳ね上げて、さてサドルをまたごうという時になってオバハンはもう一度オッサンのほうを見遣った。オッサンはもう大分坂を下っていて、そのモジャモジャ頭の向こうには、ただただ真っ直ぐに海へと落ちていく坂道が光って見えた。
 やがてオッサンの鼻に潮風の香りが届くころ、いい塩梅に枯れた小さな公園があらわれて、しばし足をとどめてオッサンはその公園を見ていたが。やおらウンとうなずいて、オッサンはその公園へと入っていく。枯れ枝をポキポキと踏みしめながら、湿った柔らかな土の感触を楽しみつつ、と、前の朽ちかけたベンチに、1人の老人が杖に額をよりかけて、枯れ木のように腰掛けているのをオッサンは認めた。近づくオッサンの気配を知ってか知らずか、これはひょっとして死んでいるのではとオッサンが心配するくらいその老人は動かない。昼間寝ているヨタカそっくりなその老人のすぐ横までオッサンが近づいたとき、ふっと老人の目が開いて、ゆっくりとオッサンの顔を見上げた。オッサンの顔をじっと見上げはするが、その口は笑いもせず何も言わぬ。ただ何かものすごく疲れている様子だけはオッサンにも見て取れた。あまりにも疲れてしまったので、もはや立って歩くことができないという具合。オッサンは困った。これでは立ち去ることもできやしない。そんなオッサンの顔色を察してかどうか、老人はもうほとんど肌色になったその薄い唇だけを動かして言った。
 「私が長いこと待っていた人は、あなたですか。」
 どう答えたものかオッサンはまたしても困った。そんなことどうして自分が知るだろう。しかしまあ袖触れ合うも何とやら。ここはお年寄りの気持ちを汲んであげるのがよろしかろうと、オッサンは意味深な面持ちでウンとうなずいて見せた。老人はここで初めて表情を見せて、つまりはオッサンにフッと鼻で笑って見せて、あとはもう何も言わず、また先程のように顔を戻し、目を閉じてそのまま動かなくなった。よし!とオッサンは心のなかで喜び、きびすを返して公園を出にかかる。してみると、あの老人はここで毎日のように誰かを待っているということか。生活費とかどうしているのやら分からんが、ともかくは良いご身分には違いないとオッサンは独り合点をした。あと1歩か2歩でこの自分には似合いな感じのいい公園を出ようかという時になって、1人の町の若者が不意に横合いからオッサンに怒鳴った。
 「このまま行ってしまうんですか!」
 ビクッと頬を引きつらせて、オッサンは反射的にその怒鳴り声のほうを見たが。おやおやまだ二十歳かそこらの若造じゃないか。俺に何か用でもあるのかと、オッサンは和戦両様の気分でその若者と対峙する。ところが若者のほうはもう言うべきことを言ったというふうで気色を失い黙ってしまって、オッサンはまたまた困ってしまった。どうもこの町も俺の落ち着く先ではないらしいぞ。この先どこまで歩かにゃならんのかと、オッサンは軽いめまいを感じつつも、しかしあるいはひょっとしてこの若者がまた言葉を発しないだろうかと、今度は半ば期待を込めたような眼差しを若者に向けてみる。けれども若者はプイとオッサンから顔をそむけて、そのまま背中までもオッサンのほうへ向けてしまい、立ち去ってしまった。何だかよく分からん町だなと、オッサンは先程のベンチに座る老人を振り返る。か細く低い木々の向こうから、老人の面のような血色のない顔がまっすぐこちらを見ているのに気がついて、オッサンは肝を冷やした。お化けかよと心のなかで愚痴りながらもオッサンは老人の顔を見て返す。何やら泣きそうな表情でもあるかなと思いながら、泣きたいのはこっちだとオッサンは心のなかで呟いた。ならばこちらから声をかけてみるしかないのかとオッサンは戸惑った。こちらから面倒にまみえるのはご免こうぶりたいが。しかしこのまま立ち去るのも後味が悪すぎる。仕方がない。何か問いかけてみるかとオッサンは腹を決めて声を大にして老人に問うた。
 「あなたは、どうなりたいのか。」ただ見たままに、ずっとそこへ座っていたいのかという意味で、オッサンはそう問いかけてみたわけだが。他方、老人のほうではまた別の意味に取り違えたらしい。老人は恥らうようにオッサンから目線を下げてボソッと「また歩けるようになりたい」と言ったようだ。え、とオッサンは思った。だってあんた毎日そこへ歩いてきてるんじゃないのかよ。その杖はほかの何に使うんだよとオッサンは心の声で突っ込んだが。いやまてよ、ひょっとして本当にそこへ座り通しなのかもしれんと思い返して、自分の顔から笑いが引くのをオッサンは感じた。さっきの若造のことを思えば。あれはもしかして、このお年寄りの食いものや身の回りのものごとを世話する係なのではなかろうか。この得体の知れない町だもの。そういう風習があっても驚かないなとオッサンは思った。オッサンの口から自然、「俺は医者じゃない」という言葉が出る。普段ならば笑って両手でも振ってやるところだが。これはそういう雰囲気ではない。嫌な雰囲気だなぁとオッサンが思っているところへ、雰囲気を察してか否か老人は「医者なら町におる」と返してきた。ははぁ、そういうのでいいんなら、俺にもやりようがあるぞと、オッサンは少し安心した。こんなとこへ毎日座って、誰かを待ち続けるからには、気力は相当にあるなと見当をつけて、ならばこの質問はどうだとオッサンは老人に返した。
 「あなたの自信は、どこへ失せたのか。」とオッサンが言うや、老人は「自信」と独りごちたきり黙ってしまった。老人の額がまた、元のように杖へと置かれる。そのいかにも気持ちの沈んだ様子を見てしまっては、オッサンも言った口を閉じることができない。えぇぇ外した?俺の経験とは違うの?などとオッサンが自問しかけたところへ、老人が今般、遭遇以来初めての長めの話をしだしたので、オッサンは内心ホッとしてその話に耳傾けた。
 「気づけば……、私ひとりしかいなかった。」老人は杖に額を置いたまま、目を閉じて何かとても昔のことを思い出そうとしているようだ。ポツリポツリと老人は話を継ぐ。「話したこともないが、私のいるところに、誰かもいた。今もう、私だけだ。誰かがいた時には心強かったが、独りになって自信をなくした。」老人は何か、今更に気がついたというように、額を置いた杖からガバリと顔をもたげて、「あんたはなんで、独りで歩いているんだ?」と言った。言われたオッサンはといえば、可笑しくてしょうがない。なんでって(笑)。思わず知らず自分の顔がほころぶのをオッサンは愉快に思ったが。しかし笑われているのを見てしまって、また杖に戻っていく老人の頭を目撃したオッサンは、その場で気分を正したうえでこう返した。
 「なんでって、ほかにやりようがないから……。」我ながら何とも曖昧な返事だなと、オッサンは自分で言って自分でガッカリした。でもそうなんだから仕方がない。世間から笑われた苦い思い出は数え切れない。だけど止める理由もまたみつからないままだなとオッサンは自身の過去を眺め渡す。眺め渡すうちに嫌なことがいくつか思い出されてしまい、勝手にけっこうな精神的ダメージを食らったが。しかしこの老人にそれは悟られたくないとオッサンは気力を使った。というかそもそもの話、自分に素直に考えると、見たいものは見たいし、したいことはしたい。それは刹那の快楽などではなくて、人生の経過からもたらされる成果なのだという経験則が今のオッサンのなかにはある。ウンとうなずいてオッサンは老人の閑話に答えた。
 「正しくなければ、諦めるのですね。」オッサンはわざとに断定的な言いかたをしてみる。老人はやはり自信がないようで、オッサンの話に迷いつつも、コクリとうなずいてしまう。あー、これは重症だとオッサンは思った。「諦めちゃうの?」と唐突にフランクな言いかたをされて、老人は「えっ?」という顔で反射的にオッサンの顔を見た。「諦めちゃうんだ(笑)」オッサンはなおもフランクに老人に詰め寄る。まあお互いこの距離で話しているから効果のほどは分からないが。やはり老人から返事は返って来ない。オッサンは公園の敷居をもう一度またいで、何か楽しそうな雰囲気をまといつつ老人の元へと戻る。老人は例のごとく杖に額を乗せたまま目を閉じてオッサンを見ない。オッサンは老人の座るベンチの脇を見遣った。メタボリックな自分が座れるだけのスペースはあるものの、はたしてこのベンチが2人分いや3人分の体重を支えてくれるのかどうかは確信が持てない。こんな状況で2人して仰向けに転がるなんてことは想像もしたくないが、といってこちらが相手を見下ろす形でいるのもまたマズいだろう云々、刹那ではあれオッサンは幾つかのことを大急ぎで思い巡らした。その間にも依然として老人からの通信は届かない。もうこれは座って、同じ空間で話をせざるを得ないだろうとオッサンは観念した。
 「失礼しますよ」と老人に軽く声をかけてオッサンはベンチに恐る恐る尻を置く。置いてしまってから先にごみを払えばよかったと後悔したがもう遅い。体重をかける。ベンチは案外と丈夫な様子だが、しかし背もたれに落ち着くのは危険すぎるとオッサンは背中を丸めたままにして両手を膝に置き、その窮屈な格好でフッとひとまずは安堵のため息をついた。しかしながら、この一連の緊迫した気分がオッサンの心を吹き過ぎてもなお老人は何も言ってこない。オッサンは片手の袖で額の汗をぬぐう。手に汗握る脂汗もあったが、なお進展しないこの状況への焦りもその汗のなかには含まれる。仕方がない。オッサンは自分から話を進めることにした。「自信は、そこからは来ないと思いますよ。」オッサンは上着のポケットに手を突っ込んでクシャクシャになったタバコの箱を出した。1本出そうとしてそのクシャクシャな箱の蓋らしきものをのけて見れば1本もない。何だよという渋い顔をしてオッサンはタバコの箱を握りつぶしポケットへ返した。やれやれとベンチの背へ身をもたれようとしてオッサンは立ち上がる寸前になる。危ない危ない。今たしかに背の板がたわんだ感触があった。せっかく拭ったオッサンの額にまたじっとりと冷や汗が浮かぶ。ふと老人の姿勢を見てオッサンは合点がいった。どうりで、この老人さっきから杖に額を置いていたわけだ。しかしこのちょっとしたハプニングが老人の口を割らせた。
 「後ろ、腐っていますから。」老人は相変わらず目をつむって額を杖に置いたままだが、しかしオッサンは老人の顔に少しく赤みがさして、よく見れば微笑みさえもしていることに気がついた。よかった生きてるとオッサンは心のなかで笑う。これで空気が変わったとオッサンは間を空けずに話を継いだ。「僕は、自信なんて意識したことないですが、行脚家業を続けてるのも実際なので。そんなものがあるのかもしれません。世間から見たらただのプーですからね。正しければ自信を持つのも難しくない。僕みたいに正しくないことを続けちゃうのが、実際は多いみたいですけど(笑)」かすかにゴーという音がして、見上げれば2人のはるか上空を旅客機が飛んでいく。青空を背景に真っ白な飛行機雲が旅客機のあとを追いかける。オッサンは目を老人に戻す。見れば、老人もまた杖から顔を起こして空を見上げているではないか。2人はしばし飛行機雲の行方を眺めていた。不意に老人が「どうしてでしょうなぁ」と呟く。オッサンは老人が話を継ぐのを生暖かい気持ちで見守る。ここで話が終わっては、また自分から話さなければならない。話はいくらもあるが、それらのほとんどはオッサンにとって痛いものだった。だから老人の口元がやおら動くのを見てオッサンは安堵した。
 「誰かがいたころは、楽しかった。」老人は杖を握りなおしその細い足を組んだ。オッサンはどこかこの老人に清楚な感じを抱いたが、今にして気づけばズボンに折り目がついている。くすんだ暗い灰色のラシャ地の裾には泥で汚れた形跡がある。歩いてんじゃんと、オッサンは心のなかで笑った。老人はもう話を継ぐことに躊躇がない。「若いひとたち風に言えば、需要があると言うんですか。正しいかどうかなんて、あまり考えなかったね。自分がかきたいものをかき、言いたいことを言った感じです。時が経つほどに、誰かは少しずついなくなった。就職したり家庭を持ったりして、心境も変わったんでしょう。身を置く暇がなくなって、あえて窓を閉ざしたひとも、少なくはないと思います。確かにそのころから、自信ということも考え始めた。」老人はオッサンのほうこそ見はしなかったが、杖に顎を置いてニッコリと微笑む。それから老人は誰言うともなくこう付け加えた。「誰かがいなくなるにつれて、私の自信もなくなった。」
 「いや、そうではないでしょう。」オッサンは顔だけ老人に向けて、はっきりとそう言った。「つまり……」何と言ったらいいのか。オッサンは無意識に時間稼ぎをして、膝に置いていた老人の側の片手を持ち上げ、表に返して見せる。「その誰かがあなたに自信をくれたんじゃなくて……。何て言うか、本来見るべきものを見ないから、自信持てなくなったんでしょう。」オッサンは老人の側のひじを膝に置いて、浮いた手は自分の顎へ持っていき、上体を老人のほうへと傾けた。「え?何て?」と、老人は杖の先からオッサンの顔を覗き込む。オッサンは微笑んでまた両手を膝に戻し、ベンチの背もたれにもたれそうになって慌てて身を引いた。オッサンはやれやれという風に軽く溜め息をして話を続ける。「あなたに自信をくれたものは、その誰かじゃないです。あなたに自信をくれたものが、あなたに呉れた自信に、その誰かが惹かれた。ん、ちょっとややこしいですね(笑)」オッサンは片手をあげて自分の後頭部をなでまわす。老人はオッサンは見ずに、前を向いたまま杖の上で「あなたはよく笑うひとだ」と言って微笑む。「でもいいです。分かったように思います。」と、老人は、恥ずかし紛れに空を見上げるオッサンの顔を見て言った。それから杖にすがってゆっくりと立ち、老人は小さな歩幅でオッサンに向き直って、「見るべきは、私が続けてきたことの理由のほうだったんですね。」と、少し顔を赤めて言った。どうやら、伝わったらしい。オッサンも老人に微笑み返す。老人は「では。」とオッサンにちょっと頭を下げて、ベンチを後にする。オッサンは生暖かい気分で、去っていく老人の小さな足取りを見守った。と、老人は公園を出て行きしなに、もうオッサンを振り返ることもなくこう言った。
 「私が長く待っていたのは、やはり、あなただったようです。」


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ぬくもり

2024年10月13日 | 小金井充の

 水面を流れる重油のようにネットリとした暗雲が、ワルププギスの夜を汚していた。魔女たちは消えない火に大鍋をかけて、何かを煮ている。気味の悪い甲高い笑い声が時折は聞こえるが、あとは何の物音もしない。消えない火の光陰が、魔女たちの黒い姿をせわしく動かすように見えはするが、実際は蝋人形のように固まって身じろぎもしない。しかし今、不意に魔女たちの目が見開かれ、そのしおれた腕をみな同じほうへ向けて伸ばし、伸ばしきるとなお体までをもそのほうへと倒しにかかる。実際、何人かの魔女たちはそのまま地面に倒れ伏して起き上がらなかった。
 無数の指という指が刺し示すその先には、ひとりのオッサンの姿があった。スナフキンのような帽子をかむり、上着もズボンもまた同じように垢じみた黒い緑色をしている。魔女たちの慌てぶりに対して、そのオッサンの当たり前のようにやって来る姿は印象的だが、魔女たちが何をしているのか分からぬと同様、そのオッサンも何しに来たのかは知れぬ。そもそも魔女たちが見えているのか、そのブツブツと煮えたぎる大鍋が見えているのかどうかもわからない。しかしようやく、オッサンが距離を縮めるにつれて、その片手には腐りかけの蕪を切り裂いて作ったランタンが、しなびた葉に続いて垂れ下がりブラブラと揺れており、その揺れは確かに、オッサンが意図して揺らしているのだということは知れた。魔女たちの視線はまさにその蕪の揺れに合わせて動揺しているから、オッサンと魔女たちとの間に理屈は通っているのだろう。
 「ジョン!」と、魔女たちのどこからかから、ひねり出すようなしわがれた声が出て、オッサンは立ち止まりウンウンとうなずいた。魔女たちの間にひとしきりざわめきが起きる。「まさか戻るとは」「まだ燃えている」「なんという図々しさよ」云々。魔女に図々しいと言われるほどのこのオッサンは、してみれば人の尺度では相当に図々しいということになろう。しかしそういう評判とはまったく似合わない真っ直ぐな瞳をあげて、オッサンはまた蕪を揺らして見せる。微笑みすらしない、至って真面目な顔である。「くたばれ」と魔女たちのどこからか声があったが、その反対側の魔女たちのなかからは「鍋の下の炭をやろう」という声がヒッヒッという笑いとともに起こった。オッサンはまたウンウンとうなずくと、煮えたぎる大鍋のほうへ歩いてくる。魔女たちが汚いものでも避けるようにして粘菌のようにヌラヌラと凹みを作り、鍋へと一直線に歩いてくるオッサンをその1個の大きな目玉だけで見送る。なおもオッサンは歩を進めて、ついに大鍋の下へとかがみこんだが、どうしたことかその手を炎のなかへ伸ばしても炭は取れぬ。目の前に燃え盛る炭があるというのに、つかんだ感触はあるが、手を引いてみると何もない。そもそも炎に焼かれても熱さを感じない。しかし頭上では何かがブッブッと煮えたぎっているじゃないかと、オッサンは口を半開きにしたまま顔を上げてみるが。しかしそういえば臭いもしない。オッサンの仕草を見て魔女たちが一斉にヒャヒャと笑う。コピペの文章のようにみな同じに笑うので、オッサンの耳にはヒヒャヒャヒヒと猿の威嚇のように幾重にも響く。オッサンは両手で耳をギュッと塞ぐが、しかしそこからは動かない。またかというように口をへの字に曲げて突っ立っているばかりだ。そうするうちにニュッと炎のなかから魔女のしなびた手が出て、消し炭のような消えかけをコロリと3つばかりオッサンの前へと転がした。オッサンはかがんで、これは手に取れるのだろうかと手を伸ばしたが。熱さに驚いてビクリとその手を引いた。途端に魔女たちの笑いは止み、まったく音のない空間が広がる。ただ無数のあの大きな目玉が、オッサンの引っ込めた指の先を穴があくほど凝視していた。オッサンは気づいたとばかりに、かの腐った蕪を引き寄せて、なかの今しがた燃え尽きた炭火のわずかな灰をふるい、魔女の手が転がしてよこした3つの消し炭の上へ蕪の裂け目を押し当てた。持ち上げれば消し炭は、蕪のなかの無限の闇かと思うその裂け目の空白のなかに鎮座している。これでよしという具合にオッサンはうなずき、あとはもう二度と大鍋のほうは見ずに、独りまたトボトボといずこかへ向けて歩き出した。見上げれば油を流した夜の空を、何か煌々と輝く点が、機敏に揺れながらこちらへと寄せてくる。何かガラスをキンキンと叩くような、かすかな音も聞こえるようだ。漆黒の地平の彼方からユニコンの団体さんが押し寄せる。オーグたちが1つ目をギョロリと光らせその逞しい腕に棍棒を振りかざしてユニコンに襲い掛かる。その1体が魔女の大鍋をひっくり返し、煮えたぎった赤黒い何かをかぶって魔女たちが悲鳴をあげるかと思えば、悲鳴は高らかな笑いへと変わり、魔女たちは1つの大きな影となってオーグたちを飲み込んでいく。そんなカオスな光景には興味がないとばかりに、オッサンはもう遠くへ行ってしまったようだ。今はもうオッサンの下げるジャックオーランタンの、かすかな光点が見て取れるばかりだ。
 薄明、高い山の頂に立って、オッサンは麓の村に灯るいくつものカボチャのランタンの、淡い光を見下ろしていた。自分の手の中にある不気味に裂けた蕪のランタンの、ほのかな温もりを感じながら。今なお自分が存在していることを、この腐った蕪だけが証明してくれているようだ。オッサンはまた歩き出した。どこへ行くともなく。


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あのころのワープロソフトの思ひ出

2024年09月27日 | 小金井充の

一太郎「おまえ昨日できる言うたやんけ!」
ワード「おまえはできないからなw」
一太郎「ちょ、おま…」
キング「まあまあ、ワープロ同士仲良くやりなよ。」
一、ワ「ワープロ言うな!」
ワード「ってか、ワープロ、まだ通じるのか。」
     |キ゛   フ
オープン「|αく。で・@よ!」
一太郎「はい?」
キング「ぼくもできるよ!」
ワード「読めるんだw」
キング「僕のおじいちゃん。」
一太郎(泣)「家族やないか!」
ワード「じゃあ俺はしなくていいな。」
一太郎「おっと、それとこれとは別やで。」
ワード「…。」
一太郎「またイルカ出して。」
イルカ「何が知りたいですか」
一太郎「お」
イルカ「そんなことは無理」
一太郎「お、しか打っとらんやんけ!」
キング「僕も手伝う!」
ワード「おまえはできないだろ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「花子!ひさしぶりやんけ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「元気してたか?」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「お」
花子「そんなことは無理」
ワード「あんたもか!」
キング「おじいちゃん、やる気満々だって。」
一太郎「分かる。やらかす気満々や。」
キング「おじいちゃん、分かってもらえてうれしいって。」
一太郎「もうワープロやないな。行間てw」
      П   ≡
オープン「 ノープ。ロう・!」
ワード「ワープロ言うな!」
オープン(泣)
キング(泣)「おじいちゃん、やっと読んでもらえたね!」
一太郎(泣)「よかったなぁ。」
ワード「あれ?」
一太郎「・・・。」
ワード「まーた。いいとこでフリーズすんだからなぁ。」

 

※各ソフトの名前は登録商標です。

ここだけでお楽しみくださいませ。禁転載。


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執務室にて

2024年07月08日 | 小金井充の

 暗い執務室に二人の老人が、おでこに深い深いシワを寄せて、向かい合って座っていた。
 「大統領」と、他方の老人が呼びかける。
 「ケイス君」と、大統領。
 ここで稲妻でも走れば、二人の老人の心境を形容しやすいのであるが。外は昨夜からの小雨が続くだけの、静かな暗い朝である。
 「私は昨日の夜、聞いてしまったのだ。」と大統領。執務席の前の接待用ソファに、脱力してのけぞる。
 「私は今しがた、大統領から聞きました。」と、ケイス君こと補佐官。大統領の向かいのソファで、顔を片手で覆って、長い長い溜め息をつく。
 「この世が終わるなどということが世間に知れたら……。えらいことになる。」大統領はのけぞったまま、両目を手のひらで揉む。寝不足なのだろう。
 「でも絶対、漏れますよ大統領。ノストラダムスやエリア51なら、オカルトで一蹴できますが。政府発表となると、話は別ですから。」ケイス君は、ソファに座ったまま両膝をかかえて、爪先立ちしたり、やめたりする。
 トントンと、執務室の厚いドアが鳴る。補佐官が応じると、ドアの向こうから白衣の聖職者があらわれた。これも相当な老練。
 「おお、サドバド卿。朝早くから申し訳ない。」立ち上がって、大統領はサドバドと呼ばれた品のよい老人と、しばし握手を交わす。
 「秘め事との補佐官のご注進がありましたので、人目を避けて参りました。」サドバドは静かに言う。左手のひとさし指の根元には、ダイヤモンドで縁取られた、大きなエメラルドの指輪が据えてある。
 「こちらへ。」補佐官は自席をサドバドに譲り、自分は大統領の隣に、やや距離を置いて座る。
 「サドバド卿、なにか、よい案はありませんか。」大統領は懇願するように身を低めて、斜め下からサドバドの顔を仰いだ。ケイス君も同じ心境のようだ。
 五千年の宗教の叡智は、悩める二人の子羊に微笑みかけると、うんと、うなずいて見せた。「公表しましょう。この世が終わることを。」
 えっ!と、大統領も補佐官も、ソファの背にのけぞった。二人とも、続く言葉がない。
 二人の様子を面白そうに見ながら、サドバドは腹の上に手を組んで、静かに言った。「この世の終わりが来るのを知って、なお苦しい目に遭おうという奴はいませんよ。」エメラルドがキラリと輝く。
 大統領と補佐官とは、二人同時にお互いを見合って、二人同時にサドバドのほうへ向いて、「なるほど」とつぶやいた。
 「終わりの日づけは、我々が決めるのです。我々の有利なように。」猫好きが猫をなでるように、サドバドはエメラルドをなでる。
 ケイス君は言う。「待っていれば終わると知れば、もうどうせ終わるんだから、細かいことを言う気にもならない。」
 「そうです。」とサドバド。
 「この世を終わらせる何かがあるとしても、その何かをしようという気にならない。」と大統領。顔はサドバドのほうを向いているが、頭の回転のせいで、ひとりごとのように言う。
 「そうそう。」とサドバド。「何もしなくても終わるんですからな。そこのところを、よくよく強調しておくべきです。」
 「ケイス君。これは、案外、簡単かもしれんぞ。」と大統領。暗い気持ちはどこへやら。
 「はい大統領。さっそく手配します。」と補佐官。年相応ながらもスッと立ち上がり、執務室を颯爽と出て行く。
 「サドバド卿、またあなたに助けられましたな。」顔もほころぶ大統領。思わず両手でサドバドの右手をにぎる。エメラルドを他人にさわらせたくないのは、大統領も知っている。
 「これも神のご加護です。」サドバドは左手で十字を切り、席を立つ。長居は無用だ。サドバドの手にくっついて、大統領も一緒に立ち上がる。なかなか離さない大統領。うまいところで電話が鳴る。
 「私だ。」失礼という手振りをして、大統領は執務席の電話を取る。そのすきにサドバド退場。
 「大統領、朝食のご希望はございますか。」と給仕のミス・デイビー。
 「ポーチドエッグにしてくれ。」と大統領。日常の電話が、日常を取り戻させる。大統領は執務席につき、愛用のペンを取って、いつもの朝のように、メモ帳にサインのためし書きをする。


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薫の場合

2024年06月20日 | 小金井充の

  汗に濡れた制服のすそを、初夏の風になびかせ、薫は、ポケットに手を突っ込んで、暗い路地を、ひとり、トボトボと歩いている。白い粉のようなものが、そこだけを照らすLEDの街灯の下を、薫は、うつむいたまま通り過ぎる。その顔は、深い疲労と、LEDの光で明暗が強調されたためとで、白い能面のように、無表情に見える。いくつかの白い粉のなかを過ぎて、薫は今日初めて、顔をあげた。行く手の角に、コンビニの明かりがある。薫は、仕事の間じゅう、帰りはコンビニに寄ることだけを、考えていた。今、薫の目の前で、スッと自動ドアが開く。流れてくる店内のニオイが、薫の目を覚ます。瞳に輝きが戻って、一直線に、薫はスイーツの棚へと歩み寄る。脇の小ぶりな買い物かごを、ほとんど見ることもなく手に取り、薫は、スイーツの棚の一点を凝視する。その顔がほころぶ。安堵の溜め息がもれる。誰に遠慮することもなく、薫は自分の手を伸ばして、昼間そのことばかりを想っていた、定番の菓子をそっとにぎる。売れてしまっていないか不安だった。それが今や、確かに自分のものなのだ。まだ買ってもいないが、心の中の何か張り詰めたものが、ほどけていく。二個目を手に取り、三個目に手を出したが、これは食べきれない。同じ過ちは犯すまいと、薫はあえて菓子から目をそらし、飲料のほうへ向かう。その菓子にはコレというものが、薫にはある。突然、薫は足早になった。そのコレというものも、また競争率が高いのだ。胸が高鳴る。冷蔵庫の棚を見上げたその先に、あった。薫は、思わず笑ってしまう。職場の誰かに会うという心配はない。だがもし会えば、たぶん、薫とは分からないだろう。息をしている。薫は思った。高校の嫌なプールの授業で、潜水の試験があった。あの水から身を出すときの必死さ。開放感。薫はあの日、自分が息をしているのを知った。会計をピッと済ませ、店を出る。なんだろうこの身の軽さは。部屋へ駆け込むことすらも、できるじゃないか。薫は、汗で濡れた制服のまま、机の上に菓子などを広げ、その前に座る。この光景を、昼間どれだけ空想しただろう。我慢なんかできやしない。ひとくち。甘い香りが、口と鼻いっぱいに広がる。んんんんっ!。そしてすかさず飲む。くぅぅぅっ!。「コレ!」と薫は言う。「コレ!」。全身に血が巡る。体が熱い。愉快だ。生きてると、薫は思う。一八〇に薫の年齢を掛ける。この世で薫が生きた時間。


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