おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

もろびとこぞりて

2024年12月25日 | 小金井充の

 イブの翌日だというのに、私は朝っぱらから、港にある刑務所まで、車を走らせていた。海岸通りの標識はみな、海側の半分は凍っている。空は大抵が白。そこへかすかな桃色が流れて、海をより一層、暗く見せている。こんな景色じゃ、道を間違ったって仕方がないが。しかし、その暗さのなかで、不定期にキラリと、彼方の標識が朝日に反射して、私の意識を掴む。お前の行く先はほかにない、と。
 接見が許されたのは、2時間前のことだ。当局にはこれまで、何度も接見を申し込んだ。死刑囚と対面するのは、そう簡単なことじゃない。いよいよ執行の当日になって、私はようやく、126号とだけ呼ばれる1頭の人狼と、対面する機会を得た。それがために、今こうして、車を走らせている。彼は別に、誰かをあやめたというのではないが。しかし、死刑に処せられることは、疑問の余地の無いことであった。
 建物のはるか手前のゲートで、FAXされた1枚の許可書を見せ、そこから一直線に円柱の建物本体へと続く、草むらも何も無い、ただ広く開けただけの吹きっさらしの道を、ひたすらに走る。時計に目をやる。あと1時間と35分しかない。刑の執行までに間に合うのか?。不安が胸をよぎる。
 円柱の建物本体はドーナッツ状で、穴の部分に、申しわけ程度の駐車スペースがある。指定されたスペースへ、円の半径に沿って車をきっちり止めるのは、思いのほか難しい作業だ。車を降りる先から、動物園のような獣臭がする。この人間工学に反した駐車スペースからしても、普通の刑務所ではないのだ。どこか上のほうで、力任せに鉄格子をギシギシ揺する音がする。見上げてはみるが、壁には同じ色、同じ形の凹みしか見えない。
 よそ見をしているうちに、音も無く分厚いドアが開いており、反応が遅れた私は、慌てて中へと駆け込むような格好になった。そのすぐ後ろで、分厚いドアが滑るように、音も無く閉まる。出られるのだろうか?。私はふと、不安になった。もしかしてこれは、私を捕らえるための…
 床に描かれる矢印に導かれて、私は地階をぐるりと歩いて、恐らくは、先のドアの反対側辺りにやってきた。あと1時間20分。気は焦るが、頭がついてこない。行く手の右側で、厚いドアがスッと開く。ここへ入れということか。私が踏み込むと、部屋の明かりがパッとついて、目の前のガラスの向こうに、126号がいた。
 「20分間の接見を許可します。会話内容はビデオとして保存されることを、あらかじめお知らせします。」天井のスピーカーから、ほとんど棒読みなメッセージが流れる。
 20分だと!。私はスピーカーに向かって拳をあげた。「約束が違う。執行直前まで話せるはずじゃないか。」
 「俺がそうした。」と、126号は言った。呟いたのだが、マイクの音量は十分だった。「もう話すことなど無い。」126号はそう言って、私を黙って見ている。
 私はガラスの前の席についた。見上げるような人狼の体は、泥にまみれたように汚れている。これが126号、市谷光男だった男の姿なのだ。
 「あと15分です。」抑揚の無い声が、天井のスピーカーから流れる。私は顔をあげてスピーカーを睨む。フフッと、市谷が鼻で笑う。下あごの尖った歯が見える。それは茶けて、輝きは無かった。
 もう時間が無い。私は口を開いた。が、言葉は出なかった。質問なれば、ノート1冊書き溜めている。その欠片すらも出なかった。この死刑になるほかない男に、いまさら、何を聞けばいいのだろう。ひとをあやめたというのでもない。私の調べた限り、法に触れることは何もしていないのだが、死刑になるほかないこの男。私はこの男に向かって質問すべきだろうか。質問する相手が違うのではないか。
 「あと10分です。」抑揚の無い声が告げる。気づけば、市谷はニタッと笑って、その獰猛な目で、私を睨んでいる。鋭い眼差しではあるが、その眼差しのなかに、私は黄疸の症状を見て取った。この男は、どのみち死ぬのだと、私は思った。このバネのようにしなやかな肉体の持ち主、生きることしか頭にない人狼が、ことのほか身の健康を思う人狼が、その目に黄疸をきたすという。いったい、どれほどの苦悩を経験したのか。
 「あと5分です。」抑揚の無い声が流れる。突然、126号は立ち上がり、私の頭上のガラスを、両手でバシンと叩きつける。私はもんどりうって、床へ転がった。縦一筋に、ガラスにヒビが走る。
 「うっせぇぞ!いちいち言うな!」荒い息をして、市谷は人差し指の汚れた鍵爪を、天井のスピーカーに差し向けた。
 「なぜ逃げない?」私は口走った。逃げない、だと?。口走ってから、私は、書き溜めた質問ノートの中身を、思い巡らした。そんな質問、書いた覚えはない。
 市谷だった獣は、今あげた手をぶらりと下げ、無防備な姿で、何か珍しいものでも見るような顔をして、私を見下ろしている。不意に目線を下げ、まるで何かを諦めたかのように、力なく床へと座ってしまう。投げ出された右の足には、ふくらはぎから股間にかけて、捕獲のときに負っただろう、深い傷跡があった。
 私は、その獣の、あまりの変わりように驚いて、縦一筋にヒビの入ったガラスに、かまわず両手をついて、その大きな体を見上げた。おそらくは聞き取れないほどの、小さな呟きだっただろうが。しかし、マイクが、十分にその呟きを増幅して、私の耳にまで届けた。
 「主は、来なかった。」私は確かに、そう聞いた。そしてそれが、人間だったこの生物の、記録では最期の言葉となった。


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雪遊び

2024年12月15日 | 小金井充の

 「何をご覧になっておいでですか。」

 「雪を観ているのです。」背の高い、ショートヘアーの、切れ長の、力強い眼差しを持つ、名も知らぬその女性は、そう答えた。

 「雪?」

 「ええ。」赤いマニキュアをした、白い両手で、浅黄色のパーカーのホロを脱ぎ、女性は顔をあげて、真っ暗な夜空から、しんしんと降りる雪を、見上げた。

 「僕を、振り向いては、くださらないのですね。」

 「ええ。」女性は、赤いマニキュアの手を伸ばし、軽やかに、一歩踏み出して、まっすぐに落ちてくる、雪を手にする。足元で、キュッと、雪が鳴る。

 (なるほど、僕は、雪ではあるまい。)

 「冷たい雪。温かい雪。」女性は両手で、雪をとらえ、その両手を交えて、いとおしそうに、雪をめでる。

 「止みそうもない。」

 「止むものですか。そら。」女性は、また手を伸ばして、雪をとらえる。

 (実際、止むことはないのだ。)

 「赤い雪。青い雪。」両手のなかで、マリを抱くようにして、女性は、雪を転がす。

 「楽しそうだ。」

 「楽しいですわ。」ぱっと、女性は、両手を空へと開く。色とりどりの雪が、吹雪のように、闇に散る。

 「本当に限りがない。」

 「ひとの想像は無限ですわ。」ふっと、女性は、膝の高さで、ひと粒の雪を、受け止める。

 「見つけましたね。」

 「ええ。あなたは?」そのひと粒の雪を、大切に両手で抱えて、女性は、闇のなかへ、歩き出す。

 「歩いてゆけるのですね。あしたへ。」

 浅黄色のパーカーの裾が、しゃらんと揺れて、女性の姿は無く。
 僕は動転して、振り返る。
 あちら、こちらで、沢山のひとたちが、雪のなかに、手を差し伸べている。

 (ひとの願いもまた、無限なのだな。)

 茶色のコートの、襟を合わせて、僕は、冷たい真冬の空気のなかを、無限に、歩いていった。


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真心 - まごころ -

2024年11月26日 | 小金井充の

アナウンサー伊丹「見えました!みなさん!滑走路に止まったままの、小型ジェット機をご覧ください!今、太平洋300キロ沖合いにある、地図にない島から、今、クラウドン、アメリカ臨時大使に先導されて、あっ!、白い長い髭をたくわえたお爺さんの顔が、今、飛行機の中から、あらわれました。臨時大使は、タラップを降りながら、出迎えのひとたちに、しきりと手を振っております。お爺さんは、や、まだ、タラップの上にいます。まっすぐ前を見たまま、動きません。肩まではあるでしょうか。長い白髪が、時折、風に揺れています。」

解説斉藤「あれは、外務省の長井政務次官でしょうか。」

アナウンサー伊丹「一歩進み出て、あー、今、クラウドン臨時大使と、固い握手を交わしました。振り返って、あっ!、大使が、タラップを駆け上がって行きます!。早い!。お爺さんの背中に手を置いたようです。大柄の、はつらつとしたクラウドン臨時大使と比べて、お爺さんはかなり小柄に見えます。今!、お爺さんは、大使に伴われて、一歩一歩、タラップを降り始めました。斉藤さん、なぜ、アメリカの臨時大使が、付き添っているのでしょうか。」

解説斉藤「はい。お爺さんが来た島、オレガノというコードネームで、仮に呼ばれている島は、位置としては、アメリカ合衆国の一部です。それで、アメリカの臨時大使に、エスコートされて来たようです。」

アナウンサー伊丹「オレガノ…。何か、植物にありますね。」

解説斉藤「はい。香辛料の一種として、ドレッシングなどにも入っていますが…、その香辛料のことなのか。資料には、カタカナで書かれてあるだけですので、実際の意味や、発音のイントネーションなどは、分かりません。政府のなかでは、そのオレガノだと思って発音するひとが一般的です。しかし、俺、私がの、というニュアンスで発音するひとともまたいます。」

アナウンサー伊丹「ニュースとしては、困りますね。オレガノ。俺がのぉ。どっちでしょうか。」

解説斉藤「のぉとは伸ばしません。オレガノッです。政府としては、太平洋方面の国際情勢に詳しい、高尚国際大学の榊原名誉教授を交えて、近く、有識者会合を開き、共通の見解を求める予定になっています。実は私も呼ば」

アナウンサー伊丹「今、お爺さんと、長井政務次官とが、握手を交わしました。そのまま、次官の先導で、待機している車に、乗り込む、今、乗り込みました。東洋人に近い顔立ちですね。」

解説斉藤「はい。資料によりますと、遺伝子解析によれば、島のひとたちは、遺伝子的に、東洋系とのことですが。エッしかし、長い間、ウォールハード・コングロマリット社の、個人的な資金提供によって、文明から隔絶されてきた島ですので、住民に対する、公式の調査結果などは、一切、知られていません。」

アナウンサー伊丹「そんな島が、この現代、本当にあるんですか。市販の地図にも、載っていないようですが。」

解説斉藤「政府は先ほど、衛星写真に、しかるべき処理がなされていたことを、公式見解として、発表しました。市販の地図の多くは、衛星写真に基づいて作成されていますので、載っていないですが。実は私、載っている地」

アナウンサー伊丹「スタジオ、それは本当ですか?。スタジオどうぞ。えー。この場で、お爺さんの会見があるそうです。中身については、まだ申し上げられません。間もなく」

解説斉藤「申し上げられない?」

アナウンサー伊丹「……。」

解説斉藤「いや、どうぞ、続けてください。」

アナウンサー伊丹「間もなく、車内から、音声での会見が、オッ伝えできれるかと思います。ラジオの前のみなさま、今少しお待ちください。」

同時通訳風見「日本のみなさま。」

解説斉藤「日本語ですね?」

同時通訳風見「私は逐次訳を勤めます、根地大学東部太平洋言語圏研究室の風見と申します。なにぶん、政府からの急な要請で、さしたる準備もなく、通訳にあたらせていただきますので、不明瞭な点もあるかと思います。マスコミ各社には、追って、正確な訳出を、文章で提出させていただきますので、ご了解ください。イベ、プリンスキトナ」

アナウンサー伊丹「今、何かの、聞いたことの無い、あるいは、ラテン語のような外国語でしょうか。おそらく、現地の言葉だと思いますが。斉藤さん。」

解説斉藤「私も、初めて聞く言葉です。二十七年、この仕事に」

同時訳風見「リアリー?」

解説斉藤「今度は英語だ。」

アナウンサー伊丹「クラウドン臨時大使との、会話の一部のようです。」

同時訳風見「Oh…」

アナウンサー伊丹「何か、深刻な内容のようですが…」

同時訳風見「日本のみなさん、お伝えします。このかたは、来たる九月二十七日に、非常に大きな災害が、太平洋沿岸の国々を襲うということを、ご覧になったとのことです。」

解説斉藤「ご覧に?未来のことを?あはは。そんな…」

同時訳風見「今、クラウドン臨時大使から、背景をうかがいました。メイ アイ スピーク?。」

解説斉藤「誰と話しているんでしょう?」

アナウンサー伊丹「おそらく、クラウドン臨時大使と、会話しているものと思われます。」

同時訳風見「お許しを得ましたので、このかたについて、お話します。このご老人。現地では、見知らぬひとたちに、名前を知られるのを恐れますので、仮に、ご老人とします。このかたは、アメリカの国内、国外に対する政策について、その当初から、有意な未来の情報を、もたらしたかたです。メット大統領暗殺事件や、西海岸大震災など、このかたの情報によって、影響を最小限にすることができた。そうした実績をお持ちのこのご老人が、たっての希望で、日本への渡航を、決意されたとのことです。ア マッカチヨ ンナ」

アナウンサー伊丹「現在、同時通訳を務める、根地大、東部太平洋言語圏研究室の、風見上席教授と、お爺さんとの会話が、続いているようです。」

同時訳風見「通訳します。日本のみなさん。このような悲しい出来事を伝えに来るのでなければ、噂に聞く素晴らしいこの国に、喜んで訪問できたでしょう。しかしあと、ひと月もしないうちに、この国ばかりか、世界中で、もはや、お金は使えなくなります。ものを買うことも、売ることもできなくなり、みなさんの歴史は、終わってしまいます。予兆はす」

解説斉藤「揺れてる?」

アナウンサー伊丹「緊急地震速報です。緊急地震速報が発令されました!。震度6程度の揺れが予想され、震源は日本海溝付近で、あ、今、今、空港の一室のこの部屋も、揺れていま。大き!すな!みなさん机の下に隠れ!かく!」

解説斉藤「痛!」

アナウンサー伊丹「音声!逃げるな!マイクよこせ。下から!。失礼しました。現在まだ、んふ…、現在まだ、揺れが続いています。真下から突き上げる、非常に大きな揺れ。スタッフが複数、落下物に当たり、負傷しております。今、窓の外を見ますと、あっ!、空港の下から、大きな亀裂が、小型ジェット機の真下に、できています。出迎えのひとたちが、散り散りに逃げています。しかし、しかし、お爺さんの乗った車は動きません。風見さん、大丈夫ですか。風見さん、音声入っておりますか。」

同時訳風見「はい。入っております。」

アナウンサー伊丹「そちらは、んふ…、大丈夫でしょうか。かなり大きな地震でしたが。」

同時訳風見「先ほどの会話のなかで、ご老人が、地震のことを教えてくださいました。それで身構えることができました。こちらは大丈夫です。」

アナウンサー伊丹「お爺さんの話、具体的に聞いて。風見さんに。」

タイム西脇「申しわけありません。アナウンサーも負傷いたしましたので、ここからは私、西脇がお伝えします。タイムキーパーをしておりまして、アナウンサー職ではありませんので、お聞き苦しい点はご了承ください。速見さん、ご老人から地震の話があったという話ですが。具体的にはどんな?」

同時訳風見「風見です。会話の途中で、急に黙られて、今、悪魔が用事をたしに来るが、この車は大丈夫だと。」

タイム西脇「失礼しました。風見さん…」

アナウンサー伊丹「悪魔。んふ…、悪魔について聞け。」

タイム西脇「風見さん、悪魔とは、地震のこと?」

同時訳風見「そうだと思います。直後にこれですから。」

アナウンサー伊丹「会話の中身!」

タイム西脇「会話の中身を、聞かしてください。」

同時訳風見「ミ?。シュア。すみません。このような状況なので、会話の内容は、追って正式に文章でお伝えしたいと。」

アナウンサー伊丹「スタジオ。局に返して。もうここは無理だ。」

タイム西脇「それでは一旦、スタジオにお返しします。風見さん、ありがとうございました。」

同時訳風見「ありがとうございました。」

地学者井上「ノボル、USGSから遠隔地のチャートは来たか。」

院生ノボル「はい。来てマス、ガ…」

地学者井上「ガ、って何だ。振幅、計ってみてくれ。」

院生ノボル「出てまセンね。」

地学者井上「出てない?。まーた、日付け間違ってるんじゃないのか。どら。」

院生ノボル「ニホンの日付け、私の国と逆デス。でも慣れマシタ。」

地学者井上「ほんとだ。何でだ?」

院生ノボル「ワッカリマセーン。初めてデスね。」

地学者井上「国内で一番遠い井戸はどこになる?」

院生ノボル「この方向からデスト、ココ、ホッカイドの、ハーマ、トーンベーツーです。出しまスか。」

地学者井上「何だこれ…」

院生ノボル「小さいデスね。減衰、シちゃっタでショかね。」

地学者井上「……。」

院生ノボル「ドしました先生?」

地学者井上「またか…。」

院生ノボル「ア、科長サン、こんにちワ。お世話になってイいます。先生、ドア。科長サン来られました。」

科長玉井「先生、ちょっと、学長室までいらして。」

地学者井上「学長?。はい。すぐに。」

院生ノボル「時系列ヲ、出しておきマス。」

地学者井上「おい、背広どこやった?」

院生ノボル「会議のままジャないでしょカ。お車のなか。」

地学者井上「そうだ。あのままだ。助かるよ。時系列が終わったら、あさっての、地熱発電所のスライドも、見ておいてくれ。どこか二枚、抜かなきゃならん。」

院生ノボル「ワかりまシした。いってラしゃい。」

地学者井上「おぅ。叱られてくるわ。」

院生ノボル「ハハハ。ダイジョブです。」

科長玉井「その格好のままでも、かまいませんよ。」

地学者井上「いや、こんなシワシワのままじゃ、格好がつきませんよ。すみませんが、チョッと時間をください。車に背広がありますんで。」

科長玉井「ドアを閉めてくださる?」

地学者井上「ええ。そのほうがいいでしょう。あと頼むなノボル。」

院生ノボル「ハイ。まかシてくだサい。」

科長玉井「急でごめんなさいね。」

地学者井上「いえ。前にも何度か…。地震のことですね。」

科長玉井「お分かりなのね。」

地学者井上「まあ、これで飯食ってますからね。学長からお呼びがかかる時は。」

科長玉井「今回は、それだけじゃないみたいよ。」

地学者井上「え?。どういうことです?」

科長玉井「さあ。でも、もうこの大学でお会いすることは、無いかもしれないわね。政府のかたが、いらしてたわ。」

地学者井上「そんな…。この大学は、居心地がいいんですよ。機材も古い。僕の年代のものだから、使い勝手がいいんです。馴染みの食堂のおばちゃんもいるし、昔からの飲み屋もある。住み心地と学問的成果とは、比例関係にありますから。なんとか、どうか、ここに居させてもらえませんか。」

科長玉井「それは、わたくしには判断できませんわ。ともかく、学長室へいらして。みなさんを待たせるのは、得策ではないでしょう。」

地学者井上「分かりました。では、この格好のままで、駆けつけるとしましょう。」

学長「あ、また。そんな格好で。」

地学者井上「え?。ほら。科長…。」

科長玉井「学長、お急ぎのようでしたから、わたくしから、先生にその格好のまま、急いで来られるようにと、お伝えいたしました。申しわけございません。」

学長「それなら。政府のかたが来られてるんだが、仕方がない。まあ先生、お座りなさい。玉井さん、悪いけど、席をはずしてくれないかな。」

科長玉井「承知しました。御用がありましたら、お呼びください。」

学長「またたのみます。さあ、先生、お座りなさい。こちらが、文科省の得田参事。そのお隣が、内閣情報室の高井次官補。」

高井次官捕「地震のことで、取り急ぎお訪ねしました。すみません、急いでいるものですから。学長さん。」

学長「いや、かまいません。どうぞ先を。」

高井次官捕「ありがとうございます。先生、すでに、あの地震の解析に、入られていると思います。見立ては、いかがですか。」

地学者井上「爆弾です。」

得田参事「ほら。バレてるよ。どうするかね、高井さん。この先生ほど勘が働かなくても、世間の地学研究者らだって、近いうちに気がつくね。」

高井次官捕「だから、こうして急いで来たんですよ。」

地学者井上「あの、」

高井次官補「なんでしょう?」

地学者井上「今回は、難しいと思いますが。初手でこれだけ報道されてますし。」

得田参事「私もそう思う。だいち、東京と札幌とで、揺れが違い過ぎる。地殻の不連続性とかいう、私らにも意味の分からんことを言って、やり過ごすには、証拠が多すぎるだろう。」

高井次官捕「いえ、それは、それでいいんです。あの老人の実力を思い知る、この国で最初の事例になればいい。」

得田参事「だって、あれじゃ、あらかじめ知ってたって、言われかねない。失敗だよ。長井君も可哀想だ。誰も知らせてやらないんだから。」

高井次官捕「万歳して逃げ回ってましたね。中継で観ました。臨時大使は?」

得田参事「声明が出次第、爺さん連れて帰るそうだよ。ウォールストリートのひとだからね。本業が忙しいんだろう。謎は多ければいい。」

地学者井上「え。じゃあ、あの地図にない島というのは?」

得田参事「無いよ?今時、金持ちならどこへでも行けるんだもの。下手すりゃ、うちらより解像度のいい写真撮って、ネットにあげちゃうからね。」

地学者井上「……。」

高井次官補「どうされました、先生?」

地学者井上「どうして、そんな話を、私の前でなさるのですか。あらかじめ申し上げておきますが、私は、この大学を去るつもりは、ありません。」

得田参事「へ?、いや、そんな話をしに来たんじゃないですよ。誰からお聞きになったか知らないが、先生は、この大学におられるのでしょう。ねぇ学長さん。」

学長「無論です。ただチョッとばかり、身だしなみには、注意して欲しいですが。」

高井次官補「ははは。やられましたな先生。」

地学者井上「いや、これはどうも…。」

得田参事「そろそろ、用件に入りますかな。実は今回は、先生に、やる側に回っていただきたいんです。」

地学者井上「やる側?、と、おっしゃいますと…」

高井次官補「爆弾を仕掛ける側です。」

得田参事「おいおい、高井さんそれは、ストレート過ぎるよ。」

高井次官捕「昔の学者相手に、どんな言いかたしたって同じでしょう。や、これは失礼。昔のというのは、経験あるという意味です。」

地学者井上「余計な経験ですね。」

得田参事「まあ先生、そうひがむことはないです。私らは、先生のご実績に、全幅の信頼を寄せてます。そしてそういう研究者、いや、学者はもう、先生くらいしか、おられない。だからこうして、お願いにあがったのです。」

地学者井上「お願いというより、出来レースですな。」

得田参事「さすが先生。理解がお早い。これから先生のなさることが、世界を救うのです。いや、真面目な話です。非常に特殊な方法で、今回しか使えないような方法ですが、今は、これ以外にない。」

地学者井上「どんな方法ですか。それは。」

高井次官補「もちろん、お話します。先生は同志だ。地震波の解析では、たびたび、お世話になっています。」

地学者井上「同志、というより、共犯者になれと?」

得田参事「そうです。ねぇ先生、ひとには、たまに、やらなきゃならないことが出来る。そういう時代に生まれなければ、そんなこともないでしょう。私は、自分がこの時代に生まれたことを、呪いますよ。」

アナウンサー伊丹「先に、アメリカのクラウドン臨時大使に伴われて来日した、あのお爺さんと、根地大、東部太平洋言語圏研究室の、風見上席教授との会話の、正式な通訳文が、報道各社に配布されました。驚くべき内容ですが、そのまま、みなさんにお伝えします。『すでにお話したように、来たるべき九月二十七日、赤い雨が降り注ぐそのときに、太平洋沿岸地域全域を、非常に大きな災害が襲います。今回のような、爆弾などを使って、人の手で起こせる規模をはるかに越える災害が、多くのひとびとの幸せな生活のみならず、すべての国家の営みをも、一瞬のうちに、そしてまた継続的に、破壊し尽くすでしょう。もしもそれが、私たちの未来として定められたものであれば、私がこの麗しい国に来ることはなかった。この災害に対して、できる備えはありません。あの地下鉄工事の祭典で披露されたように、みなさんは文明を奪い取られ、再び、シャーマニズムの時代に戻るのです。しかし、それで終わりではありません。確かに、時間はかかります。ですが、その時間の先に、新たな文明は拓かれる。私がお知らせしたかったのは、このことです。当然、現在の文明とは、大きく異なるものになる。現在のような貨幣制度や経済活動は、もはや、失われてしまうのです。しかしその時、今の文明にまさるものが建つのを、私ははっきりと見ました。希望はあります。ただ、まずは、現在の文明を、清算しなければなりません。災害までに、できることはある。そのことに、みなさんに気づいてほしいと思います。それが、幸せに至る道なのですから。みなさん一人一人が、悔いのない終末を迎えられるよう、祈っております。』以上です。斉藤さん、これは…、どう思われますか。」

解説斉藤「二十七年間、解説の仕事をしてきましたが。さすがに、こんなことは、経験がありません。あの謎の老人が、ペテン師であることは、十分に考えられる。実際、あの日の地震だって、公のデータをもとに、ネットでは、作為的な可能性について、激しい議論が巻き起こっていますね。このことを、私たちに信じ込ませるための、演技だったと。」

アナウンサー伊丹「コメンテーターの間でも、人為説や、あのお爺ちゃん、実は存在しない人物なのではないかという説を、支持するひとは、多いと聞きます。」

解説斉藤「ええ。公の立場から、そうした見かたを支持するという発言は、今もありません。ただ、私、気づいたんですけれどもね。」

アナウンサー伊丹「斉藤さん、何に、気づかれましたか。」

解説斉藤「アメリカの、これは公式文章で確認できるんですが、実在する臨時大使が、直々に、存在しないかもしれないあの老人を連れて来た。それは、実際に起きたことです。よしんば、これらの出来事が虚構だったとしても、私のこの額の傷は、まぎれもない事実ですし。」

アナウンサー伊丹「私はあの日、転倒したところへ重い機材が落ちてきて、あばら骨を折りました。機材がどけられるまで、寝そべったままお伝えしたので、ラジオの前のみなさまには、お聞き苦しい点があったかと思います。」

解説斉藤「これまで、いわくつきの出来事は、沢山起きましたけれどもね。私自身の、この身に被害が及んだのは、これが初めてなんです。もう、どこか遠くの出来事ではなくなったということに、私は気がつきました。」

アナウンサー伊丹「また地震速報です。予想される震度は6弱。震源は太平洋沖。広い範囲が揺れる可能性があります。ですが、地震の到達まで、まだ30秒ほど時間があります。火を使っているかたは、火を消してください。落下物の心配のない場所であれば、無理に動かないでください。丈夫な机などがあれば、その下に隠れて、落下物を防いでください。今、スタジオも揺れ始めています。天井のライトが、大きく揺れています。」

解説斉藤「この前よりも、穏やかですね。」

アナウンサー伊丹「スタジオの揺れが、おさまってきました。続いて地震が起きる可能性もあります。不安定な場所にいるかたは、今のうちに安全な場所へ移動してください。これ?。はい。警報です。気象庁から、津波に関する警報が発令されました。太平洋側全域に、津波警報が発令されています。船の様子などを見に行かないでください。また、津波が川をさかのぼる可能性があります。水田や道路の様子を見に行かないでください。」

解説斉藤「この前は津波なんてなかった。」

アナウンサー伊丹「西日本の太平洋側沿岸に、大津波警報が発令されました。沿岸のお住まいのかたは、ただちに高台へ避難してください。震源のマグニチュードは8.8。これは暫定値です。アメリカの地質調査所の発表では、震源地はハワイ沖。当初お伝えした震源域が、変更になっています。現在、ハワイの短波ラジオ局からの送信が止まった状態です。また、インターネット上の情報によりますと、ハワイに拠点を置く複数の企業のホームページが、現在、閲覧できない状況だということです。今入りましたニュースです。東京日比谷の帝国ホテル前から、銀座、和光の時計台付近までの道路沿線に、多量の紙幣が散らばっているのを、警戒中の警察車両が発見しました。今現在、何者かが時計台に登り、上から紙幣を撒いているという情報もあります。現地にリポーターが向かっていますが、地震の混乱で、渋滞が発生しており、到着次第、現地から状況をお伝えする予定です。」

得田参事「長井君、元気にやっているようだね。」

高井次官補「あのひとはもう、何がなんだか、分からなくなってしまったんですよ。」

得田参事「え?、じゃあ、あれは長井君個人のカネなのかい?」

高井次官補「いやぁ、まさか。機密費から出ているはずです。」

得田参事「そう願うよ。バラ撒きはバラ撒きだが、世帯に配るのとじゃ、カネの動きがまったく違うからね。」

高井次官補「ええ。火がつくまでは、何度でもやるでしょう。しかし、いいタイミングで、本物の地震が起きたもんです。あの先生、腕は確かですね。」

得田参事「ああ。思えば、あのひとも、時代に召されたひとなのかも知れないねぇ。研究者ならば、腐るほど居るが。ああいう学者はもう、けっして、この世には生まれまい。」

高井次官補「お昼ですね。」

得田参事「ん。私はソバだ。君もどうかね。」

高井次官補「お供しますよ。どこです?」

得田参事「境ビルの地下の、新しい店だ。天ぷらが美味い。今月はな、懐が寂しいんだ。妻が特老に、転院になってな。もう私のことも…。」

高井次官補「聞いていますよ。お察ししますよ。」

得田参事「ありがとう。私の車で行こう。待たせてあるから。」

地学者井上「核が、あんなちっちゃな爆弾が、どうしてあんなに、大きな物理的破壊力を持つのか、考えたことがあるかい。」

院生ノボル「爆発スルと、とてもアッツイです。大気ガ、温められて、沢山、膨張スル、ので、建物などヲ、押し倒しマス。」

地学者井上「だけど、火球の半径は、せいぜい数十メートルだ。そのなかにある空気の量なんて、いくら膨張したところで、たかが知れている。あっという間に、真空に近づいて終わりだ。問題はな、そのあとだよノボル。そのあと、どうなる?」

院生ノボル「核反応ガ終わるので、冷えマス。」

地学者井上「そうだ。急激に冷えるな。すると、どうなる?。ポッカリ開いた真空の穴だ。」

院生ノボル「周りの空気ガ、流れ込むでしょう。」

地学者井上「この前の座談会の余興、覚えているか?。換気扇の話。あんな小さな扇風機で、どうして、部屋全体の空気が動くのか。」

院生ノボル「ハイ。空気ノ粘性や、慣性ガ、周りの空気ヲ引っ張りマス。」

地学者井上「そのために、何が必要だった?」

院生ノボル「窓ヲ、チョット開ける、デス。」

地学者井上「そうだ。初動は、換気扇の吸い出す能力しかない。換気扇が作れる気圧差以上の空気を、供給してはダメさ。つまり、どんなに小さな換気扇でも、どうにかして気圧差を作ることができれば、空気を動かせる。動けば、あとは雪崩式に、周りの空気がその周りを引っ張る。」

院生ノボル「ナルホド。冷えた火球ガ、換気扇デスね。」

地学者井上「そうだ。そして、そこに引き込まれる空気の量は、限りがない。無限にある。爆発で膨張する空気の量とは、比べ物にならない量の空気が、引きずり込まれる。核はな、火球が冷えたあとの、吹き戻しの風がヤバイ。戦時中の、核実験の記録フィルムを観る機会があったら、注意して観るといい。」

院生ノボル「それガ、何か?。津波のハナシ?。ア、そうか。なるほどデス。」

地学者井上「だから、隆起型の津波よりも、沈降型の津波のほうに、注意する必要がある。逆に言えば、海底を大きく陥没させられれば、地震はともかく、自然に匹敵するほどの、大きな津波を作ることができるわけさ。」

院生ノボル「コワーイですネ。デモ、難しいデス。そんな、大きな陥没ヲ、引き起こすのは、無理でしょう。」

地学者井上「ノボル、飛行機が、どうして飛ぶのか、知っているか。」

院生ノボル「ソレ、私、ネットで見ましタ。結局ワ、よく分からない。」

地学者井上「例えば、ジャンボジェットはな、機体全体の上下に、0.3気圧の気圧差をつくることができれば、浮くんだ。そのために、あんなに走らなきゃならない。わずか0.3気圧だと言えば、簡単なようだが。300ミリバール以上。今は、300ヘクトパスカル以上だな。下げなきゃならない。700ミリバールなんて数字、巨大台風でも、見ない数字だ。自然の真似など、はなから無理な話さ。でもな、原理は同じなんだ。あとは工夫だな。」

院生ノボル「他力本願デスね。」

地学者井上「飲み込みが早いね。ノボルだったら、核をどう使う?」

院生ノボル「ンー。地中デ、爆発させマス。高温デ、岩石ヲ溶かせマス。空洞になりマスね。」

地学者井上「それだって、半径数十メートルに過ぎない。私なら、マグマの抜け殻を使う。まだドロンしてない、鍋状に天井が落ちていないやつをな。」

院生ノボル「古い海山列に、あるカモですね。コワーイ。先生ワ、マッド・サイエンティストです。」

地学者井上「でもな、実際には、そんなことは不可能なんだ。」

院生ノボル「ナゼ?。理論的には、可能と思いマス。」

地学者井上「俺が、やらないからだ。」

院生ノボル「ハハハ。ア、先生、もう、お昼デスね。私、ハマのラーメン食べマス。行きます。先生、行きませんか。」

地学者井上「なんだ、今月はリッチだな。宝くじでも当たったのか。」

院生ノボル「銀座で、拾いましタ。内緒ですヨ。」

地学者井上「ああ…。弱ったな。なんて言えばいいんだ…。」

アナウンサー伊丹「しかし、驚きましたね、斉藤さん。外務省の長井政務次官が、こんなことで逮捕されてしまうとは。」

解説斉藤「許可無く、時計台に立ち入ったことが、逮捕の原因です。お金を撒いたということが、逮捕の原因ではないですね。」

アナウンサー伊丹「心神耗弱ということで、不起訴処分になりましたが。役職についての処遇は、今後、どうなるでしょうか。」

解説斉藤「党本部で、対応を検討しているようですが。まず本人に、続ける意思があるのかどうかでしょう。撒いてしまったお金も、回収する意思がないようですし。」

アナウンサー伊丹「警察のほうでも、遺失物としての扱いをするのかどうか、対応に苦慮しているようですね。」

解説斉藤「落し物であれば、当然、遺失物としての扱いになりますが。今回は本人が、ご自分の意思で撒いたわけでしょ?。譲渡になるのか、寄付になるのか。寄付というか、喜捨ですかね。拾われる前提で撒いたのかどうかも、争点になっているようです。」

アナウンサー伊丹「結論が出ないまま、使ってしまうひとも、続出しているそうですね。」

解説斉藤「なかなかの問題ですね。法律のほうで結論が出れば、扱いも決まるんですが。今はまだ、いわゆるグレーゾーンですからね。こんな、世間を騒がせるようなことをしなくても、我慢してきた自分の楽しみのために、使えばいいんですよ。」

アナウンサー伊丹「斉藤さんは、何か楽しみのためにされたんですか。」

解説斉藤「ええ。私は、とっておきのウイスキー、元町二十二年を開けましたよ。タンスに仕舞っといたって、もう、しょうがないじゃありませんか。伊丹さんは、何か?」

アナウンサー伊丹「私は車を買い替えることにしました。では、これまでに入ってきたニュースを、まとめてお伝えします。(チャイム)ドイツのザクセン市で行われた、各国の中央銀行の代表者による臨時会合は、予定通り、利下げをする方針で合意し、閉会しました。これは市場への、資金流入の順調な拡大を受けて、この流れを、さらに、ゆるぎないものとすべく、全会一致で採択されたものです。今後、住宅ローンや就学ローンが組みやすくなるなど、日常生活への負担を軽減する方向での、経済的な良い影響が期待されます。(チャイム)個人消費の伸びを受けて、白物家電業界で作るホワイト・ナイト・クラブは、ひとつ前の製品、いわゆる型落ちした冷蔵庫や洗濯機などを、現在の販売価格の半額から、七割程度値下げして販売する、期間限定のセールを、来月から、全国の加盟店で一斉に開催することで合意しました。日時や、商品の詳細については、お近くの加盟店のホームページなどで、ご確認くださいとのことです。(チャイム)今日、お昼前、長野県中区美々の県道脇の、民家に続く小道で、七十八歳のお年寄りの女性が、この女性の親族と思われる二十三歳の無職の女性に、後ろから押し倒され、バッグに入っていた現金を奪われる事件がありました。無職の女性は犯行を認めています。供述によりますと、お年寄りと、この女性とは、二人で暮らしており、収入はなく、お年寄りの、いわゆるタンス預金だけが、生活の資金だったとのことです。お年寄りが、突然、自分のために使うと言って、タンス預金を全額持ち出したために、この女性が慌てて取り押さえ、奪った現金は、元通りタンスに仕舞ったとのことです。警察では、お年寄りの女性を、背後から押し倒したことについて、虐待にあたるのかどうかを視野に、捜査を進めています。斉藤さん、こうしたタンス預金をめぐる、身内の間での争いごとが、このところ増えているようですね。」

解説斉藤「はい。タンス預金だけに限らず、自分の貯金を現金化して、自分の楽しみに使おうとするのを、家族が止めに入るという形の事案が、全国のみならず、世界的規模で、頻繁にニュースになっています。国内だけでも、タンス預金の総額は、六十兆円とも言われています。それだけの金額が、今、市場へ戻ろうとしているんですから、こうした痛みを伴うのは、避けられないのかもしれません。私たちが初めて経験する、お金の流れですからね。」

アナウンサー伊丹「どうせなら、自分だけでなく、家族とパーッと使うほうが、楽しいんじゃないでしょうか。」

解説斉藤「そうですね。パーッと。」

アナウンサー伊丹「それではみなさん、よい週末をお過ごしください。」

得田参事「産経省の試算を見たかい?」

高井次官補「ええ。予想外の数字で、驚きました。これならば、赤い雨も必要はないですね。」

得田参事「民衆の力だよ。それだけ鬱憤が溜まってたんだ。タンス預金を表に出したいが、どうやって出したらいいかが分からない。そんなモヤモヤが、爆発したんだ。私らには予想外。とはいえ、国民には、いい機会になったじゃないか。」

高井次官補「ご存じですか。あの学長、退職して、科長さんとバカンスの最中だそうですよ。」

得田参事「どっちも、独身で通した身だからね。そのくらい、報われてもいいじゃないか。それより、あの先生と、ノボル君だったかな、外人の院生の始末は、どうするんだね。」

高井次官補「国内に留まり、国に貢献する限り、面倒は見るという、上の決定です。あの院生については、すでに、国籍取得の手配は済んでいます。将来、当人が申請することがあればですが。」

得田参事「じゃあ、私も今まで通り、彼らと接していいんだね。」

高井次官補「その件については、何も。得田さん…、良かったんでしょうか。これで。」

得田参事「良かぁないさ。だけど、今のヒトの発達段階では、これが最善の方法だと信じるよ。持ってきたんだろ。さあ、私の最後の仕事を、手伝ってくれたまえ。栄光への道をな。」

高井次官補(得田参事を射殺)。

アナウンサー伊丹「ただいま入ってきたニュースです。えー、今日の午後、東京赤山にある、文部科学省の、得田参事官の自宅で、銃声が聞こえたと、警察に複数の通報がありました。玄関の鍵はかかっており、警察官が、居間のガラスを割って、なかへ入ったところ、一階応接間で、得田参事官が、頭から血を流して倒れているのが発見され、その場で死亡が確認されました。自殺と見られます。得田参事官は、日本が技術立国であった時代に、小中学校国語科の、指定教科書の作成にあたったほか、文部科学省を退職後は、資金繰りに苦しむ学生のための、給付型の奨学生制度として知られる、得田奨学金を創設するなど、教育の分野で、広く内外に知られています。お待ちください。しばらく、お待ちください。これ?これね。えー、先ほどの、得田参事官についてのニュースですが、遺書が発見されたとのことです。公表された内容を、そのまま読み上げます。『私、得田は、国民のみなさまに、お詫び申し上げねばならないことがあります。先頃、アメリカのクラウドン臨時大使に付き添われて来日した、オレガノ、という島から来た老人と、その話とは、経済的に死につつある世界への、残された最後のカンフル注射となるべく、国際的な取り決めのもと、私がシナリオを担当した虚構です。赤い雨など降りません。太平洋沿岸を襲う災害など起こりません。どうぞ安心してください。』斉藤さん、これは、どういう…。」

解説斉藤「また、騙されたってことですね。ですが…。この国の経済は今、確実に、回復路線を歩み始めています。みなさんも、かつてない経済指標の立ち上がりを、ご覧になったでしょう。お店へ行かれて、久しぶりの活気を、肌で感じられたことでしょう。しかも今回は、世界中が、足並みをそろえて、回復路線を歩んでいる。長く続いた不況から、この国は脱出するでしょう。乾坤一擲。サイは投げられました。あとは、国民のみなさん次第です。」

地学者井上「コーヒーは、机の上に置いてくれ。だが、本を閉じちゃいけないぞ。」

院生ノボル「先生、ナニを、見てますカ。私、コーヒー、習いましタ。自信作デス。冷める前に、召し上がってくだサイ。」

地学者井上「ニュースを見ていた。すまん。ちょっと、疲れているんだ。」

院生ノボル「それナラ、コーヒー、いいデス。効きマス。ケーキもありマス。甘いもの、食べてくだサイ。」

地学者井上「うん…。それじゃ、いただくか。お、いい香りだ。おいおい、ずいぶん買ってきたな。」

院生ノボル「駅のナカに、できましタ。ルルーのお店テ、看板、書いてましタ。安い。オイシイです。」

地学者井上「ルルー?。あそこ、再開したのか。いや、隣の、プリンのやつをくれ。好物だったんだ。また食えるとはなぁ。んー、コーヒー、いけるじゃないか。客が来たら、ぜひ、たのむよ。」

院生ノボル「アリガトございまス。先生、何のニュース、見てましたカ?」

地学者井上「文科省の、知ってるひとが、亡くなったそうだ。おい、背広、どこやったかな。葬式に出てくるよ。学生実験は、任せていいかい?。偏光顕微鏡で、変成岩の判定やらせてくれ。雲母と石灰で戸惑う学生多いから。」

院生ノボル「ハイ。任せてくだサーイ。任せてもらうの、初めてデス。うれしいデス。先生、背広、見つけました。コレ。」

地学者井上「まあ、このコーヒーは飲ませてくれ。六時には戻るから。」


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駄菓子屋の夏

2024年11月22日 | 小金井充の

 昭和六十二年の夏、私は二十年ほどやった配達の仕事を辞して、思うところあって、町外れの小さな工場へと再就職した。体が資本の職場で、体力がガタ落ちになったのを自覚して、もはや、誰かの上に居られる立場ではなくなったなと。ここは手に職をつけて、将来の生活の安定を得たいと、職安で、かねてから興味のあった駄菓子屋の仕事をまさぐった。世の中は、間もなく年号が変わろうかという気配のなかで、何か新しい、希望のありそうなものへ変身しようと、急速に動き出している。そんな風に圧されたわけではないと、独り呟いてはみるものの、実際は、旧来の知人らの華やかな転職物語を聞くたび、焦りに似たものを感じていたことは否めない。
 その工場は、郊外の広い広い空き地であった所へ、倉庫群や配送センター、大型ショッピングモールなんかがグングンと建ち始めたにぎやかな地域の只中の、まるで時間が止まったかのような、取り残されたような古参の建物の一隅にあった。車屋のガレージなんかが並んでいたかもしれない、長屋のような建物のはずれが、その工場の在り処である。看板らしい看板もなくて、迷いに迷ってしまい、危うく面談の時間に遅れそうになって冷や汗をかいたが。しかし、季節も季節だ。所々砂利のはみ出した軽舗装の路地から延々と立ちのぼる陽炎のなかでは、冷や汗なんぞ一瞬にして蒸散してしまう。
 私はその建物の正面に立ち、汗を拭くのも忘れて、下辺の腐り落ちたドアの脇へ危なっかしくネジ止めされた、これが恐らくはインターホンなのだろうとおぼしき、黒くて四角い物体からはみ出ている、茶化て泡だったような丸いボタンを押した。ビーっとでも言うのかと思ったが、音の高低の危うい「エリーゼのために」が流れ出して和んだ。それがひとしきり演奏を終えるころ、ガタリという音を出して、それは老いた女性の声を私の耳に伝えた。
 「はい、どなた。」
 私が職安から紹介してもらった旨を伝えると、その鬱々とした女性の声は明るいものへと変わり、間もなく、ドアのノブがギッと鳴って、丸顔に銀色のビジネス眼鏡をかけた、笑顔のお婆さんがあらわれた。
 「さ、どうぞ。お待ちしてました。」
 私をなかへと導くお婆さんの指には、緑色の指サックがついている。どうやら、事務方のひとであるらしい。のちに、それは私の勘違いで、誰あろう、この柔らなお婆ちゃんこそが、先代の未亡人、現の社長だと知れるのだが。しかし私は、ややしばらくの間このお婆ちゃんを、パートか何かの事務員だと思っていた。それは私にはほとんど、以後このお婆ちゃんと顔をあわせる機会がなかったことに原因している。私はいきなり工場の鍵を任され、早朝一番に来て、まだ誰も居ない工場に火を入れる役回りとなったし、仕事が終わって帰るころには、お婆ちゃんはもう退勤していた。
 二階建ての工場は、二階を材料や物品の倉庫として使っているがために、ひとが常在するのは一階のみに限られている。他所から駄菓子屋の店主なんかが来ると、まずは工場とガラス窓一枚で仕切られた応接室に案内せられ、そこでお婆ちゃんのいれた茶を飲みながら、工場の製品を食べながら、工場長と談笑して帰るのだが。しかしそれはまた、のちのお話で。今日は面談。自分が客となり、お婆ちゃんのいれた、味のしないお茶をいただきながら、五十路も後半の工場長の、つるりと髭を剃った難しい顔とにらめっこしている。持参した履歴書を眺めて、うーんと唸る工場長。白衣のすそに、きなこだろうか。黄色い粉が散っている。
 「難しいかもしれませんよ。」
 工場長の、予想通りの言葉を聞いて、私は用意した言葉を返した。
 「とにかく何日かでも、やらせてもらえませんか。今からでもいいです。」
 実際、そのつもりで来たんだし。ほかに何を言えばいいんだろう。こっちも生活かかっているし、この日照りのなかを、何の収穫もなく、手ぶらで帰ろうとは思わない。そんなことになれば、しばらくは立ち直れないだろうな。ダメならダメでいいから、ダメだってことを分かりたい。次の仕事を探すにしたって、未練があるままじゃ、目移りしてしまう。
 私がそう言うのを聞いて、工場長はふと私の顔を見て、何だか気まずいような、渋いような顔をして、手にした履歴書を机の上へと投げた。そしてスックと立ち上がり、工場と応接室とを隔てる窓をガラリと開けて、
 「修司、白衣あったか。」
 と、延べ台でタネをのしている男性を、真っ直ぐに見て言った。言ったというより怒鳴ったに近いが、奥の機械の音があるので、そのくらいでしゃべらないと、相手に声が届かない。私はそのデカイ声で言うというのに苦労することになるが。しかし慣れるとまあ気持ちいいものでもある。ネタをのしていた男性は、無言で振り向いて、かまどの前で作業していた二人の人物のうちの一人を見た。偶然か、見られたほうも顔をあげており、代われというような合図にうなずいて、何の疑問もない素振りでスタスタと延べ台へとやってくる。ネタをのしていた、工場長から修司と呼ばれたその男性はというと、もうあとも見ないで、二階へ続く階段のほうへと歩き出していた。まあなんという、なめらかな連携であることか。これまで自分が経験してきた、独り芝居の職場とは、はなから別物の世界がここにある。男の職場とか世間では言っているが、違うな。現に、かのお婆ちゃんだって、気が利くレベルを超えて、実にタイミングよく物事を運んでしまう。要するに、同じ生物だから通じるってことだな。それをより簡単に実現する要素として、同性ってのが有効なだけだ。しかしその早合点が、私を苦しめることになる。外れてはいなかったんだが、それはメインの理由ではなかったのだ。
 工場の二階には、両端に階段がついており、作業場からもあがれるし、ぐるっと歩いて、応接室の側へと降りることもできる。それをまだ知らない私は、修司さんが、作業場とは逆の応接室のドアから現れたので、思わず「あれっ?」と声をもらしてしまった。私の様子を見て、修司さんが笑う。
 「上は、こっちにも降りられるんだ。」と、工場長。「これ着て、髪の毛覆うやつもな。いや、そうじゃない。ったく……」無言で修司さんを見遣る工場長。修司さんは自分の白衣を脱いで、着て見せてくれる。髪を覆う使い捨ての帽子をかむるのが、なかなかに難しい。見れば、工場長はもう、あとも見ないで自席につき、パソコンの画面とにらめっこしている。
 「来て。」と修司さん。あとについて応接室を出、ドアをあけて、作業場の前室へと入る。白い長靴を借り受けて、もうね、手の洗いかたから違うわ。修司さんに最初のレッスンを受けながら、私は今確かに自分が、これまで知らなかった世界に入り込んでいるのを、入り込んでしまったのを、なんとも言えない気分で自覚していた。これでよかったのか?あまりにも急ぎ過ぎではないか?蛇口からほとばしる温水の流れは、しかし、私の不安を洗い流してはくれない。せめて冷たい水であれば、もう少しシャキッとするだろうに。ブロアーで濡れた手を乾かし、続く狭い通路では全身に風を当てられて、ようやく、作業場へと続くドアが開かれる。途端に、かいだことのない香りが身を包む。思わず立ち止まって、鼻を使う私の姿を見て、修司さんが笑う。
 「あれ?かいだことない?砂糖の匂いだよ。砂糖ってか、糖蜜の。」当たり前のように、修司さんが言う。指さされるままに、私は銅鍋から湯気を立てる、透明な液体を見た。それぞれに温度計が入っており、先の二人のうちの一人が、しゃがみこんで、ねんごろにコンロの火力を調整している。その様子に見入る私を見て、
 「沸かしたら終わり。」とだけ修司さんが言った。そのときの私は、沸かし終えたら作業終了という意味だと思ったものだが。しかし違った。沸かしたが最後、この香気はみな飛んでしまう。さらに沸騰まで行くと、コンロの火が回ってしまい、大火災になるのだ。駄菓子といえど、品質を一定に保たなければ、顧客は逃げてしまう。糖蜜への火の入れ具合ひとつにしても、それがそのまま、品質を左右するわけで。その難しさには、熟練したと言われてもまだ、頭をかかえることがあるくらいだ。
 初日の体験は、昼までとなった。体験というか、迷惑かけただけで終わったのが、私には残念でならない。職安で探してた時分には、自炊経験くらいで何とかなるだろうと、甘い、甘すぎる考えでいた自分である。目に見えてしょげかえっていたのだろうか。修司さんが黙ってコーヒー缶をおごってくれた。それを見てか、工場長がスタスタとやってくる。ああ、お断りか。
 「あしたは休んで、住民票とってきてくれ。あさってから六時な。」事も無げにそう言って、工場長は透明ファイルに挟んだ契約書を、私に渡した。えっ?という顔でただ書類を見つめる私。
 「契約は今日からになってるから。ちゃんとカネは払うよ。」そう言って、工場長は私の背中をポンポンと叩くと、スタスタと自席へ戻っていった。修司さんがニヤニヤ笑って見ている。
 「俺もそんな感じだったわ。」修司さんは手招きして、私をロッカー室へと案内してくれた。見れば、いくつかのロッカーの扉が、開け放たれたままになっている。あるものは凹んでおり、あるものは取っ手がなくなっている。脇の壁には穴まであいているじゃないか。でもこの光景は、前の職場にもあった。人生の壮絶な景色は、ここにもあるんだな。修司さんは、手近なロッカーの、鍵がささっている1つを指差した。ここを使っていいようだ。見ればもう、修司さんはロッカー室を出ていた。仕事の流れが見えていなければ、そうもいくまい。私にとっては、それが一番の難問だった。
 「じゃ。」
 私が入社して二年目の春、修司さんは家業を継ぐために、この工場を離れた。盆に遊びに行くと約束して、私は修司さんの愛車である、年代ものの白いクラウンを見送った。工場長は何も言わない。後ろ手を組んで、いつものようにスッと立ち、去り行くクラウンを真っ直ぐに見届ける。あの日、コンロの火の番をしていた奴も、この工場を去っていた。不況の波は、いかんともしがたい。後ろでは、かのお婆ちゃんが、両手で老眼の進んだ眼鏡を持ち上げて、同じように何も言わず、クラウンを見送っている。寂しくなったが、工場は終わらない。スタスタと作業場へ戻る工場長。段取りは、分かっている。まあ、気分で変わることもあるが。
 私が作業場へ戻ると、案の定、工場長は鍋ではなく、延べ棒を持って延べ台に向かった。予定と違うじゃねぇか。そんなことをボヤキつつ、私は糖蜜の鍋に火を入れて、計量台にボールを据え麦粉を計りにかかる。工場長は抜き型を並べだす。私はタネを作りにかかるが、思えばこれも、練るものだとばかり思っていた。
 「麦粉はね、練れば練るほど、焼いたものが固くなる。」修司さんの言ったことが、昨日のように思い出される。ああ、やばい。チョッとウルウルしてきた。でも手を顔にはやれない。鼻水は、マスクが何とかしてくれるだろう。タネがまとまった頃合、工場長が延べ台にパッと打ち粉をする。その音を聞いて、勢い、ボールをかついで、延べ台に返しに行く。子供のほっぺたのようなタネが、フワリと延べ台に着地するや、工場長が指で、それをチョッとひねってみる。よしよし。何も言わないな。工場長は抜き型を自分に引き寄せる。私はもう、延べ棒を手に、タネをのしにかかっている。平釜のかすかなファンの音だけが、今日も作業場を満たしている。もっとも、焼きが始まれば、こんな静けさは吹っ飛んでしまうが。焼き板に次々と型が並び、私はタネをのす合間、頃合を見て焼き板を棚へあげ、順次、新しいものと取り替えていく。棚は間もなく、焼き板でいっぱいになる。カバーをかけ、新しい棚を据え……。ちょっ!今日は手が早いな工場長。絶好調じゃん。見れば、抜き型を脇へ置いて、抜いた残りを集め、工場長直々、自分でタネをのしにかかる。私は延べ棒をあきらめて、計量台に戻り、麦粉を計る。麦のかすかな香りのなかへ、糖蜜の香りが匂いだす。平釜を回す。さあ、忙しくなるぞ。


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クリスマスの あさ

2024年11月22日 | 小金井充の

 がたん! という おと がして、
 びっくりして、めを さました。
 くらい へやの なかに、
 あおじろい ゆきの ひかりが、
 ぼーっと だれかの せなかを てらして いる。
 まるい せなかが、 カーテンの かげで
 ぬれた ように、 ぼーっと、 あおじろく ひかっている。
 せなかの むこうに さんかくけいの ぼうしが みえる。
 ぼうしも その うえの まるい かざりも、
 ぬれた ように あおじろく ひかっている。
 ぼうしの したには まるい めがね。
 まるい めがねが、 キラッと、
 ゆきの あかりに あおじろく ひかった。

 「だれ?」

 だれ?と いわれて、 まるい せなかが
 キュッと ちぢこまる。
 まるい めがねが せなか ごしに 
 こっちを むいた。
 まるい はなの した には、 あおじろい ひげ。
 ひげに かくれて くちは みえない。
 モゴモゴと ひげが うごいて いる。

 「だれ?」

 また だれ?と いわれて、 まるい めがねが
 ピョンと とびあがる。
 まるい めがねが、 まるい せなかの むこうに
 かくれた。
 いまは ゆきの ひかりに、 まるい せなか だけが
 ぬれた ように、 ぼーっと、 ひかって みえるだけ。
 そこから ひくい こえが きこえて きた。

 「ごめんよ。 おこす つもりは なかったんだ。
  なつかしい フィギュアが あったから、 つい、
  てに とって しまった。 そのとき なにか
  おとした らしい。 めが わるくてね。 きみは
  しょうらい おはなしを かく ように なる。
  そして ある クリスマスイブの よるに、
  むかしの じぶんへ、 おはなしを かこうと おもう。
  ちょうど きみ くらいの こどもにね。 だけど、
  かけないんだ。 アイデアは うかんでくる。 でも、
  どれも これも もう だれかが かいてるんだ。
  こまって しまってね。 そしたら ここに いた。」

 それきり、 こえは きこえなく なった。
 まるい せなかが ひくくて たいらに なった。

 「かいて!」

 おもわず そう いうと、 たいらに なった せなかは、
 また まるく なった。
 フフフと、 ひくい わらい ごえが きこえる。
 そして また、 ひくい こえが きこえた。

 「そう、 だね。 かかなきゃ。 だれかの おはなしに
  にて いても、 じぶんの おはなし だよね。
  ありがとう。 きみは……」

 こえは もう きこえなく なった。 まるい せなかも
 みえなく なった。 めを とじる。 めを あけると、
 カーテンは あさの ひかりに かがやいて いた。

                       おしまい。
 


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2024年11月09日 | 小金井充の

 大通りの松ノ木の下に延びる小道から、三丁ほど歩いたところであろうか。長唄のおっしょう様のところに花という、大体の白猫が住まいしていた。猫界では少しく年増のおばさんではあるけれども、それがために経験豊富な男衆の羨望の的とはなり、毎年のようにプロポーズを受けてはツンとハネッ返す気丈な女性である。大体の白猫というのは、全体として白猫のなかに淡いオレンジの縞が見え、特にその胸の辺りのチョッと真ん中から寄った所の縞が少しは鮮やかに出ていて、あたかも花のように広がっているものだから、家人が目ざとくそのように呼んだという。
 花はマリで遊ぶのがお気に入りである。おっしょう様が手縫いしたゴルフボールほどの、白地に赤で星を刺繍したそのマリを、ひがな一日チョイチョイと両手でつついたり、勢いよく弾いてはモーレツに追いかける。糸と布とで作られたマリは板の間を転がっても音が無い。実家の幼少の記憶から、あのゴロゴロという騒々しい音に猫は惹かれるものだとばかり僕は思っていたが、花は違うようだ。試しにビー玉のなかの大玉をゴロゴロと転がしてやると花は怪しんで逃げていく。長唄の席ではアンモニャイトと化す花ではあるが、騒々しいものは嫌いのようだ。僕の幼少の記憶にある猫氏とは間逆だな。彼はあくまでも音楽を嫌い、大通りの騒音をこそ好んでいた。人も三様、猫も三様である。
 休みの、天気のよい日に限り、僕は午睡のあと散歩に出るのだが、つい気も知れずこの小道に入り込んでいる。懐手をして何かと思案して行くと、道なり、おっしょう宅の庭先へと出る。そこで歩みを止めて、宅の縁側を眺めおると、雨戸の陰からプイと小さなマリが転がって、間もなく花がモーレツに走り込んでくる。マリをつかまえて、次は元来たほうへと弾き飛ばすと、花は尻尾を立てて餅のように真っ白な尻をプリプリと振って飛び出していく。その可愛らしさ、可笑しさに、僕はそこから離れられなくなり。すると奥から僕の姿を認めて、家人の誰かしらが手招きをされる。ご挨拶をしながら照れ隠しに片手でうなじを掻きつつ、僕は縁側にお邪魔をする。お掃除が行き届いているがために、花はよくよく廊下で後ろ足を滑らせて、稀には庭へと滑落しそうになるが。ために顔を傾けて歯を食いしばって前足をバタつかせる花の必死で真面目な仕草が可愛らしく。ついつい長居をしがちなのだが、それがいつしか縁になって、今はお年始をご一緒させていただくお仲間に加えてもいただいた。お孫さんの芽衣子さんは、おっしょう様に似て丸いお顔立ちの、はつらつとした声を持っておられる。この方とも親しくなれたのは、真に花のお陰である。我が家の店の使いの帰り、雨の日など番傘をさして水色にけぶるおっしょう宅のお庭の前を過ぎると、雨戸の向こうでペンペンと三味線の調子を合わせる音が聞こえ、おっしょう様の澄んだ唄いに続けて芽衣子さんのまだおぼつかない唄いが続く。僕は自然と足が止まってしまい、寒さにブルッと身が震えるまでぼんやりとそれを聞いていたりする。来年の春には、芽衣子さんも一人でお客の前に立つのだろう。今こうして番傘の下で雨に打たれるばかりの我が身上を思えば、なおのこと体が震える思いがする。
 とある晴れの日の午後、僕はまた何とはなくて松ノ木の小道を辿っていたが。不意に脇からゴロニャアとドスの利いた雄猫の鳴き声がした。見れば、界隈では顔の知れた番長猫が、僕と同じ道を辿っていくようだ。毛長の雑種で、黒地に三毛らしい色が混じっている。この毛色は界隈でも若い衆のなかに見るものだから、してみると三毛というのではないらしい。もう毛が絡まったようにそこここで渦を巻いてはいるが、猫だけに不潔さは感じない。毛長でなければ、歌舞伎役者のような端正なたたずまいを見せるところだろう。番長は僕に向かって警戒心の強い眼差しを残しては、雑草のなかに身を隠しつつ歩いていく。チラリチラリと、お前まだついて来るのかというふうな嫌な顔をして見せるから、僕も嫌な顔をして見返してやるのだが、番長はお構いなしの様子だ。そのままズケズケとおっしょう宅の縁側に迫る。嗚呼僕はあんな近くまで一息には行けなかったのに。今もう番長は宅の縁側へ飛びあがろうかという勢いだ。またコロニャアとドスの利いた声で鳴く。これは見ものだなと、僕は懐手をして事態の行く末を見届ける気になった。過去幾たびか界隈の雄猫どもが、老いも若きもこうして花のもとを訪ねては、花の一括におじ怖気づいて退散したのを観てきたが。哀れ番長も面目を潰されることになるのだろうと予想して、僕は内心でウキウキしながら、離れたところで観客を決め込んだ。そら、花のお出まし。ところが花は、やんのかポーズで走り出てくるものと僕は思ったのだが、雨戸の陰からしとしとと歩み出てチョンと縁側に座ると、何も言わずに番長の顔を見下ろしている。相手に対してやや斜めに身を置くところが、花の気品を匂わせる。番長も番長で、地面にどっしりと座ったまま、ゴロニャアとも言わずに花の顔を見上げておる。界隈の猫衆を仕切ってきた実力がその背中からにじみ出ている。あらまぁこれはお見合いかなと、僕は少々残念に思った。しかしなるほど、花ともなれば、このくらいの御仁でなくては物足らないのだろう。僕の見ているのに気がついて、奥の障子の陰からおっしょう様が手招きをされるが、この状況ではお断りせざるを得まい。僕は片手をチョッと振って見せる。おっしょう様が軽くうなずかれるのを見て、僕は少しく残念ではあったが、まあ両猫のお見合いの席ともあらば、いたしかたなし。と、番長は何も言わないまま振り返り、その拍子に僕と顔が合って、お前まだいたのかというふうなムッとした表情を残して向こうの草むらへと去っていく。僕もムッとした顔で番長の行方を見遣った。宅の縁側へ目を返すと、花の姿も無い。代わりにおっしょう様のにこやかな笑顔がこちらを向いて、手招きをされている。僕はうなじに手をやって、いそいそと宅の縁側へと歩き出す。芽衣子さんが盆にお茶を持って来られる。これはこれは、ご馳走になろうじゃないか。僕は縁側へ腰をかけさせてもらって、芽衣子さんからのお茶をいただいた。
 「さあどうぞ。」とおっしょう様も勧めてくださる。かたじけなく。
 「めずらしいですのよ、花が。」と芽衣子さん。
 「ええ。僕も初めて見ました。」と僕。ちょうどいい温もりのお番茶である。
 花が雨戸の日陰でニャアと鳴いて、僕のところへ来る。頭を僕にスリスリして、鼻を鳴らして撫でを催促してくる。これは撫でざるを得まい。
 「あんまり気位が高こうて、お婿さんもろうたこと無いもんな。」とおっしょう様。僕は苦笑い。花はおっしょう様の膝へ登る。
 「手術はしないのですか。」と僕。芽衣子さんはおっしょう様と顔を合わせて微笑む。
 「この子とな、インターネットで猫の動画を見ましてな。」とおっしょう様。「そのなかに、自分の玉が無くなっているのに気がついて、あっけにとられてしまうのがあってなぁ。」
 「ああ。あれですか。」と僕は言い、小道の向こうの藪を眺める。
 「手術はせなならんのが世の流れですけど、一度は子を産ませてやろうと思いましたんですわ。」とおっしょう様。花はもう寝入っている。芽衣子さんは花の可愛らしい寝顔を覗き込んで、頭をそっと撫でる。花の耳がピンピンと跳ねる。
 「この子は来年、初舞台ですわ。見てやってくださいな。」とおっしょう様。芽衣子さんが顔を赤らめる。
 「はい。店閉めてでも行かしてもらいます。」と僕。ホホホと芽衣子さんが笑う。僕も思わず微笑み返す。
 ほどなくして、僕はあの番長猫が事故にあったと聞いた。若いのが走り出たのを止めに入って、はねられたのだという。ボランティアの人が駆けつけた時にはもう、息がなかったそうだ。花はそれからしばらく、マリで遊ばなくなった。縁側でおっしょう様の座布団の上に丸くなり、芽衣子さんに頭を撫でられなどしておる。時々は僕が代理を務めるが。たまに花のゴロゴロが聞こえると安心したものだ。花を囲んでお茶をいただきながら、しみじみと庭を眺めれば、はや紅や黄色の彩りとはなり。大きな柿の葉が落ちて、秋の雰囲気を添えている。花はマリで遊ぶようになり、それを見ておっしょう様が一番喜んでおられた。界隈では隻眼の黒猫があとを継ぎ、やってくる厳しい季節に向けて陣を整えている。
 「あのね、この子、おなかが大きくなってきたようなの。」と芽衣子さん。
 「え、寝ていて太ったのじゃないですか。」と僕。おっしょう様がホホホと笑う。僕は思わずうなじに手をやる。
 「縁の下をウロウロしたり、天袋に上がったりもするんです。」と芽衣子さん。
 「初めてじゃけ。人の子は経験があるけどな。どうしたもんか。」とおっしょう様。
 「ボランティアの人に聞いてみましょうか。」と僕。
 「ご苦労さんですけど、そうしてもらえますか。」とおっしょう様。
 「じゃあ早速。店のはす向かいの家ですから。」お茶のお礼をして、僕はポンと膝を打って立つ。
 「やるなぁ番長。」僕は呟く。思いのほか整然とした猫の社会に少なからぬ驚きを覚えつつ、サクサクと枯野を分けて小道に出る。めずらしく早足になりながら僕はその家へと向かった。行く手の彼方に青空を背景にして高く盛り上がる雲が、あの日縁側に座って花を見上げる番長の姿にも見えた。


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秋晴れ

2024年10月13日 | 小金井充の

 青空へと大きく伸び上がる長い長い坂道の向こうから、無精ひげを生やしたソース顔のオッサンがやってくる。彼方を1機の旅客機が、長い長い白い尾を引きながら、まるでコマ撮りの映像のようにゆっくりと空を渡っていく。青い空、白い雲。すがすがしいはずのこの景色のド真ん中に汗だくのオッサンの黒ずんだ顔があるものだから、絵的にはもう暑苦しくてしょうがないのではあるが、しかし季節は秋である。それが真夏にも見えるのは、オッサンのユラユラと揺れるメタボリックな胴体のせいもあるが。むしろ坂道の両脇に生えている街路樹がまったく紅葉していない、初々しいとすら思われる緑色を保っているからでもある。
 村の1車線道路には車1台も通ることがなく、それでオッサンは今もなお道の真ん中をモタモタと歩くことができている。ゼェゼェいうオッサンの吐息がうっすらと聞こえだす。沿道の古民家の軒先では数人の村人が集って、このオッサンを横目で見ては何やら噂している様子。「この男なのか?」「じょうだんじゃない」というような掛け合いをこのオッサンも聞いているのかいないのか。ウの口に唇を尖らせてフウフウ言いながら坂を越して、ここからは下りになるというのでオッサンの顔に少しく安堵の色が見え出す。脇を過ぎる丸いヘッドライトの年季の入った自転車が急にギギギとブレーキをかけズズズと足をひきずって停まり、ハンドルから片手を離してパンチパーマのオバハンの顔がオッサンを振り返る。茶けた花柄の長袖にフリルのついたエプロンをしたオバハンの前で、自転車のかごに入れたマイバックから玉ねぎが1つコロンと転げ落ちた。
 「あらヤダ」と言いながらオバハンは慌てて自転車から降り、熟練した動作で自転車のスタンドを立てると、コロコロと下り坂を転げ落ちる玉ねぎに向かって走り出すが、しかし玉ねぎのほうが幾分早いと見えてオバハンとの距離を次第に広げていく。オバハンはもうパンチパーマがオールバック気味になるのもかまわずに両手を前へ突き出してしまって、何だか分からないことをボヤきながら、パタパタとサンダルの音を鳴らしてオッサンの横を過ぎようとする。と、オッサンがまるで別人のような鮮やかな身のこなしでもって二歩三歩駆け出してサッと玉ねぎを拾い上げた。
 「あ!ドロボウ!」息も絶え絶えにオバハンが言うと、沿道の古民家からは何事かと男女の頭がのぞく。玉ねぎを差し出すオッサンにやっと追いついて、オバハンはその差し出されたオッサンの手を平手で打ち落とす。勢い玉ねぎはオッサンの手を離れて、またコロコロと長い坂道を転がっていく。オバハンはもう両膝に両手をついてしまってゼェゼェ息をするばかりで、玉ねぎを追いかける気力もなく只々転げては飛び跳ね転げては飛び跳ねする玉ねぎを見送るばかりだ。玉ねぎを追って走り出すオッサンの背中に、「ちょっと!それ私のだから!」とオバハンは言おうとするが、しかし後半はもう咳き込んでしまって声にならない。けれども思いのほか機敏な身のこなしで玉ねぎに追いついたオッサンが、プルンとメタボな脇腹を振るわせて玉ねぎを拾い上げた時は、「ちょっと!」と言いながらもオバハンは続く言葉を飲み込んで、ふくれっ面はするものの、黙ってオッサンを見下ろすだけになっていた。オッサンが玉ねぎを握った手の袖で額の汗をぬぐい、微笑んで、フゥフゥいいながらオバハンのほうへと坂道を登ってくるころには、オバハンは地面を見てしまってオッサンの到着を待つよりなかった。
 「ごめんね。わたいはすっかり……」とオバハンは丸い顔をちょっと赤らめて、フリルのついた前掛けを両手でしぼっている。茶けた花柄の上着のすそが前掛けの脇で秋風に揺られる。オッサンはニタッと赤鬼のように笑ってオバハンに玉ねぎを手渡した。そしてクルッと背中を向けて、スタスタと長い坂道を下りにかかる。沿道の古民家からヒョコヒョコと顔を出した男女の姿はとうになくて、「なぁんだ」「いい奴じゃないか」という囁きだけが聞こえてくる。オバハンは息もやっと落ち着いて、オッサンの背中にちょっと頭を下げて自転車へと戻っていった。自転車のスタンドを見事な足さばきで跳ね上げて、さてサドルをまたごうという時になってオバハンはもう一度オッサンのほうを見遣った。オッサンはもう大分坂を下っていて、そのモジャモジャ頭の向こうには、ただただ真っ直ぐに海へと落ちていく坂道が光って見えた。
 やがてオッサンの鼻に潮風の香りが届くころ、いい塩梅に枯れた小さな公園があらわれて、しばし足をとどめてオッサンはその公園を見ていたが。やおらウンとうなずいて、オッサンはその公園へと入っていく。枯れ枝をポキポキと踏みしめながら、湿った柔らかな土の感触を楽しみつつ、と、前の朽ちかけたベンチに、1人の老人が杖に額をよりかけて、枯れ木のように腰掛けているのをオッサンは認めた。近づくオッサンの気配を知ってか知らずか、これはひょっとして死んでいるのではとオッサンが心配するくらいその老人は動かない。昼間寝ているヨタカそっくりなその老人のすぐ横までオッサンが近づいたとき、ふっと老人の目が開いて、ゆっくりとオッサンの顔を見上げた。オッサンの顔をじっと見上げはするが、その口は笑いもせず何も言わぬ。ただ何かものすごく疲れている様子だけはオッサンにも見て取れた。あまりにも疲れてしまったので、もはや立って歩くことができないという具合。オッサンは困った。これでは立ち去ることもできやしない。そんなオッサンの顔色を察してかどうか、老人はもうほとんど肌色になったその薄い唇だけを動かして言った。
 「私が長いこと待っていた人は、あなたですか。」
 どう答えたものかオッサンはまたしても困った。そんなことどうして自分が知るだろう。しかしまあ袖触れ合うも何とやら。ここはお年寄りの気持ちを汲んであげるのがよろしかろうと、オッサンは意味深な面持ちでウンとうなずいて見せた。老人はここで初めて表情を見せて、つまりはオッサンにフッと鼻で笑って見せて、あとはもう何も言わず、また先程のように顔を戻し、目を閉じてそのまま動かなくなった。よし!とオッサンは心のなかで喜び、きびすを返して公園を出にかかる。してみると、あの老人はここで毎日のように誰かを待っているということか。生活費とかどうしているのやら分からんが、ともかくは良いご身分には違いないとオッサンは独り合点をした。あと1歩か2歩でこの自分には似合いな感じのいい公園を出ようかという時になって、1人の町の若者が不意に横合いからオッサンに怒鳴った。
 「このまま行ってしまうんですか!」
 ビクッと頬を引きつらせて、オッサンは反射的にその怒鳴り声のほうを見たが。おやおやまだ二十歳かそこらの若造じゃないか。俺に何か用でもあるのかと、オッサンは和戦両様の気分でその若者と対峙する。ところが若者のほうはもう言うべきことを言ったというふうで気色を失い黙ってしまって、オッサンはまたまた困ってしまった。どうもこの町も俺の落ち着く先ではないらしいぞ。この先どこまで歩かにゃならんのかと、オッサンは軽いめまいを感じつつも、しかしあるいはひょっとしてこの若者がまた言葉を発しないだろうかと、今度は半ば期待を込めたような眼差しを若者に向けてみる。けれども若者はプイとオッサンから顔をそむけて、そのまま背中までもオッサンのほうへ向けてしまい、立ち去ってしまった。何だかよく分からん町だなと、オッサンは先程のベンチに座る老人を振り返る。か細く低い木々の向こうから、老人の面のような血色のない顔がまっすぐこちらを見ているのに気がついて、オッサンは肝を冷やした。お化けかよと心のなかで愚痴りながらもオッサンは老人の顔を見て返す。何やら泣きそうな表情でもあるかなと思いながら、泣きたいのはこっちだとオッサンは心のなかで呟いた。ならばこちらから声をかけてみるしかないのかとオッサンは戸惑った。こちらから面倒にまみえるのはご免こうぶりたいが。しかしこのまま立ち去るのも後味が悪すぎる。仕方がない。何か問いかけてみるかとオッサンは腹を決めて声を大にして老人に問うた。
 「あなたは、どうなりたいのか。」ただ見たままに、ずっとそこへ座っていたいのかという意味で、オッサンはそう問いかけてみたわけだが。他方、老人のほうではまた別の意味に取り違えたらしい。老人は恥らうようにオッサンから目線を下げてボソッと「また歩けるようになりたい」と言ったようだ。え、とオッサンは思った。だってあんた毎日そこへ歩いてきてるんじゃないのかよ。その杖はほかの何に使うんだよとオッサンは心の声で突っ込んだが。いやまてよ、ひょっとして本当にそこへ座り通しなのかもしれんと思い返して、自分の顔から笑いが引くのをオッサンは感じた。さっきの若造のことを思えば。あれはもしかして、このお年寄りの食いものや身の回りのものごとを世話する係なのではなかろうか。この得体の知れない町だもの。そういう風習があっても驚かないなとオッサンは思った。オッサンの口から自然、「俺は医者じゃない」という言葉が出る。普段ならば笑って両手でも振ってやるところだが。これはそういう雰囲気ではない。嫌な雰囲気だなぁとオッサンが思っているところへ、雰囲気を察してか否か老人は「医者なら町におる」と返してきた。ははぁ、そういうのでいいんなら、俺にもやりようがあるぞと、オッサンは少し安心した。こんなとこへ毎日座って、誰かを待ち続けるからには、気力は相当にあるなと見当をつけて、ならばこの質問はどうだとオッサンは老人に返した。
 「あなたの自信は、どこへ失せたのか。」とオッサンが言うや、老人は「自信」と独りごちたきり黙ってしまった。老人の額がまた、元のように杖へと置かれる。そのいかにも気持ちの沈んだ様子を見てしまっては、オッサンも言った口を閉じることができない。えぇぇ外した?俺の経験とは違うの?などとオッサンが自問しかけたところへ、老人が今般、遭遇以来初めての長めの話をしだしたので、オッサンは内心ホッとしてその話に耳傾けた。
 「気づけば……、私ひとりしかいなかった。」老人は杖に額を置いたまま、目を閉じて何かとても昔のことを思い出そうとしているようだ。ポツリポツリと老人は話を継ぐ。「話したこともないが、私のいるところに、誰かもいた。今もう、私だけだ。誰かがいた時には心強かったが、独りになって自信をなくした。」老人は何か、今更に気がついたというように、額を置いた杖からガバリと顔をもたげて、「あんたはなんで、独りで歩いているんだ?」と言った。言われたオッサンはといえば、可笑しくてしょうがない。なんでって(笑)。思わず知らず自分の顔がほころぶのをオッサンは愉快に思ったが。しかし笑われているのを見てしまって、また杖に戻っていく老人の頭を目撃したオッサンは、その場で気分を正したうえでこう返した。
 「なんでって、ほかにやりようがないから……。」我ながら何とも曖昧な返事だなと、オッサンは自分で言って自分でガッカリした。でもそうなんだから仕方がない。世間から笑われた苦い思い出は数え切れない。だけど止める理由もまたみつからないままだなとオッサンは自身の過去を眺め渡す。眺め渡すうちに嫌なことがいくつか思い出されてしまい、勝手にけっこうな精神的ダメージを食らったが。しかしこの老人にそれは悟られたくないとオッサンは気力を使った。というかそもそもの話、自分に素直に考えると、見たいものは見たいし、したいことはしたい。それは刹那の快楽などではなくて、人生の経過からもたらされる成果なのだという経験則が今のオッサンのなかにはある。ウンとうなずいてオッサンは老人の閑話に答えた。
 「正しくなければ、諦めるのですね。」オッサンはわざとに断定的な言いかたをしてみる。老人はやはり自信がないようで、オッサンの話に迷いつつも、コクリとうなずいてしまう。あー、これは重症だとオッサンは思った。「諦めちゃうの?」と唐突にフランクな言いかたをされて、老人は「えっ?」という顔で反射的にオッサンの顔を見た。「諦めちゃうんだ(笑)」オッサンはなおもフランクに老人に詰め寄る。まあお互いこの距離で話しているから効果のほどは分からないが。やはり老人から返事は返って来ない。オッサンは公園の敷居をもう一度またいで、何か楽しそうな雰囲気をまといつつ老人の元へと戻る。老人は例のごとく杖に額を乗せたまま目を閉じてオッサンを見ない。オッサンは老人の座るベンチの脇を見遣った。メタボリックな自分が座れるだけのスペースはあるものの、はたしてこのベンチが2人分いや3人分の体重を支えてくれるのかどうかは確信が持てない。こんな状況で2人して仰向けに転がるなんてことは想像もしたくないが、といってこちらが相手を見下ろす形でいるのもまたマズいだろう云々、刹那ではあれオッサンは幾つかのことを大急ぎで思い巡らした。その間にも依然として老人からの通信は届かない。もうこれは座って、同じ空間で話をせざるを得ないだろうとオッサンは観念した。
 「失礼しますよ」と老人に軽く声をかけてオッサンはベンチに恐る恐る尻を置く。置いてしまってから先にごみを払えばよかったと後悔したがもう遅い。体重をかける。ベンチは案外と丈夫な様子だが、しかし背もたれに落ち着くのは危険すぎるとオッサンは背中を丸めたままにして両手を膝に置き、その窮屈な格好でフッとひとまずは安堵のため息をついた。しかしながら、この一連の緊迫した気分がオッサンの心を吹き過ぎてもなお老人は何も言ってこない。オッサンは片手の袖で額の汗をぬぐう。手に汗握る脂汗もあったが、なお進展しないこの状況への焦りもその汗のなかには含まれる。仕方がない。オッサンは自分から話を進めることにした。「自信は、そこからは来ないと思いますよ。」オッサンは上着のポケットに手を突っ込んでクシャクシャになったタバコの箱を出した。1本出そうとしてそのクシャクシャな箱の蓋らしきものをのけて見れば1本もない。何だよという渋い顔をしてオッサンはタバコの箱を握りつぶしポケットへ返した。やれやれとベンチの背へ身をもたれようとしてオッサンは立ち上がる寸前になる。危ない危ない。今たしかに背の板がたわんだ感触があった。せっかく拭ったオッサンの額にまたじっとりと冷や汗が浮かぶ。ふと老人の姿勢を見てオッサンは合点がいった。どうりで、この老人さっきから杖に額を置いていたわけだ。しかしこのちょっとしたハプニングが老人の口を割らせた。
 「後ろ、腐っていますから。」老人は相変わらず目をつむって額を杖に置いたままだが、しかしオッサンは老人の顔に少しく赤みがさして、よく見れば微笑みさえもしていることに気がついた。よかった生きてるとオッサンは心のなかで笑う。これで空気が変わったとオッサンは間を空けずに話を継いだ。「僕は、自信なんて意識したことないですが、行脚家業を続けてるのも実際なので。そんなものがあるのかもしれません。世間から見たらただのプーですからね。正しければ自信を持つのも難しくない。僕みたいに正しくないことを続けちゃうのが、実際は多いみたいですけど(笑)」かすかにゴーという音がして、見上げれば2人のはるか上空を旅客機が飛んでいく。青空を背景に真っ白な飛行機雲が旅客機のあとを追いかける。オッサンは目を老人に戻す。見れば、老人もまた杖から顔を起こして空を見上げているではないか。2人はしばし飛行機雲の行方を眺めていた。不意に老人が「どうしてでしょうなぁ」と呟く。オッサンは老人が話を継ぐのを生暖かい気持ちで見守る。ここで話が終わっては、また自分から話さなければならない。話はいくらもあるが、それらのほとんどはオッサンにとって痛いものだった。だから老人の口元がやおら動くのを見てオッサンは安堵した。
 「誰かがいたころは、楽しかった。」老人は杖を握りなおしその細い足を組んだ。オッサンはどこかこの老人に清楚な感じを抱いたが、今にして気づけばズボンに折り目がついている。くすんだ暗い灰色のラシャ地の裾には泥で汚れた形跡がある。歩いてんじゃんと、オッサンは心のなかで笑った。老人はもう話を継ぐことに躊躇がない。「若いひとたち風に言えば、需要があると言うんですか。正しいかどうかなんて、あまり考えなかったね。自分がかきたいものをかき、言いたいことを言った感じです。時が経つほどに、誰かは少しずついなくなった。就職したり家庭を持ったりして、心境も変わったんでしょう。身を置く暇がなくなって、あえて窓を閉ざしたひとも、少なくはないと思います。確かにそのころから、自信ということも考え始めた。」老人はオッサンのほうこそ見はしなかったが、杖に顎を置いてニッコリと微笑む。それから老人は誰言うともなくこう付け加えた。「誰かがいなくなるにつれて、私の自信もなくなった。」
 「いや、そうではないでしょう。」オッサンは顔だけ老人に向けて、はっきりとそう言った。「つまり……」何と言ったらいいのか。オッサンは無意識に時間稼ぎをして、膝に置いていた老人の側の片手を持ち上げ、表に返して見せる。「その誰かがあなたに自信をくれたんじゃなくて……。何て言うか、本来見るべきものを見ないから、自信持てなくなったんでしょう。」オッサンは老人の側のひじを膝に置いて、浮いた手は自分の顎へ持っていき、上体を老人のほうへと傾けた。「え?何て?」と、老人は杖の先からオッサンの顔を覗き込む。オッサンは微笑んでまた両手を膝に戻し、ベンチの背もたれにもたれそうになって慌てて身を引いた。オッサンはやれやれという風に軽く溜め息をして話を続ける。「あなたに自信をくれたものは、その誰かじゃないです。あなたに自信をくれたものが、あなたに呉れた自信に、その誰かが惹かれた。ん、ちょっとややこしいですね(笑)」オッサンは片手をあげて自分の後頭部をなでまわす。老人はオッサンは見ずに、前を向いたまま杖の上で「あなたはよく笑うひとだ」と言って微笑む。「でもいいです。分かったように思います。」と、老人は、恥ずかし紛れに空を見上げるオッサンの顔を見て言った。それから杖にすがってゆっくりと立ち、老人は小さな歩幅でオッサンに向き直って、「見るべきは、私が続けてきたことの理由のほうだったんですね。」と、少し顔を赤めて言った。どうやら、伝わったらしい。オッサンも老人に微笑み返す。老人は「では。」とオッサンにちょっと頭を下げて、ベンチを後にする。オッサンは生暖かい気分で、去っていく老人の小さな足取りを見守った。と、老人は公園を出て行きしなに、もうオッサンを振り返ることもなくこう言った。
 「私が長く待っていたのは、やはり、あなただったようです。」


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ぬくもり

2024年10月13日 | 小金井充の

 水面を流れる重油のようにネットリとした暗雲が、ワルププギスの夜を汚していた。魔女たちは消えない火に大鍋をかけて、何かを煮ている。気味の悪い甲高い笑い声が時折は聞こえるが、あとは何の物音もしない。消えない火の光陰が、魔女たちの黒い姿をせわしく動かすように見えはするが、実際は蝋人形のように固まって身じろぎもしない。しかし今、不意に魔女たちの目が見開かれ、そのしおれた腕をみな同じほうへ向けて伸ばし、伸ばしきるとなお体までをもそのほうへと倒しにかかる。実際、何人かの魔女たちはそのまま地面に倒れ伏して起き上がらなかった。
 無数の指という指が刺し示すその先には、ひとりのオッサンの姿があった。スナフキンのような帽子をかむり、上着もズボンもまた同じように垢じみた黒い緑色をしている。魔女たちの慌てぶりに対して、そのオッサンの当たり前のようにやって来る姿は印象的だが、魔女たちが何をしているのか分からぬと同様、そのオッサンも何しに来たのかは知れぬ。そもそも魔女たちが見えているのか、そのブツブツと煮えたぎる大鍋が見えているのかどうかもわからない。しかしようやく、オッサンが距離を縮めるにつれて、その片手には腐りかけの蕪を切り裂いて作ったランタンが、しなびた葉に続いて垂れ下がりブラブラと揺れており、その揺れは確かに、オッサンが意図して揺らしているのだということは知れた。魔女たちの視線はまさにその蕪の揺れに合わせて動揺しているから、オッサンと魔女たちとの間に理屈は通っているのだろう。
 「ジョン!」と、魔女たちのどこからかから、ひねり出すようなしわがれた声が出て、オッサンは立ち止まりウンウンとうなずいた。魔女たちの間にひとしきりざわめきが起きる。「まさか戻るとは」「まだ燃えている」「なんという図々しさよ」云々。魔女に図々しいと言われるほどのこのオッサンは、してみれば人の尺度では相当に図々しいということになろう。しかしそういう評判とはまったく似合わない真っ直ぐな瞳をあげて、オッサンはまた蕪を揺らして見せる。微笑みすらしない、至って真面目な顔である。「くたばれ」と魔女たちのどこからか声があったが、その反対側の魔女たちのなかからは「鍋の下の炭をやろう」という声がヒッヒッという笑いとともに起こった。オッサンはまたウンウンとうなずくと、煮えたぎる大鍋のほうへ歩いてくる。魔女たちが汚いものでも避けるようにして粘菌のようにヌラヌラと凹みを作り、鍋へと一直線に歩いてくるオッサンをその1個の大きな目玉だけで見送る。なおもオッサンは歩を進めて、ついに大鍋の下へとかがみこんだが、どうしたことかその手を炎のなかへ伸ばしても炭は取れぬ。目の前に燃え盛る炭があるというのに、つかんだ感触はあるが、手を引いてみると何もない。そもそも炎に焼かれても熱さを感じない。しかし頭上では何かがブッブッと煮えたぎっているじゃないかと、オッサンは口を半開きにしたまま顔を上げてみるが。しかしそういえば臭いもしない。オッサンの仕草を見て魔女たちが一斉にヒャヒャと笑う。コピペの文章のようにみな同じに笑うので、オッサンの耳にはヒヒャヒャヒヒと猿の威嚇のように幾重にも響く。オッサンは両手で耳をギュッと塞ぐが、しかしそこからは動かない。またかというように口をへの字に曲げて突っ立っているばかりだ。そうするうちにニュッと炎のなかから魔女のしなびた手が出て、消し炭のような消えかけをコロリと3つばかりオッサンの前へと転がした。オッサンはかがんで、これは手に取れるのだろうかと手を伸ばしたが。熱さに驚いてビクリとその手を引いた。途端に魔女たちの笑いは止み、まったく音のない空間が広がる。ただ無数のあの大きな目玉が、オッサンの引っ込めた指の先を穴があくほど凝視していた。オッサンは気づいたとばかりに、かの腐った蕪を引き寄せて、なかの今しがた燃え尽きた炭火のわずかな灰をふるい、魔女の手が転がしてよこした3つの消し炭の上へ蕪の裂け目を押し当てた。持ち上げれば消し炭は、蕪のなかの無限の闇かと思うその裂け目の空白のなかに鎮座している。これでよしという具合にオッサンはうなずき、あとはもう二度と大鍋のほうは見ずに、独りまたトボトボといずこかへ向けて歩き出した。見上げれば油を流した夜の空を、何か煌々と輝く点が、機敏に揺れながらこちらへと寄せてくる。何かガラスをキンキンと叩くような、かすかな音も聞こえるようだ。漆黒の地平の彼方からユニコンの団体さんが押し寄せる。オーグたちが1つ目をギョロリと光らせその逞しい腕に棍棒を振りかざしてユニコンに襲い掛かる。その1体が魔女の大鍋をひっくり返し、煮えたぎった赤黒い何かをかぶって魔女たちが悲鳴をあげるかと思えば、悲鳴は高らかな笑いへと変わり、魔女たちは1つの大きな影となってオーグたちを飲み込んでいく。そんなカオスな光景には興味がないとばかりに、オッサンはもう遠くへ行ってしまったようだ。今はもうオッサンの下げるジャックオーランタンの、かすかな光点が見て取れるばかりだ。
 薄明、高い山の頂に立って、オッサンは麓の村に灯るいくつものカボチャのランタンの、淡い光を見下ろしていた。自分の手の中にある不気味に裂けた蕪のランタンの、ほのかな温もりを感じながら。今なお自分が存在していることを、この腐った蕪だけが証明してくれているようだ。オッサンはまた歩き出した。どこへ行くともなく。


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あのころのワープロソフトの思ひ出

2024年09月27日 | 小金井充の

一太郎「おまえ昨日できる言うたやんけ!」
ワード「おまえはできないからなw」
一太郎「ちょ、おま…」
キング「まあまあ、ワープロ同士仲良くやりなよ。」
一、ワ「ワープロ言うな!」
ワード「ってか、ワープロ、まだ通じるのか。」
     |キ゛   フ
オープン「|αく。で・@よ!」
一太郎「はい?」
キング「ぼくもできるよ!」
ワード「読めるんだw」
キング「僕のおじいちゃん。」
一太郎(泣)「家族やないか!」
ワード「じゃあ俺はしなくていいな。」
一太郎「おっと、それとこれとは別やで。」
ワード「…。」
一太郎「またイルカ出して。」
イルカ「何が知りたいですか」
一太郎「お」
イルカ「そんなことは無理」
一太郎「お、しか打っとらんやんけ!」
キング「僕も手伝う!」
ワード「おまえはできないだろ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「花子!ひさしぶりやんけ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「元気してたか?」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「お」
花子「そんなことは無理」
ワード「あんたもか!」
キング「おじいちゃん、やる気満々だって。」
一太郎「分かる。やらかす気満々や。」
キング「おじいちゃん、分かってもらえてうれしいって。」
一太郎「もうワープロやないな。行間てw」
      П   ≡
オープン「 ノープ。ロう・!」
ワード「ワープロ言うな!」
オープン(泣)
キング(泣)「おじいちゃん、やっと読んでもらえたね!」
一太郎(泣)「よかったなぁ。」
ワード「あれ?」
一太郎「・・・。」
ワード「まーた。いいとこでフリーズすんだからなぁ。」

 

※各ソフトの名前は登録商標です。

ここだけでお楽しみくださいませ。禁転載。


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執務室にて

2024年07月08日 | 小金井充の

 暗い執務室に二人の老人が、おでこに深い深いシワを寄せて、向かい合って座っていた。
 「大統領」と、他方の老人が呼びかける。
 「ケイス君」と、大統領。
 ここで稲妻でも走れば、二人の老人の心境を形容しやすいのであるが。外は昨夜からの小雨が続くだけの、静かな暗い朝である。
 「私は昨日の夜、聞いてしまったのだ。」と大統領。執務席の前の接待用ソファに、脱力してのけぞる。
 「私は今しがた、大統領から聞きました。」と、ケイス君こと補佐官。大統領の向かいのソファで、顔を片手で覆って、長い長い溜め息をつく。
 「この世が終わるなどということが世間に知れたら……。えらいことになる。」大統領はのけぞったまま、両目を手のひらで揉む。寝不足なのだろう。
 「でも絶対、漏れますよ大統領。ノストラダムスやエリア51なら、オカルトで一蹴できますが。政府発表となると、話は別ですから。」ケイス君は、ソファに座ったまま両膝をかかえて、爪先立ちしたり、やめたりする。
 トントンと、執務室の厚いドアが鳴る。補佐官が応じると、ドアの向こうから白衣の聖職者があらわれた。これも相当な老練。
 「おお、サドバド卿。朝早くから申し訳ない。」立ち上がって、大統領はサドバドと呼ばれた品のよい老人と、しばし握手を交わす。
 「秘め事との補佐官のご注進がありましたので、人目を避けて参りました。」サドバドは静かに言う。左手のひとさし指の根元には、ダイヤモンドで縁取られた、大きなエメラルドの指輪が据えてある。
 「こちらへ。」補佐官は自席をサドバドに譲り、自分は大統領の隣に、やや距離を置いて座る。
 「サドバド卿、なにか、よい案はありませんか。」大統領は懇願するように身を低めて、斜め下からサドバドの顔を仰いだ。ケイス君も同じ心境のようだ。
 五千年の宗教の叡智は、悩める二人の子羊に微笑みかけると、うんと、うなずいて見せた。「公表しましょう。この世が終わることを。」
 えっ!と、大統領も補佐官も、ソファの背にのけぞった。二人とも、続く言葉がない。
 二人の様子を面白そうに見ながら、サドバドは腹の上に手を組んで、静かに言った。「この世の終わりが来るのを知って、なお苦しい目に遭おうという奴はいませんよ。」エメラルドがキラリと輝く。
 大統領と補佐官とは、二人同時にお互いを見合って、二人同時にサドバドのほうへ向いて、「なるほど」とつぶやいた。
 「終わりの日づけは、我々が決めるのです。我々の有利なように。」猫好きが猫をなでるように、サドバドはエメラルドをなでる。
 ケイス君は言う。「待っていれば終わると知れば、もうどうせ終わるんだから、細かいことを言う気にもならない。」
 「そうです。」とサドバド。
 「この世を終わらせる何かがあるとしても、その何かをしようという気にならない。」と大統領。顔はサドバドのほうを向いているが、頭の回転のせいで、ひとりごとのように言う。
 「そうそう。」とサドバド。「何もしなくても終わるんですからな。そこのところを、よくよく強調しておくべきです。」
 「ケイス君。これは、案外、簡単かもしれんぞ。」と大統領。暗い気持ちはどこへやら。
 「はい大統領。さっそく手配します。」と補佐官。年相応ながらもスッと立ち上がり、執務室を颯爽と出て行く。
 「サドバド卿、またあなたに助けられましたな。」顔もほころぶ大統領。思わず両手でサドバドの右手をにぎる。エメラルドを他人にさわらせたくないのは、大統領も知っている。
 「これも神のご加護です。」サドバドは左手で十字を切り、席を立つ。長居は無用だ。サドバドの手にくっついて、大統領も一緒に立ち上がる。なかなか離さない大統領。うまいところで電話が鳴る。
 「私だ。」失礼という手振りをして、大統領は執務席の電話を取る。そのすきにサドバド退場。
 「大統領、朝食のご希望はございますか。」と給仕のミス・デイビー。
 「ポーチドエッグにしてくれ。」と大統領。日常の電話が、日常を取り戻させる。大統領は執務席につき、愛用のペンを取って、いつもの朝のように、メモ帳にサインのためし書きをする。


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薫の場合

2024年06月20日 | 小金井充の

  汗に濡れた制服のすそを、初夏の風になびかせ、薫は、ポケットに手を突っ込んで、暗い路地を、ひとり、トボトボと歩いている。白い粉のようなものが、そこだけを照らすLEDの街灯の下を、薫は、うつむいたまま通り過ぎる。その顔は、深い疲労と、LEDの光で明暗が強調されたためとで、白い能面のように、無表情に見える。いくつかの白い粉のなかを過ぎて、薫は今日初めて、顔をあげた。行く手の角に、コンビニの明かりがある。薫は、仕事の間じゅう、帰りはコンビニに寄ることだけを、考えていた。今、薫の目の前で、スッと自動ドアが開く。流れてくる店内のニオイが、薫の目を覚ます。瞳に輝きが戻って、一直線に、薫はスイーツの棚へと歩み寄る。脇の小ぶりな買い物かごを、ほとんど見ることもなく手に取り、薫は、スイーツの棚の一点を凝視する。その顔がほころぶ。安堵の溜め息がもれる。誰に遠慮することもなく、薫は自分の手を伸ばして、昼間そのことばかりを想っていた、定番の菓子をそっとにぎる。売れてしまっていないか不安だった。それが今や、確かに自分のものなのだ。まだ買ってもいないが、心の中の何か張り詰めたものが、ほどけていく。二個目を手に取り、三個目に手を出したが、これは食べきれない。同じ過ちは犯すまいと、薫はあえて菓子から目をそらし、飲料のほうへ向かう。その菓子にはコレというものが、薫にはある。突然、薫は足早になった。そのコレというものも、また競争率が高いのだ。胸が高鳴る。冷蔵庫の棚を見上げたその先に、あった。薫は、思わず笑ってしまう。職場の誰かに会うという心配はない。だがもし会えば、たぶん、薫とは分からないだろう。息をしている。薫は思った。高校の嫌なプールの授業で、潜水の試験があった。あの水から身を出すときの必死さ。開放感。薫はあの日、自分が息をしているのを知った。会計をピッと済ませ、店を出る。なんだろうこの身の軽さは。部屋へ駆け込むことすらも、できるじゃないか。薫は、汗で濡れた制服のまま、机の上に菓子などを広げ、その前に座る。この光景を、昼間どれだけ空想しただろう。我慢なんかできやしない。ひとくち。甘い香りが、口と鼻いっぱいに広がる。んんんんっ!。そしてすかさず飲む。くぅぅぅっ!。「コレ!」と薫は言う。「コレ!」。全身に血が巡る。体が熱い。愉快だ。生きてると、薫は思う。一八〇に薫の年齢を掛ける。この世で薫が生きた時間。


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燃える雨

2024年06月08日 | 小金井充の

 真っ赤に燃える無数の魂が、真っ暗な空から、雷雨の如くに降り注ぐ、この地上の頂で、ひとりの僧侶は、地にあぐらをかき、長大な数珠をもみつつ、一心に念仏を唱えおり、またひとりの司祭は、十字架を高くかかげ、残る片手は大きく懐を開いて、落ちかかる、全ての魂を迎えんとしている。

 この地獄の光景を、このふたり以外の誰が見たのであろうか。遠く街は、いつものようにきらめく光を放ち、その騒音は、ここまでも聞こえ来るほどだ。相変わらずの日常が、その光と音との洪水のなかにある。それに比べたら、この燃え盛る魂の光も、その発する轟音も、どれほどのものか。

 僧侶がカッと目を見開き、念仏をやめる。長大な数珠を片手で握り締め、大きくその腕を振って、数珠を地面に叩きつけた。糸が切れ、玉が飛び散らばる。その一粒一粒が、落ちてくる魂のひとつひとつを打つ。真っ赤に焼けた鉄の玉に弾丸が打ち込まれるが如く、玉は個々の魂にめり込んでいき、溶けて、白く輝く塊となった。

 「生きよ!」と、僧侶が叫ぶ。その叫びに応じて、白く輝く塊は人の形を成し、遠く街の上へと降り注ぐ。「おぎゃあ!」と、大きな産声が、ただ一度だけ虚空を揺るがした。もはや暗闇はなく、美しい星空が、ふたりの上に開ける。

 「今夜は俺の勝ちだ。」僧侶は立ち上がり、司祭の醤油顔を睨んで、ニヤリと笑う。が、司祭も負けてはいない。僧侶のソース顔を一瞥して、ふっと笑って見せた。

 「ご覧なさい。あなたはどこを見ていたのですか。」そう言って司祭は、自分の胸をはだける。そこには、無数の血の十字架が、刻みつけられていた。「あなたの二倍、いや三倍はあるでしょう。」司祭は、さも得意気にそう言って、僧侶のソース顔を横目で見やる。

 「嫌な奴だ!嫌な奴だ!」僧侶は両手を握り締めて、いきりたって、地団駄を踏んだ。その様子を、司祭は、さも面白そうに眺める。どこか、天のはるかな高みから、ギギギィと、重々しく扉の閉まる音が響き来たった。

 「次は負けん。覚えておけ。」僧侶は身をひるがえし、もう頂を降りにかかる。逃げしなに、覚えていろは何とやらと、司祭は心の内に思って、僧侶の、哀愁すらをも感じさせる、その背中に、ほくそ笑んだ。そして、遠く輝く、街の光に目を移し、あたかも、いとし子をいつくしむかのような眼差しでもって、その踊る光の輝きを、飽きもせず、眺め続けた。

 司祭は目を閉じ、そして目を開くと、その街の大通りにいた。真夜中だろうが平日だろうが、車の通りが止むことはない。その大通りの、ど真ん中に、突然、白いベールを着た醤油顔の人物が立ったので、当然ながら、周りは騒然となった。鋭いクラクションが鳴り響き、追突する車、避けきれずに横転する車。フロントガラスがドンという音とともに飛び散り、歩道を歩く人々めがけて降り注ぐ。シートベルトをしていない何人かが、カエルのように空を飛んだ。それらの人々すべての目と指先とが、道の真ん中に立ち尽くす、醤油顔の人物を刺し貫く。お前は何だ?、なぜそこにいる?、どこのどいつだ?、そんな、声にならない疑問を、ひしひしと感じて、司祭はスッと片手をあげ、叫んだ。

 「淘汰されてはいけない!」司祭は、もっと私に注目しろと言うように、そこで言葉を切った。群衆の集中度が、いやがうえにも高まるのを感じて、司祭は大いに満足した。「あなたたちの内に、身重のひとはいますか。妊娠しているひとはいますか。今日、あなたたちの元に、子供たちが行った。その子たちが、淘汰されることがあってはいけない。淘汰されるべき私たちが生き延びていくには、淘汰されるべき子供らが、淘汰されてはならないのです!。わたしたちは、なんとしても、頭かずを減らしてはならない!。数の力しか知らないわたしたちが生きていくには、絶対に、頭かずを減らしてはいけないのです!」

 上空にはヘリが飛び交い、指向性マイクとイコライザとを駆使して、その醤油顔の人物の生の声を、細大もらさず収録する。と、その人物の姿が、忽然と消え去り、それを見た周りの人々は、本当に引いてしまって、黙りこくった。その一部始終を報じる動画が、マスコミによって全世界に向けて公表せられ、各国首脳は、拍手をもって、その見知らぬ醤油顔の人物の生の声を、賞賛した。

 「これが聖戦でなくて、なんであろう!」戦う相手を、間違えてはならないと、とある国の首脳は、演題に立って、テレビの前の聴衆に向かって、声をふるわせて言った。これを、この見知らぬ醤油顔の人物の言葉を聞いて、自分がどんなに感動しているかというのを、自身の声で伝えようということらしい。その感動が本物であることを、他国の首脳はみな、自分自身のことであるかのように思って、涙を流したものだ。

 そんなことなど、つゆも知らずに、地球は今日も、のうのうと回り続ける。あらゆる生きものの不安を乗せて。しかしそうして、この星が無関心でいられる、責任を回避していられる時代にも、ついに、終わりが来たのだ。

 それは例えば、カオスに関する簡単な実験からさえも、十分に、予期せられるべき終わりであった。いわゆる「パイこね」のような、単純な作業でも、カオスは再現されうることは、何世紀も昔に知れていた。カオスが取りうる値というのは、なぜかある一時期、一箇所に集まって安定化することがあり、またある時期に、なぜかは分からないが、その安定した状態から突然、まったく別の、飛び離れた値に拡散してしまったりする。この現在の恒常的な環境も同じだ。突然、まったく何の前触れもなく、ものすごく不安定な時期へと移行する。

 「はい、ナレーションさん、ご苦労さん。」僧侶が、上半身をニュッと伸ばすようにして、カオスの説明図の下隅から、斜めに割り込んでくる。実は、この僧侶もまた、この星の終わりについて、早くから勘づいていたのだが。

 「はいはい。もういいから。」僧侶は、面倒くさそうに片手をふって、ナレーションの声を追い立てる。「頑張ったって規定の給料しか出ないんだから。」パンパンと、僧侶は両手を払って、その両手を両の腿になすりつけ、今度こそ、厄介払いをした。

 「えー、テレビの前のみんな、俺が突然出てきて、驚いてるかな。」僧侶の濃いソース顔が、ヒゲの生え際さえも見えるほど、テレビの画面いっぱいに迫る。

 「ちょっと、子供泣かしては駄目ですよ。」司祭の声がする。えっという顔で、僧侶のソース顔が画面から離れ、声のしたほうを睨む。司祭の醤油顔が、テレビの前の聴衆に向かって親しげに手をふりながら、僧侶のソース顔を押しのけつつ、あらわれる。背後で、あれ誰?、誰か呼んだ?、この間の事故のか?、スクープじゃん!、などと混乱するスタジオの声。

 「ほら。あなたより、わたしのが有名ですよ。」マイクを持たないほうの手で、なんとなく僧侶を指し、なんとなく自分を指して、さも満足気にニッコリと微笑む司祭の顔が、画面いっぱいに映る。

 「出たー!」と、画面の外で誰かの小さな叫び。「速報値だけど八十八パーセント!はちじゅうはちぃ!」という、狂気のように裏返った声が続く。

 「視聴率な。」と、僧侶が声だけで、そっけなく言う。画面が引かれ、司祭の醤油顔と、僧侶のソース顔とが、並んで映る。二人は、互いの顔を見合わせたが。しかしめずらしく、僧侶が司祭の肩を小突いて、出番を譲った。

 「へぇ。素直じゃないの。」司祭が、本気で驚いたような顔で、しみじみと僧侶に言う。僧侶は、なんだか照れくさいような、ニタッとした顔をして、片手で頭をかいてみせた。「じゃあ、わたしから。」司祭が居直る。画面も司祭の側へ寄る。

 「うーんと。突然、ショッキングな話だと思いますが。この星は、もうすぐ終わります。終わるというのは、実際には、物理学的にか、生物学的にか、消滅するということですが。」

 「はぁ?」先に、聖戦と言った首脳が、口をあんぐりとあけて、画面の司祭を見ている。お前、我々が淘汰されちゃいかんと、言っただろ。それをお前とでも、言いたげな口元だ。

 「あー、そこの、首脳さん。そうです確かに、わたし、淘汰されてはダメだと言いました。それがわたしの務めですから。あなたたち人類の信仰は、わたしらが務めをきっちりと果たしてこそです。けっして裏切りません。これは先祖からの契約なので。わたしらもそれで飯食ってる。」司祭は、画面に向かって、ニッコリと微笑みかける。

 「さっさと本題に行けって。」横から、僧侶がツッコミを入れる。「放送時間なくなってきてっぞ。」ほらと言う具合に、僧侶が画面の外の時計を指差してやる。

 「あらら。急がないと……。」司祭が居ずまいを正すと、画面も再び、司祭の側へ寄る。「でも、もう伝えることは伝えましたからね。わたしらのお仕事はそこまで。あとのことは、みなさんでどうぞ。」

 「またそんな。いい加減な奴だな。」僧侶が司祭の肩を小突く。しかしマイクは自分の口元から離さない。画面の向こうへ向き直って、僧侶は、下から上へ、ぐるりと腕を回すように、大げさに合掌して見せた。「ではみなさん、さようなら。」フッと、二人の姿が、画面から消えうせる。

 「我々は、自然と闘い、自然に勝つために、頭かずを、頭かずだけを、武器としてきた。」先に聖戦と言った首脳が、司祭らの消えた画面を、まるで吸い込まれるように凝視しながら、ぼそりと、つぶやいた。「ほかにやりようがない。」

 「我々に教えてくれたのでは。」黒い背広を、ビシッと身にまとった側近が、首脳の耳元で囁く。「この星が終わるということを、先んじて、我々に教えてくれたとしたら。我々は、期待されているということでは、ないでしょうか。」

 「期待、されている、とは?」首脳は、夢のように呟いた。まだ画面に見入ったまま、画面の向こうの混乱を、定まらない目線で見ている。そして今度は、自分の言葉で、「そうだ。期待されているのだ。」と、首脳はまず、自分に聞かせるとでもいう具合に、力強く、そう言いなおした。画面の向こうから、音だけ、思い出したように「そうだ」と、他国の首脳らの言う声が、かすかに聞こえた。その声に応じて、首脳はもう一度、改めて、「そうだ!」と、ほとんど叫ぶように言った。「我々人類は、間違っていなかったのだ。誰も、灰の上に座る必要などないのだ。」画面の向こうから、鳴り止まない拍手が聞こえてくる。首脳は目尻をぬぐった。「そうだ。たとえ、我々が間違っていたとしても、後悔など、する必要はないのだ。」

 デスクでベルが鳴った。科学相からのホットライン。先の側近が、小走りに、受話器を上げに行く。二言、三言話して、側近は、耳から受話器を離した。「首脳、まずは隕石からです。」

 「よぅし、来てみろ!」首脳は。片腕でガッツポーズをして、もう片方の手で、その二の腕を受け止める。「始まるぞぉ。前代未聞の、感動の、人類の、本物の共同戦線が。」前の、どんな首脳も、経験したことのない。経験したいと思ったけれども、できなかったことが、これから、自分の代で、始まるのだ。そう考えると、首脳は、ウキウキしないわけには、いかなかった。ほどなく、国家間のホットラインが鳴りだす。そうだ。我々は、生き延びることを、期待されているのだ。首脳の声にも、おのずと力が込もる。

 ひとりの、車椅子に座った学者が、これも側近のひとりではあるが、部屋の隅へと引きこもって、その見たこともない、首脳のハッスルぶりを、黙って観察している。その首脳の姿は、この車椅子に座った学者が見たいと思ったこととは、まったく、正反対の姿であった。

 デスクにふんぞりかえって、自信満々の首脳の元へ、各国から次々と、進行状況の知らせが入る。成り行きとはいえ、今や首脳は、世界のリーダー的地位にあったから、本人としてみれば、どうしても顔がニヤけてしょうがない。

 しかしその、首脳の余裕しゃくしゃくっぷりが、ある電話を境に消失し、首脳が、先の黒服の側近と、おでこを突き合わせだすやいなや。車椅子に座った学者の瞳に、消えたはずの光が、かすかに取り戻されて。さらに、首脳が、各国からのホットラインに向かい、側近が止めに入るほどの、荒い言葉を発しだすようになってくると、車椅子に座った学者は、とうとう、部屋の隅からその姿をあらわして、部屋の中央の、天井から明るい光が降り注ぐところへすらも、そのタイヤを踏み入れるまでになっていた。

 「あ、博士……。」存在を忘れていたというくらい、驚いた首脳と側近の顔を見て、車椅子に座った学者は、思わず微笑んだ。

 「どうですかな。」学者は、静かに、車椅子のブレーキをかけた。首脳らの顔色を見れば、もう、部屋の隅へ引きこもることにはなるまいと、学者はこれまでの観察から、確信していた。

 嫌な野郎だという顔をして、首脳は、自分の座る椅子の、床からのわずかな高まりの向こうから、この学者の顔を見下ろした。空軍からのホットラインが鳴る。首脳は、まったく予期していなかったふうで、ビクッとして、あやうく、その受話器を取り落とすところだった。「私だ。なに?」と言って、首脳は、黒服の側近と、不安な顔を見合わせ、次に二人ともが、車椅子に座る学者に向けて、頼むというような目線を向けてきた。その様子を見て、学者はもう、何が始まろうとしているのかを理解した。

 「首脳、残念ですが、避難は、間に合わないでしょうな。」学者はそこで、言葉を切り、指を三本、額にあてて、考えていたが。にわかに顔をあげて、こう首脳らに伝えた。「あなたのご家族、側近のかたのご家族、ご親族、医師、看護人、技術者、教員、冒険者、芸人。わずかなひとたちだけを、突然、迎えに行くことです。絶対に、このことを漏らしてはならない。そのほうが、国民にとって、幸せです。終わりは、飲み食い、めとりなどしているうちに来るほうが、幸せですな。もうどうやっても、全員を、1つの村の住人全てですら、避難させるのは無理なのですから。」

 「あなたは、楽しそうですね。」黒服の側近が、車椅子に座る学者の前に進み出て、腰をかがめて、そう言った。「でも、この世がある限り、あなたは、このかたの側近のひとりです。どうか、私たちと一緒に、頭を悩ませてください。あなたは、この方面の権威でいらっしゃるのですから。私たちに、私たちが助かるための、どんなヒントでも、与えてください。」

 「もちろんです。」と、学者は、深く、うなずいた。「私が楽しそうに見えるとすれば、それは、やっと、みなさんのお役に立てる時が来たからです。この世のある限り、私もとことん、みなさんと一緒に行きたいと思っていますよ。私を評価してくださり、手をかけてくださったのは、この世のほかには、なかったのですからね。ですが、先ほどお話ししたことだけが、今から可能なことだと、改めて、申しましょう。私は、それ以上のことは、思いつきません。」

 「ありがとうございます。」黒服の側近は、自分と同じ、側近の地位にある学者に向かって、軽く会釈をした。そして、首脳のほうへと向き直り、その目を真っ直ぐに見て言った。「首脳、急ぎましょう。失う時間はもう、ありません。私も、この世がある限り、首脳に、喜んで、お仕えいたします。」


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審判

2024年05月31日 | 小金井充の

 長い長いエスカレーターが、空の上の雲まで続いていた。教育者は、昔、そういう場面を、猫と鼠のアニメで見たなと思いながら、ひとりぼっちで、空の高みへと、ゆっくりゆっくり運ばれていく。下界を眺めれば、我が家の屋根が見え、見慣れた大通り、そこから山のきわまで広がる、住み慣れた街の景色が広がっている。街外れの墓地に、ひと群の黒い人影があり、かすかに鎮魂の鐘が聞こえたようだ。人間、死ぬときはひとりぼっちだと言うが、本当なんだなと、教育者は思った。寂しい限りだ。しかし、この高みから見下ろしても、人だかりが見て取れるほどの人数が、自分を見送ってくれたのだ。そのことが誇らしくもあり、勇気づけられもした。教育者は、甥が着せてくれた、一番お気に入りの背広を正し、先立った妻からの、最後の贈り物のネクタイを締めなおした。胸を払い、ついでに肩を払って、常世のチリを落としたつもりだ。見上げれば、エスカレーターの動きに従い、輝く真っ白な雲が、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。あれが天国かと、教育者は、細いフレームの丸みを帯びた眼鏡をかけなおして、その雲の妙なる陰影に見入った。かすかに、ざわめきが聞こえる。どうやら、あそこには沢山の人たちがいるようだ。地上を去って、つかの間の寂しさが、教育者のそこへの焦がれを、一層、強いものにした。
 ようよう、エスカレーターは終わりを迎えて、教育者は、幾本もの光の柱が立ち昇る、その真っ白な世界へと降り立った。重力はあるなと、一歩一歩確かめながら、教育者は考えた。してみると、ここはまだ地球なのか。向こうにはやはり、沢山の人たちが整然と列を作っており、ただあのアニメと違うのは、みな、それぞれの服装をしていて、誰も白いベールをまとっていないことだ。しかし、それはどうでもいい。この光景を見ろ。ここが天国でなくて、どこだというのだろう。教育者は、今まさに自分が目の当たりにしているこの眺めを、至極当然のものと思った。人生、振り返れば、本当に苦労をしてきた。言葉ではあったが、敵を倒さねばならぬことも、少なからずあった。そのことで咎められるのであれば、致し方あるまい。包み隠さず、ありのままに事情を話そう。教育者の全身が、今、恵まれた人生を歩んだ者だけが醸しだす雰囲気をまとって、光り輝いている。そう考えるだけで、目頭が熱くなるのを、教育者は覚えた。どんなに長く辛くても、最後には、報いが必ずあるものだ。実感に打たれて、教育者は夢見心地で群集の列に加わった。あちこちから、再開の喜びや、明るい笑い声が聞こえてくる。もしも地獄であれば、こうはいかない。教育者は、この先、自分が迎えるだろう場面を想像して、胸が熱くなった。これだ。この報いこそは、人生の総決算なのだと、教育者は感動した。そして感動のあまり、前に並ぶ婦人に声をかけた。
 「ここは天国でしょう。」教育者の声に、疑いはなかった。
 婦人は教育者を振り返って、微笑むと、白く縁取られた青いドレスの裾をつまんで、少し膝を折って見せた。都会ではもう、そんな挨拶の仕方はやらない。このご婦人はどこか地方のかたなのだろうと、教育者は親しく思った。よく見れば、ドレスは、幾つか別の青い生地から出来上がっている。婦人は、差した小ぶりな日傘を、少し上げて、その影に教育者を入れようとした。
 「ええ。わたくしも、ここが天国だろうと思いましてね。官吏のかたに聞いてみましたのよ。そしたら、天国ではないとおっしゃいますの。地獄でもないと。」
 婦人の言葉に、教育者は辺りを見渡した。官吏など、いただろうか。見渡す限り、さまざまな服を着た人々しかいない。無論、軍人や警官もいるが、そういう意味での官吏ではあるまい。辺りを一渡り見回してから、教育者は婦人に目を戻した。
 「官吏が。しかし、今はいないようですな。」そう言いながら、教育者はまた、辺りを見回す。
 「ええ。少し前に、みなさん、門の向こうへ下がりましたわ。」
 「え、門?」と、思わず声に出た教育者の目線を、婦人が白い手袋をした指先で導く。そこには確かに、大きな門があり、今しがた、それが開かれたように見えた。
 「あ、開きましたな。すると、これから審判が始まるのですね。」教育者は、小手をかざして、開け行く門を望んだ。群集のざわめきが静まる。教育者も群集も、門からやってくる、白いベールに包まれ、大学帽のような小高い帽子をかむった人々の姿を見つめた。ひとしお、群集のざわめきが高まる。あれが判事か。私たちの行方を決めるのね。教育者もまた、群集と同じ不安と憧れとをもって、その一群の白い人々を眺めた。
 やおら、その白い人々が、群集の誰かに向かって、それぞれ、無言で指を差す。するとまるで、ベルトコンベアに乗せられた荷物が仕分けされていくように、群集のなかから、ひとり、またひとり、歩くこともなく、時に座り込んだままで、スムーズに滑るようにして、その白い人々の前へと運ばれていく。雲に隠れて、椅子が用意されていたのだろう。白い人々は、おのおのの席に着座して、運ばれ来る人々と対面を始める。聖書にある通り、白い人々の前に、分厚い書物があらわれて、開かれ、白い人々の指がその紙面をなぞる。書かれてある通りだと、群集は興奮して、口々に褒め称えた。
 突然、つんざくような男の叫び声が響いて、群衆は静まり返り、一度にその声のほうを見た。誰かが赤く燃えて、彗星のように落下していく。ヒャッと小さな叫び声をあげて、婦人は教育者の腕に抱きついた。日傘がクルリと回って、ふわりと雲の上に落ちる。群衆の雰囲気も一変した。
 その刹那、教育者は、自分の腕が引かれていくのを感じた。見れば、婦人の体が静かに動いていく。その抱きつく腕は、するりと教育者の腕を滑って離れ、婦人は座り込んだまま、自分を指差す白い人物のほうへ、何の障害もなくスムーズに移動していく。婦人は片手を雲の上に突き、残る片手を、教育者のほうへ差し出す。思わず、教育者は婦人のあとを追った。子供らの姿が、その姿にダブって見えた。
 白い人物は、婦人とともに自分のもとへと来る教育者の、哀れみに満ちた姿を見てとると、「お前の番はまだだ」と、毅然として言った。
 教育者は、その声の重みに、思わず立ち止まったが。しかし、この哀れむべき婦人のために、意を決して、その白い人物の視線に立ちはだかる。
 「ここに居させてください。ご覧なさい。ご婦人はふるえている。」教育者は、自分の言葉の半ばにはもう、自信を取り戻していた。しなやかな姿勢で、その白い人物を見返す。
 「よかろう」と、白い人物は言った。そしてもう、教育者のことなど忘れたというふうに、その視線は婦人だけに向けられた。
 教育者は、休めの姿勢で足を出し、腕を組んで、婦人と白い人物との問答に耳傾ける。必要を感じれば、いつでも、婦人に加勢するつもりだ。
 白い人物の前に、厚い書物が開かれ、その指が、一行一行をなぞる。声には出されないが、婦人には、書いてあることが逐一、伝わっているようだ。段落を終えるごとに、婦人の姿勢が変わるので、それが知れた。白い人物が、やおら、顔を起こす。
 「間違いないか」と、白い人物が婦人に聞く。その高圧な態度に、教育者は怒りを覚えた。
 「はい。」とだけ、婦人は答える。そしてうつむいてしまい、その口から嗚咽が漏れるのを、教育者は聞いた。なんたる、痛々しい尋問だろう。教育者のみけんに、おのずとシワが寄る。こめかみに、細い血管が青筋を立てた。
 「ちょっと」と、思わず、教育者は言った。まだいたのかというふうに、白い人物が顔をあげ、教育者を睨む。関心は引いたと、教育者は思った。すかさず、教育者は言葉を続ける。
 「このご婦人は、生前、ずいぶん泣かされてきたのです。死んでなお、泣かされる必要がありますか。」相手が口を開く前に、まず論点をハッキリさせておかねばならない。教育者は、そこでわざと言葉を切り、相手から目をそらして見せた。眼鏡のつるをつまんで、位置をなおす。レンズがキラリと光る。
 しかし、白い人物は、何も言わないまま、分厚い書物へと視線を戻して、続く段落を、その指で追い始めた。婦人は顔をもたげて、両手を雲の上に突いたまま、ほかには聞こえない声に、聞き入っているらしい。
 教育者は、見るからにイライラした態度で、相変わらず腕を組んだまま、その様子を眺めている。こんな屈辱は、久しぶりだ。無名だった若い時分は、ずいぶんこういう目に遭ったが。しかし、世間に認められて以来、今日までなかったことだと、教育者は腹立たしく思った。
 「いえ、それは……」と、婦人は消え入るような、か細い声で言った。「それは……」と繰り返したが、上手く言えないようだ。
 この婦人も、十分な教育を受けられなかったのだなと、教育者は心の内で哀れんだ。なんたることか。教育者は、自分の努力が、まだ及んでいない人が、こうして目の前にいることを、深く悲しんだ。思わず膝を折って、教育者は、婦人と同じ目の高さに、自身の身を置く。
 「落ち着いてください。言葉を選ぶ必要はありません。ご自身の言葉でいいんです。言葉を重ねれば、あの人も理解してくれるでしょう。」教育者は、婦人に優しく話しかけて、白い人物の顔を仰いだ。
 「はい」と、婦人はようやくに言って、呼吸を整えながら、二言、三言話し始める。
 白い人物は、別に何も言わず、婦人の言葉に耳傾けている様子。相変わらず、教育者の存在を、忘れたような素振りでいるが。しかし、教育者にしてみれば、気にもならなかった。こんなこと、何度も経験したことだ。
 婦人のたどたどしい話を聞き終えて、白い人物は、ただ、「よろしい」と宣告した。教育者は、驚いて、一歩二歩、あとずさった。婦人の姿は、急に輝き始めて、音もなく、浮かびだす。
 「ありがとうございます。最後に、伝えたいことを、伝えることができました。」婦人は、教育者を振り返って、頬を涙で濡らしつつ、頭を下げた。その姿は、次第に形を失い、ついに光となって、大きな門へと入る。
 ああ、あのご婦人は、天国へ行ったのだなと、教育者は、にこやかに手を振りつつ、しみじみと思った。背後で、群集がざわめく。あの人はすごい。自分もぜひ、言葉添えを願いたいものだと、人々が口々に言うのを、教育者は満足して聞いた。
 しかし、群集の願いは、叶わなかった。教育者は、自分がいつしか、滑るように移動しているのに気がついた。いよいよ私かと、教育者は、背広の襟を正す。自分が引かれた先は、先の白い人物よりも、見たところ、ずっと若い人物のように思えた。なんだか、見たことのある顔だなという気がして、よくよく見れば、それは、かつて自分が教えたクラスの、落第生ではないか。
 「君は……」と、教育者は言って、その人物の名前を思い出そうと、指を額に添えた。しかし、思い出せない。この生徒が自分に関心がないのと同じく、自分もまた、この生徒に関心がなかったのを、教育者は、痛烈に思い出した。なんということか。若木の至りだと、教育者は唇を噛んだ。
 「すまない。君の名前を思い出せないんだ。あのころ、私はまだまだ若造に過ぎなかった。」教育者は、その若い人物に、頭を下げた。
 「僕も、あなたに興味ないです。」と、素っ気なく、若い人物は言って、先の婦人のものと変わらない厚さの書物を開いた。
 「それは、ありがとう。」とだけ、教育者は答えて、あとは黙って、ほかには聞こえない声の到達を待ったが。しかし、この人物は、普通に、みなに聞こえる声を出して、教育者との問答を始めた。
 「あなたは教育者ですね」と、若い人物が言う。
 教育者にしてみれば、これは答えるまでもない。皮肉かなとも思いながら、教育者は、微笑み返すだけで済ませたが。しかし、若い人物からの次の質問で、教育者は凍りついた。
 「あなたは、大勢の人たちから、訴えられています。」分厚い書物を指で追いながら、若い人物は淡々とそう言った。実際、そう言ってから、若い人物は黙ったまま、分厚い書物を三枚、四枚とめくった。
 「え……、なぜ?」とだけ、教育者は言うことができた。自分の人生を急いで振り返ってみても、そんな沢山の人たちから訴えられる理由は見つからない。現に、今さっき、ひとりの婦人を救ったじゃないか。
 「あなたは多くの子供たちから、学びの機会を奪ったのです。」と、若い人物は、罪状を淡々と述べた。教育者の顔が、にやけてくる。
 「ねぇ君、ちょっと、何を言われているのか、分からないが。」一体、この人物は、何を言っているのか。嫌がらせなのか。妬みからか。それなら、あるかもしれないと、教育者は真顔に戻った。仕返しというのなら、応戦せざるをえまい。なんてことだ。死んでまで、戦わねばならんとは。しかも相手は、落第生とはいえ、教え子だ。
 「あなたの教育の信条を、聞かせてください。」若い人物は、分厚い書物を閉じて、背筋を伸ばし、教育者と真っ直ぐに対面した。
 いいだろうと、教育者は思った。人生の集大成に、それを語る機会を設けてもらったというのならば、粋な計らいというものだ。教育者は、かつて教壇にあった時と同じに、両手を後ろに組んで、その場を逍遥しつつ、語り始めた。
 「子供の自主性を前提にすることは大事だが、ただ子供に任せてしまうのはよくない。経験ある者が、陰からサポートしなくては。課題の解決、コミュニケーション能力、洞察力、リテラシー。この四つの基本を軸にして、適当な機会に、子供の興味関心をそそるものを、与えてやらねばならん。安全な場所で、のびのびと育ちながら、将来を見据えた、子供ひとりびとりのための適切な課題を与えてやることで、この世界で生きる子供らが、みずからの未来を、希望のあるものにしていける。5Eとも言うが、有意な物事に関心を持たせ、探求させ、理由の説明を受け、みずから実践し、みずから評価する。それこそが、長い教育史を経て、ついに確立せられた、教育のスタンダードなのだよ。私の教育の信条も、その5Eにある。子供たちが、この世の必要とする産業や、社会の出来事にみずから関心を持ち、考案し、新たな常識を築き上げていくのを見るのが、私の人生の醍醐味だった。」
 若い人物は、何も言わずに、教育者が言うことを聞いた。それから、分厚い書物を開いて、おそらくは該当する箇所を指でなぞり、独り、うなずく。教育者を見て、「確かに、そう記されています。」と言った。
 それだけか?と、教育者は、やや、面食らった様子で、定まらない視線を、若い人物に投げかけた。若い人物は、教育者の視線など気にもせずに、次の質問を口にした。
 「あなたが言う、安全な場所、ここにはキャンパスと書かれていますが、それはどういう場所ですか。」若い人物は、また、分厚い書物を閉じて、教育者の語るのを待った。
 君にも教えたじゃないかと、言いかけて、この場の趣旨を思いなおし、教育者もまた、淡々と話すことにした。何十年かぶりの授業再開だな。
 「キャンパスとは、本来、野原というくらいの意味がある。子供たちが、あたかも野原で元気よく駆け回るみたいに、好きなことに、自由に興味を発揮して、そこから、学びの機会が拓けてくる。しかし実際には、野原で駆け回るわけにはいかない。野獣が狙っているし、先生にとって予測不可能な出来事が起こるからな。整えられた環境、教室などで、安全にそして自由に子供たちが活動して、十分に用意された教材によって、無駄を省いた実りある教育が与えられる時、子供たちの生きる能力は、飛躍的に伸びる。そうした子供たちが、将来の世界の指導的立場に立ち、すべての人々のための、新しい社会を創っていくんだ。」
 群集は、ざわめきをやめて、この問答に関心を寄せている。さすがに、群集を振り向いてはみなかったが、どうだ、と、教育者は思った。しかし、若い人物の反応は、教育者の思いのほか、薄いようだ。
 「確かに、そう書かれています。」若い人物は、さっきと同じことを言う。ちぇっと、教育者は思った。しかし、それでモチベーションを下げられることはない。多くの先生がたを悩ますシチュエーションを、この教育者もまた、幾度となく打開してきた。
 「ところで」と、若い人物はまた、分厚い書物を閉じて言った。「僕はそういう教育も受けず、そういう育てられかたもしてないですが。こうして、あなたばかりでなく、あなたが育てた人たちをも、裁く立場にいるのは、どういうわけですかね。」
 教育者は、笑って答えた。「それは君が、私より先に死んだからだよ。」
 「ごめんなさい、何言ってるのか分からない。」と、若い人物は面を伏せて、片手を振って見せた。
 「私が先に死んでいたら、私がそこに座っていたってこと。」と、教育者は、少しイライラした気分で、若い人物を指差した。若い人物は、ただ、従前のように、まっすぐに教育者を見たまま、ハッキリとこう告げた。
 「もしもあなたが、誰からも訴えられていなくても、私が死のうと死ぬまいと、ここに座ることは、けっして許されません。」
 なぜ?という顔で、教育者は、若い人物を睨んだ。
 「自然が、あなたにとっての敵だからです。」
 何を言われているか分からないというふうに、若い人物を睨んだままの教育者に、若い人物は、ためらっていたが、ふと、何かを聞いたように天を見上げると、教育者の視線を避けて、うつむいたまま、こう宣告した。
 「あなたが育てたのは、この地上の、生きものの子供ではなく、自然を拒絶するこの世が続いていくための、部品としての子供だからです。」
 教育者は、叫んだ。「動物の子供を人間の子供に育てるのが、教育の使命だ!お前は、それすら知らないのに、そこに座っているのか!」その開かれた口から炎が吹き出して、教育者は、真っ赤に燃えながら、墜落していった。若い人物の濡れた瞳に、その光跡が一筋、淡く輝いた。


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ノクターン

2024年05月18日 | 小金井充の

 その最後のピアノ・コンサートは、市民ホールなどの、相応しい場所で開かれたわけではなかった。金曜の夜、演奏者の自宅の居間に、その日の仕事を終えた、わずかばかりの人々が、恩師のピアノを聞くために集まった。事情を知る者もあったが、しかし誰も、あえて話題にはしない。というのも、恩師のその人となりとから、こういう終わりもありうるだろう。ついにその時が来たのかと、みなが思っていたことだから。約束の時間を前にして、一人、また一人と、最低の音量にしぼられたドアホンの呼び鈴を鳴らす。玄関先で祝意があり、贈答品があって、恩師は気恥ずかしそうにその品を披露する。そもそもこの居間でのラスト・コンサートも、このわずかばかりの人々の発案ではあった。最後なんだから、市民ホールを借りて、せめて小ホールでやろうという話にもなったのだが。しかし誰のコンサートなのかを思えば、賞だとかメンツだとか気にしない人だから、そんなところへ引っ張り出さずとも、自宅にお邪魔するのがいいだろうということで一致をみた。ついでに、花は誰、酒は誰と、贈答品が重ならないようにしようということにもなり、年季の入ったヤマハのピアノを囲んで、ちょうどいいくらいの飾りつけにはなった。めいめいが、ソファや椅子にくつろぎ、恩師はお返しにと、秘蔵の山崎をふるまって、ひとしきり、思い出話がはずむ。それでは、と、予定の午後七時半、ピアノの所の白熱灯を残して、部屋の明かりが消され、恩師は、紙ナプキンをあてたグラスを、ピアノのいつもの場所へと置く。そして何か、ちょっと思案した気なそぶりを見せ、微笑むと、おもむろにカバーを上げて、鍵盤に手を添える。静かな、山崎色の明かりのなかに、ショパンのノクターン二十番が溢れる。今夜の物語の序章に、これほど相応しい曲はあるまい。観客は拍手も忘れ、この、何人ものピアニストを世に送った教授の、最後の晩餐を堪能した。
 今、私の手のなかに、その恩師の現役時代の演奏を収めた、4トラックの大きなテープ・リールがある。再生装置は、とうの昔に廃棄されて、もう聞くことはできない。大学の旧図書館の、書庫の片付けを、私のいる会社が、仕事として請け負った。ホコリとカビとに覆われ、半ば崩壊したダンボールのなかから、私はその大きなテープ・リールを見つけた。手にして、ふと、色褪せたインクの、手書きのタイトルを見た時には、まさかと思ったが。しかし筆跡に懐かしさを覚えて、私は軍手をした親指で、タイトルを二度ぬぐった。もう遠い昔になったが。でも確かに、私は授業で、このテープを聴いた覚えがある。あの最後のピアノ・コンサートが、思い出される。ピアニストにも、作曲家にもならず、世のなかを斜めに生きてきた私は、あの日も無言で去ることができなかった。最後まで残って、私は恩師に聞いたのだ。先生、どうして辞めたんですか、と。恩師の答えは、私にそのまま当てはまった。
 「僕はね、この世のどの一人にも、生き残って欲しくない。そんな想いを持つ奴が、教壇に立ってちゃいけないだろう。そうだな。君くらいの年代の人を境にして、人は人でなくなった。僕はそれを、敏感に感じた。僕はもう、誰にも、何も教えたくなくなったんだ。」
 新しい図書館に、蔵書として受け継がれる書籍は、みな、引越しが済んでいる。ここにあるものは、すべて廃棄扱いの物ばかりだ。私のいる会社が、大学側と結んだ契約書には、撤去した物の所有権を、会社へ移転する旨の取り決めがある。会社はこれらをオークションにかけ、収入を得る。その代わり、撤去の費用を安く済ませるわけだ。無論、私はこのテープ・リールを、欲しいとは思ったが。しかし、もう終わるというのなら、何を残すこともあるまい。おそらくはマニアが、ただレトロだという理由だけで、このテープを落札するだろう。私はそれを、半ば崩壊したダンボールのなかへ、元のように戻して、そっと、ダンボールを抱えた。ダンボールの下半分は、まだ強度を保っていて、このまま、階段を登っていけるようだ。見上げれば、暗い地下道の出口のように、午後の明るい陽射しが差して、私はその光のなかに消えた。


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思春期の終わり

2024年05月05日 | 小金井充の

Kindle本で1本にしました。

170ページちょい。

表紙カラーにしたりすると

どんどん値段が上がるので、

モノクロ表紙とか

必要最低限の装丁です(笑

別途に電子版もあって、

Kindle Unlimited だと

タダで読めますし、

僕にも少しお金が入るので

オススメです。

表記の揺れがありますが、

公開時のままにしてます。

電子版は試し読みできますので、

ご利用ください  (^^)/

もともと、

某、イラストサイト向けに

書き始めたものなので、

登場人物の名前などは

未決のままですし、

一部の表現が、

そういう方向で

「濃いめ」です(笑

あしからず。


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