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1帖 斎王の謎物語 崇神天皇の娘・豊鍬入姫命が『斎王』の始まり

2005年12月17日 | 平安時代

 現代、斎王の名は京都・葵祭りにて耳にしますが、その歴史について触れてみたくなりました。きっかけは、下賀茂神社に訪れたこと。上賀茂神社・下賀茂神社といえば、毎年5月15日に葵祭りが行われることでも有名です。でわ、葵祭りとは・・どんな祭りなの?ということになりますよね。

 葵祭りでは総勢500人にも及ぶ平安王朝の群行が、京都御所を出発し、上賀茂神社を目指します。その距離約8km。実はこれ、飛鳥時代に行われた斎王群行を現代に蘇らせたものなのです。 いまでは斎王代が毎年選ばれて、葵祭りの主役になるのですが、1200年前には皇族から未婚の皇女が占いで、選ばれておりました。 そして伊勢の斎宮を目指し、約150kmの道のりを6,7日かけ、そして500人のお供を従えて群行したのです。

 時は崇神天皇の頃、天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、宮殿の中に祭られていました。けれど二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなりました。これが『斎王』の始まりです。斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもあります。

 垂仁天皇の時、老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継ぎました。この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたります。彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、宇陀(うだ)~近江~美濃を巡り、遂に伊勢の国に至りました。ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てました。これが『伊勢の斎宮』の始まりです。

 『斎宮』といえば、本来は『斎王のための宮』を意味していましたが、後には『斎王』自身を指すようにもなりました。なお、この『斎宮制度』は伝説の時代を除くと、天武天皇 皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたそうです。

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