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黒田官兵衛4 職隆親子が移った妻鹿の国府山城

2014年01月17日 | 戦国時代

 ここ国府山城は、妻鹿城ともいわれるように姫路・妻鹿に位置する山城で、1580年秀吉による播磨平定の時、職隆・孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城に移ります。何故黒田官兵衛親子が、自分の居城・姫路城を羽柴秀吉に譲ったのか。1580年播磨の三木城主・別所長治を滅ぼし、三木城を居城とした秀吉に対して、黒田官兵衛は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、自らは父職隆の国府山城に移ったというわけである。1585年黒田職隆が没した後は、廃城になったとされている。1580年から1585年の間に起こった歴史的出来事といえば本能寺の変、つまり織田信長の 家臣・明智光秀が謀反を起こして信長を討った事件である。このとき秀吉は備中高松城の戦いにあったが、織田信長が討たれたと聞き及んだときは放心状態であったという。このときに軍師・官兵衛は「落ち込んでいる場合ではない、天下を取る時がきたのですぞ」と進言したことで、備中高松城から山城山崎までの200kmをわずか10日間で軍団大移動を行ったいわゆる中国大返しにより、山崎の戦いにおいて明智光秀を撃破したことは有名である。

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