おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

僕ホテル(My hotel)

2025年03月30日 | 小金井充の

 

I.出会い編
 
いそがし過ぎるけれど、僕も観光したいな。

週休二日制の勤務形態とはいえ、肉体労働の部類に入るお仕事。週休二日と言ったって、連休なんかもらえるわけがなく。せっかくの休日は、何年やってもなってしまう筋肉痛と、びっくりするくらいの眠気とで、まず半日はつぶれてしまう。レシピを見よう見真似で、チョッと洒落たパスタでも作ろうものなら、もう一日が終わってしまいます。ゆっくり風呂につかるヒマもない…。

「あー。風呂かぁ。ゆっくり風呂に入りたいなぁ。」

布団から起き出して、パソコンのスイッチを入れる。お気に入りの銭湯は何軒かあったんだけど、数年前にすべて廃業した。燃料の高騰もあるけれど、あとを継ぐ人がいないのと、建物の老朽化。そればっかりはどうにもならないねぇ。

「日帰り」「入浴」「和食」などというキーワードを入れて検索にかけ、定山渓だとか、登別だとか、よさげな旅館をみつけては、口コミなんかを見たりもするんですが。結局はやめてしまう。そこへ行くまでが大変なんだ。登別は、思い出があるから、久しぶりに行きたいなぁとは思うんだけれど。札幌駅から特急使っても、片道一時間以上。そこからタクシーなりバスなりに乗らなきゃいけない。往復で何時間かかるの?

ならば、定山渓はどうかというと、札幌駅からバスで一時間はかかる。じゃあタクシーと思って調べてみると、そんなに変わらない。一本道だからな。バスと同じ道を走らざるをえないんじゃあ、タクシー使う利点がないです。観光シーズンともなれば、何時に到着するか分からない。一日しかないんだ。いや、一日もない。

何時に終わるか分からない仕事をやっつけて、タクシーつかまえて、とにかく札幌駅へ。夕飯なんか食うヒマもない。それから一時間、電車に揺られ、バスに揺られ。到着は何時?二一時?二二時?そこからさらに、現地のバスなりタクシーなりに乗らなきゃならない。そんな時間に走ってるバスはあるのかな。二二時に駅に降り立って、客待ちしているタクシーがいるのだろうか。繁華街へ出払ってしまって、もう一台もありませんと言われるのがオチなんじゃないか。オチなんじゃないかというか、過去に何度か経験もした。

そんなんじゃダメだ。いそがし過ぎる日常から抜け出して、「ほっ」としたい。だのにこれじゃ、分単位のスケジュールになるだろう。もう少しここにいたい。その「もう少し」が欲しいのに、速攻、ダメって言われてしまう。観光って難しいもんだなぁ…。時は金に代えがたいとか言うけれど、まさにそれだわ。

「風呂入りてぇなぁ…」

ぼやきつつ、時計を気にかけもしつつ。だけど諦めきれないから、「近所」「穴場」「市内」「現地」「一時間以内」などなど、思いつく言葉を足したり引いたりして検索にかけてはみるんだが。調べても調べても埒(らち)があかない。むしろどんどん遠くなるわ。仕事は、どんなに早くても一九時より前には終わらない。通勤カバンに着替えだけ持って、会社を出たその足で向かいたい。飛行機?もぅ…、無理かな。ついに諦めて、マウスを放り出したんだが。拍子ってのは面白いもんで。

「なら、市内のホテルでよくね?」

という考えがひらめいた。ホテル…、か。脳裏には、過去に経験したビジネスホテルでの出来事が、あれこれとよみがえってくる。ホテルかぁ。あんまりいい思い出はないなぁ。寿司でも買って、家でシャワー浴びたほうがよさそうだ。露天風呂もない。食いきれないほど出てくる夕食もない。カニのグラタンは要らないけど(笑)。窓から見えるのは隣のビルの壁だろう。かといって、カーテンを閉めたら、部屋の狭さがいっそう感じられる。浴室はない。あってもユニットバス。古い。狭い。デザインはちぐはぐ。古いんなら古いままでいいよ。タバコの匂いは嫌いじゃないが、照明がヤニ色に染まっているのは、萎えるわ。仕事思い出しちまうじゃないか。そんなんで、わざわざ行く理由がないねぇ。

だいたい、仕事で疲れきったあとなのに、繁華街の人波をかきわけて行かなきゃならないなんて。もうそれだけで吐き気がしそうだ。会社を出たその足で、交通機関一本。乗り換えは無し。降りたら、長くは歩きたくない。繁華街の近くはイヤ。夜中にオッサンのがなる歌なんか聞きたくないわ。風呂はせめてタップリの湯で、足を伸ばして入りたい。食事は部屋で静かに食べたい。朝食はどこもバイキングなんだろうが、朝っぱらから争奪戦に参戦するつもりはないです。

となれば、いわゆる「高級ホテル」しかないだろうな。高いゾ。一泊素泊まりで五万円とかするんだ。タキシードやドレスに身を包んだ人たちが、一杯いくらなのか分からないワインやシャンパンをたしなむ。そんな脇で、やっとテーブルマナーを覚えたくらいの奴が、上下セット九九八〇円の安物スーツでさ。味なんかしないと思うわ。

だけどほかに、選択肢はないんだな。使える時間は、一日しかない。移動時間を最小限にして、現地でのんびり過ごすには、市内のどこかの高級ホテルを開拓するしかないんだろう。放り出したマウスを拾い上げて、検索キーワードをリセットする。「宿泊」「市内」「ホテル」「結婚式場」と入れて、検索ボタンを押す。「結婚式場」というキーワードが、検索結果からビジネスホテルを取り除いてくれるはずだ。

しかし、やはり高い。高いというか、どこも広い部屋ばかりだから、それに応じた料金になってしまう。二部屋も三部屋も要らないんだ。かえって落ち着かないよ。一部屋でいい。使い慣れたこの部屋と同じくらいの広さでいいんだけど。高級ホテルがそういう部屋を用意したところで、需要があるのかどうか。普段から高級ホテルを使う人たちって、二部屋も三部屋もある部屋がデフォだからなぁ。一部屋なんてかえって落ち着かないだろう。本州勢の、有名どころのホテルは、どこも広い部屋を売りにしている。ダメか。そういうのにこっちが慣れるしかないのか。まあだけど、探せばあるものだねぇ。

僕と、このホテルとの出会いは、そんな感じで始まりました。えぇ…?、天皇陛下が泊まったところ?。創業以来、道内随一で名の通っている名門ホテルですよ?。恐らく…。どうやら、北海道っていう立地条件が効いているようだな。大部屋ばかりでは、ここの需要を満たせない。高級ホテルでありながら、ビジネスホテルの役割も兼ね備えて、地域の需要に応えている。いわば「北海道仕様」というところか。

ありがたいことに、このホテルは、完成してまだ間もない「地下歩行空間」から、直接入っていけるようになっているんで。寒空の下を、人混みに紛れて、延々と歩かなくていいってのは嬉しい。控えめだが、いい雰囲気の階段がしつらえてあります。


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月の庭(1)

2025年01月28日 | 小金井充の

 

 「ひでぇ星だったぜ……。」前の席の角刈り頭が、そう呟く。
 僕は窓の外の、はるか下の地面が遠のいていくのを、ただ眺めていた。
 ひとが、死ぬことなしに、生まれた星を離れられるようになったのは、つい昨日の話のように思える。
 星系内の他の惑星で、開拓の仕事をするという、冗談のような求人を公共職業安定所で紹介されてから、再利用可能な宇宙船ができあがり、それに乗船するまで、二年も経たない。とりあえず月で研修してから、隣の惑星に行くそうな。
 「よぅ、おまえは何で志願したんだよ。」前の席の角刈りが、ヘッドレストと壁との間に顔半分を突っ込んで、ギロッと、目玉だけで睨んでくる。
 「ひっ!」と、思わず声が出て、僕は体が椅子にメリ込むくらいその目玉から逃げて、「職安……」とだけ言った。腹にベルトが食い込んで痛い。
 「職安!」角刈りは、すき間から顔半分を引っこ抜いて、モロ手をあげて大声を出した。船内が静まり返る。
 ほぼ全員の目線が僕に刺さる。僕は椅子に埋もれてしまいたいほど体をちぢこませて、いつものようにギュッと目をつむる。「だからこの星の奴らは嫌なんだよ……。」壁に口づけするほど顔をそむけて、僕はそう呟いた。しかし、それも一瞬。
 船内はザワメキを取り戻して、もう僕の存在を忘れている。前の席の角刈りは、隣の奴と、ちからコブの見せ合いを始めた。
 「どこかの軍人さんかな?」僕は溜め息をして、椅子から浮かび出る。この感じ。この空気が、僕をここに居させる。言ってしまえば、雑多な連中の集まり。ここへ至った経歴も、年齢も国籍も、ここでは「ふーん」で済んでしまう。
 急に船内の照明が落ちて、ザワメキが止む。みな、窓の外や、正面の映像を見つめている。窓の外、ずっと下のほうで、地表はもう鮮明さを失い、茶色と緑色と青色と白の塗り絵になっている。もう二度と、この景色を見ることはない。
 シューっと、かすかだが、聞きなれた音をとらえて、僕はそのための姿勢に直る。間もなく眠くなり、深い吐息をして、記憶が途絶える。最初の夢は、子供のころ、町内の子供らと、ケイドロをした場面。
 「おまえがトロいから、またドロじゃん。」耳元で、ガキ大将の大声がした。
 「ごめん……」と、僕は泣く。縁石に座って、体をちぢこめる。ゲームは僕抜きで再開して、楽しそうな子供らの様子を、僕はただ見ていた。あそこに、僕の居場所はなかったなぁと、僕は思った。最初の夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 誰か大人が、僕の植木鉢を、ポイと投げ捨てた。土しか入ってないようだから、その扱いも仕方がない。横倒しになって、雪崩出た土の中に、やっと根を出したカボチャの種があることを、僕は誰にも言わずにいた。あれを号泣というんだなと、僕は思った。あの時は、本当に悲しかったが。すでに車の中にいて、そこから出ることを許されなかった僕には、なす術もない。懐かしい家。幸せだった家。あの家に帰ることはなかったな。夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 何の集まりだろう。大学のコンパかな。古びた部屋に、ギュウギュウに机が詰まって、みんなでガヤガヤ騒いでいる。
 「ひとーーーつ!」と、間延びした大声が、僕のうしろで始まる。
 「よぉー!」みんな喝采。グラスをかかげる奴、から揚げを箸で持ち上げる奴、ビローっと焼きそばを引きのばす奴もいる。
 「剣道部所ぞーく!春季大会第さーーーん位!」間延びした大声は続く。
 「おぉー!」みんな拍手。頭の上で手を叩く奴。机をドンドンする奴。
 「伝とぉーーと栄こーーぅの!しば!うえ!たに!よん!きょう!ぞーく!」みんな大笑い。何言ってるのか分からんが、あれは楽しかったなぁ。あのあと焼きそばにあたって、みんな寝込んだんだっけ。
 ズキッと、頭に激痛が走って、僕は目を覚ます。
 「この頭痛だけは慣れん。」前の席の角刈りが、無い髪の毛を片手でかきむしる。「ふぁー」と、両手をうんと伸ばして、あくびをする。
 角刈りはあれから、まったく、僕のことなど忘れたふうだ。ありがたいと、僕は思った。体が、ゆっくりと、後ろへ回りだす。間もなく、着陸するらしい。
 ザザッと、船内のスピーカーから音が出る。「当機は着陸態勢に入る。諸君の自主性に期待する。」プツンと、それだけ言って、スピーカーは黙った。パイロットは乗っていない。代わりに、自動操縦のプログラムが走っている。
 ゴォーッという逆噴射の音が始まり、宇宙船は、重厚なハッチを、規定通りの間隔と速度とで通過する。このハッチが閉まれば、もう空を見ることもない。
 逆噴射の音が止まり、船内のあちこちで、ガチャリと、シートベルトを外す音がする。ハッチの内部に空気が満たされるまで、みな、船内にとどめられる。全員が居住区に入ると、この船は自動で飛び立ち、次の旅団を迎えに行く。
 「誰もいねぇな。」前の席の角刈りが、窓の外を眺めて言う。「逃げ出したい奴は、いないらしいな。」角刈りは、ヘヘッと笑って席を立ち、後方のハッチへと歩き出す。荷物は先に、それぞれの部屋に届いているはず。
 僕は座席の肘かけを、名残り惜しく撫でて立ち、後方のハッチから並ぶ列の最後についた。誰も、僕も、自分の後ろを見ない。
 列の前方で、シャーッと、ハッチが開く。無味乾燥だが、新鮮な空気が流れ込んでくる。みんな深呼吸している。おそらく、新天地なんて、誰も思ってやしない。出社する感覚。それだけ。
 カンカンと、軽い金属音のする廊下を歩いて、言葉もなく、自分の番号の部屋へと散っていく。個人のスケジュールは、その部屋の机の上に、すでに用意されてある。あの角刈りと出会うことも、もう無いだろう。
 扉は僕を認識して、音もなく開いた。これからここで、僕は暮らす。コンクリート打ち放しの、寒い部屋だろうと思っていたが。ホテルのダブルベッドの部屋のようだ。
 なんと、窓がある。思わず歩み寄って見れば、どうやら中庭が見渡せるようだ。窓は開かないが、眼下に広がる果樹。川まで流れている。小鳥もいるのか。
 窓枠に、スピーカーが埋まっているのに気がついて、僕はスイッチを押した。ボリュームを上げると、かすかに水の流れる音が聞こえる。時折、小鳥の鳴き声も聞こえる。わずかにエコーがかかっているから、中庭も天井で覆われているのだろう。
 しばし景色に見とれていると、ピピッと、机でアラームが鳴った。スケジュールはもう、始まっているようだ。机の天板を兼ねたディスプレイに、「入浴」、「昼食」、「採血」の文字が浮かぶ。それぞれの文字の隣には、完了のボタンがある。完了以外のボタンは無い。どこへ行けとも言わないから、始めは座学なのだろう。
 湯船に体を沈めるのは、久しぶり。ずっと、シャワーだけだった。それも、シャワー室のある場所がとれればの話。朝早く起きて、遅くまで現場で働く毎日。食いつなぐだけの毎日だった。
 思わず長湯してしまって、気まずい思いで完了のボタンをタップする。トイレの手前の、洗面所の明かりが自動でついて、ピピッと、そこのアラームが鳴る。洗面所の脇の台に、せりあがってきた昼飯を見て、僕は驚いた。ビニールに包まれた、そっけない保存食一式だろうと思っていたが。ホテルの朝食並みだな。パンにバターにジャムに目玉焼き。サラダとドレッシング、グラスにつがれたジュース、牛乳、コーヒーまである。
 「ここで作っているのか!」僕はうなった。合成食品ではなく、まぎれもない、栽培された野菜、加工された肉。これは、どういうメカニズムなのかと、僕は食べながら空想していた。原理は、宇宙船に乗る前に、ひと通り教わりはした。それが実際、機能しているとはな。
 トレイを持って、机で食べようと思ったが。台に固定されている。ここで食えということらしい。机からビジネスチェアを引いてきて、座る。まあなんて、久しぶりの晩餐だろう。コショウと塩が欲しいところだが、この際、贅沢は言うまい。
 ウキウキで完了のボタンをタップすると、ふたたび、洗面所のほうで、ピピッと、アラームが鳴った。さっき、昼食が乗っていた台に、採血用の小さな器具が乗っている。指の先に当てると、自動で針が出て、少量の血を採取する。宇宙船に乗る前に、何度かやった。チクリとはするが、血はすぐに止まる。これも、台に固定されていて、指のほうをあてる方式らしい。
 机に戻って、完了のボタンをタップしたが、続く指示は出ない。今日のスケジュールは、これだけということのようだ。
 とりあえず、ベッドにもぐりこむ。なかなか心地よいが、カビ臭く汚れたベッドに慣れた身では、戸惑いのほうが先に出てしまう。
 僕の荷物は、何もない。衣類一式は支給される。あそこから持ってこようなどと思うものは、何もなかった。枕の上には、いくつかスイッチがある。カーテンの開け閉め、照明のオンオフ、空調まである。このスイッチは?。押すと、天井がなくなった。どうやら、ベッドの上の天井は、一面のディスプレイらしい。中庭の照明に連動した、空の風景が映し出される。窓枠のスピーカーの音が、実感を添えてくれる。
 旅の疲れだけでは説明できなさそうな疲れで、僕はすぐに、ウトウトしだした。「病院みたいだな。」不明瞭な意識のなかで、僕はそう呟く。記憶にある、唯一、安らぎを感じた場所。現場の事故で救急搬送されて、気づけば、体中に管が差し込まれていた。一週間くらい、意識不明だったそうだが。病院にいたときは、涙が出るくらい、初めての、安らかな気持ちだった。あれがなければ、この求人に応じることもなかったな。
 目を覚ますと、夜になっていた。中庭の照明で、二十四時間を演出する仕組みのようだ。アナログの時計を持ってくればよかったなと、今更に思う。デジタルばかりのこの部屋に、アナログの時計でもあれば、ぬくもりを感じるだろう。
 机のディスプレイは、天板を兼ねているので、立てることができない。ベッドからは位置的に、画面を見ることはできない。なかなか上手くできているなと思う。ひょっとして、天井のディスプレイに表示されるのかと思ったが、そんなことはなくて。あくまでも天井か、または、空の景色を映すだけだ。ピピッとアラームが鳴る以外は、スケジュールの存在を意識させないつもりらしいな。
 「しかし、あまりにも……」僕は呟く。あまりにも、良すぎるのではないか。これまでの経験が、何かあるぞと僕に警告してくる。どんな研修が、始まるのだろう?。いつまでやるのだろう?。あの肉は、何の肉だろう?。
 ピピッと、机でアラームが鳴る。「夜に?」僕はベッドを抜け出して、机の前に立つ。「睡眠導入剤」の文字の横に、「要」、「不要」のボタンがある。不要のボタンがあるなと、僕は思った。「要」のボタンを押してから、あの頭痛を思い出して凹んだ。続いて、ベッドに入るよう指示が出る。シューという、聞きなれた音が聞こえて、僕は眠りに落ちた。
 夢の中で、僕はどこかの岬の突端にいた。足元から吹き上げてくる、潮の香り。霧が立ち込めるなか、赤と白とに塗られた、ひとつの灯台が、彼方へ一筋の光を投げている。どこだったか。いくつか思い当たる場所はあるが、判然としない。けれども、そこへ行った目的は、同じだった。とどろく波の音におじけて、夜明けまで、そこに座っていただけ。この求人に応じたのも、同じ理由だなと、僕は思った。
 ズキッという頭痛が走って、僕は飛び起きた。ピピピピと、目覚まし時計のようなアラームが、机のほうで鳴り続けている。それが頭に響いて、両手で顔をこすりながら、ベッドを出る。
 「起床」の文字が、机のディスプレイに出ている。僕は片手で顔を覆って、指の間からディスプレイを見下ろし、起床完了のボタンをタップする。続いて、「身支度」、「端末持出」の指示。しかし、時間の指定は無い。常識の範囲内で、ということだろうか。
 朝シャンの趣味もないので、昨日の上着を着て靴下をはき、汚れたままの靴をはいて、身支度完了のボタンを押す。カシャッと、机の引き出しが少し出る。引き出して見れば、スマホがひとつ。手に取ると、「場内見学」の文字が現れた。しかしこれにも、時間の指定は無い。
 「どういうこと?」僕は不安になる。初日だからだろうか。いや、初日ならなおさら、今にも部屋の扉が開いて、「17号出ろ!」とでも、言われるのではないか。
 僕は身構えたが、しかし、誰も来ないな。窓枠から流れる、川のせせらぎ。太陽はとっくに、始業時間を過ぎ越して昇っている。ボヤボヤしていていい時間ではないが……。
 部屋の中を見回してみるが、本棚のようなものは、見当たらない。ルール・ブックとか、ないのか?。机に戻って、天板を兼ねたディスプレイを、あちこちと触ってみる。キーボードはおろか、カーソルすらも出ない。ただ相変わらず、「場内見学」の文字だけが、表示されているだけ。
 このまま篭城してみるのも、いいかもしれないと、僕は思った。思いはしたが、しかし、この建物への興味のほうが勝ってしまうのは、悲しいサガだなと、つくづく自分でも思う。
 「そうだ。端末……。」胸ポケットから、スマホ型の端末を取って、画面をあちこち触れてみる。サイドにあるはずの、ボタンや穴はない。裏面はのっぺらぼうだ。画面には、机と同じに、「場内見学」の文字があるばかりで、ほかには何も出ない。ほかに持参するものもないし。
 「中庭、行けるのかな?」地図くらい見たいなという気持ちで、僕は手にした端末に、なに言うともなしに言ってみた。「シカトかよ。」期待はしていないが、実際、何も出ないと凹む。端末は胸ポケットに仕舞ってしまい、歩きたいほうへ歩くことにする。
 部屋の扉は、何の抵抗もなく開いて。そして、誰もいない。靴音も話し声もない。床と壁面との境には、こなたから彼方に至るまで、薄青い間接照明が植わっている。サイバーな雰囲気。いかにも最新という感じ。
 カン、カン、という軽い金属の足音をさせながら、僕はとりあえず、昨日きた方向と、同じほうへ歩いてみる。ハッチから散り散りになった僕らは、誰も誰かのあとを追うことなく、ひとりっきりで散っていった。僕も僕の部屋まで、僕だけが歩いてきたし。だから同じほうへ歩いていけば、ずっとひとりでいられるだろう。
 カン、カン、という軽い金属の足音を聞きながら、僕は思った。窓から見た中庭は、相当な規模だ。宇宙船に乗っていた人数と、この中庭の大きさ。たぶん、この道は、ハッチと中庭とを、つないでいるだけだろう。
 見れば、行く手の先で、薄青い照明が途切れている。振り返れば、道は緩やかに弧を描いていて、まだそんなに離れてはいないはずなのだが、しかし僕の部屋の扉は見えない。通勤してる感じ。バスの窓から、遠ざかる自分の部屋の窓を、悲しく見ていた。そんな記憶。
 薄青い照明が途切れたところからは、道の幅はそのままで、天井だけ斜め上にあがっていて、その先には、やはり、ハッチがあった。僕の背後で、スッという、かすかな音がして。振り向くと、来た道は、扉で閉ざされていた。
 そして今度は、斜めになった天井から、真昼のような明るさが、その強度をゆるりと増しつつ、この空間を満たしていく。
 静かなブウンという、ファンの回る音がして、嗅ぎ慣れた土のにおいがする。都会の、枯れた土のにおいじゃなく、田舎のドカタで嗅ぐにおいだ。光に目も慣れた頃合い、わずかにゴロゴロという音をさせて、道の幅のままではあれ、ハッチが大きく、上へと引き上げられた。途端に僕を覆う湿気。
 「何か、ハエ?」僕の耳元を、何かが飛び去った。小鳥のさえずりが聞こえる。見上げれば、はるか上には、やはり、天井らしきものがある。うまく塗装はされているが、無数のダクトや換気口を見てとれる。
 僕の背後で、ゴロゴロとハッチが閉まる。と、ハッチの両側に、細いすき間が開いて、そこからかなりの勢いで、内側の空気を排気しだす。ブウンと、さっきのハエの羽音が、僕の耳元をかすめていった。
 ピピッと、胸ポケットのスマホが鳴る。取り出して見れば、画面に「斉藤さん」の文字。行方に目を向ければ、確かに誰かが、こちらへ手を振っている。
 「斉藤、さん?」僕はスマホの画面を相手に見せる。小柄な斉藤さんは、首にかけた手ぬぐいで顔を拭きながら、ウンウンと、僕にうなずいてみせる。
 「ここへ来るまで、大変だったでしょう。」にこやかに話す斉藤さん。ここへ来るまでという部分に、実感がこもっている。
 「ええ、まあ。」ひとよりも、まだ見足りない景色のほうへ、僕は視界を持っていかれる。斉藤さんは、そんな僕の様子を見て、微笑んでいる。
 「あなたよりも、四つ前の便で、私はここへ来ました。」と斉藤さん。僕は、えっ?という顔をして、斉藤さんの顔を見る。
 「四つ前……。一年と少し前ですか。」現場主任とか、教官とかだと、僕は思っていた。
 「私も、そんな顔をしてたんでしょう。」斉藤さんは、道端にしゃがんで、草取りの続きをする。「ここには、指導教官のようなひとは、いません。研修を終えたひとたちは、みんな、隣の惑星へ行ってしまうから。」それきり、ベルトに下げた、根切り用の、先が二股になった棒をとって、斉藤さんは、黙々として、作業を続ける。
 気が引けたが、僕はどうしても、聞きたいことがあった。「ルール・ブックとか、ないんですか。」
 「ないです。」と斉藤さん。即答だった。「私も、来た時分に探しました。ここには、ルール・ブックはおろか、法律も、警察もありません。ただ、不適格な者は、送還されるみたいです。私と来たひとたちは、一週間経たないうちに、半数になってました。」
 ピピッと、スマホが鳴る。手に持ったままなのを忘れていて、僕は空の胸ポケットを見、周囲を見回してから、ようやく、手元のスマホに気がついた。慌てて画面を見ようとしたところ、ちょうど、ズボンのポケットからスマホを出した斉藤さんの姿が目に映った。
 「用意ができたみたいです。行きましょう。」タオルで顔を拭きながら、斉藤さんはもう、スタスタと道を歩き出す。僕は言葉もなく、スマホを胸のポケットに仕舞った。それをポケットの上から触ってみて、改めて存在を確認してから、だいぶ先へ行ってしまった斉藤さんの背中を、僕は追いかけた。
 「あとからゆっくり見られますから。」微笑む斉藤さんに諭されて、僕は歩きを早めて、斉藤さんに追いつく。行く手に、丸い天井のかかった、幅の広い螺旋階段があり、地下へと降りられる仕組み。掘削した当時の穴の形状そのままなのだろう。
 「最初の何段か、滑りますから。気をつけて。」斉藤さんに倣い、僕も手すりをしっかりと握る。思わず胸ポケットに片手をやって、安心する。
 ぐるりと一周して、中庭からの光が薄れた辺りから、廊下の薄青い照明が始まる。二周目に踊り場があって、同様に高いハッチが開き、僕らは中へ入った。螺旋階段は、その先もずっと続いている。
 ハッチが閉まると、その脇の細いすき間が開いて、僕らは、猛烈な旋風に巻かれた。僕は思わず身構えたが、しかし斉藤さんは慣れたもの。薄い髪の毛から上着からズボンから、旋風のなかでバサバサとはためかす。上着などは前を開けてしまって、旗みたいにあおられている。しかしいまだ、旋風は止まない。
 斉藤さんは気づいて、僕のほうへと歩み寄り、耳元で教えてくれた。「ホコリや虫が飛んでしまわないと、この風は止まらないんです!あなたも私のようにやってください!あっ!上着、脱がないで!飛んでいってしまいますから!」
 ようやくにして旋風が止み、二人とも、寝起きの髪のような格好になって、半ば放心状態でいると、今度は足元へ、早瀬のように水が流れだした。僕の靴など、見る間に、水浸しになるくらいの量。僕ひとりでバシャバシャ慌てている。斉藤さんは慣れたもの。両の長靴を互いにすりあわせて、ついた泥をうまく洗い流している。水は間もなく止んだ。バシャバシャやった甲斐があったんだろう。
 「この先で長靴もらえますから。靴下ももらえます。」にこやかではあるものの、笑いはしない斉藤さん。たぶん、自分も同じ目にあったんだろう。
 廊下への扉を入ってすぐ、ピピッと僕のスマホが鳴る。「二番」とだけ、画面に出ている。斉藤さんが指をさす。その先を見れば、壁に方形の線が入っていて、その枠のひとつに「二番」の文字が出ている。
 斉藤さんが、向かいの壁の「一番」をタップすると、そこがパカンと上へ開いて、斉藤さんはその中へ、汚れた軍手と道具一式とを預ける。
 僕も倣って「二番」をタップする。パカンと開いたその中には、横に置かれた長靴と、靴下と、手ぬぐいとが入っていた。濡れた靴と靴下と、拭いた手ぬぐいとをそこへ戻して、新品の長靴をはく。長靴ではあれ、新品の靴なんて、久しぶり。
 見れば斉藤さんが、スマホを出すように、身振りで教えてくれている。自分のスマホを出して見れば、四角いバーコードが表示されている。「その日のスケジュールは、スマホが教えてくれますから。」と斉藤さん。
 短い廊下の突き当たりにある、扉の脇の壁面に、黒い線で四角く囲われた部分がある。斉藤さんがそこへ、スマホの画面をかざすと、スッと扉が開いた。「電波でやればいいのに。ここはみんな、バーコードを読ませて出入りします。あなたも読ませて。でないと、すごい勢いで扉が閉まるから。クセつけとかないと、病院送りです。」
 怖いな、と思いながらも、なるほどこれが、ここのルール・ブックだなと僕は思った。音もなく開閉するこの扉。ということは、十分に余力のある動力に、つながれているということだろう。病院送りで済むのかしら。
 先を進む斉藤さんに、半ば冗談のつもりで、僕は問うた。「ここに墓地はあるんですか。」
 「ないです。」これも即答。「ここへ来た日が誕生日で、ここを去る日が命日みたいなものですよ。」独り言のように、斉藤さんは言う。なるほど、わかりみが深い。
 さっきから、実に美味そうなにおいがしている。ピピッと、スマホが鳴る。僕はまた「二番」。通路の壁面に、さっきよりもずっと大きな、ドアのサイズの黒い囲いがいくつかあり、その一番手前に「二番」の表示が出ている。
 斉藤さんが「一番」の表示をタップすると、パカンとドアのように開いて、台に置かれた紫色の手袋が見える。
 「中で着替えます。上着とズボンを脱いで、白い作業着と、紫色の手袋と、マスクと、頭にかむる網をつけてください。つけたら扉が開くので、消毒液に、手袋をしたまま浸してから、風のなかを歩いて、先へ進んでください。スマホは、服のポケットに入れてください。」と斉藤さん。
 僕は「二番」の表示をタップして、言われたように着替えて、また風にあおられ、先へと進む。斉藤さんはもう待っていて、僕をにこやかに迎えてくれる。
 「ここでは、居住者全員の、朝昼晩、三食をまかないます。さっき私がやっていた、中庭の手入れもそうですが、この作業も、全員が持ち回りでやります。し尿の処理から、家畜の世話、回収した衣類やリネンなどの洗濯、発電所の管理、道具の製造から修理、リサイクル、廃棄まで、すべてやらねばなりません。居住区で虫やカビが発生すると、それだけで面倒な仕事が沢山増えますから、中庭のものを、部屋へ持ち込まないでくださいね。これらの作業がない時間は、いつでも、中庭に出られますから。」斉藤さんの話を聞きながら、僕は昨日食べた肉が、ちゃんと飼育された牛の肉だと確かめた。
 ぐるりと調理場を歩いて、着替えを済ませ、螺旋階段に向かう通路で、僕は斉藤さんに聞いた。「電力の源は、何ですか。」
 「それは、最後に案内しますよ。宇宙服を着なければならないので。」斉藤さんは、事も無げに言う。
 「宇宙服?。すると、原子力か何かですか?。」と僕。
 「いえ。宇宙線です。月の表面へは出られませんが、監視室から全体を見渡せます。もちろんその役目も、輪番でやります。修理は、規模にもよりますが、住人総出でやることも、あったみたいです。」斉藤さんは、螺旋階段へ出るハッチの前で、僕に、宇宙服の着かたを、そのコツを、ゼスチャーを交えて教えてくれた。
 螺旋階段は、頑丈な作りらしく、通路のような、軽い音はしない。それがかえって寂しくもあり。斉藤さんと一緒に降りていることが、心強い。下の階のハッチでは、先の失敗もなくて。新品の長靴に、僕はついぞ、現場では考えたこともない、ありがたみを覚えた。
 「この階は、し尿などの処理をするところです。部屋ごとに陰圧になってますから、においはここまで来ないです。」斉藤さんのスマホが、ピピッと鳴る。
 画面を見る斉藤さんの顔が、見てとれるほど暗くなる。「ごめんなさい。今日のスケジュールは延期です。事故がありました。あなたは指示あるまで、部屋へ戻っていてください。あなたの部屋へ続くハッチは、スマホが教えてくれます。矢印が出るので、従ってください。私はこのまま、一番下まで行きます。」
 ハッチを出て、斉藤さんと別れる。なるほど、スマホの画面に、矢印が出ている。薄青い照明のなか、ぐるぐると螺旋階段をのぼって、中庭に出る。真上からの強い光が、僕におよその時間を教える。
 「そういえば、朝飯、食いっぱぐれたなぁ。」部屋に戻れば、何か食えるだろう。そう思うと、歩みも速まる。スマホの矢印に従い、旋風と洪水とを難なくこなして、カンカンと鳴る通路へと入る。僕の部屋の扉が見える。
 「おい。」と、ドスのきいた声。ビクッとして、声のほうを振り返る間もなく、僕の肩に、誰かの手がかかる。力づくで振り返らされて、見ればあの、前の席の角刈りじゃないか。
 「逃げるぞ。一緒に来い。」言うなり、角刈りは「しっ!」というふうに、自分の口の前に指を立て、通路の前後を、鋭く睨む。自分でも驚いたが、僕はその角刈りの手を、払いのけていた。
 「なんだお前!助けにきてやったんだぞ!」角刈りは、今度は両手で僕の両肩をわしづかみ、ガクガクと僕をゆさぶる。「どうしちまったんだ!もうおかしくなったのか?。」座席と壁との間から、ギロリと睨んだその目と同じ目で、角刈りは僕の目を見る。しかし僕は、僕の両手で外側から角刈りの両手をつかみにかかり、持ち上げるようにして、それらを払った。
 角刈りは、怒りにうち震えながらも、もはや何も言わず、どこで手に入れたのか、コルク抜きのような金具を通路の床材に突き入れて、その一枚を引き剥がす。そのままストンと、中へ飛び降りた。ほとんど同時に、僕は強力な眠気を感じて、意識を失った。


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雪遊び

2024年12月15日 | 小金井充の

 

 「何をご覧になっておいでですか。」

 「雪を観ているのです。」背の高い、ショートヘアーの、切れ長の、力強い眼差しを持つ、名も知らぬその女性は、そう答えた。

 「雪?」

 「ええ。」赤いマニキュアをした、白い両手で、浅黄色のパーカーのホロを脱ぎ、女性は顔をあげて、真っ暗な夜空から、しんしんと降りる雪を、見上げた。

 「僕を、振り向いては、くださらないのですね。」

 「ええ。」女性は、赤いマニキュアの手を伸ばし、軽やかに、一歩踏み出して、まっすぐに落ちてくる、雪を手にする。足元で、キュッと、雪が鳴る。

 (なるほど、僕は、雪ではあるまい。)

 「冷たい雪。温かい雪。」女性は両手で、雪をとらえ、その両手を交えて、いとおしそうに、雪をめでる。

 「止みそうもない。」

 「止むものですか。そら。」女性は、また手を伸ばして、雪をとらえる。

 (実際、止むことはないのだ。)

 「赤い雪。青い雪。」両手のなかで、マリを抱くようにして、女性は、雪を転がす。

 「楽しそうだ。」

 「楽しいですわ。」ぱっと、女性は、両手を空へと開く。色とりどりの雪が、吹雪のように、闇に散る。

 「本当に限りがない。」

 「ひとの想像は無限ですわ。」ふっと、女性は、膝の高さで、ひと粒の雪を、受け止める。

 「見つけましたね。」

 「ええ。あなたは?」そのひと粒の雪を、大切に両手で抱えて、女性は、闇のなかへ、歩き出す。

 「歩いてゆけるのですね。あしたへ。」

 浅黄色のパーカーの裾が、しゃらんと揺れて、女性の姿は無く。
 僕は動転して、振り返る。
 あちら、こちらで、沢山のひとたちが、雪のなかに、手を差し伸べている。

 (ひとの願いもまた、無限なのだな。)

 茶色のコートの、襟を合わせて、僕は、冷たい真冬の空気のなかを、無限に、歩いていった。


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駄菓子屋の夏

2024年11月22日 | 小金井充の

 

 昭和六十二年の夏、私は二十年ほどやった配達の仕事を辞して、思うところあって、町外れの小さな工場へと再就職した。体が資本の職場で、体力がガタ落ちになったのを自覚して、もはや、誰かの上に居られる立場ではなくなったなと。ここは手に職をつけて、将来の生活の安定を得たいと、職安で、かねてから興味のあった駄菓子屋の仕事をまさぐった。世の中は、間もなく年号が変わろうかという気配のなかで、何か新しい、希望のありそうなものへ変身しようと、急速に動き出している。そんな風に圧されたわけではないと、独り呟いてはみるものの、実際は、旧来の知人らの華やかな転職物語を聞くたび、焦りに似たものを感じていたことは否めない。
 その工場は、郊外の広い広い空き地であった所へ、倉庫群や配送センター、大型ショッピングモールなんかがグングンと建ち始めたにぎやかな地域の只中の、まるで時間が止まったかのような、取り残されたような古参の建物の一隅にあった。車屋のガレージなんかが並んでいたかもしれない、長屋のような建物のはずれが、その工場の在り処である。看板らしい看板もなくて、迷いに迷ってしまい、危うく面談の時間に遅れそうになって冷や汗をかいたが。しかし、季節も季節だ。所々砂利のはみ出した軽舗装の路地から延々と立ちのぼる陽炎のなかでは、冷や汗なんぞ一瞬にして蒸散してしまう。
 私はその建物の正面に立ち、汗を拭くのも忘れて、下辺の腐り落ちたドアの脇へ危なっかしくネジ止めされた、これが恐らくはインターホンなのだろうとおぼしき、黒くて四角い物体からはみ出ている、茶化て泡だったような丸いボタンを押した。ビーっとでも言うのかと思ったが、音の高低の危うい「エリーゼのために」が流れ出して和んだ。それがひとしきり演奏を終えるころ、ガタリという音を出して、それは老いた女性の声を私の耳に伝えた。
 「はい、どなた。」
 私が職安から紹介してもらった旨を伝えると、その鬱々とした女性の声は明るいものへと変わり、間もなく、ドアのノブがギッと鳴って、丸顔に銀色のビジネス眼鏡をかけた、笑顔のお婆さんがあらわれた。
 「さ、どうぞ。お待ちしてました。」
 私をなかへと導くお婆さんの指には、緑色の指サックがついている。どうやら、事務方のひとであるらしい。のちに、それは私の勘違いで、誰あろう、この柔らなお婆ちゃんこそが、先代の未亡人、現の社長だと知れるのだが。しかし私は、ややしばらくの間このお婆ちゃんを、パートか何かの事務員だと思っていた。それは私にはほとんど、以後このお婆ちゃんと顔をあわせる機会がなかったことに原因している。私はいきなり工場の鍵を任され、早朝一番に来て、まだ誰も居ない工場に火を入れる役回りとなったし、仕事が終わって帰るころには、お婆ちゃんはもう退勤していた。
 二階建ての工場は、二階を材料や物品の倉庫として使っているがために、ひとが常在するのは一階のみに限られている。他所から駄菓子屋の店主なんかが来ると、まずは工場とガラス窓一枚で仕切られた応接室に案内せられ、そこでお婆ちゃんのいれた茶を飲みながら、工場の製品を食べながら、工場長と談笑して帰るのだが。しかしそれはまた、のちのお話で。今日は面談。自分が客となり、お婆ちゃんのいれた、味のしないお茶をいただきながら、五十路も後半の工場長の、つるりと髭を剃った難しい顔とにらめっこしている。持参した履歴書を眺めて、うーんと唸る工場長。白衣のすそに、きなこだろうか。黄色い粉が散っている。
 「難しいかもしれませんよ。」
 工場長の、予想通りの言葉を聞いて、私は用意した言葉を返した。
 「とにかく何日かでも、やらせてもらえませんか。今からでもいいです。」
 実際、そのつもりで来たんだし。ほかに何を言えばいいんだろう。こっちも生活かかっているし、この日照りのなかを、何の収穫もなく、手ぶらで帰ろうとは思わない。そんなことになれば、しばらくは立ち直れないだろうな。ダメならダメでいいから、ダメだってことを分かりたい。次の仕事を探すにしたって、未練があるままじゃ、目移りしてしまう。
 私がそう言うのを聞いて、工場長はふと私の顔を見て、何だか気まずいような、渋いような顔をして、手にした履歴書を机の上へと投げた。そしてスックと立ち上がり、工場と応接室とを隔てる窓をガラリと開けて、
 「修司、白衣あったか。」
 と、延べ台でタネをのしている男性を、真っ直ぐに見て言った。言ったというより怒鳴ったに近いが、奥の機械の音があるので、そのくらいでしゃべらないと、相手に声が届かない。私はそのデカイ声で言うというのに苦労することになるが。しかし慣れるとまあ気持ちいいものでもある。ネタをのしていた男性は、無言で振り向いて、かまどの前で作業していた二人の人物のうちの一人を見た。偶然か、見られたほうも顔をあげており、代われというような合図にうなずいて、何の疑問もない素振りでスタスタと延べ台へとやってくる。ネタをのしていた、工場長から修司と呼ばれたその男性はというと、もうあとも見ないで、二階へ続く階段のほうへと歩き出していた。まあなんという、なめらかな連携であることか。これまで自分が経験してきた、独り芝居の職場とは、はなから別物の世界がここにある。男の職場とか世間では言っているが、違うな。現に、かのお婆ちゃんだって、気が利くレベルを超えて、実にタイミングよく物事を運んでしまう。要するに、同じ生物だから通じるってことだな。それをより簡単に実現する要素として、同性ってのが有効なだけだ。しかしその早合点が、私を苦しめることになる。外れてはいなかったんだが、それはメインの理由ではなかったのだ。
 工場の二階には、両端に階段がついており、作業場からもあがれるし、ぐるっと歩いて、応接室の側へと降りることもできる。それをまだ知らない私は、修司さんが、作業場とは逆の応接室のドアから現れたので、思わず「あれっ?」と声をもらしてしまった。私の様子を見て、修司さんが笑う。
 「上は、こっちにも降りられるんだ。」と、工場長。「これ着て、髪の毛覆うやつもな。いや、そうじゃない。ったく……」無言で修司さんを見遣る工場長。修司さんは自分の白衣を脱いで、着て見せてくれる。髪を覆う使い捨ての帽子をかむるのが、なかなかに難しい。見れば、工場長はもう、あとも見ないで自席につき、パソコンの画面とにらめっこしている。
 「来て。」と修司さん。あとについて応接室を出、ドアをあけて、作業場の前室へと入る。白い長靴を借り受けて、もうね、手の洗いかたから違うわ。修司さんに最初のレッスンを受けながら、私は今確かに自分が、これまで知らなかった世界に入り込んでいるのを、入り込んでしまったのを、なんとも言えない気分で自覚していた。これでよかったのか?あまりにも急ぎ過ぎではないか?蛇口からほとばしる温水の流れは、しかし、私の不安を洗い流してはくれない。せめて冷たい水であれば、もう少しシャキッとするだろうに。ブロアーで濡れた手を乾かし、続く狭い通路では全身に風を当てられて、ようやく、作業場へと続くドアが開かれる。途端に、かいだことのない香りが身を包む。思わず立ち止まって、鼻を使う私の姿を見て、修司さんが笑う。
 「あれ?かいだことない?砂糖の匂いだよ。砂糖ってか、糖蜜の。」当たり前のように、修司さんが言う。指さされるままに、私は銅鍋から湯気を立てる、透明な液体を見た。それぞれに温度計が入っており、先の二人のうちの一人が、しゃがみこんで、ねんごろにコンロの火力を調整している。その様子に見入る私を見て、
 「沸かしたら終わり。」とだけ修司さんが言った。そのときの私は、沸かし終えたら作業終了という意味だと思ったものだが。しかし違った。沸かしたが最後、この香気はみな飛んでしまう。さらに沸騰まで行くと、コンロの火が回ってしまい、大火災になるのだ。駄菓子といえど、品質を一定に保たなければ、顧客は逃げてしまう。糖蜜への火の入れ具合ひとつにしても、それがそのまま、品質を左右するわけで。その難しさには、熟練したと言われてもまだ、頭をかかえることがあるくらいだ。
 初日の体験は、昼までとなった。体験というか、迷惑かけただけで終わったのが、私には残念でならない。職安で探してた時分には、自炊経験くらいで何とかなるだろうと、甘い、甘すぎる考えでいた自分である。目に見えてしょげかえっていたのだろうか。修司さんが黙ってコーヒー缶をおごってくれた。それを見てか、工場長がスタスタとやってくる。ああ、お断りか。
 「あしたは休んで、住民票とってきてくれ。あさってから六時な。」事も無げにそう言って、工場長は透明ファイルに挟んだ契約書を、私に渡した。えっ?という顔でただ書類を見つめる私。
 「契約は今日からになってるから。ちゃんとカネは払うよ。」そう言って、工場長は私の背中をポンポンと叩くと、スタスタと自席へ戻っていった。修司さんがニヤニヤ笑って見ている。
 「俺もそんな感じだったわ。」修司さんは手招きして、私をロッカー室へと案内してくれた。見れば、いくつかのロッカーの扉が、開け放たれたままになっている。あるものは凹んでおり、あるものは取っ手がなくなっている。脇の壁には穴まであいているじゃないか。でもこの光景は、前の職場にもあった。人生の壮絶な景色は、ここにもあるんだな。修司さんは、手近なロッカーの、鍵がささっている1つを指差した。ここを使っていいようだ。見ればもう、修司さんはロッカー室を出ていた。仕事の流れが見えていなければ、そうもいくまい。私にとっては、それが一番の難問だった。
 「じゃ。」
 私が入社して二年目の春、修司さんは家業を継ぐために、この工場を離れた。盆に遊びに行くと約束して、私は修司さんの愛車である、年代ものの白いクラウンを見送った。工場長は何も言わない。後ろ手を組んで、いつものようにスッと立ち、去り行くクラウンを真っ直ぐに見届ける。あの日、コンロの火の番をしていた奴も、この工場を去っていた。不況の波は、いかんともしがたい。後ろでは、かのお婆ちゃんが、両手で老眼の進んだ眼鏡を持ち上げて、同じように何も言わず、クラウンを見送っている。寂しくなったが、工場は終わらない。スタスタと作業場へ戻る工場長。段取りは、分かっている。まあ、気分で変わることもあるが。
 私が作業場へ戻ると、案の定、工場長は鍋ではなく、延べ棒を持って延べ台に向かった。予定と違うじゃねぇか。そんなことをボヤキつつ、私は糖蜜の鍋に火を入れて、計量台にボールを据え麦粉を計りにかかる。工場長は抜き型を並べだす。私はタネを作りにかかるが、思えばこれも、練るものだとばかり思っていた。
 「麦粉はね、練れば練るほど、焼いたものが固くなる。」修司さんの言ったことが、昨日のように思い出される。ああ、やばい。チョッとウルウルしてきた。でも手を顔にはやれない。鼻水は、マスクが何とかしてくれるだろう。タネがまとまった頃合、工場長が延べ台にパッと打ち粉をする。その音を聞いて、勢い、ボールをかついで、延べ台に返しに行く。子供のほっぺたのようなタネが、フワリと延べ台に着地するや、工場長が指で、それをチョッとひねってみる。よしよし。何も言わないな。工場長は抜き型を自分に引き寄せる。私はもう、延べ棒を手に、タネをのしにかかっている。平釜のかすかなファンの音だけが、今日も作業場を満たしている。もっとも、焼きが始まれば、こんな静けさは吹っ飛んでしまうが。焼き板に次々と型が並び、私はタネをのす合間、頃合を見て焼き板を棚へあげ、順次、新しいものと取り替えていく。棚は間もなく、焼き板でいっぱいになる。カバーをかけ、新しい棚を据え……。ちょっ!今日は手が早いな工場長。絶好調じゃん。見れば、抜き型を脇へ置いて、抜いた残りを集め、工場長直々、自分でタネをのしにかかる。私は延べ棒をあきらめて、計量台に戻り、麦粉を計る。麦のかすかな香りのなかへ、糖蜜の香りが匂いだす。平釜を回す。さあ、忙しくなるぞ。


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2024年11月09日 | 小金井充の

 

 

 大通りの松ノ木の下に延びる小道から、三丁ほど歩いたところであろうか。長唄のおっしょう様のところに花という、大体の白猫が住まいしていた。猫界では少しく年増のおばさんではあるけれども、それがために経験豊富な男衆の羨望の的とはなり、毎年のようにプロポーズを受けてはツンとハネッ返す気丈な女性である。大体の白猫というのは、全体として白猫のなかに淡いオレンジの縞が見え、特にその胸の辺りのチョッと真ん中から寄った所の縞が少しは鮮やかに出ていて、あたかも花のように広がっているものだから、家人が目ざとくそのように呼んだという。
 花はマリで遊ぶのがお気に入りである。おっしょう様が手縫いしたゴルフボールほどの、白地に赤で星を刺繍したそのマリを、ひがな一日チョイチョイと両手でつついたり、勢いよく弾いてはモーレツに追いかける。糸と布とで作られたマリは板の間を転がっても音が無い。実家の幼少の記憶から、あのゴロゴロという騒々しい音に猫は惹かれるものだとばかり僕は思っていたが、花は違うようだ。試しにビー玉のなかの大玉をゴロゴロと転がしてやると花は怪しんで逃げていく。長唄の席ではアンモニャイトと化す花ではあるが、騒々しいものは嫌いのようだ。僕の幼少の記憶にある猫氏とは間逆だな。彼はあくまでも音楽を嫌い、大通りの騒音をこそ好んでいた。人も三様、猫も三様である。
 休みの、天気のよい日に限り、僕は午睡のあと散歩に出るのだが、つい気も知れずこの小道に入り込んでいる。懐手をして何かと思案して行くと、道なり、おっしょう宅の庭先へと出る。そこで歩みを止めて、宅の縁側を眺めおると、雨戸の陰からプイと小さなマリが転がって、間もなく花がモーレツに走り込んでくる。マリをつかまえて、次は元来たほうへと弾き飛ばすと、花は尻尾を立てて餅のように真っ白な尻をプリプリと振って飛び出していく。その可愛らしさ、可笑しさに、僕はそこから離れられなくなり。すると奥から僕の姿を認めて、家人の誰かしらが手招きをされる。ご挨拶をしながら照れ隠しに片手でうなじを掻きつつ、僕は縁側にお邪魔をする。お掃除が行き届いているがために、花はよくよく廊下で後ろ足を滑らせて、稀には庭へと滑落しそうになるが。ために顔を傾けて歯を食いしばって前足をバタつかせる花の必死で真面目な仕草が可愛らしく。ついつい長居をしがちなのだが、それがいつしか縁になって、今はお年始をご一緒させていただくお仲間に加えてもいただいた。お孫さんの芽衣子さんは、おっしょう様に似て丸いお顔立ちの、はつらつとした声を持っておられる。この方とも親しくなれたのは、真に花のお陰である。我が家の店の使いの帰り、雨の日など番傘をさして水色にけぶるおっしょう宅のお庭の前を過ぎると、雨戸の向こうでペンペンと三味線の調子を合わせる音が聞こえ、おっしょう様の澄んだ唄いに続けて芽衣子さんのまだおぼつかない唄いが続く。僕は自然と足が止まってしまい、寒さにブルッと身が震えるまでぼんやりとそれを聞いていたりする。来年の春には、芽衣子さんも一人でお客の前に立つのだろう。今こうして番傘の下で雨に打たれるばかりの我が身上を思えば、なおのこと体が震える思いがする。
 とある晴れの日の午後、僕はまた何とはなくて松ノ木の小道を辿っていたが。不意に脇からゴロニャアとドスの利いた雄猫の鳴き声がした。見れば、界隈では顔の知れた番長猫が、僕と同じ道を辿っていくようだ。毛長の雑種で、黒地に三毛らしい色が混じっている。この毛色は界隈でも若い衆のなかに見るものだから、してみると三毛というのではないらしい。もう毛が絡まったようにそこここで渦を巻いてはいるが、猫だけに不潔さは感じない。毛長でなければ、歌舞伎役者のような端正なたたずまいを見せるところだろう。番長は僕に向かって警戒心の強い眼差しを残しては、雑草のなかに身を隠しつつ歩いていく。チラリチラリと、お前まだついて来るのかというふうな嫌な顔をして見せるから、僕も嫌な顔をして見返してやるのだが、番長はお構いなしの様子だ。そのままズケズケとおっしょう宅の縁側に迫る。嗚呼僕はあんな近くまで一息には行けなかったのに。今もう番長は宅の縁側へ飛びあがろうかという勢いだ。またコロニャアとドスの利いた声で鳴く。これは見ものだなと、僕は懐手をして事態の行く末を見届ける気になった。過去幾たびか界隈の雄猫どもが、老いも若きもこうして花のもとを訪ねては、花の一括におじ怖気づいて退散したのを観てきたが。哀れ番長も面目を潰されることになるのだろうと予想して、僕は内心でウキウキしながら、離れたところで観客を決め込んだ。そら、花のお出まし。ところが花は、やんのかポーズで走り出てくるものと僕は思ったのだが、雨戸の陰からしとしとと歩み出てチョンと縁側に座ると、何も言わずに番長の顔を見下ろしている。相手に対してやや斜めに身を置くところが、花の気品を匂わせる。番長も番長で、地面にどっしりと座ったまま、ゴロニャアとも言わずに花の顔を見上げておる。界隈の猫衆を仕切ってきた実力がその背中からにじみ出ている。あらまぁこれはお見合いかなと、僕は少々残念に思った。しかしなるほど、花ともなれば、このくらいの御仁でなくては物足らないのだろう。僕の見ているのに気がついて、奥の障子の陰からおっしょう様が手招きをされるが、この状況ではお断りせざるを得まい。僕は片手をチョッと振って見せる。おっしょう様が軽くうなずかれるのを見て、僕は少しく残念ではあったが、まあ両猫のお見合いの席ともあらば、いたしかたなし。と、番長は何も言わないまま振り返り、その拍子に僕と顔が合って、お前まだいたのかというふうなムッとした表情を残して向こうの草むらへと去っていく。僕もムッとした顔で番長の行方を見遣った。宅の縁側へ目を返すと、花の姿も無い。代わりにおっしょう様のにこやかな笑顔がこちらを向いて、手招きをされている。僕はうなじに手をやって、いそいそと宅の縁側へと歩き出す。芽衣子さんが盆にお茶を持って来られる。これはこれは、ご馳走になろうじゃないか。僕は縁側へ腰をかけさせてもらって、芽衣子さんからのお茶をいただいた。
 「さあどうぞ。」とおっしょう様も勧めてくださる。かたじけなく。
 「めずらしいですのよ、花が。」と芽衣子さん。
 「ええ。僕も初めて見ました。」と僕。ちょうどいい温もりのお番茶である。
 花が雨戸の日陰でニャアと鳴いて、僕のところへ来る。頭を僕にスリスリして、鼻を鳴らして撫でを催促してくる。これは撫でざるを得まい。
 「あんまり気位が高こうて、お婿さんもろうたこと無いもんな。」とおっしょう様。僕は苦笑い。花はおっしょう様の膝へ登る。
 「手術はしないのですか。」と僕。芽衣子さんはおっしょう様と顔を合わせて微笑む。
 「この子とな、インターネットで猫の動画を見ましてな。」とおっしょう様。「そのなかに、自分の玉が無くなっているのに気がついて、あっけにとられてしまうのがあってなぁ。」
 「ああ。あれですか。」と僕は言い、小道の向こうの藪を眺める。
 「手術はせなならんのが世の流れですけど、一度は子を産ませてやろうと思いましたんですわ。」とおっしょう様。花はもう寝入っている。芽衣子さんは花の可愛らしい寝顔を覗き込んで、頭をそっと撫でる。花の耳がピンピンと跳ねる。
 「この子は来年、初舞台ですわ。見てやってくださいな。」とおっしょう様。芽衣子さんが顔を赤らめる。
 「はい。店閉めてでも行かしてもらいます。」と僕。ホホホと芽衣子さんが笑う。僕も思わず微笑み返す。
 ほどなくして、僕はあの番長猫が事故にあったと聞いた。若いのが走り出たのを止めに入って、はねられたのだという。ボランティアの人が駆けつけた時にはもう、息がなかったそうだ。花はそれからしばらく、マリで遊ばなくなった。縁側でおっしょう様の座布団の上に丸くなり、芽衣子さんに頭を撫でられなどしておる。時々は僕が代理を務めるが。たまに花のゴロゴロが聞こえると安心したものだ。花を囲んでお茶をいただきながら、しみじみと庭を眺めれば、はや紅や黄色の彩りとはなり。大きな柿の葉が落ちて、秋の雰囲気を添えている。花はマリで遊ぶようになり、それを見ておっしょう様が一番喜んでおられた。界隈では隻眼の黒猫があとを継ぎ、やってくる厳しい季節に向けて陣を整えている。
 「あのね、この子、おなかが大きくなってきたようなの。」と芽衣子さん。
 「え、寝ていて太ったのじゃないですか。」と僕。おっしょう様がホホホと笑う。僕は思わずうなじに手をやる。
 「縁の下をウロウロしたり、天袋に上がったりもするんです。」と芽衣子さん。
 「初めてじゃけ。人の子は経験があるけどな。どうしたもんか。」とおっしょう様。
 「ボランティアの人に聞いてみましょうか。」と僕。
 「ご苦労さんですけど、そうしてもらえますか。」とおっしょう様。
 「じゃあ早速。店のはす向かいの家ですから。」お茶のお礼をして、僕はポンと膝を打って立つ。
 「やるなぁ番長。」僕は呟く。思いのほか整然とした猫の社会に少なからぬ驚きを覚えつつ、サクサクと枯野を分けて小道に出る。めずらしく早足になりながら僕はその家へと向かった。行く手の彼方に青空を背景にして高く盛り上がる雲が、あの日縁側に座って花を見上げる番長の姿にも見えた。


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ぬくもり

2024年10月13日 | 小金井充の

 

 水面を流れる重油のようにネットリとした暗雲が、ワルププギスの夜を汚していた。魔女たちは消えない火に大鍋をかけて、何かを煮ている。気味の悪い甲高い笑い声が時折は聞こえるが、あとは何の物音もしない。消えない火の光陰が、魔女たちの黒い姿をせわしく動かすように見えはするが、実際は蝋人形のように固まって身じろぎもしない。しかし今、不意に魔女たちの目が見開かれ、そのしおれた腕をみな同じほうへ向けて伸ばし、伸ばしきるとなお体までをもそのほうへと倒しにかかる。実際、何人かの魔女たちはそのまま地面に倒れ伏して起き上がらなかった。
 無数の指という指が刺し示すその先には、ひとりのオッサンの姿があった。スナフキンのような帽子をかむり、上着もズボンもまた同じように垢じみた黒い緑色をしている。魔女たちの慌てぶりに対して、そのオッサンの当たり前のようにやって来る姿は印象的だが、魔女たちが何をしているのか分からぬと同様、そのオッサンも何しに来たのかは知れぬ。そもそも魔女たちが見えているのか、そのブツブツと煮えたぎる大鍋が見えているのかどうかもわからない。しかしようやく、オッサンが距離を縮めるにつれて、その片手には腐りかけの蕪を切り裂いて作ったランタンが、しなびた葉に続いて垂れ下がりブラブラと揺れており、その揺れは確かに、オッサンが意図して揺らしているのだということは知れた。魔女たちの視線はまさにその蕪の揺れに合わせて動揺しているから、オッサンと魔女たちとの間に理屈は通っているのだろう。
 「ジョン!」と、魔女たちのどこからかから、ひねり出すようなしわがれた声が出て、オッサンは立ち止まりウンウンとうなずいた。魔女たちの間にひとしきりざわめきが起きる。「まさか戻るとは」「まだ燃えている」「なんという図々しさよ」云々。魔女に図々しいと言われるほどのこのオッサンは、してみれば人の尺度では相当に図々しいということになろう。しかしそういう評判とはまったく似合わない真っ直ぐな瞳をあげて、オッサンはまた蕪を揺らして見せる。微笑みすらしない、至って真面目な顔である。「くたばれ」と魔女たちのどこからか声があったが、その反対側の魔女たちのなかからは「鍋の下の炭をやろう」という声がヒッヒッという笑いとともに起こった。オッサンはまたウンウンとうなずくと、煮えたぎる大鍋のほうへ歩いてくる。魔女たちが汚いものでも避けるようにして粘菌のようにヌラヌラと凹みを作り、鍋へと一直線に歩いてくるオッサンをその1個の大きな目玉だけで見送る。なおもオッサンは歩を進めて、ついに大鍋の下へとかがみこんだが、どうしたことかその手を炎のなかへ伸ばしても炭は取れぬ。目の前に燃え盛る炭があるというのに、つかんだ感触はあるが、手を引いてみると何もない。そもそも炎に焼かれても熱さを感じない。しかし頭上では何かがブッブッと煮えたぎっているじゃないかと、オッサンは口を半開きにしたまま顔を上げてみるが。しかしそういえば臭いもしない。オッサンの仕草を見て魔女たちが一斉にヒャヒャと笑う。コピペの文章のようにみな同じに笑うので、オッサンの耳にはヒヒャヒャヒヒと猿の威嚇のように幾重にも響く。オッサンは両手で耳をギュッと塞ぐが、しかしそこからは動かない。またかというように口をへの字に曲げて突っ立っているばかりだ。そうするうちにニュッと炎のなかから魔女のしなびた手が出て、消し炭のような消えかけをコロリと3つばかりオッサンの前へと転がした。オッサンはかがんで、これは手に取れるのだろうかと手を伸ばしたが。熱さに驚いてビクリとその手を引いた。途端に魔女たちの笑いは止み、まったく音のない空間が広がる。ただ無数のあの大きな目玉が、オッサンの引っ込めた指の先を穴があくほど凝視していた。オッサンは気づいたとばかりに、かの腐った蕪を引き寄せて、なかの今しがた燃え尽きた炭火のわずかな灰をふるい、魔女の手が転がしてよこした3つの消し炭の上へ蕪の裂け目を押し当てた。持ち上げれば消し炭は、蕪のなかの無限の闇かと思うその裂け目の空白のなかに鎮座している。これでよしという具合にオッサンはうなずき、あとはもう二度と大鍋のほうは見ずに、独りまたトボトボといずこかへ向けて歩き出した。見上げれば油を流した夜の空を、何か煌々と輝く点が、機敏に揺れながらこちらへと寄せてくる。何かガラスをキンキンと叩くような、かすかな音も聞こえるようだ。漆黒の地平の彼方からユニコンの団体さんが押し寄せる。オーグたちが1つ目をギョロリと光らせその逞しい腕に棍棒を振りかざしてユニコンに襲い掛かる。その1体が魔女の大鍋をひっくり返し、煮えたぎった赤黒い何かをかぶって魔女たちが悲鳴をあげるかと思えば、悲鳴は高らかな笑いへと変わり、魔女たちは1つの大きな影となってオーグたちを飲み込んでいく。そんなカオスな光景には興味がないとばかりに、オッサンはもう遠くへ行ってしまったようだ。今はもうオッサンの下げるジャックオーランタンの、かすかな光点が見て取れるばかりだ。
 薄明、高い山の頂に立って、オッサンは麓の村に灯るいくつものカボチャのランタンの、淡い光を見下ろしていた。自分の手の中にある不気味に裂けた蕪のランタンの、ほのかな温もりを感じながら。今なお自分が存在していることを、この腐った蕪だけが証明してくれているようだ。オッサンはまた歩き出した。どこへ行くともなく。


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あのころのワープロソフトの思ひ出

2024年09月27日 | 小金井充の

一太郎「おまえ昨日できる言うたやんけ!」
ワード「おまえはできないからなw」
一太郎「ちょ、おま…」
キング「まあまあ、ワープロ同士仲良くやりなよ。」
一、ワ「ワープロ言うな!」
ワード「ってか、ワープロ、まだ通じるのか。」
     |キ゛   フ
オープン「|αく。で・@よ!」
一太郎「はい?」
キング「ぼくもできるよ!」
ワード「読めるんだw」
キング「僕のおじいちゃん。」
一太郎(泣)「家族やないか!」
ワード「じゃあ俺はしなくていいな。」
一太郎「おっと、それとこれとは別やで。」
ワード「…。」
一太郎「またイルカ出して。」
イルカ「何が知りたいですか」
一太郎「お」
イルカ「そんなことは無理」
一太郎「お、しか打っとらんやんけ!」
キング「僕も手伝う!」
ワード「おまえはできないだろ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「花子!ひさしぶりやんけ。」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「元気してたか?」
花子「おにいちゃん!」
一太郎「お」
花子「そんなことは無理」
ワード「あんたもか!」
キング「おじいちゃん、やる気満々だって。」
一太郎「分かる。やらかす気満々や。」
キング「おじいちゃん、分かってもらえてうれしいって。」
一太郎「もうワープロやないな。行間てw」
      П   ≡
オープン「 ノープ。ロう・!」
ワード「ワープロ言うな!」
オープン(泣)
キング(泣)「おじいちゃん、やっと読んでもらえたね!」
一太郎(泣)「よかったなぁ。」
ワード「あれ?」
一太郎「・・・。」
ワード「まーた。いいとこでフリーズすんだからなぁ。」

 

※各ソフトの名前は登録商標です。

ここだけでお楽しみくださいませ。禁転載。


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ノクターン

2024年05月18日 | 小金井充の

 

 その最後のピアノ・コンサートは、市民ホールなどの、相応しい場所で開かれたわけではなかった。金曜の夜、演奏者の自宅の居間に、その日の仕事を終えた、わずかばかりの人々が、恩師のピアノを聞くために集まった。事情を知る者もあったが、しかし誰も、あえて話題にはしない。というのも、恩師のその人となりとから、こういう終わりもありうるだろう。ついにその時が来たのかと、みなが思っていたことだから。約束の時間を前にして、一人、また一人と、最低の音量にしぼられたドアホンの呼び鈴を鳴らす。玄関先で祝意があり、贈答品があって、恩師は気恥ずかしそうにその品を披露する。そもそもこの居間でのラスト・コンサートも、このわずかばかりの人々の発案ではあった。最後なんだから、市民ホールを借りて、せめて小ホールでやろうという話にもなったのだが。しかし誰のコンサートなのかを思えば、賞だとかメンツだとか気にしない人だから、そんなところへ引っ張り出さずとも、自宅にお邪魔するのがいいだろうということで一致をみた。ついでに、花は誰、酒は誰と、贈答品が重ならないようにしようということにもなり、年季の入ったヤマハのピアノを囲んで、ちょうどいいくらいの飾りつけにはなった。めいめいが、ソファや椅子にくつろぎ、恩師はお返しにと、秘蔵の山崎をふるまって、ひとしきり、思い出話がはずむ。それでは、と、予定の午後七時半、ピアノの所の白熱灯を残して、部屋の明かりが消され、恩師は、紙ナプキンをあてたグラスを、ピアノのいつもの場所へと置く。そして何か、ちょっと思案した気なそぶりを見せ、微笑むと、おもむろにカバーを上げて、鍵盤に手を添える。静かな、山崎色の明かりのなかに、ショパンのノクターン二十番が溢れる。今夜の物語の序章に、これほど相応しい曲はあるまい。観客は拍手も忘れ、この、何人ものピアニストを世に送った教授の、最後の晩餐を堪能した。
 今、私の手のなかに、その恩師の現役時代の演奏を収めた、4トラックの大きなテープ・リールがある。再生装置は、とうの昔に廃棄されて、もう聞くことはできない。大学の旧図書館の、書庫の片付けを、私のいる会社が、仕事として請け負った。ホコリとカビとに覆われ、半ば崩壊したダンボールのなかから、私はその大きなテープ・リールを見つけた。手にして、ふと、色褪せたインクの、手書きのタイトルを見た時には、まさかと思ったが。しかし筆跡に懐かしさを覚えて、私は軍手をした親指で、タイトルを二度ぬぐった。もう遠い昔になったが。でも確かに、私は授業で、このテープを聴いた覚えがある。あの最後のピアノ・コンサートが、思い出される。ピアニストにも、作曲家にもならず、世のなかを斜めに生きてきた私は、あの日も無言で去ることができなかった。最後まで残って、私は恩師に聞いたのだ。先生、どうして辞めたんですか、と。恩師の答えは、私にそのまま当てはまった。
 「僕はね、この世のどの一人にも、生き残って欲しくない。そんな想いを持つ奴が、教壇に立ってちゃいけないだろう。そうだな。君くらいの年代の人を境にして、人は人でなくなった。僕はそれを、敏感に感じた。僕はもう、誰にも、何も教えたくなくなったんだ。」
 新しい図書館に、蔵書として受け継がれる書籍は、みな、引越しが済んでいる。ここにあるものは、すべて廃棄扱いの物ばかりだ。私のいる会社が、大学側と結んだ契約書には、撤去した物の所有権を、会社へ移転する旨の取り決めがある。会社はこれらをオークションにかけ、収入を得る。その代わり、撤去の費用を安く済ませるわけだ。無論、私はこのテープ・リールを、欲しいとは思ったが。しかし、もう終わるというのなら、何を残すこともあるまい。おそらくはマニアが、ただレトロだという理由だけで、このテープを落札するだろう。私はそれを、半ば崩壊したダンボールのなかへ、元のように戻して、そっと、ダンボールを抱えた。ダンボールの下半分は、まだ強度を保っていて、このまま、階段を登っていけるようだ。見上げれば、暗い地下道の出口のように、午後の明るい陽射しが差して、私はその光のなかに消えた。


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過去の記事を見てました

2024年01月07日 | 小金井充の

このブログを見返していて、

思いました。

つまるところ、

創成川の近所しか

歩いてないな、と。

三昧は言い過ぎ。

それでまた題名を

変えようかと思います。

 

 

 


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本やらTシャツやらお便りやら

2018年01月01日 | 小金井充の

小金井 充の本

プログの記事にするにはやや長いので、アマゾンのkindleを使った電子書籍にしました。

 

小金井 充のTシャツ

ユニクロがTシャツの通販サイトを立ち上げたので、久しぶりに作ってみようかと。

 

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