暗い執務室に二人の老人が、おでこに深い深いシワを寄せて、向かい合って座っていた。
「大統領」と、他方の老人が呼びかける。
「ケイス君」と、大統領。
ここで稲妻でも走れば、二人の老人の心境を形容しやすいのであるが。外は昨夜からの小雨が続くだけの、静かな暗い朝である。
「私は昨日の夜、聞いてしまったのだ。」と大統領。執務席の前の接待用ソファに、脱力してのけぞる。
「私は今しがた、大統領から聞きました。」と、ケイス君こと補佐官。大統領の向かいのソファで、顔を片手で覆って、長い長い溜め息をつく。
「この世が終わるなどということが世間に知れたら……。えらいことになる。」大統領はのけぞったまま、両目を手のひらで揉む。寝不足なのだろう。
「でも絶対、漏れますよ大統領。ノストラダムスやエリア51なら、オカルトで一蹴できますが。政府発表となると、話は別ですから。」ケイス君は、ソファに座ったまま両膝をかかえて、爪先立ちしたり、やめたりする。
トントンと、執務室の厚いドアが鳴る。補佐官が応じると、ドアの向こうから白衣の聖職者があらわれた。これも相当な老練。
「おお、サドバド卿。朝早くから申し訳ない。」立ち上がって、大統領はサドバドと呼ばれた品のよい老人と、しばし握手を交わす。
「秘め事との補佐官のご注進がありましたので、人目を避けて参りました。」サドバドは静かに言う。左手のひとさし指の根元には、ダイヤモンドで縁取られた、大きなエメラルドの指輪が据えてある。
「こちらへ。」補佐官は自席をサドバドに譲り、自分は大統領の隣に、やや距離を置いて座る。
「サドバド卿、なにか、よい案はありませんか。」大統領は懇願するように身を低めて、斜め下からサドバドの顔を仰いだ。ケイス君も同じ心境のようだ。
五千年の宗教の叡智は、悩める二人の子羊に微笑みかけると、うんと、うなずいて見せた。「公表しましょう。この世が終わることを。」
えっ!と、大統領も補佐官も、ソファの背にのけぞった。二人とも、続く言葉がない。
二人の様子を面白そうに見ながら、サドバドは腹の上に手を組んで、静かに言った。「この世の終わりが来るのを知って、なお苦しい目に遭おうという奴はいませんよ。」エメラルドがキラリと輝く。
大統領と補佐官とは、二人同時にお互いを見合って、二人同時にサドバドのほうへ向いて、「なるほど」とつぶやいた。
「終わりの日づけは、我々が決めるのです。我々の有利なように。」猫好きが猫をなでるように、サドバドはエメラルドをなでる。
ケイス君は言う。「待っていれば終わると知れば、もうどうせ終わるんだから、細かいことを言う気にもならない。」
「そうです。」とサドバド。
「この世を終わらせる何かがあるとしても、その何かをしようという気にならない。」と大統領。顔はサドバドのほうを向いているが、頭の回転のせいで、ひとりごとのように言う。
「そうそう。」とサドバド。「何もしなくても終わるんですからな。そこのところを、よくよく強調しておくべきです。」
「ケイス君。これは、案外、簡単かもしれんぞ。」と大統領。暗い気持ちはどこへやら。
「はい大統領。さっそく手配します。」と補佐官。年相応ながらもスッと立ち上がり、執務室を颯爽と出て行く。
「サドバド卿、またあなたに助けられましたな。」顔もほころぶ大統領。思わず両手でサドバドの右手をにぎる。エメラルドを他人にさわらせたくないのは、大統領も知っている。
「これも神のご加護です。」サドバドは左手で十字を切り、席を立つ。長居は無用だ。サドバドの手にくっついて、大統領も一緒に立ち上がる。なかなか離さない大統領。うまいところで電話が鳴る。
「私だ。」失礼という手振りをして、大統領は執務席の電話を取る。そのすきにサドバド退場。
「大統領、朝食のご希望はございますか。」と給仕のミス・デイビー。
「ポーチドエッグにしてくれ。」と大統領。日常の電話が、日常を取り戻させる。大統領は執務席につき、愛用のペンを取って、いつもの朝のように、メモ帳にサインのためし書きをする。
汗に濡れた制服のすそを、初夏の風になびかせ、薫は、ポケットに手を突っ込んで、暗い路地を、ひとり、トボトボと歩いている。白い粉のようなものが、そこだけを照らすLEDの街灯の下を、薫は、うつむいたまま通り過ぎる。その顔は、深い疲労と、LEDの光で明暗が強調されたためとで、白い能面のように、無表情に見える。いくつかの白い粉のなかを過ぎて、薫は今日初めて、顔をあげた。行く手の角に、コンビニの明かりがある。薫は、仕事の間じゅう、帰りはコンビニに寄ることだけを、考えていた。今、薫の目の前で、スッと自動ドアが開く。流れてくる店内のニオイが、薫の目を覚ます。瞳に輝きが戻って、一直線に、薫はスイーツの棚へと歩み寄る。脇の小ぶりな買い物かごを、ほとんど見ることもなく手に取り、薫は、スイーツの棚の一点を凝視する。その顔がほころぶ。安堵の溜め息がもれる。誰に遠慮することもなく、薫は自分の手を伸ばして、昼間そのことばかりを想っていた、定番の菓子をそっとにぎる。売れてしまっていないか不安だった。それが今や、確かに自分のものなのだ。まだ買ってもいないが、心の中の何か張り詰めたものが、ほどけていく。二個目を手に取り、三個目に手を出したが、これは食べきれない。同じ過ちは犯すまいと、薫はあえて菓子から目をそらし、飲料のほうへ向かう。その菓子にはコレというものが、薫にはある。突然、薫は足早になった。そのコレというものも、また競争率が高いのだ。胸が高鳴る。冷蔵庫の棚を見上げたその先に、あった。薫は、思わず笑ってしまう。職場の誰かに会うという心配はない。だがもし会えば、たぶん、薫とは分からないだろう。息をしている。薫は思った。高校の嫌なプールの授業で、潜水の試験があった。あの水から身を出すときの必死さ。開放感。薫はあの日、自分が息をしているのを知った。会計をピッと済ませ、店を出る。なんだろうこの身の軽さは。部屋へ駆け込むことすらも、できるじゃないか。薫は、汗で濡れた制服のまま、机の上に菓子などを広げ、その前に座る。この光景を、昼間どれだけ空想しただろう。我慢なんかできやしない。ひとくち。甘い香りが、口と鼻いっぱいに広がる。んんんんっ!。そしてすかさず飲む。くぅぅぅっ!。「コレ!」と薫は言う。「コレ!」。全身に血が巡る。体が熱い。愉快だ。生きてると、薫は思う。一八〇に薫の年齢を掛ける。この世で薫が生きた時間。
真っ赤に燃える無数の魂が、真っ暗な空から、雷雨の如くに降り注ぐ、この地上の頂で、ひとりの僧侶は、地にあぐらをかき、長大な数珠をもみつつ、一心に念仏を唱えおり、またひとりの司祭は、十字架を高くかかげ、残る片手は大きく懐を開いて、落ちかかる、全ての魂を迎えんとしている。
この地獄の光景を、このふたり以外の誰が見たのであろうか。遠く街は、いつものようにきらめく光を放ち、その騒音は、ここまでも聞こえ来るほどだ。相変わらずの日常が、その光と音との洪水のなかにある。それに比べたら、この燃え盛る魂の光も、その発する轟音も、どれほどのものか。
僧侶がカッと目を見開き、念仏をやめる。長大な数珠を片手で握り締め、大きくその腕を振って、数珠を地面に叩きつけた。糸が切れ、玉が飛び散らばる。その一粒一粒が、落ちてくる魂のひとつひとつを打つ。真っ赤に焼けた鉄の玉に弾丸が打ち込まれるが如く、玉は個々の魂にめり込んでいき、溶けて、白く輝く塊となった。
「生きよ!」と、僧侶が叫ぶ。その叫びに応じて、白く輝く塊は人の形を成し、遠く街の上へと降り注ぐ。「おぎゃあ!」と、大きな産声が、ただ一度だけ虚空を揺るがした。もはや暗闇はなく、美しい星空が、ふたりの上に開ける。
「今夜は俺の勝ちだ。」僧侶は立ち上がり、司祭の醤油顔を睨んで、ニヤリと笑う。が、司祭も負けてはいない。僧侶のソース顔を一瞥して、ふっと笑って見せた。
「ご覧なさい。あなたはどこを見ていたのですか。」そう言って司祭は、自分の胸をはだける。そこには、無数の血の十字架が、刻みつけられていた。「あなたの二倍、いや三倍はあるでしょう。」司祭は、さも得意気にそう言って、僧侶のソース顔を横目で見やる。
「嫌な奴だ!嫌な奴だ!」僧侶は両手を握り締めて、いきりたって、地団駄を踏んだ。その様子を、司祭は、さも面白そうに眺める。どこか、天のはるかな高みから、ギギギィと、重々しく扉の閉まる音が響き来たった。
「次は負けん。覚えておけ。」僧侶は身をひるがえし、もう頂を降りにかかる。逃げしなに、覚えていろは何とやらと、司祭は心の内に思って、僧侶の、哀愁すらをも感じさせる、その背中に、ほくそ笑んだ。そして、遠く輝く、街の光に目を移し、あたかも、いとし子をいつくしむかのような眼差しでもって、その踊る光の輝きを、飽きもせず、眺め続けた。
司祭は目を閉じ、そして目を開くと、その街の大通りにいた。真夜中だろうが平日だろうが、車の通りが止むことはない。その大通りの、ど真ん中に、突然、白いベールを着た醤油顔の人物が立ったので、当然ながら、周りは騒然となった。鋭いクラクションが鳴り響き、追突する車、避けきれずに横転する車。フロントガラスがドンという音とともに飛び散り、歩道を歩く人々めがけて降り注ぐ。シートベルトをしていない何人かが、カエルのように空を飛んだ。それらの人々すべての目と指先とが、道の真ん中に立ち尽くす、醤油顔の人物を刺し貫く。お前は何だ?、なぜそこにいる?、どこのどいつだ?、そんな、声にならない疑問を、ひしひしと感じて、司祭はスッと片手をあげ、叫んだ。
「淘汰されてはいけない!」司祭は、もっと私に注目しろと言うように、そこで言葉を切った。群衆の集中度が、いやがうえにも高まるのを感じて、司祭は大いに満足した。「あなたたちの内に、身重のひとはいますか。妊娠しているひとはいますか。今日、あなたたちの元に、子供たちが行った。その子たちが、淘汰されることがあってはいけない。淘汰されるべき私たちが生き延びていくには、淘汰されるべき子供らが、淘汰されてはならないのです!。わたしたちは、なんとしても、頭かずを減らしてはならない!。数の力しか知らないわたしたちが生きていくには、絶対に、頭かずを減らしてはいけないのです!」
上空にはヘリが飛び交い、指向性マイクとイコライザとを駆使して、その醤油顔の人物の生の声を、細大もらさず収録する。と、その人物の姿が、忽然と消え去り、それを見た周りの人々は、本当に引いてしまって、黙りこくった。その一部始終を報じる動画が、マスコミによって全世界に向けて公表せられ、各国首脳は、拍手をもって、その見知らぬ醤油顔の人物の生の声を、賞賛した。
「これが聖戦でなくて、なんであろう!」戦う相手を、間違えてはならないと、とある国の首脳は、演題に立って、テレビの前の聴衆に向かって、声をふるわせて言った。これを、この見知らぬ醤油顔の人物の言葉を聞いて、自分がどんなに感動しているかというのを、自身の声で伝えようということらしい。その感動が本物であることを、他国の首脳はみな、自分自身のことであるかのように思って、涙を流したものだ。
そんなことなど、つゆも知らずに、地球は今日も、のうのうと回り続ける。あらゆる生きものの不安を乗せて。しかしそうして、この星が無関心でいられる、責任を回避していられる時代にも、ついに、終わりが来たのだ。
それは例えば、カオスに関する簡単な実験からさえも、十分に、予期せられるべき終わりであった。いわゆる「パイこね」のような、単純な作業でも、カオスは再現されうることは、何世紀も昔に知れていた。カオスが取りうる値というのは、なぜかある一時期、一箇所に集まって安定化することがあり、またある時期に、なぜかは分からないが、その安定した状態から突然、まったく別の、飛び離れた値に拡散してしまったりする。この現在の恒常的な環境も同じだ。突然、まったく何の前触れもなく、ものすごく不安定な時期へと移行する。
「はい、ナレーションさん、ご苦労さん。」僧侶が、上半身をニュッと伸ばすようにして、カオスの説明図の下隅から、斜めに割り込んでくる。実は、この僧侶もまた、この星の終わりについて、早くから勘づいていたのだが。
「はいはい。もういいから。」僧侶は、面倒くさそうに片手をふって、ナレーションの声を追い立てる。「頑張ったって規定の給料しか出ないんだから。」パンパンと、僧侶は両手を払って、その両手を両の腿になすりつけ、今度こそ、厄介払いをした。
「えー、テレビの前のみんな、俺が突然出てきて、驚いてるかな。」僧侶の濃いソース顔が、ヒゲの生え際さえも見えるほど、テレビの画面いっぱいに迫る。
「ちょっと、子供泣かしては駄目ですよ。」司祭の声がする。えっという顔で、僧侶のソース顔が画面から離れ、声のしたほうを睨む。司祭の醤油顔が、テレビの前の聴衆に向かって親しげに手をふりながら、僧侶のソース顔を押しのけつつ、あらわれる。背後で、あれ誰?、誰か呼んだ?、この間の事故のか?、スクープじゃん!、などと混乱するスタジオの声。
「ほら。あなたより、わたしのが有名ですよ。」マイクを持たないほうの手で、なんとなく僧侶を指し、なんとなく自分を指して、さも満足気にニッコリと微笑む司祭の顔が、画面いっぱいに映る。
「出たー!」と、画面の外で誰かの小さな叫び。「速報値だけど八十八パーセント!はちじゅうはちぃ!」という、狂気のように裏返った声が続く。
「視聴率な。」と、僧侶が声だけで、そっけなく言う。画面が引かれ、司祭の醤油顔と、僧侶のソース顔とが、並んで映る。二人は、互いの顔を見合わせたが。しかしめずらしく、僧侶が司祭の肩を小突いて、出番を譲った。
「へぇ。素直じゃないの。」司祭が、本気で驚いたような顔で、しみじみと僧侶に言う。僧侶は、なんだか照れくさいような、ニタッとした顔をして、片手で頭をかいてみせた。「じゃあ、わたしから。」司祭が居直る。画面も司祭の側へ寄る。
「うーんと。突然、ショッキングな話だと思いますが。この星は、もうすぐ終わります。終わるというのは、実際には、物理学的にか、生物学的にか、消滅するということですが。」
「はぁ?」先に、聖戦と言った首脳が、口をあんぐりとあけて、画面の司祭を見ている。お前、我々が淘汰されちゃいかんと、言っただろ。それをお前とでも、言いたげな口元だ。
「あー、そこの、首脳さん。そうです確かに、わたし、淘汰されてはダメだと言いました。それがわたしの務めですから。あなたたち人類の信仰は、わたしらが務めをきっちりと果たしてこそです。けっして裏切りません。これは先祖からの契約なので。わたしらもそれで飯食ってる。」司祭は、画面に向かって、ニッコリと微笑みかける。
「さっさと本題に行けって。」横から、僧侶がツッコミを入れる。「放送時間なくなってきてっぞ。」ほらと言う具合に、僧侶が画面の外の時計を指差してやる。
「あらら。急がないと……。」司祭が居ずまいを正すと、画面も再び、司祭の側へ寄る。「でも、もう伝えることは伝えましたからね。わたしらのお仕事はそこまで。あとのことは、みなさんでどうぞ。」
「またそんな。いい加減な奴だな。」僧侶が司祭の肩を小突く。しかしマイクは自分の口元から離さない。画面の向こうへ向き直って、僧侶は、下から上へ、ぐるりと腕を回すように、大げさに合掌して見せた。「ではみなさん、さようなら。」フッと、二人の姿が、画面から消えうせる。
「我々は、自然と闘い、自然に勝つために、頭かずを、頭かずだけを、武器としてきた。」先に聖戦と言った首脳が、司祭らの消えた画面を、まるで吸い込まれるように凝視しながら、ぼそりと、つぶやいた。「ほかにやりようがない。」
「我々に教えてくれたのでは。」黒い背広を、ビシッと身にまとった側近が、首脳の耳元で囁く。「この星が終わるということを、先んじて、我々に教えてくれたとしたら。我々は、期待されているということでは、ないでしょうか。」
「期待、されている、とは?」首脳は、夢のように呟いた。まだ画面に見入ったまま、画面の向こうの混乱を、定まらない目線で見ている。そして今度は、自分の言葉で、「そうだ。期待されているのだ。」と、首脳はまず、自分に聞かせるとでもいう具合に、力強く、そう言いなおした。画面の向こうから、音だけ、思い出したように「そうだ」と、他国の首脳らの言う声が、かすかに聞こえた。その声に応じて、首脳はもう一度、改めて、「そうだ!」と、ほとんど叫ぶように言った。「我々人類は、間違っていなかったのだ。誰も、灰の上に座る必要などないのだ。」画面の向こうから、鳴り止まない拍手が聞こえてくる。首脳は目尻をぬぐった。「そうだ。たとえ、我々が間違っていたとしても、後悔など、する必要はないのだ。」
デスクでベルが鳴った。科学相からのホットライン。先の側近が、小走りに、受話器を上げに行く。二言、三言話して、側近は、耳から受話器を離した。「首脳、まずは隕石からです。」
「よぅし、来てみろ!」首脳は。片腕でガッツポーズをして、もう片方の手で、その二の腕を受け止める。「始まるぞぉ。前代未聞の、感動の、人類の、本物の共同戦線が。」前の、どんな首脳も、経験したことのない。経験したいと思ったけれども、できなかったことが、これから、自分の代で、始まるのだ。そう考えると、首脳は、ウキウキしないわけには、いかなかった。ほどなく、国家間のホットラインが鳴りだす。そうだ。我々は、生き延びることを、期待されているのだ。首脳の声にも、おのずと力が込もる。
ひとりの、車椅子に座った学者が、これも側近のひとりではあるが、部屋の隅へと引きこもって、その見たこともない、首脳のハッスルぶりを、黙って観察している。その首脳の姿は、この車椅子に座った学者が見たいと思ったこととは、まったく、正反対の姿であった。
デスクにふんぞりかえって、自信満々の首脳の元へ、各国から次々と、進行状況の知らせが入る。成り行きとはいえ、今や首脳は、世界のリーダー的地位にあったから、本人としてみれば、どうしても顔がニヤけてしょうがない。
しかしその、首脳の余裕しゃくしゃくっぷりが、ある電話を境に消失し、首脳が、先の黒服の側近と、おでこを突き合わせだすやいなや。車椅子に座った学者の瞳に、消えたはずの光が、かすかに取り戻されて。さらに、首脳が、各国からのホットラインに向かい、側近が止めに入るほどの、荒い言葉を発しだすようになってくると、車椅子に座った学者は、とうとう、部屋の隅からその姿をあらわして、部屋の中央の、天井から明るい光が降り注ぐところへすらも、そのタイヤを踏み入れるまでになっていた。
「あ、博士……。」存在を忘れていたというくらい、驚いた首脳と側近の顔を見て、車椅子に座った学者は、思わず微笑んだ。
「どうですかな。」学者は、静かに、車椅子のブレーキをかけた。首脳らの顔色を見れば、もう、部屋の隅へ引きこもることにはなるまいと、学者はこれまでの観察から、確信していた。
嫌な野郎だという顔をして、首脳は、自分の座る椅子の、床からのわずかな高まりの向こうから、この学者の顔を見下ろした。空軍からのホットラインが鳴る。首脳は、まったく予期していなかったふうで、ビクッとして、あやうく、その受話器を取り落とすところだった。「私だ。なに?」と言って、首脳は、黒服の側近と、不安な顔を見合わせ、次に二人ともが、車椅子に座る学者に向けて、頼むというような目線を向けてきた。その様子を見て、学者はもう、何が始まろうとしているのかを理解した。
「首脳、残念ですが、避難は、間に合わないでしょうな。」学者はそこで、言葉を切り、指を三本、額にあてて、考えていたが。にわかに顔をあげて、こう首脳らに伝えた。「あなたのご家族、側近のかたのご家族、ご親族、医師、看護人、技術者、教員、冒険者、芸人。わずかなひとたちだけを、突然、迎えに行くことです。絶対に、このことを漏らしてはならない。そのほうが、国民にとって、幸せです。終わりは、飲み食い、めとりなどしているうちに来るほうが、幸せですな。もうどうやっても、全員を、1つの村の住人全てですら、避難させるのは無理なのですから。」
「あなたは、楽しそうですね。」黒服の側近が、車椅子に座る学者の前に進み出て、腰をかがめて、そう言った。「でも、この世がある限り、あなたは、このかたの側近のひとりです。どうか、私たちと一緒に、頭を悩ませてください。あなたは、この方面の権威でいらっしゃるのですから。私たちに、私たちが助かるための、どんなヒントでも、与えてください。」
「もちろんです。」と、学者は、深く、うなずいた。「私が楽しそうに見えるとすれば、それは、やっと、みなさんのお役に立てる時が来たからです。この世のある限り、私もとことん、みなさんと一緒に行きたいと思っていますよ。私を評価してくださり、手をかけてくださったのは、この世のほかには、なかったのですからね。ですが、先ほどお話ししたことだけが、今から可能なことだと、改めて、申しましょう。私は、それ以上のことは、思いつきません。」
「ありがとうございます。」黒服の側近は、自分と同じ、側近の地位にある学者に向かって、軽く会釈をした。そして、首脳のほうへと向き直り、その目を真っ直ぐに見て言った。「首脳、急ぎましょう。失う時間はもう、ありません。私も、この世がある限り、首脳に、喜んで、お仕えいたします。」
長い長いエスカレーターが、空の上の雲まで続いていた。教育者は、昔、そういう場面を、猫と鼠のアニメで見たなと思いながら、ひとりぼっちで、空の高みへと、ゆっくりゆっくり運ばれていく。下界を眺めれば、我が家の屋根が見え、見慣れた大通り、そこから山のきわまで広がる、住み慣れた街の景色が広がっている。街外れの墓地に、ひと群の黒い人影があり、かすかに鎮魂の鐘が聞こえたようだ。人間、死ぬときはひとりぼっちだと言うが、本当なんだなと、教育者は思った。寂しい限りだ。しかし、この高みから見下ろしても、人だかりが見て取れるほどの人数が、自分を見送ってくれたのだ。そのことが誇らしくもあり、勇気づけられもした。教育者は、甥が着せてくれた、一番お気に入りの背広を正し、先立った妻からの、最後の贈り物のネクタイを締めなおした。胸を払い、ついでに肩を払って、常世のチリを落としたつもりだ。見上げれば、エスカレーターの動きに従い、輝く真っ白な雲が、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。あれが天国かと、教育者は、細いフレームの丸みを帯びた眼鏡をかけなおして、その雲の妙なる陰影に見入った。かすかに、ざわめきが聞こえる。どうやら、あそこには沢山の人たちがいるようだ。地上を去って、つかの間の寂しさが、教育者のそこへの焦がれを、一層、強いものにした。
ようよう、エスカレーターは終わりを迎えて、教育者は、幾本もの光の柱が立ち昇る、その真っ白な世界へと降り立った。重力はあるなと、一歩一歩確かめながら、教育者は考えた。してみると、ここはまだ地球なのか。向こうにはやはり、沢山の人たちが整然と列を作っており、ただあのアニメと違うのは、みな、それぞれの服装をしていて、誰も白いベールをまとっていないことだ。しかし、それはどうでもいい。この光景を見ろ。ここが天国でなくて、どこだというのだろう。教育者は、今まさに自分が目の当たりにしているこの眺めを、至極当然のものと思った。人生、振り返れば、本当に苦労をしてきた。言葉ではあったが、敵を倒さねばならぬことも、少なからずあった。そのことで咎められるのであれば、致し方あるまい。包み隠さず、ありのままに事情を話そう。教育者の全身が、今、恵まれた人生を歩んだ者だけが醸しだす雰囲気をまとって、光り輝いている。そう考えるだけで、目頭が熱くなるのを、教育者は覚えた。どんなに長く辛くても、最後には、報いが必ずあるものだ。実感に打たれて、教育者は夢見心地で群集の列に加わった。あちこちから、再開の喜びや、明るい笑い声が聞こえてくる。もしも地獄であれば、こうはいかない。教育者は、この先、自分が迎えるだろう場面を想像して、胸が熱くなった。これだ。この報いこそは、人生の総決算なのだと、教育者は感動した。そして感動のあまり、前に並ぶ婦人に声をかけた。
「ここは天国でしょう。」教育者の声に、疑いはなかった。
婦人は教育者を振り返って、微笑むと、白く縁取られた青いドレスの裾をつまんで、少し膝を折って見せた。都会ではもう、そんな挨拶の仕方はやらない。このご婦人はどこか地方のかたなのだろうと、教育者は親しく思った。よく見れば、ドレスは、幾つか別の青い生地から出来上がっている。婦人は、差した小ぶりな日傘を、少し上げて、その影に教育者を入れようとした。
「ええ。わたくしも、ここが天国だろうと思いましてね。官吏のかたに聞いてみましたのよ。そしたら、天国ではないとおっしゃいますの。地獄でもないと。」
婦人の言葉に、教育者は辺りを見渡した。官吏など、いただろうか。見渡す限り、さまざまな服を着た人々しかいない。無論、軍人や警官もいるが、そういう意味での官吏ではあるまい。辺りを一渡り見回してから、教育者は婦人に目を戻した。
「官吏が。しかし、今はいないようですな。」そう言いながら、教育者はまた、辺りを見回す。
「ええ。少し前に、みなさん、門の向こうへ下がりましたわ。」
「え、門?」と、思わず声に出た教育者の目線を、婦人が白い手袋をした指先で導く。そこには確かに、大きな門があり、今しがた、それが開かれたように見えた。
「あ、開きましたな。すると、これから審判が始まるのですね。」教育者は、小手をかざして、開け行く門を望んだ。群集のざわめきが静まる。教育者も群集も、門からやってくる、白いベールに包まれ、大学帽のような小高い帽子をかむった人々の姿を見つめた。ひとしお、群集のざわめきが高まる。あれが判事か。私たちの行方を決めるのね。教育者もまた、群集と同じ不安と憧れとをもって、その一群の白い人々を眺めた。
やおら、その白い人々が、群集の誰かに向かって、それぞれ、無言で指を差す。するとまるで、ベルトコンベアに乗せられた荷物が仕分けされていくように、群集のなかから、ひとり、またひとり、歩くこともなく、時に座り込んだままで、スムーズに滑るようにして、その白い人々の前へと運ばれていく。雲に隠れて、椅子が用意されていたのだろう。白い人々は、おのおのの席に着座して、運ばれ来る人々と対面を始める。聖書にある通り、白い人々の前に、分厚い書物があらわれて、開かれ、白い人々の指がその紙面をなぞる。書かれてある通りだと、群集は興奮して、口々に褒め称えた。
突然、つんざくような男の叫び声が響いて、群衆は静まり返り、一度にその声のほうを見た。誰かが赤く燃えて、彗星のように落下していく。ヒャッと小さな叫び声をあげて、婦人は教育者の腕に抱きついた。日傘がクルリと回って、ふわりと雲の上に落ちる。群衆の雰囲気も一変した。
その刹那、教育者は、自分の腕が引かれていくのを感じた。見れば、婦人の体が静かに動いていく。その抱きつく腕は、するりと教育者の腕を滑って離れ、婦人は座り込んだまま、自分を指差す白い人物のほうへ、何の障害もなくスムーズに移動していく。婦人は片手を雲の上に突き、残る片手を、教育者のほうへ差し出す。思わず、教育者は婦人のあとを追った。子供らの姿が、その姿にダブって見えた。
白い人物は、婦人とともに自分のもとへと来る教育者の、哀れみに満ちた姿を見てとると、「お前の番はまだだ」と、毅然として言った。
教育者は、その声の重みに、思わず立ち止まったが。しかし、この哀れむべき婦人のために、意を決して、その白い人物の視線に立ちはだかる。
「ここに居させてください。ご覧なさい。ご婦人はふるえている。」教育者は、自分の言葉の半ばにはもう、自信を取り戻していた。しなやかな姿勢で、その白い人物を見返す。
「よかろう」と、白い人物は言った。そしてもう、教育者のことなど忘れたというふうに、その視線は婦人だけに向けられた。
教育者は、休めの姿勢で足を出し、腕を組んで、婦人と白い人物との問答に耳傾ける。必要を感じれば、いつでも、婦人に加勢するつもりだ。
白い人物の前に、厚い書物が開かれ、その指が、一行一行をなぞる。声には出されないが、婦人には、書いてあることが逐一、伝わっているようだ。段落を終えるごとに、婦人の姿勢が変わるので、それが知れた。白い人物が、やおら、顔を起こす。
「間違いないか」と、白い人物が婦人に聞く。その高圧な態度に、教育者は怒りを覚えた。
「はい。」とだけ、婦人は答える。そしてうつむいてしまい、その口から嗚咽が漏れるのを、教育者は聞いた。なんたる、痛々しい尋問だろう。教育者のみけんに、おのずとシワが寄る。こめかみに、細い血管が青筋を立てた。
「ちょっと」と、思わず、教育者は言った。まだいたのかというふうに、白い人物が顔をあげ、教育者を睨む。関心は引いたと、教育者は思った。すかさず、教育者は言葉を続ける。
「このご婦人は、生前、ずいぶん泣かされてきたのです。死んでなお、泣かされる必要がありますか。」相手が口を開く前に、まず論点をハッキリさせておかねばならない。教育者は、そこでわざと言葉を切り、相手から目をそらして見せた。眼鏡のつるをつまんで、位置をなおす。レンズがキラリと光る。
しかし、白い人物は、何も言わないまま、分厚い書物へと視線を戻して、続く段落を、その指で追い始めた。婦人は顔をもたげて、両手を雲の上に突いたまま、ほかには聞こえない声に、聞き入っているらしい。
教育者は、見るからにイライラした態度で、相変わらず腕を組んだまま、その様子を眺めている。こんな屈辱は、久しぶりだ。無名だった若い時分は、ずいぶんこういう目に遭ったが。しかし、世間に認められて以来、今日までなかったことだと、教育者は腹立たしく思った。
「いえ、それは……」と、婦人は消え入るような、か細い声で言った。「それは……」と繰り返したが、上手く言えないようだ。
この婦人も、十分な教育を受けられなかったのだなと、教育者は心の内で哀れんだ。なんたることか。教育者は、自分の努力が、まだ及んでいない人が、こうして目の前にいることを、深く悲しんだ。思わず膝を折って、教育者は、婦人と同じ目の高さに、自身の身を置く。
「落ち着いてください。言葉を選ぶ必要はありません。ご自身の言葉でいいんです。言葉を重ねれば、あの人も理解してくれるでしょう。」教育者は、婦人に優しく話しかけて、白い人物の顔を仰いだ。
「はい」と、婦人はようやくに言って、呼吸を整えながら、二言、三言話し始める。
白い人物は、別に何も言わず、婦人の言葉に耳傾けている様子。相変わらず、教育者の存在を、忘れたような素振りでいるが。しかし、教育者にしてみれば、気にもならなかった。こんなこと、何度も経験したことだ。
婦人のたどたどしい話を聞き終えて、白い人物は、ただ、「よろしい」と宣告した。教育者は、驚いて、一歩二歩、あとずさった。婦人の姿は、急に輝き始めて、音もなく、浮かびだす。
「ありがとうございます。最後に、伝えたいことを、伝えることができました。」婦人は、教育者を振り返って、頬を涙で濡らしつつ、頭を下げた。その姿は、次第に形を失い、ついに光となって、大きな門へと入る。
ああ、あのご婦人は、天国へ行ったのだなと、教育者は、にこやかに手を振りつつ、しみじみと思った。背後で、群集がざわめく。あの人はすごい。自分もぜひ、言葉添えを願いたいものだと、人々が口々に言うのを、教育者は満足して聞いた。
しかし、群集の願いは、叶わなかった。教育者は、自分がいつしか、滑るように移動しているのに気がついた。いよいよ私かと、教育者は、背広の襟を正す。自分が引かれた先は、先の白い人物よりも、見たところ、ずっと若い人物のように思えた。なんだか、見たことのある顔だなという気がして、よくよく見れば、それは、かつて自分が教えたクラスの、落第生ではないか。
「君は……」と、教育者は言って、その人物の名前を思い出そうと、指を額に添えた。しかし、思い出せない。この生徒が自分に関心がないのと同じく、自分もまた、この生徒に関心がなかったのを、教育者は、痛烈に思い出した。なんということか。若木の至りだと、教育者は唇を噛んだ。
「すまない。君の名前を思い出せないんだ。あのころ、私はまだまだ若造に過ぎなかった。」教育者は、その若い人物に、頭を下げた。
「僕も、あなたに興味ないです。」と、素っ気なく、若い人物は言って、先の婦人のものと変わらない厚さの書物を開いた。
「それは、ありがとう。」とだけ、教育者は答えて、あとは黙って、ほかには聞こえない声の到達を待ったが。しかし、この人物は、普通に、みなに聞こえる声を出して、教育者との問答を始めた。
「あなたは教育者ですね」と、若い人物が言う。
教育者にしてみれば、これは答えるまでもない。皮肉かなとも思いながら、教育者は、微笑み返すだけで済ませたが。しかし、若い人物からの次の質問で、教育者は凍りついた。
「あなたは、大勢の人たちから、訴えられています。」分厚い書物を指で追いながら、若い人物は淡々とそう言った。実際、そう言ってから、若い人物は黙ったまま、分厚い書物を三枚、四枚とめくった。
「え……、なぜ?」とだけ、教育者は言うことができた。自分の人生を急いで振り返ってみても、そんな沢山の人たちから訴えられる理由は見つからない。現に、今さっき、ひとりの婦人を救ったじゃないか。
「あなたは多くの子供たちから、学びの機会を奪ったのです。」と、若い人物は、罪状を淡々と述べた。教育者の顔が、にやけてくる。
「ねぇ君、ちょっと、何を言われているのか、分からないが。」一体、この人物は、何を言っているのか。嫌がらせなのか。妬みからか。それなら、あるかもしれないと、教育者は真顔に戻った。仕返しというのなら、応戦せざるをえまい。なんてことだ。死んでまで、戦わねばならんとは。しかも相手は、落第生とはいえ、教え子だ。
「あなたの教育の信条を、聞かせてください。」若い人物は、分厚い書物を閉じて、背筋を伸ばし、教育者と真っ直ぐに対面した。
いいだろうと、教育者は思った。人生の集大成に、それを語る機会を設けてもらったというのならば、粋な計らいというものだ。教育者は、かつて教壇にあった時と同じに、両手を後ろに組んで、その場を逍遥しつつ、語り始めた。
「子供の自主性を前提にすることは大事だが、ただ子供に任せてしまうのはよくない。経験ある者が、陰からサポートしなくては。課題の解決、コミュニケーション能力、洞察力、リテラシー。この四つの基本を軸にして、適当な機会に、子供の興味関心をそそるものを、与えてやらねばならん。安全な場所で、のびのびと育ちながら、将来を見据えた、子供ひとりびとりのための適切な課題を与えてやることで、この世界で生きる子供らが、みずからの未来を、希望のあるものにしていける。5Eとも言うが、有意な物事に関心を持たせ、探求させ、理由の説明を受け、みずから実践し、みずから評価する。それこそが、長い教育史を経て、ついに確立せられた、教育のスタンダードなのだよ。私の教育の信条も、その5Eにある。子供たちが、この世の必要とする産業や、社会の出来事にみずから関心を持ち、考案し、新たな常識を築き上げていくのを見るのが、私の人生の醍醐味だった。」
若い人物は、何も言わずに、教育者が言うことを聞いた。それから、分厚い書物を開いて、おそらくは該当する箇所を指でなぞり、独り、うなずく。教育者を見て、「確かに、そう記されています。」と言った。
それだけか?と、教育者は、やや、面食らった様子で、定まらない視線を、若い人物に投げかけた。若い人物は、教育者の視線など気にもせずに、次の質問を口にした。
「あなたが言う、安全な場所、ここにはキャンパスと書かれていますが、それはどういう場所ですか。」若い人物は、また、分厚い書物を閉じて、教育者の語るのを待った。
君にも教えたじゃないかと、言いかけて、この場の趣旨を思いなおし、教育者もまた、淡々と話すことにした。何十年かぶりの授業再開だな。
「キャンパスとは、本来、野原というくらいの意味がある。子供たちが、あたかも野原で元気よく駆け回るみたいに、好きなことに、自由に興味を発揮して、そこから、学びの機会が拓けてくる。しかし実際には、野原で駆け回るわけにはいかない。野獣が狙っているし、先生にとって予測不可能な出来事が起こるからな。整えられた環境、教室などで、安全にそして自由に子供たちが活動して、十分に用意された教材によって、無駄を省いた実りある教育が与えられる時、子供たちの生きる能力は、飛躍的に伸びる。そうした子供たちが、将来の世界の指導的立場に立ち、すべての人々のための、新しい社会を創っていくんだ。」
群集は、ざわめきをやめて、この問答に関心を寄せている。さすがに、群集を振り向いてはみなかったが、どうだ、と、教育者は思った。しかし、若い人物の反応は、教育者の思いのほか、薄いようだ。
「確かに、そう書かれています。」若い人物は、さっきと同じことを言う。ちぇっと、教育者は思った。しかし、それでモチベーションを下げられることはない。多くの先生がたを悩ますシチュエーションを、この教育者もまた、幾度となく打開してきた。
「ところで」と、若い人物はまた、分厚い書物を閉じて言った。「僕はそういう教育も受けず、そういう育てられかたもしてないですが。こうして、あなたばかりでなく、あなたが育てた人たちをも、裁く立場にいるのは、どういうわけですかね。」
教育者は、笑って答えた。「それは君が、私より先に死んだからだよ。」
「ごめんなさい、何言ってるのか分からない。」と、若い人物は面を伏せて、片手を振って見せた。
「私が先に死んでいたら、私がそこに座っていたってこと。」と、教育者は、少しイライラした気分で、若い人物を指差した。若い人物は、ただ、従前のように、まっすぐに教育者を見たまま、ハッキリとこう告げた。
「もしもあなたが、誰からも訴えられていなくても、私が死のうと死ぬまいと、ここに座ることは、けっして許されません。」
なぜ?という顔で、教育者は、若い人物を睨んだ。
「自然が、あなたにとっての敵だからです。」
何を言われているか分からないというふうに、若い人物を睨んだままの教育者に、若い人物は、ためらっていたが、ふと、何かを聞いたように天を見上げると、教育者の視線を避けて、うつむいたまま、こう宣告した。
「あなたが育てたのは、この地上の、生きものの子供ではなく、自然を拒絶するこの世が続いていくための、部品としての子供だからです。」
教育者は、叫んだ。「動物の子供を人間の子供に育てるのが、教育の使命だ!お前は、それすら知らないのに、そこに座っているのか!」その開かれた口から炎が吹き出して、教育者は、真っ赤に燃えながら、墜落していった。若い人物の濡れた瞳に、その光跡が一筋、淡く輝いた。
その最後のピアノ・コンサートは、市民ホールなどの、相応しい場所で開かれたわけではなかった。金曜の夜、演奏者の自宅の居間に、その日の仕事を終えた、わずかばかりの人々が、恩師のピアノを聞くために集まった。事情を知る者もあったが、しかし誰も、あえて話題にはしない。というのも、恩師のその人となりとから、こういう終わりもありうるだろう。ついにその時が来たのかと、みなが思っていたことだから。約束の時間を前にして、一人、また一人と、最低の音量にしぼられたドアホンの呼び鈴を鳴らす。玄関先で祝意があり、贈答品があって、恩師は気恥ずかしそうにその品を披露する。そもそもこの居間でのラスト・コンサートも、このわずかばかりの人々の発案ではあった。最後なんだから、市民ホールを借りて、せめて小ホールでやろうという話にもなったのだが。しかし誰のコンサートなのかを思えば、賞だとかメンツだとか気にしない人だから、そんなところへ引っ張り出さずとも、自宅にお邪魔するのがいいだろうということで一致をみた。ついでに、花は誰、酒は誰と、贈答品が重ならないようにしようということにもなり、年季の入ったヤマハのピアノを囲んで、ちょうどいいくらいの飾りつけにはなった。めいめいが、ソファや椅子にくつろぎ、恩師はお返しにと、秘蔵の山崎をふるまって、ひとしきり、思い出話がはずむ。それでは、と、予定の午後七時半、ピアノの所の白熱灯を残して、部屋の明かりが消され、恩師は、紙ナプキンをあてたグラスを、ピアノのいつもの場所へと置く。そして何か、ちょっと思案した気なそぶりを見せ、微笑むと、おもむろにカバーを上げて、鍵盤に手を添える。静かな、山崎色の明かりのなかに、ショパンのノクターン二十番が溢れる。今夜の物語の序章に、これほど相応しい曲はあるまい。観客は拍手も忘れ、この、何人ものピアニストを世に送った教授の、最後の晩餐を堪能した。
今、私の手のなかに、その恩師の現役時代の演奏を収めた、4トラックの大きなテープ・リールがある。再生装置は、とうの昔に廃棄されて、もう聞くことはできない。大学の旧図書館の、書庫の片付けを、私のいる会社が、仕事として請け負った。ホコリとカビとに覆われ、半ば崩壊したダンボールのなかから、私はその大きなテープ・リールを見つけた。手にして、ふと、色褪せたインクの、手書きのタイトルを見た時には、まさかと思ったが。しかし筆跡に懐かしさを覚えて、私は軍手をした親指で、タイトルを二度ぬぐった。もう遠い昔になったが。でも確かに、私は授業で、このテープを聴いた覚えがある。あの最後のピアノ・コンサートが、思い出される。ピアニストにも、作曲家にもならず、世のなかを斜めに生きてきた私は、あの日も無言で去ることができなかった。最後まで残って、私は恩師に聞いたのだ。先生、どうして辞めたんですか、と。恩師の答えは、私にそのまま当てはまった。
「僕はね、この世のどの一人にも、生き残って欲しくない。そんな想いを持つ奴が、教壇に立ってちゃいけないだろう。そうだな。君くらいの年代の人を境にして、人は人でなくなった。僕はそれを、敏感に感じた。僕はもう、誰にも、何も教えたくなくなったんだ。」
新しい図書館に、蔵書として受け継がれる書籍は、みな、引越しが済んでいる。ここにあるものは、すべて廃棄扱いの物ばかりだ。私のいる会社が、大学側と結んだ契約書には、撤去した物の所有権を、会社へ移転する旨の取り決めがある。会社はこれらをオークションにかけ、収入を得る。その代わり、撤去の費用を安く済ませるわけだ。無論、私はこのテープ・リールを、欲しいとは思ったが。しかし、もう終わるというのなら、何を残すこともあるまい。おそらくはマニアが、ただレトロだという理由だけで、このテープを落札するだろう。私はそれを、半ば崩壊したダンボールのなかへ、元のように戻して、そっと、ダンボールを抱えた。ダンボールの下半分は、まだ強度を保っていて、このまま、階段を登っていけるようだ。見上げれば、暗い地下道の出口のように、午後の明るい陽射しが差して、私はその光のなかに消えた。
170ページちょい。
表紙カラーにしたりすると
どんどん値段が上がるので、
モノクロ表紙とか
必要最低限の装丁です(笑
別途に電子版もあって、
Kindle Unlimited だと
タダで読めますし、
僕にも少しお金が入るので
オススメです。
表記の揺れがありますが、
公開時のままにしてます。
電子版は試し読みできますので、
ご利用ください (^^)/
もともと、
某、イラストサイト向けに
書き始めたものなので、
登場人物の名前などは
未決のままですし、
一部の表現が、
そういう方向で
「濃いめ」です(笑
あしからず。
なんだかんだで、
既読ページ(knp)通産
およそ1万5千ページだそうで。
500部ほど出ておりました。
注文分も入れると、もう少し行くかな。
ありがとうございます。
なお評価、口コミともに
ダメダメで(笑
それでも何か反応があると
嬉しいものです。
AmazonのKindleで、
日本でも
紙の本を出せるようになった
というんで、作ってみた。
カラー表紙にすると、お高いので、
墨一色の体裁にした。
70ページ弱で、背の幅は5ミリ弱。
110ページで、背の幅は
1センチくらいになる。
文字もなかなか読みやすい。
PDFでの、完全版下入校なので、
文字の大きさとか、行間とか、
そこくらいは
自分のデザインでやれる。
値段も、
従来の自費出版より
断然安いし、
Amazonで検索可能な、
ISBN番号ももらえる。
八つ目の短編は、
ただ……
某お絵かきサイトの住人向け
に書いたものなので、
一部の表現が、何と言うか、
「濃い」です(笑
このブログを見返していて、
思いました。
つまるところ、
創成川の近所しか
歩いてないな、と。
三昧は言い過ぎ。
それでまた題名を
変えようかと思います。
プログの記事にするにはやや長いので、アマゾンのkindleを使った電子書籍にしました。
ユニクロがTシャツの通販サイトを立ち上げたので、久しぶりに作ってみようかと。
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